ガラパゴス国家の終焉2023年12月29日 20:08

 失われた30年ということが言われる。確かに30年前はこの国のGNPは中国を上回っていたが、今では三分の一以下である。一人当たりの国民所得は、この時期が始まったころはこの国はG7で首位であったが、今では最下位である。もっともその前の高度成長期には日本人はエコノミック・アニマルと呼ばれていたのであるから、こういう経済的数値自体は大した問題ではなかろう。しかし近代史においてこれほど急速に転落した国家は珍しいことであり、興味ある現象である。そしてそれは単に経済だけの問題ではないはずである。

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政治的にはこの時期はいわゆる政治改革の時期である。失われた30年は政治改革の30年に符合する。
 この政治改革というものはよく言われるように、いわゆるリクルート事件にみられるような自民党の腐敗に端を発したものである。長期政権の下での権力腐敗である。
 しかし政治改革では自民党の腐敗が政治の腐敗一般にすり替えられ、政治の金権腐敗は派閥政治があるためであるとされ、それは複数の自民党議員が立候補しうる中選挙区制にあるとされて小選挙区制の導入ということになった。だがこれは自民党の都合によるものであり、自民党本位の改革(?)であって、政治制度全体が巻き添えにされ、いわゆる政治改革には欺瞞があったのである。
 この改革(?)によって選挙は政策中心のものとなり、二大政党的なものが生まれ、政権交代も容易になるだろうと喧伝されたものである。しかし政治改革が始まる前年には細川非自民党政権が生まれており、事実上の政権交代がなされていた。その後の30年の間にいわゆる政権交代があったのは鳩山政権が生まれた時だけであり、それも政策選択というよりはムード的なものであった。こうして自民党政権は復活することになり、政治改革は結果的には自民党の救済策であったといってよい。
 それだけでなく小選挙区制の導入は少数政党を淘汰することになった。単独では当選の可能性がない公明党は自民党にすり寄ることになり、自民党の補完勢力になった。かつては平和政党といわれたこの政党は、敵基地攻撃を承認するまでに自民党という金魚の糞になったのである。他方でかなり原則的な論点を提出していた共産党は連携がうまくいかずミニ政党になることになった。こうしてこの国の政党の構図は右に傾斜し、政権交代はかえって困難になることになった。
 いわゆる政治改革が失敗した一つの原因は政治というものを単に制度的にとらえようとしたからであろう。政治というものは結局政治家を含めてその国の民度以上にはならないものである。問題があると制度の問題にしようとするが、政治というものはゲームでもあり、机上の制度通りにはならない。腐敗があればその政党を権力から追放すればよいのであり、ゲームの途中でゲームのルールを変えるのは角を矯めて牛を殺すことになる。腐敗政党が失脚することは政治の自律反転ということである。だから制度いじりではなく、ゲームを進行させ、権力を交代するが最も良い政治の改革なのである。
 このいわゆる政治会改革の最大の収益を得たのはアベ政権であった。政治改革はアベ政権を準備し可能にしたといってよいであろう。いわゆる政治改革は小選挙区制の導入とともに権力を集中させて、効率化を図り、首相官邸の主導性を確保するものであった。こうしてアベ政権は秘密保護法などの反動立法を成立させ右傾化を鮮やかに示すものとなった。
 しかしこの独裁的権力は当然に再び腐敗することになり、森友、加計事件のような権力の私物化を招くだけでなく、さまざまの不法行為をもたらすものであった。その最悪のものは無実の人間を犯罪者にしようとした日産のゴーン氏事件であった。
 この政治の劣化の背景にあるのはいわゆる小選挙区制導入によるによる政治家の劣化であろう。これも自民党だけのことであるが、国会議員は人口40万人程度をテリトリーとする利権ブローカーのようなものになり、こうした議員に国際政治はもとより内政についての見識を求めることはできないことになる。議員の三代目の世之助化である。
 マルクスは歴史は二度終わるといっている。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。アベは右派宗教団体との近さから流れ弾に当たったが、そのあとに出てきたキシダ世之介は、党内党の派閥はつまらないものであるが、リベラルなところがあった宏池会の本性を知らず、それと対極的なアベ派的なことをするほどに滑稽で無知蒙昧なところがある。
 思いつくことを挙げればまずマイナンバーカードのことがある。これはキシダが考え付いたものではないが、健康保険証と一体化することにしたそうである。マイナカードはもともと任意のものとされていたが、健康保険証と一体化するものであれば、事実上義務化するということであろう。任意のものとして導入されたものがいつの間にか義務的なものにされるということは、政府が国民をだましたということであろう。こういうことをする政府は全く信用できないことになる。
 さらに重大なことは、健康保険証を廃止するということは、何千万人という国民を無保険者にするということである。これは福祉国家の出発点である「国民皆保険」の原理を破壊するものである。こういう粗雑かつ乱暴なことが生まれるのは医療行政の専門家でなく、単なるデジタル技術者が切り回しているからであろう。健康保険証をデジタルしたいのであれば健康保険証をカード化すればよいことであり、わざわざ面倒な紐づけなどということを素人にさせるべきものではない。ともかくこういうことはモンキー大臣世之介が独断でやるべきことではなく、立法措置を必要とするものである。
 マイナカードは元は国民総背番号制の失敗を引き継ぐものであるが、これは最終的には国民の金融資産の名寄せを目的とするものであった。政府が鳴り物入りでマイナカードの普及に狂奔するのは最終的にはそういうことが目指されているからであろう。信用できない政府にデータがすべて把握されるということは、この国民の境涯をよく示すものであろう。老人保険料を少子化対策に流用するなどということは糞食らえの類であろう。
 他方でキシダは軍事費を倍増するそうであるが、それは主に敵基地攻撃つまり憲法が禁止している戦争行為のためのようである。そもそも金欠病の国が少子化対策も軍事費増大もというのが間違いである。むろん軍事費の中身を問わずに税金だけを問題にする国民も国民であるが。
 軍事といえばヘノコのお粗末さがある。ヘノコの有義性はすでに完全に失われているが、政府はなおも固執し、最近は不同意の沖縄県に代執行して強引に進めようとしているようである。地方自治も何もあったものではないが、これは世之介政治がもはや耐え難い次元のものになっていることを示すものであろう。
 付け加えると、核融合反応を利用している点では原発と核兵器は似たところがある。この点で顕著なことは日本ではいつの間にか原発に回帰しているが、ドイツでは再生可能エネルギーに転換することによって原発ゼロを実現したことである。また日本では核の傘にあるという理由で核禁止条約に参加していないが、同じようにアメリカと同盟関係にあるドイツはオブザーバーとして参加している。「核の傘」という言い方は思考の怠惰を示すものであり、実際にあるのは安全保障条約を結んでいるアメリカが核を保有しているということに過ぎない。日本人の国民所得は30年前にはドイツを上回っていたが、今ではドイツ人の三分の二である。思考停止の世之介政治が転落をもたらしているのである。
 大阪万博が怪しくなっている。東京五輪は中止する決断ができずに汚点を残したが、大阪万博は言及するのもはばかるような低レベルのテーマを抱えているのであるから、うまくいかないのは当然であろう。しかしこれは何の指導理念もヴィジョンもなくただ土建工事をしているような今の日本国の縮図であり、とりもなおさず政治改革以来劣化した日本の世之助政治の狎れの果てであろう。
 この時期の終わりにはアベ派議員の政治資金違反事件が表面化することになった。これは不思議なことではなく、権力が腐敗する場合は権力に近いところから腐敗するものであるからである。そうしてこの事件は小選挙区制によって議員を劣化させ、企業献金も禁止しないざる法の政治資金規正をもたらせたいわゆる政治改革の失敗を確認するものであり、日本政治は元の木阿弥に戻ったわけである。私はこういう皮相な政治改革は最初から虚妄であると思っていたが、その通りになったのは遺憾なことである。一般化すればそれは、権力は必然的に腐敗するというアクトン卿の公理りを忘却したことを意味するであろう。
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 政治改革に関してはいわゆる政治臨調が看過できない。この政治臨調はかつての臨時行政改革をモデルにしたものであるが、産業人と現実主義的は学者(?)が連携した産学連携の政策提言集団のようである。いわゆる政治改革の推進に当たっては政治臨調が一定の役割をしたようである。
 産学連携が意味を持つ分野はありうるであろうが、政治に関しては疑問である。産業人は資本の論理に従わざるを得ないが、現実的でその限りで保守的な学者(?)はこの場合東大法学部系の政治学者(?)のようであるが、ここは本質的に官僚養成機関のようなところがり、民間政治臨調といわれるものの、財界と官界をバックとしてはどういう政治観となるかは予想に困難ではない。
 政治臨調は公的機関ではないが、政党の代表を呼びつけたり、あたかも公的機関であるかのような振る舞いがある。しかしある集会では極右政党的な維新の会は読んでも、伝統的な左翼政党である共産党を読んでいないことは、臨調の反共的性格を物語るものであろう。そうしてこの臨調は小選挙区制の導入に当たっては単に提言するだけでなく、政治家に接近し、横からの介入という非民主的なやり方でそれを実現させようとしている。そうしてその結果については責任を取ることはない。政治的活動をするのであれば、資金収支を公表すべきであろう。
 いわゆる政治改革が失敗したことは臨調的な政治観にも関係があろう。この集団は近代経済学的な人間観つまり合理的エゴイスト像を持っているようである。選挙の際にはマニフェストを読み比べて合理的選択をするかのようである。しかし現実の政治は合理的計算ではなく、そこにはレトリックや取引や暴力もかかわっている。したがってこういう現実主義的な単純な政治観は現実の政治によって裏切られることになる。
 臨調的提言が失敗するのは経済人的、官僚的な政治観の結果でもある。彼らにおいては目的は与えられて、その目的を達成するにはどのような手段が適合的であるかが問題である。マックス・ウェーヴァーの用語を使うならば、それは「目的合理性」の原理に立つものであり、目的そのものが合理的であるかを問う「価値合理性」の世界ではない。しかしそれは政治を行政に縮減するものであり、むしろ政治の世界を排除するものであろう。だが今の政治の中心的な問題は、マイナにしろ、ヘノコにしろ、あるいは原発にせよ、ジェンダーにせよ主な問題は価値合理性の問題なのである。
 臨調は最近は令和臨調として新しい問題に対応しているようであるが、その名称自体が旧守的であることを否定できない。のみならずこの団体には政治学者(?)が財界人の雇われマダムのようなところがり、学問の自律性にも危惧すべき喪に尾がある。臨調に必要なことは提言というよりも自己批判であろう。

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経済の側面ではこの時期はバブル経済が崩壊してデフレに苦慮していた時期である。これに対して政府は財政支出を増大させて対応しようとしていたが、その後半にはいわゆるアホノミクスが登場する。これはいわゆるレーガノミクスをモデルとしたものであるが、大企業が潤えば中小企業にも「好循環」するであろうというトリクルクランと呼ばれる気楽な議論に立脚するものであった。
 しかしアメリカにおけると同じくうまくいかなかったのは、利潤を追求する資本主義に「好循環」というものは内在していないから当然のことである。資本主義は慈善事業をしているわけではないから、いわば社会主義的な介入が不可欠だったのである。
 アホノミクスは金融緩和することにより、それに伴う円安とともに自動車産業などの輸出型の大企業には膨大な利益をもたらすことになった。しかし日本の大企業は新しい事業を展開するというよりは内部留保に努めたから産業は停滞することになった。その半面で中小企業には一向に潤いは回らず、むしろ実質賃金は減少することになったのである。
 その背景には連合の会長が自民党首相の私的懇談会に参加することにみられるように(連合がどうしてこんな会長を選んでいるのかは知らないが)、日本の労働運動が右傾化して労働者の立場を主張することに消極的になったことがあるであろう。日本の労働組合は大体が企業内組合であり、堂々とゲームをするというよりは同調同に傾斜することになる。この日本的協同主義(コーポラティズム)を背景として今では日本国では居住、食事から旅行に至るまで大企業従業員と中小企業従業員の間には歴然としたギャップが生まれることになり、その断絶は同じ国とは言えないようなものになっている。
 アホノミクスの他の面は低金利政策とともに膨大な財政出動によって景気を刺激させようとして巨大な財政赤字をもたらしたことである。それは日銀が無制限に国債を引き受けることによってなされている。このためにも金利は当然に低くしなければならないことになる。しかしそれはまた円安を加速させ、輸入品価格を高騰させ一般国民を苦しめることになる。
 ここにもたらされた円安は日本の経済力の低下を示すものとなっているが、それはまた放漫財政の結果である。日本国の借金は国民総生産の倍以上になっており、革命が起こって以前の政府の負債を帳消しにすれば別であるが、ハイパーインフレでも起きなければほとんど返済不能のものである。今の日本国はかつての幕末と同じように実質的に財政破綻しているといえよう。
 放漫財政による財政の危機は低金利によってかろうじて避けられているが、これはいつまでも続くものではない。仮に長期金利がアメリカ並みになるとしたら政府の年間の返済額は五十兆円以上になり、明らかに返済不能であり、債務不履行(デフォルト)は現実のものになるであろう。その際には日本国はかつてのギリシアのようにIMFの管理下に置かれ、厳しい財政支出の削減を求められることになるであろう。
 産業の実態は停滞していたが産業経済省は「日本はすごい」などと自画自賛していたものである。しかしその実は日本国はロケットも打ち上げられず、ジェット機も作れない国になっていたのである。日本が世界の先端を行っているのはコンビニくらいのものであろう。日本人は雄大な事業には向いていないようであるが、細かいことに忠実なところがあるから便利屋には向いているのであろう。さらには観光業があげられようが、観光業は本質的に乞食産業的なものであり、奨励するようなものではないであろう。
 看過できないのは経済が退嬰することに政治的腐敗が連関するようになっていることである。その代表的な例は日産のゴーン氏事件である。これはゴーン氏がルノーとの統合を図っているという不確かな情報をもとに、日産と産経省と検察、およびおそらくは首相官邸が連携してゴーン氏に不正があったことにして失脚させようとした事件である。ここには偏狭な経済ナショナリズムと権力の腐敗に結合があり、みじめな産業政策がうかがわれる。その訴追はゴーン氏が有価証券報告書に役員報酬を過少に記載したという口実でなされたが、ゴーン氏は報酬の一部を退職時に受け取ることを秘書室に検討させていたものの正式には決定に至っていないのもである。その検討した金額が記載されていないから過少記載であるというような笑うべき低次元の起訴理由はこの事件が捏造されたものであることを物語っている。このようにして日本の産業は有能な経営者の一人を闇に葬っている。ともあれこの事件は日本の産業が無実の人間を罪に陥れるようなものになっていることを示すものとなっている。私はこの事件の方を聞いた時にこうしたことで逮捕したり長期拘留するということには何らかの背景があり第二の大逆事件のようなものであるとすぐわかったが、この事件の全体像はいまだに明らかにされていないようである。太百事件の冤罪性についてはすでに明確になっているが、この事件では研究者の追求力の後退が目に付く。
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 いわゆるアホノミクスに関しては多少ともマルクス経済学の心得があればすぐ問題に気が付かれるはずであったが、多くの人が追随していたことは、マルクス経済学が後退したことにも関係があるであろう。むろんマルクス経済学がそのままで通用するものではなくなっているが、資本主義の基本性格に関しての洞察は必ずしもすべて過去のものとなったのではないであろう。この点でこの時期にカラタニという哲学者(?)がたえずマルクスを論じているのは興味深いことである。
 カラタニは経済というものを交換からとらえるという新しい機軸を打ち出しているようである。だが経済というものは元来オイコスを問題にする家政学から出るものである。つまり経済というものは衣食住という端的に物質代謝的なものに係るものである。その意味で交換に機軸を置くというのはすでに出発点において懸念されるものがある。彼はポトラッチのようなものに一種の理想を見ているようであるが、ポトラッチはいわば経済外的な行為である。
 カラタニの主題も資本主義にあるようであるが、その扱いはマルクスとはかなり異なっている。かれは交換のような経済構造と「力」との関係によって経済をとらえようとしているようであるが、この力というものが判然としない。力は交換から生み出されるようでもあり、その外側にあるようでもある。
 おそらくカラタニの力というものは経済の上部構造であり、イデオロギーや権力のことなのであろう。マルクスにあっては上部構造と下部構造は相互に制約関係にあるが、弁証法的な論理を持たないカラタニの場合は、この両者が外在的なものになっている。
 これはカラタニが学部時代には宇野経済学を学んだが、大学院では文学を専攻していることに関係があるようである。宇野経済学というのはマルクス経済学の科学化であり、それはマルクス経済学にあったイデオロギー的な要素を払しょくして科学的なものにしようとするのもである。しかしマルクス経済学というものは政治経済学であり、単に記述的なものではなく実践的なものである。しか宇野のようにマルクス経済学をそのように脱色するならば、それは科学としての近代経済学と同じような構造のものとなる。つまり経済学は現実の客観的な記述として、実はパレート均衡に由来する近代経済学とさして変わらないものになる。これはマルクス経済学の根本的は変容をもたらすものっである。
 おそらくカラタニが文学に移行したのは、宇野経済学が単なる科学になった空洞を埋めるためであったのであろう。しかし宇野経済学も非弁証的なものであるから、科学としての経済学とイデオロギーとしての文学は外在的な関係とならざるを得ない。宇野経済学と文芸評論の折衷である。
 こうしてカラタニにあってはマルクス主義的な議論は、一方で史的唯物論的なものになるとともに、片方のイデオロギーや権力はそれとは必然的な関係にないことなり、両者は外的に配置されることになる。その弱点が端的に表れるのはまさしく資本主義の場合であって、カラタニは資本主義に対抗する力を見つけることができずに、マルクスは力に負けたなどとしている。
 こうした帰結になるのは経済システムは一定のイデオロギーを生み出すとともに、またそのイデオロギーによって制約されているという相互関係に立つものであり、そうであってこそ上部構造が下部構造に働きかけることも可能になるが、カラタニにあってはこの両者が外的関係にしかないためである。経済システムとイデオロギーや権力との内在連関がなければ、思想や実践がシステムに介入することもできない。これはまさしく哲学の貧困であって、哲学ならぬ臆断による様々な意匠の羅列は不毛なものに終わっている。
 こうして国家破産の現実を前にして、それに対応すべきマルクス経済学も、まさしくそれに見合った無力さを示しているといえよう。これも一種のマルクス葬送であろう。これは独創的なペテンといってもよいであろうが、こうしたカリオストロ的な議論に感心する向きもあるというのがこの時期のこの国の的風景の一端なのであろう。

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 この国の衰退には社会的、文化的、学術的な要因が関与しており、それは筆者も直接的に見聞していることである。
 筆者が大学を卒業するころはいわゆる大学紛争の時代であり、大学は学問をするような環境にはなかったものである。このために筆者は緊急避難的に保険会社に就職することになった。就職の理由は終業時刻が4時であるという理由だけであった。ところが入社してみると終業時刻が過ぎても上司が帰らない限りは何をすることもなく机にしがみついている。低生産性は明らかであり、こうした日本的会社風景は今でもある程度は続いているようである。こんなところに長くいるつもりがなかった筆者は終業と同時に帰っていたものであるが。
 数年後の大学というものに帰ったが、実は大学もこうした日本的会社と大して変わらないものであった。ここでも業績というよりは集団への忠誠のほうが重視され、有能なものはかえって排除されるようなところがある。これが産業や学術にプラスになるはずがない。
 筆者が研究生活に入ったころ一つの特徴的な出来事が生じている。東大法学部の機関誌である国家学会雑誌に佐々木宥司という助教授が「バルトルスの政治思想」という論文が出、東大法学部にしては面白い論文だと思ったものである。ところがこの論文には資料の使い方に問題があるというようなクレームがついたそうである。そこで調査委員会がもたれたが,盗用のような問題はなく、掲載は削除されてもいない。しかしこの助教授は他大学に転出したそうである。
 これが東大法学部的な人事政策なのであろう。多少独自的な論文が出ると小役人風情から足を引っ張られている。こうして創造性はないけれども役人的なそつのない論文が大量生産されることになる。学会というものは凡庸のシンジケートのようなものになる。そうしたルートに乗ると独創性は見当たらなくても文化勲章などが与えられ、日本のガラパゴス体制を構成するものになる。
 東大の学問が概してこのようなものになるとすると、ノーベル賞受賞者が京都大学よりも格段に少ないことは不思議ではないことになる。しかし京大も安泰ではなく、創造力の乏しさは日本の学術の特色となってきているようである。政治学や経済学はさておき、筆者は数年前に日本の古代を調べようとしたが、参考になるアカデミーの業績は乏しく、皇国史観に先祖返りした感を受けたものである。これは日本古代史にはグローバルな視点が不可欠であり、日本列島限定の日本古代史ではどうにもならないためであろう。
 おそらくここに一端を見るような学術の在り方によって、日本の学問の創造性は後退し、科学論文の引用においても大学のランクにおいても日本国はtop25に入らなくなっている。こうした指数は民主主義度や報道の自由度や女性の社会的進出度といった他の指標とも対応するものであり、合わせて日本国の衰退を表示するものである。このように日本の衰退は政治、産業、学術の劣化の三位一体よるものであることが明らかになってくる。
 日本の学術が置かれた状況を象徴的に示しているのは、この時期の終わりの方に起こった学術会議会員の任命拒否事件であろう。政府が理由を明らかにすることもなく任命を拒否するということの理不尽さは言うまでもないことである。しかし学術会議の対応も当惑したりして毅然性を欠いていたことも否定できない。こうした弱腰のために学術会議は民間団体になるという憂き身を見かかっているようである。
 この関連で一つ注意されるのは、原発事故の「処理水」である。政府は「科学的」根拠によるものとしているが、それはEIAEが国際基準に合致しているとしていること以上のものではない。処理しきれていない放射性物質が残存しているのであるから欺瞞的に「処理水」などというのではなく、「核汚染水」とした方が適切であろう。しかし科学政策に提言するはずの学術会議は沈黙したままである。おそらく政府の政策を批判すると首が危なくなることを危うんでいるのであろう。
 この事件で特徴的なことは、政府が無茶苦茶な任命拒否をしても、こんなものはやっていられないといって蹴っ飛ばして辞任する人間が一人もいなかったことである。戦前の滝川事件でも同じようなことがあったが、その時は京都帝大法科大学の七人の教授が辞任している。戦前の学者のほうが学者としての矜持を保っていたといわざるを得ない。

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 失われた30年ということを言うとすれば、それ以前との関係はどうかということになるか。戦後の日本国は復興、高度成長及びバブルの崩壊を経験し、この時期はその終末期になろう。
 近代で言えば明治維新によって幕藩体制から脱皮した大(?)日本国は革命ではなく天皇という古代的な要素を援用して精神的にはほとんど変わることなく政治経済の近代化に進んでいった。福沢諭吉が信後も独立自尊の精神に乏しいと慨嘆したゆえんである。かくしてこの体制は78年後の1945年に軍事的に崩壊することになった。
 第二次大戦後の日本国は天皇を象徴に帰ることによって民主化の道に進んだのであったが、この体制も78年後に経済的衰退によって自滅したといってよいであろう。第一の配線が外からの実力によるものであるとすれば、第二の敗戦は経済的自滅であった。
 二つの近代に共通していることは、社会的、文化的には大きな変化がなかったということであるが、実はこれは古代以来のことなのである。
 古代邪馬台国の報告をしている魏志倭人伝では、和人は従順な性格で目上の者に道で出会うと道端にうずくまると伝えている。この和人の自発的隷従性は邪馬台国を抹殺した由来不明のテンノーの支配によって強化され、古事記日本書紀によって教化されることにもなった。
 この古代天皇制は支配の正当性根拠を伝統におく権威主義的体制であるが、実はこの体制は多少の変容を伴いつつも実は今日までも継続しているものである。これをガラパゴス体制といってもよいであろうが、日本国は世界でも最も保守的な国の一つなのである。日本人そのものが化石的であるが、テンノーは現代に残る化石である。
 このガラパガス体制の一つの特質は個人よりも集団を優先することである。個人主体はそれほど尊重されるものではなく、滅私報国は称賛され、善悪という普遍的な規範は重視されず、国家にプラスになるのが善であり、マイナスになるのが悪であるという国家功利主義が特質的なものになる。日本人に人権感覚だ希薄であるのは当然のことであり、一般原則というものが重視されないから憲法を代表にする法的威信は必ずしも高くない。主体の意味合いが乏しいところでは変革も起きにくい。なぜなら革新ということは状況に対する主体の関与が前提になるからである。
 こうしたガラパゴス体制は一定の成果を上げ、あるいは上げすぎて第二次大戦に至るまでは外国の支配を受けることなく継続してきたわけである。しかし近年における衰弱現象は個人主体の消極性、法的支配や人権保障の弱体性、変革力の希薄性などガラパゴス体制の弱点と限界が表面化したことであるとみてよいであろう。この期間では断続的に閉塞ということが言われつつ何がその要因であるか見抜かれていないようであったが、それは人間の自由を抑止するガラパゴス体制にあったわけである。
 このガラパゴス体制を象徴するのがテンノーである。天皇は一般的な用語では皇帝であり、日本国は今でも皇帝を有する世界で唯一の国である。日本国はまた皇帝が変わるたびに代わる元号という化石を持つ世界で唯一の国である。しかしあまり信奉されてもいない化石化した皇帝を信奉しているかのように仮構して国民主体の自由を抑止している国が民主主義を貫ぬけるはずがない。人口減少は国民もこの体制の将来が明るくないということをぼんやりと感じているからであろう。

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 こうしてこの国はガラパゴス体制の限界に直面しているといえそうであるが、その先は自明ではない。弥縫策を取ることはかえって死に至る病を長引かせるだけであろう。必要なことはむしろ日本システムをぶち壊すことであり、ガラスの天井を取り払うことには積極的な意味があろう。この体制を象徴するのはテンノーであったから象徴天皇制を廃止することは正道であろう。むろんテンノーを廃止してもガラパゴスを脱却する保証はないが、その象徴にはなるであろう。
 象徴天皇制を廃止することは、何よりもテンノーを解放することである。今の天皇は参政権はもとより結婚や職業選択のような基本的人権を奪われており、それは人権後進国の日本を代表するようなものである。象徴天皇制を廃止することは必ずしも暴力革命を必要としない。テンノーは京都に戻り無形文化財として保護されるのがよいであろう。秋篠氏には面白いところがあるから民間人として通用するであろう。
 しかし革命というようなことはこの国の国民がいまだ一度もしたことがないことであり、まず無理であろう。そもそもガラパゴス体制は国民の習俗やエートスをなすものであり、そこからの脱却は自己同一性を危うくするものであり、容易なことではありえない。今までなるべく自己主張をせずに目立たないことが美徳にされていた国民がどうして急に活発な主体になるであろうか。今までかわいくしておくことが求められていた女性が、急に男女共同参画などできようか。今まで美徳としていたものが悪徳になるのであるから、よほどの精神革命を要するであろう。
 大きな変化を予想しにくいのは、何よりも国民が老衰減少に満足しているように見えるからである。確かに一部のスポーツ選手や音楽家のようにトップクラスの人間は日本を脱出し海外に拠点を置こうとしている。船が沈没するときはネズミも脱出するそうである。しかし一般の国民は泥船に自己満足する「お」が付くめでたいところがある国民であり、MJGAと叫ぶような狂人もいない。とするとありうるのは安楽死かギリシア化であろう。古代ギリシアは世界先端の国であったが、今ではヨーロッパの最貧国になっている。
 当面の課題として人口が減少しすぎると社会が成り立たないということが言われる。しかし人口が減少するならば移民を開放すればよいことである。もっとも日本のことであるから、それは順調にはいかないであろう。日本国はもともとは穴安眠の集合体であったが、いったん国家形成があると、おらが国として外国人をは維持したがる。損の上位は建国の初めから存在する。対外関係はその国の特質が表れるものであり、欧米諸国が難民の受け入れを原則としているのに対して、日本国は難民の拒否を原則としているかのようである。入管当局は重病者を放置して死に至らしめている。このような国では労働者能切れも変則的なものにならざるを得ない。すでに技能実習生という美名のもとに日本国は三十万人以上の実質的奴隷を抱えているのである。
 しかしそのように労働者の手当てをしたとしても日本国の生活環境は急速に悪化している。環境問題を軽視して環境保護団体からは化石賞を受賞する常連となっている日本では、東京の夏は数か月にわたって猛暑日と熱帯夜が続き、次第に人間が住めないところになり、やがて熱中死が続出することにもなろう。
 こうして日本列島は実質的には人間が住まないところになり、インバウンドが絶滅危品種を見学し、ガラパゴスの廃墟を観光して化石を拾うことになるであろう。

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 世界に目を向けるとロシアのウクライナ侵略問題を解決できていないところへ、イスラエル戦争が起きている。ハマスはパレスティナ問題に注意を向けさせようとしたのであろうが、エスらエルは一人殺されれば十人を殺す「目」には「目」の国であり、どの程度の成算があったのかは不明である。イスラエルはナチスによるホロコーストを被ったにもかかわらず、それによって教訓を得ることもなく、領土を持つようになると今度は自分がジェノサイドをやっているようである。
 パレスティナ問題の解決の方向はすでに明らかになっている。だ愛二次大戦後イギリスが撤退し、そこにはユダヤ人、アラブ人およびその葉の国が作られることになっていたが、イスラエルが一方的に建国され、パレスティナ人が二級国民にの状態に置かれたために紛争が繰り返されている。したがってこの問題の解決は二つの国を分離独立させるほかはないのである。
 したがって日本国はアメリカの顔色を見ることなく、パレスティナ自治政府の承認へ進むべきなのである。むろんパレスティナ自治政府にはガザ地区を制御できていないという点でも自治能力に問題を持っている。アッバース議長はバオデン大統領がイスラエルを訪問した際に犠牲者の喪に服しているという理由で面会もしなかったそうであるが、これでは犠牲者も救われない。パレスティナ自治政府の当事者能力を高めることは先決問題であろう。
ひるがえってアメリカでは反乱を先導した刑事被告人が有力な次期大統領候補になっており、ロシアでは殺人常習犯が次期大統領に確実視されている。こうした現状においては日本国のありさまはまだ生ぬるいとも言えよう。しかしこれは暴力の使用法の問題ともみられるものである。地球の西側では物理的な殺人が好まれるのに対して、日本国では真綿で窒息させるようなハラッスメントガ一般である。
 神はhomo sapiensを神に似せて作ったそうであるが、ここには手違いがあり、紙に梁成だけで済むものの不完全な人間には理性だけでなく力も与えられ、力菜必ず腐敗する。だから人の世界は善悪二元論的なものになることになる。だからまた闘争は必要であり、正しい。
 しかし闘争は結局つまらないものである。それだから人間の世界には文化芸術も必要になる。もっとも仮象としての文化芸術は現実の不完全性の反面であるか手放しで称賛することはできない。しかし力のある芸術は現実を解体することができる。
 秋の一日私は観世能楽堂に関寺小町を見に行った。秘曲中の秘曲であり、今まで見たことがないものである。武田宗和一世一代の舞台である。前座におかれた今年文化功労者になったという観世宗家の高砂八段之舞などは足高く俗臭ふんぷんとしたものであるが、武田のは違っていた。この能楽堂は銀座の地下という場違いなところにあるが、舞台と現世との落差を感じさせるところである。私は銀座の通りに出たとき一瞬舞台のほうが現実であり、銀座の通りは幻ではないかと錯覚したものである。インバウンドでにぎわう銀座はいずれ消え去るであろうが、関寺小町がなくなることはないであろう。  
 今年は大江健三郎が死去している。大江の文章はあまりにも切り貼り細工をしすぎていて面白くないが、文化勲章を拒否したことは一目置くべき存在であった。テンノーから勲章などもらいたくないということであろう。大江はガラパゴス体制に対する最も徹底した対抗者の一人であった。ノーベル賞を拒否したサルトルのほうが一枚上ではあるが。

ga 今年の裁判1
 旧統一教会の解散命令が申請されたそうである。この教会の本部は韓国にあるから、日本国で解散させることはできないであろう。せいぜい日本支部を廃止することくらいであろうが、それも韓国の本部がすることである。日本支部が公益に著しく反することがあるならば、日本での宗教法人の認定を取り消すことが必要かつ十分なことである。解散命令などというのはイワシの頭も信心という宗教の本性を見ないものであって、資産だけを問題にし、あいまいな公益を持ち出して禁教的な措置をすることは宗教の自由を理解しないものであろう。
 これは宗教法人法の問題でもあるが、あえて触れるのは暴力団に対しては公認性(指定暴力団)を取っているという奇妙なことがあるからである。犯罪団体には結社の自由を認めて、宗教団体には認めていないのは、いかにも無宗教的な日本国の宗教鈍感性であろう。
gb 今年の裁判2
 京アニメ事件の裁判が行われている。作品が盗まれたという被告の主張は単なる妄想であるとされているようである。そうであるとするならば、京アニメのどの作品のどの部分が被告のどの小説のどの部分の登用である可能性があるか検証されなければならないであろうが、そういうことはしていないかのようである。また妄想としても、高度の妄想は心神耗弱をもたらしうるであろう。
 京アニメ社長は盗用などする会社ではないとしているようであるが、それは当たり前の一般論であり、この事件を説明するものではない。京アニメの対応が事件の引き金になったとしたら、抒情酌量の余地も生まれるであろう。だがそういった精査もされているようではないようである。おおまかさも予想される裁判で死刑になるとすると、それはいまだに国民の半数以上が死刑に賛成している人権小国にはふさわしいものになるであろう。

ユトリロetc2023年06月30日 20:21

a 今年はユトリロ生誕140年である。ユトリロは風景画家であると言われるが、絵葉書をもとに少なからぬ絵を描いているように、風景を描こうとしようとしたのではないであろう。その風景も大体は街路であって、街路の作家と一応は言える。なぜ彼は街路を描こうとしたのであろうか。
 西洋の絵画は中世の宗教画に始まっており、ルネッサンス期になって人間が主役として登場する。印象主義派になって風景も画題になったと言ってよいであろう。しかしそれを受けたパリ派といわれるものにおいては再び人間が中心的になり、モジリアーニやシャガールなどは人間的、あまりに人間的になる。人間中心主義には有限なものを絶対化する過誤がある。現代アートの元祖であるピカソの絵などは化粧品の広告のイラストのようなものである。ユトリロは美しいものを美しく描くという普通の意味での画家ではない。
 ユトリロの初期の作品には日本人の肖像や自画像などがあるように人物が描けなかったのではないが、彼はそうした流れにそっぽっを向け、もっぱら街路を描いている。
 ユトリロの街路には人間が小さく描かれている。それは矮小であるだけでなく、案山子のように非個性的である。しかも人物の大部分は後ろ向きである。その意味を解き明かした人はほとんどいないが、それはまさしく人間の楽園追放である。ユトリロは意図的に人間を矮小化しているのであり、それは反人間主義的であると言ってよい。
 しかしユトリロは人間をことさらに醜悪には描いていない。それは馬鹿な人間を憐れんでいる。ユトリロの視点は人間に対する神の慈悲の視点なのである。
 ユトリロは人間を中心としない一方で教会の絵をおびただしく描いている。20世紀の画家でユトリロほど教会を描いた人物はいないであろう。人間主義を否定し、教会を顕彰するということは、彼の絵がキリスト教に動かされていることを示している。ユトリロの絵は宗教画なのである。
 ユトリロは下手な詩も書いているが、その一つで彼は、初めに「悪」があり、次いで「善」が生じたとし、したがって神は月並みでない「精神」であると書いている。ユトリロは悪があるにもかかわらず、この世界はよいという弁神論を持っているのである。
 ユトリロが街路を絵いたのもこのためである。彼は人間を愚劣なものとしつつ、全体としての人類はよいとみて、人間の作り出した街路を肯定的に描いたのである。ユトリロの絵は世界観の表明である。その絵の全体に表題をつけるとすれば神聖喜劇divina commediaとするほかない。
 ユトリロは自分の真意を口外することはなかったから、人々はわびしさがよく出ているなどと、巧妙に騙されている。

b  ユトリロの絵の相場は2000万円といわれるように、貧乏書生が持てるものではない。しかし私はどういうわけかユトリロの油彩を2枚持っている。両方とも「雪のモンマルトル」と題されており、一枚はアベス広場、もう一枚はノルヴァン街のようである。それを確かめるという口実で久しぶりにパリを訪れている。
 かなり前からテルトル広場などはユトリロが追放しようとした俗悪な人間どもの商売の場となっており、街路を確かめるという気はなくなり、次いでにルーブルに寄っている。
 ルーブル美術館も今な一日1万人くらいの入場者がある一大事業体となっているから官僚主義化も大変なものである。私は混雑を避けようとしてネットのチケットを持ちその入り口に入ったが、番人は入場券売り場に行けということで、そこに行くと元の入り口に戻されることになった。私は末端の番人が権力を乱用して自己満足したいという欲求を尊重して、ほかの人ともめている間に勝手に入場したものである。
 しかしリシュリュー館で見ようとしたものが閉鎖中であったため、結局ルーブルの女主人に別れの挨拶をしてきただけのようなものである。モナリザは以前は階段の踊り場のようなところになったような気がするが、今では大広間に鎮座している。その時私はモナリザの含み笑いはマリア・テレジアと同様の政治家的な微笑であると気がついたものである。

c  パリからベルリンに移る。ベンヤミンのパッサージュ論は知られているが、パッサージュは今では狭苦しい路地であり、この本はパッサージュだけを取り上げたものでなく、19世紀のパリについての雑多な本の抜き書きにすぎず書物の堕落のようなものである。しかし彼のベルリンの幼年時代の文章はこの著者の特異な性格を容く表現している。パリに比べると不愛想で武骨なこの街も私にとってはかなり親しいものである。もっともベンヤミンが生まれたマグデブルグ広場4番地は今では何の変哲もないアパートに変わっているが。
 私が初めてベルリンに来たのはまだ東西が分裂していたころであり、地下鉄のフリードリッヒ・シュトラーセ駅の検問所から東に入ったものである。しばらく滞在していたベルリン郊外のダーレムにはルーブルやウフィチィに引けを取らないようなボティチェリやルーベンスやフェルメールのコレクションがあることに驚かされたものである。これは再統一後はポツダム広場の近くの文化f-ラムというところに移されている。名称も奇妙であるが、ドレスデンのツヴィンガー宮殿とは比較にならないようなバラックの建物だから、訪れる人は少ない。フランス人は美術品を商売道具にしているが、ドイツ人は美術品を隠そうとしているかのようである。
ベルリンに寄ったのはオペラを見ておくためである。ベルリンでは国立オペラよりもコミシェ・オーパーの方に問題作が多い。私は近年バロック・オペラに少し関心があるが、それはバッハとは異なりヘドニズムもいとわない点があるためである。それはまずヘンデルに見られるものであり、ラモーニなるとバロック的グロテスクさが目につくようになる。
 まずヘンデルのセメレを見たが、これは元来はオラトリオである。このプロダクションではかなりオペラ化されており、セメレが灰になることも視覚化されている。セメレを見に行ったのは知人が出ているためであるが、なぜ人間セメレの灰からディオニュソスが生じるのかという寓意は不明のままである。
 もう一つはコシ・ファン・ツッテである。これはロシアで上演禁止になったものである。このプロダクションは最初はチューリッヒの市立歌劇場で出されたが、この時演出者のセレブレニコフは自宅軟禁されていたそうである。わいせつなところがあるためだそうであるが、逆にロシアの水準が分かるようなものである。演出者は、この主題はややalt-modischであるが、モーツァルトは人間の幼さを肯定しており、その意味で人間に希望を与えると書いている。  
 オペラ座ではないが、以前に来たことがあるある施設の入場券売り場で私は一つの体験をした。入場券売り場は閉鎖され、小さなQRマークが一つ張られているだけである。そこから入場料を払えというつもりなのであろうが、多くの人はkeine ahnungとぶつぶつ言って帰っている。これがデジタル時代の入場券売り場の近未来なのであろう。デジタル化は便利さと同程度の不便さが伴っている。人間がすることは所詮ゼロサムなのである。

d  察しの通り今回は私のヨーロッパへのfarewell tripである。私にはもう十時間以上も飛行機に乗ることは精神的にも肉体的にも耐えがたくなっている。もう欧米諸国に行くことはないであろう。
 しかし今のユーロに対する円の価値下落からすると、日本人はヨーロッパには行きたくてもいけなくなっていると言った方がよいであろう。首相は円安を利用するなどと間抜けなことを言っているようであるが、今の為替レートは旅行禁止的水準である。
 私が欧米諸国に行って第一に得たものは人間を越えるものを知ったことである。それは必ずしも宗教だけのことではなく、絶対的なものに近づこうとする動きであり、またそこからする愚行である。それに比べると東洋の世界は良くも悪くも自然の水位にとどまっている。もし私が最初から日本政治思想史などを専攻していたら、一段とおろかになっていたであろう。
 ウクライナ戦争のおかげで北極に回り道をすることになったが、この戦争はなかなか終わりそうもない。ウクライナは領土をすべて取り戻さなければ和平にしたくないようであり、ロシアはすべて手放した形で和平するのはメンツが許さないであろう。クリミアの処置が焦点になるであろう両方とも疲れて泣くまで待たなければならないのか。欧米諸国はウクライナ側に加担しているから仲介できる立場になく、インドや中国は国際的に大きな動きをしたがらないようであり、トルコや日本は力能不足である。
 今回のように双方に言い分がある紛争の和平というよりは、一方的当事者の一方的侵略を阻止することが困難であるのは今の国際秩序に欠陥があるからである。それを端的に示しているのは国連であって、国連には国連軍もありえたが、安保理事会の常任理事国が該当する場合はお手上げになる。もともと国連は主権国家の連合体であり、主権を制約するのは困難なのである。
 別の言い方をすればウクライナ戦争は主権を解体した国連とは別の世界秩序が必然であることを示すものであろう。それは安全保障装置の点では、従来の個別国家の軍事力を世界秩序に譲渡し、それによって安全を保障するということである。この世界秩序は世界政府といわれてもよいであろう。EUはそれへの一歩を示しているが、まだまだ主権の枠に制約されている。
 無論世界政府のようなものは夢のような話であり、少なくとも一挙になしうるものではなく、有志連合を拡大する以外にはないであろう。それも今世紀中には困難が予想される。人間は神に似せて作られたそうであるが、神よりは猿の方に近い。だからサル山の猿のように陣取りをしたり騒ぐわけである。人類はこれまで地球上に出現した生物のうちでは最も有能であるとともに、最も有害な生物である。だからあまり申請でない悲喜劇が繰り返される。
 ところで日本国憲法はこうした世界政府の安全保障原理を指し示しているところがある。無論それは諸国民に信頼するとか、戦力を持たないとか漠然としたものでしかないが、個別軍事力を放棄して世界秩序に譲渡するという世界政府の基本的原理を先取りしているところがある。もっとも日本人にそうしたイニシャチィヴを発揮する力量が備わっているかどうかは別のことであるが。
 今度の国会の会期では憲法審査会を毎週開くのはサルのようだと言ったということで物議があったようである。憲法で受権された国会に憲法審査会があるということ自体が、憲法が疎遠であることを示すものである。サル山のサルがサルと言われて騒いだのであろうが、こういう議論をしているところでは、憲法も所詮はサルに小判である。

e  G7はベルリンのホテルで見かけたが、西洋から見ると、どうしてあんな貧弱なテーブルで首脳が会議をするのだろうと違和感を感じたものである。日本国は今では一人当たりの国民所得はG7中で最下位である。これは経済だけの問題ではない。ドイツは福島の教訓から脱原発を完了したが、日本はなし崩し的に原発に回帰している。日本人の無原則性がよく表れているが、ドイツが環境投資を成長の柱にしていたことからわかるように、それは経済にも関係している。
 その他の近年の例では日本国は性的少数者差別禁止という点でも、難民保護という点でも再開に定着している。日本の難民保護の遅れは以前から有名であり、最近は法改正を下から改善されたかといえば、逆に難民の相関をしやすくしたというのであるから論外である。日本人は難民を受け入れるのは国際社会の義務であるということが分からないようである。
 日本国は法や人権という価値観において西洋諸国と一致していると言われることがあるが、こういう事例から明らかのように、日本国は基本的価値観において西洋補国と差異を示している。日本国はG7から離脱した方がよいであろう。
 今度のG'7は首相がわざわざ広島で開いて核廃絶につなげたいとしていたようであるが、逆に核抑止力を容認することによって大失敗をしている。もともとG'7は核問題を扱うところではなく、アメリカなのの保有国は核廃絶などに関心がなかったのであるから、この結果は予想されたことである。いまではG7の実際的意味は低下しており、今度の年一度のエクスカーションと記念撮影に終わったようである。キシダ首相は国連の核不拡散条約の検証会議で折り鶴を弄びながら演説をしていたが、少女趣味で核は動かせない。軍事費を拡大しながら核軍縮など言うのも矛盾している。

f キシダ君の看板政策は新しい資本主義ということのようであるが、自民党本部が経団連本部になったかのような看板は、この人物の程度を示しているようである。
 当初キシダは国葬や改憲という言葉をポンポンと叫び、これは保守派への媚だろうと思われたのであるが、実はキシダという人物は中身のない空っぽだったということであろう。彼は宏池会の出身であり、派閥というものはくだらないものではあるが、宏池会はリベラル派とされているようである。しかしキシダは快調であるにかかわらず宏池会がどういう派閥であるかも理解していないようである。要するにキシダは何一つまともに勉強することもなくエスカレーターを登ってきただけのボーヤであり、いかなる信念とも無縁な羅針盤を欠いた人間のようである。宏池会から軍拡首相が出るとは誰も予想しなかったことであろう。
 この空洞性は根拠を欠いた軍事力の急拡大や敵基地攻撃の容認でいかんなく発揮されている。敵基地とはまず北朝鮮のミサイルなどのことであろうが、このミサイルはアメリカを狙ったものであり、日本は問題にもなっていない。アメリカ自身北朝鮮基地の攻撃というような愚かなことを考えていない中で日本国が騒ぐのはご苦労なことである。もっとも在日米軍基地が狙われることはありうるであろう。それだけに在日米軍基地は危ない存在であるが、横田基地には土地汚染の問題もあるようである。しかし都知事は調査さえしようとしていない。軍拡以前に日米地位協定の改正が必要なのである。
 他面でキシダは少子化対策として何かの手当を何円増やすというような低次元の政策を出しているが、少子化の第一の原因がわかっていないようである。その政策というものも打ち上げただけで財源を欠いている。過去の放漫財政の結果日本国な世界最大の借金国であり、何をするにも財源の壁に突き当たる。そもそも軍事拡大をしつつ少子化対策をしようというのが矛盾であり、軍拡は撤回するは凍結すべきなのである。
 首相本人が空洞である場合官邸に人材がなければならないであろうが、その人事がまた欠けている。それをよく示したのは首相秘書官に銅鑼息子を任命したことであろう。首相秘書官は公職であり、身内を避けることは人事の鉄則である。キシダは任命責任は自分にあると認めているが、責任は取っていない。責任を取らなければ無責任と同じである。総裁になったら派閥会長を辞するのは慣例であるが、その常識も見についていない。非常識もたまには愛嬌であるが、常時非常識となれば人間の質に疑問符が付く。日本国はかつて植木等が演じていたような無責任首相のもとに羅針盤がない状態なのである。

g  他方で野党の方であるが、野党第一党であるはずの立憲民主党の発信力の欠如は救いがたい。発信力の欠如は発信すべきものがないということなのであろう。与党は軍事力の大幅拡大を御用有識者会議に諮っただけで国会をパスしていたから、次の総選挙では第一の争点とすべきであろうが、その心構えもないのであろう。
 今の代表は次の選挙で150議席とれなかったら辞任するそうである。目標に達しないのは明らかであるから、負けて辞任するのではなく、事前に交代して被害を少なくすべきであろう。野党第一党の代表は首相候補でなければならない。今の立民党で首相をやりうるのは小沢一郎くらいであるが、高齢すぎるのが問題ということか。
 ところが立民党は維新によって野党第一党を奪われかかっている。維新はヨーロッパで言えば極右政党である。ヨーロッパの極右政党はサロン化することによって勢力を伸ばしているが、日本では保守とリベラルがトロトロしている間にシンプルな極右政党が伸長しているのである。
 まともな政党を持たない日本国民はお気の毒である。しかしこれは政治的民度の現れであろう。
 今度の国会で決まったことの一つに後期高齢者の健康保険料を値上げすることがある。75歳以上の老人が後期高齢者というような侮辱的な言い方をされて抗議もしていないのがまずだらしがないというべきで人間というよりは奴隷である。
 保険というものは大数の原理に基づくものであって、個人のリスクのばらつきを多数に平均化することによってリスクを軽減しようとするものである。したがって母集団は大きい方がよく、健康保険も全国民を一つの母集団にするのが理想である。それでは年齢階層の差異が無視できないためにやむをえず階層別の保険料も導入される。しかし過度に階層化するならば保険の意味がなくなる。
 今の健康保険料の改正の問題は、老人保険料の増額分を証しか資金に流用しようとしていることである。健康保険の問題と少子化の問題は本来は全く別のことであり、日本国の財政難の問題が福祉の削減という形でいびつなものになっているのである。
 こうした中でただ選挙をすればよいというものではない。若者の投票率が低いのは問題であるというのは新聞や素朴な政治学者の言うことであろう。投票率というものは民主政治にとって決定的な問題ではない。一般に投票率は民主国家よりも独裁国家の方が高いものである。首相の演説会場に爆弾を投げて逮捕された青年は参議院の被選挙権が30歳になっているのを不満として裁判をしているそうである。被選挙権を制限して若者の投票率が低いことを嘆くのは理屈に合わない。投票を進めるのは不合理な選挙制度を正当化することでもある。見逃せないことは爆弾でも投げなかったら人々はそういう問題に気が付きもしなかったということであろう。爆弾を投げるのは愚かなことであるが、政治への参加は単に投票だけのことではなく、デモのような威力の行使でもありうるのである。

h  今度パリに行った時は例によってサンミシェルに宿を取っている。不相応の高級ホテルに投宿していたのは健康に懸念があったためである。ところが夜中に警官からたたき起こされ、爆弾が仕掛けられている情報があるから避難するようにということである。当時フランスでは年金支給年齢を62歳から64歳に上げるということが問題になっていた。この引き上げはやむを得ないとも見えるものであるが、マクロン大統領が採決をせずに可決するという異常手段を取ったために反対運動が急進化することになった。憲法院がこれを正当化したために抗議は過激化してマクロンが行きつけのビストロに放火されることも生じている。
 今度の爆弾事件もその一部なのであろう。私の目論見は裏目に出たわけであるが、政府がこういうやり方をしている場合、過激派が偽の爆弾情報を流して社会を動揺させるのを私は容認する。そうした反対運動はむしろ社会の健全性を示すものである。
 他方でフランスの警察にも暴力性があり、それに対する抗議運動がまた生じることになる。しかしフランスは人権大国でもあり、また違った面を見ることができる。
 部下を引き連れていた私服姿の警視風の男は、寝間着姿で外に出ていた私の肩に手をやって、上着を着てきた方がいいと言って、にやりとしたものである。私は昔ある労働組合を支援していたサルトルが過激派からボナパルト街のアパルトマンを襲撃されたことを思い出して苦笑しただけである。しかしこのパリ警察の幹部がわたしの部屋が何号室であるかを知っていたのは気味の悪いことである。
 ユトリロを愛好し、フランスの過激派から狙われたかもしれず、しかも過激派を容認し、さらにパリ警視庁の幹部と親しいかもしれないこの私はいったい何者なのか?

老人と本2022年12月30日 20:54

 内閣はウクライナ戦争に便乗して軍事費をNATOなみにGNPの2パーセントにすることにしたそうである。NATOとは憲法的前提が違っていることを忘れている。何に使うのか不明で金額だけだから馬鹿のような話である。御用有識者会議に諮問させて国会をバイパスしているのは国葬の場合と同じである。こういう決定は内閣がつぶれたら反故になるまでのことである。単細胞内閣はつぶれることが望ましい。
 それに関連して内閣は敵基地攻撃をすることにしたそうである。「敵」というのはすでに戦争を前提にした用語であり、戦争を放棄した国にさぞふさわしいことであろう。かつて真珠湾を攻撃した軍人は攻撃した後どうなるかを考えることができていないが、今の政治家は攻撃後どうなるかを考えることもないのであろう。敵基地を攻撃するということはパンドラの箱を開けるようなものであり、大戦争の開始であり、確実に核弾頭が落ちるであろう。認知症的国家は消滅がふさわしい。
今年のワールド・カップのあったカタールは人権抑圧が問題になっており、ドイツ・チームは抗議の意思表示をしていたが、日本のサポーターはそんなことには無関心で競技場の掃除をしていた。身の回りのミクロのことには細かな気を使うけれども、人権や法などのマクロのことには盲目、鈍感で出鱈目な日本人の根本的は国民性が極めて鮮やかに照射されている。今の首相は先天的浅薄性(判断力と人事力に欠陥がある)のようであるが、浅薄なハト派は浅薄なタカ派になるものである。国民はさておき、政治家がここまで劣化すると年中相手にしてもつまらないから、閑話休題

 人類は最初から本を読む生物ではなかったようである。言語は早くから阿使用していたであろうが、紙の本の歴史はせいぜい2000年のことである。これによって人間の歴史は急激に変化したが、近年はその歴史にも転換が生まれている。WEB化の進展は紙の本を放逐しかかっており、将来は紙の本は美術書などに限定されることにもなろう。
 この外形の変化は単にツールの変化だけの問題ではない。本というものには行間を読む機能があったが、WEBの情報は記号だけである。このことはすでに本の方にも影響を与えており、本自体が情報化している。となると利便性の点で紙の本は太刀打ちできないことになるであろう。
 このメディアの変化は人間の変質をもたらさざるを得ない。今でも月に3冊の本を読んだほうが良いというようなことが言われるが、それはすでに情報化されているような本であろう。私は学生時代にヘーゲルの『精神現象学』を一日に3ページしか読めず、全体を読むのに一年以上かかっているという経験をしている。私が哲学者を自称する著者のものがいかさまかどうかを判断することができるようになったのは、ひとえにヘーゲルに取り組んでいたからであるが、今の若い人にはそういう機会がないのであろう。
 大学に勤務していたころは職業的に本を読んでおり、蔵書の一万冊は超えていたであろうが、退職すると同時にほとんど処分し、今では千冊も残っていない。まだあるのはプラトン全集、アリストテレス全集、ヘーゲル全集、サルトル全集などでである。これらはもう読むこともないのであるが、自分の一部のようなもので処分できていない。新刊書というものはほとんどない。これは書評などで絶賛されているような本はつまらないものであったという経験からのことである。新しく買ったものはほとんどが古書である。
 退職後習慣的に読んでいたものはまずアドルノの文庫本のようなものである。それも社会哲学のようなものではなく主に音楽評論のようなものである。マーラーの本では楽譜の議論が多いので楽譜を読むようになっている。それが終わり『碧巌録』を読もうとしたが、これは朝比奈宗源の旧文庫版で字が小さすぎて読めないから、新しくワイド版というものを取り寄せることになった。
 しかしアームチェアばかりで読んでいると背中が痛くなり、一日に三十分は机に座るようになった。机では文庫本は具合が悪いから大きい本を求めるようになる。私はしばらく前からユトリロに関心を持っており、新しいカタログの最初の巻だけが出ていたのでそれを取り寄せた。これは4万円くらいのものであり、今私が持っている一番高い本である。しかしこれは三十分くらいで一通り見ることができてしまう。
 そこでバルザック全集20数巻をとりだすことになった。マルクスは資本論が終わったらバルザックの注解をしたと言っていたようであるが、
こういう小説はすぐに読めてしまうものである。次にこれまであまり読んでいなかった芥川龍之介を読むことにした。最近は厚本の個人全集は不人気のようであり12巻が2000円であった。しかし芥川は同工異曲のコントであり、『河童』や『或る阿呆の一生』などは気の毒なほどに哲学的能力が欠けている。
 次いで私は何を思ったのか大般若経600巻を取り寄せることにした。600巻といっても昔の軸巻にしてのことであり、印刷本では六冊に収まっている。しかしこの経典も語句を変えただけの同じ文句の繰り返しが多いものであり、朗読向きのものであり、読むことには向いていない。そこで私は中国の仏家が華厳経に亊亊無碍法界という解釈をしているのに興味を持っていたので華厳経を読むことにし、これは終わりまで行っている。
それと並んで中国仏家と同時代人の『蘇東坡全詩集』を読みだした。六巻2700首あるが、他に読むものがないので3回読むことになった。 
その間数年前にナポリでレオパルディを再発見することになった。レオパルディの『カンティ』は悲劇的なものが多いが、道徳的対話篇『モラーリ』には滑稽なものもあり、両者がどのようにつながるのか不審があったが、ノート(Zibaldone)にそのカギがあることが分かったのである。私はイタリア語に不自由のため英訳版を入手したが、この膨大なノートは2000ページを超えるけれども、聖書のような薄い紙に印刷されているので一冊に収まっている。彼は独学であったが、23歳のころにはいっぱしの哲学者のような議論をしている。人間は幸福を求め、失われると悲観的になるというレオパルディの哲学はスピノザ主義のようであり、1800年ころにはゲーテなどスピノザの愛好者が多かったようである。レオパルディの場合は幸福というのは自然的なものであり、理性は無力と考えている。理性も自然に属するという点でこの説には弱点がある。日本ではスピノザ主義の本性はあまり理解されていないようであるが、スピノティズムの本質は主体なき実体であり、その哲学的欠陥は明らかであるが、20世紀末の反主体主義のポストモダン主義のよりどころとなったものである。レオパルディの欠陥もすぐに気が付くことであるが、彼の面白いところはそういう結論ではなく、ギリシャ語とラテン語とイタリア語の差異などについてのこまごまとした詮索にある。内容を読むのではなく、議論の仕方を読むというのは私も進歩したものである。
 レオパルディを300ページほど読んだところで90歳になるドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスが「もう一つの哲学史」(Auch eine Geschichte der Philosophie)という1700ページの大著を出版した。私がフランクフルトのハーバーマスのゼミナールに出入りしていたのはもう40年も前のことである。彼は私にとっては師匠というよりは大先輩のようなものであるが、こういうものが出てくると読まざるを得ない。といってもハーバーマスの四角四面の議論はあまり面白いものではなく、あまり期待してもいなかったものである。彼はかなりのbookmakerであり30冊以上の著作があり、そのほとんどは持っていたのであるが、手元には数冊しか残っていない。
 この第一巻は「信と知の西洋的布置」と副題されているが、これはハーバーマスにとってはアイロニカルなことである。というのも彼の仕事は独断性を排した哲学ということで、形而上学以後的なものを目指して五tからである。その場合信というような形而上学的なものはコミュニケーションによってのみ妥当性を持つものとされる。しかしコミュニケーションというものは認識原理であって実在原理ではない。ハーバーマスが時として両者を混同することには実践的な意味があったが、それが信の特性をとらえたものであるかどうかは疑問のところがあり、したがって改めて信と知の関係を哲学史的に問題にしなければならなくなっているのは彼にとって不本意なことでもある。
 ハーバーマスはその哲学史的考察をヤスパース以来の中国、インド、イスラエル及びギリシアのいわゆる枢軸の時代あたりから始めている。儒教や仏教を勉強しているのは彼らしいところであるが、その時代の傾向を神話の宗教への知的合理化としてとらえているのはそれ以上に特色的なことである。ハーバーマスは結局西洋の信というものは知と矛盾しない限度において成立するものであり、これは単なる理性の限界内の宗教というカントの視点に近づくものであろう。
 こうした信と知についての調停的な見方は、同様に最晩年には「信と知」という論文を書いていたデリダが両者が紙の両面のように相反的に併存するというようなクリティカルな関係にあるとする議論とはやはり異質なものである。ハーバーマスは旧師アドルノの『否定弁証法』を自己の中に完全にカプセル化された否定というように批判的な言い方をしていることが示すように、彼の弁証法がやはり調停的なものであることを明らかにしている。
 第二巻は「理性的自由」と副題されているが、自由は反理性的なものではないという含意がある。フランクフルトであるからマルクス主義が問題になるであろうが、この本ではマルクスに関しては「生産活動的、政治的、行動的な主体の歴史的に位置づけられた自由」というテーマにおいて論じられている。この扱い方もマルクス主義の合理化的把握という性格があり、博物館的把握ともいえよう。しかし日本国に目を転じるならば、自称哲学者が構造と自由を媒介できないために不毛で夢想的な社会主義のようなものを唱えていた例もあるあるから、ハーバーマスの所説は教科書的な意味は持ちうるであろう。
 ハーバーマスのこの本は実質的には政治思想史のようなものであり、これは私が大学時代に扱っていたものであるから、特に新しいものはない。もっとも私は思想を詮索するだけの思想史というものをあまり好んでいなかったのであり、ことに流行思想としての現代思想のようなものを嫌悪していたのであるが、それはハーバーマスのような哲学史的バックを背景に持っていたからである。
 ハーバーマスの本をざっと読んだ頃にサルトルの『家の馬鹿息子』の最終巻が刊行された。私が学生時代に鍛えられたのは丸山眞男の演習とサルトルの本であったから人文書院から出ていたサルトル全集はほとんど全巻を読んでいたが、『家の馬鹿息子』は読んでいなかったものである。というのも私はフローベルには関心を持っておらず、この本はいかにも冗漫でサルトルの老化を感じさせるようなものであったからである。最終巻を読むことにしたのは、この間では十九世紀中葉のフランス社会のイデオロギー的考察がされており、そこには多少興味を引くものがあったからである。この巻は2万円以上もしたが読者の数が少なくなっているようであり、おびただしい誤植があったのはおのずから出版界の衰退を物語るものなのであろう。
 サルトルは十九世紀フランスのロマン主義以後の作家の文学的状況に関してイデオロギー的考察をしている。この場合イデオロギーは主に支配階級の意識形態を意味している。サルトルによれば支配階級は自分たちが維持しようとしている秩序が人間と事物の自然にふさわしいものと思えるように自分についての虚偽意識が与えられる。しかしこのイデオロギーは単に階級的利害の反映ではなく、あるいはそれに対立するものでもある。だからイデオロギーは相互の対立あるいは「示差」によってのみ規定しあう言葉の関係の集合である。この示差作用は示差の全体性によって構成される土台の上に形式として現れる一対の相互的規定であり、双代から浮かび上がる対になった形式との差異によって構成されるものとして確定されることによってのみ、他の対と示差化されうる。つまりイデオロギーとは、母体と作業図式の非実体的な偽の全体性である。
 こういう文章は今日ではほとんど理解されないものとなっているであろうが、こういう虚偽意識としてのイデオロギーはすべての階級的個人に共通のものであり、彼らが自分の階級をありのままに意識することの不可能性から生まれるものであるという指摘は、おそらく基本的な妥当性を持つものであろう。
 サルトルはブルジョアとしてのフローベールはブルジョアでありつつそれを否定することによって、自己を正当化するためには神経症にならざるを得ないとしているが、その妥当性については留保することにしよう。一般的には十九世紀中葉のブルジョアは、その支配が絶対的なものでないために軽侮する貴族階級や皇帝に接近することになるのであり、これが第二帝政時代のいわゆるボナパルティズムである。サルトルはボナパルティズムにかなり説得的な分析をしているのであるが、いかんせん私はフローベールには何の関心もなく、次の世代に当たるプルーストがブルジョアでありながら没落貴族に接近するスノッブ根性を示すイデオロギー的分析を残していないのは残念に思うだけである。おそらくプルーストはブルジョアを否定せず、したがって貴族階級に接近してもそれは癒着であり、分裂症に陥る必要はなかったのであろう。
 サルトルを読み終わって再びレオパルディに戻ることになった。ほかに読むものが見当たらないから死ぬまでに終わりまで行ってしまう恐れがあり、一日2ページだけ毎日ではなく読むことにしている。読むものがないと自分で読むものを書くということにもなり、私は「深草断章」という本を出版することになった。しかしほとんど人の読まないようなものを読む人間の本を読む人はまずないであろう。考えてみるならば、自分の本などは読みたくないものである。こうして私は誰も読まない本という本の自己否定に行くつくことになったわけである。

 今年の初めにはイタリアの女優モニカ・ヴィッティが死去している。ヴィっティは映画史上でも屈指の美女であったが、レイプされる役が多く、60くらいになってアダルト映画に出たりしている。長くアルツハイマー病と認知症を患っていたようであるが、トラウマからの脱出を図ったのであろう。モニカはアントニオーニと映画の犠牲者といえよう。共演したことのあるマストロヤンニの葬儀は国葬並みのものであったが、彼女はひっそりと葬られたようである。冥福を祈る。
 年末には例によって庄司紗矢香を聞いている。そのすぐ前にモーツァルトのソナタのディスクを出していた。前作のベートーベンの協奏曲は音が出ていなかったが、今度のはアルノンクール張りに突然大きな音を出している。ハスキルとグリュミオーを聞いていたものにとってはロロコ調からの脱皮といえよう。それは良いのだが、ヴァイオリンのオブリガート付きのピアノソナタとも言われるモーツァルトのソナタはヴァイオリンの真価を発揮するには難しいものであろう。庄司にはライトクラシックだけでなく、去年スペインの春の音楽祭でやっていたシューマンの協奏曲や、音源は知らないがちょっと耳にしたリゲティのコンチェルトなどをリリースしてもらいたいものである。このように言うのは私は交通機関を使って音楽を聴きに行くのが億劫になっており、この稀有の演奏家がどこに行きつくのかを見届けられないのは残念であるが、もう出かけることはないだろうからである。私が死ぬことでもあれば、べリオのセクエンツァ第8番を衛星からあの世に送ってもらいたいものだ。

「国葬」を笑う2022年09月30日 20:47

 元首相某は自分にふさわしい仕方で死亡した。この元首相は様々な事件で訴追を免れていたが、最後に路上で射殺されて横死している。これはマフィアの争いで射殺されたようなものである。マフィアの葬式を国葬でするという国家は大したものである。
 元首相は元統一教会の関係が命取りになったようであるが、これはこの元首相の本質を示している。統一教会は今では振り込め詐欺団体のようなものになっているようであるが、もとは「勝共連合」をやっていた反共宗教団体である。
 元首相の実績は、まず教育基本法に「愛国心」の規定を導入し、これは教員に対する君が代の強制を導くことになった。さらに国家機密法、共謀罪の導入、集団的自衛権の容認といった一連の反動立法を強行採決し、日本国の右傾化を印象付けることになった。
 外交にも実績があったとされている。だがいわゆる拉致問題は小泉訪朝でほぼ解決していたが、当時自民党の副幹事長あたりであった元首相の横槍でとん挫している。拉致被害者の五人が一時帰国した際にこの副幹事長が無理やり永住帰国させ、拉致問題は暗礁に乗り上げることになった。北朝鮮が日本国を信頼しなくなったのは当然であり、外交のイロハを知らない行動である。拉致被害者家族には適切な助言者がなかったのであろう。
 ロシアとの関係ではプーチンとおしくらまんじゅうをしていただけで、何も結果は出ていない。
 この元首相の特徴はトランプ、プーチンと気脈を通じていたことによって明瞭になる。トランプはクーデタ未遂事件を起こすとともに、退任後は公文書館に移すことになっている公文書を秘匿することによってFBIの強制捜査を受けた人物である。この文書は北朝鮮の核保有に関するもののようであるが、トランプは不適切な取引でもしていたのであろう。公文書を自宅に秘匿すれば政策の検証をまぬかれるかのように考えていたとすれば幼児的なメンタリティが表れているということであろう。日本の元首相某はトランプの就任前にご機嫌窺いに行って「信頼できる人物」と思ったそうであるが、言いえて妙である。
 クーデタ未遂事件については議会が特別調査委員会を設置してほぼ全容を明らかにしているが、トランプ自身を喚問していないことには過度の慎重さがうかがえる。公文書秘匿事件に関しても司法省は物件を押収するだけでなくトランプを訴追しなければならないはずであるが、トランプ派の反発を恐れてかいまだに実現されていない。アメリカの司法も前大統領については王権に対するかのような過敏さを持っているようである。
 トランプの例は今の世界でもっともナチズムが活発なのはアメリカであることを示している。フロリダ州知事は移民入国者を民主党知事の州に移送するということをしているが、これはナチスがユダヤ人を強制収容所に移送しいていたのと同じようなものである。
 プーチンは国内的には暗殺行為をしていた人物であるが、ウクライナ侵略戦争で無数の戦争犯罪をしているのは不思議ではない。だが国際刑事裁判所に引き出すためにはロシアの同調が不可欠である。しかし動員を逃れるために国外に脱出を急ぐロシアの青年を見るとスラブ人は奴隷根性から抜け出すことができないようであり、正義の裁きの見通しは難しい。
 日本国の元首相はこれらの独裁的指導者と同類の現象である。これらの右派的反民主主義者がいずれも不法行為と身近な関係にあることは興味深いことである。
 元首相某は経済的にはアホノミクスと揶揄されるものを提唱していた。これは大企業が閏えば「好循環」によって地方や中小企業も閏うというようなものであった。実質的には日銀に超低利政策を取らせただけであるが、結果的には大企業は内部留保を肥大させ、労働者の賃金はむしろ減少することになった。また結果としてはデフレから脱却したが、今度はインフレ要因を抱えることになった。これが資本の論理というものである。
 この元首相の政治手法は縁故主義であって、政治はクリエントへの利益誘導に帰着する。代表例としては首相夫人が関与していた森友に対して国有財産を大幅に値引きして売却させるという財務省の背任事件を起こしている。また獣医学部の新設は認めない原則がある中で、愛媛県を経済特区とすることによって、知人に獣医学部の新設を可能にさせている。「学部」新設も「経済」化によって可能になっている。経済はコネとワイロによって動くものになる。

 こうした多大な実績があるために元首相の「国葬」が行われたのであろう。
 政府によるとそれは第一に最も長く首相の座にあったからである。長いがゆえに意味があるわけではなかろうが、アメリカ大統領で二期8年は普通のことである。ドイツのメルケル首相は元首相より長く在任しドイツ再統一に多大の貢献をしたが、国葬というような野暮なことはおそらくないであろう。のみならずこの元首相は政権の延命のために汚いことをしている。森友事件に夫人が関与していたら辞任するとしていたが、それを示す財務省の文書を改ざんさせ、担当者を自殺させている。ちなみにこの元首相は側近であった河井議員の妻の選挙では1億5000万円という桁違いの選挙資金を出させ、それが引き金となって大規模な買収事件を引き起こし、河井夫妻が投獄せれても知らん顔をしている。ここには元首相の温かい人柄が現れている。
 第二に暗殺に関して国外からの弔意が多いことがあげられているが、外交辞令を文字通り受け取るのはナイーヴであろう。
 前後して行われたエリザベス女王の国葬とは月とスッポンであって比較にもならない。教会は葬儀のプロであり、イベント会社と役人がやるものはこんなものにしかならない。
 エリザベスの葬儀が壮麗なものになったのは、女王は議会と主権を共有する主権者でもあるからである。19世紀のジャーナリスト、バジョットは国家には権威の部分とと権力の部分があるとしていたが、項の強いイギリス時の中にあって権威の担い手である王権は壮麗なものでなければならなかったのであろう。たとい王は「君臨」はしても「統治」はしないとしても。
 しかし今度の常王の葬儀はエリザベスの葬儀であるとともに、イギリスの王政の葬儀のようなところがある。チャールズが即位したが、これは無条件的なものではなく、即位協議会で読み上げられた王の義務に対してチャールズはいちいちI agreeと同意しており、王位は契約である。これは無条件的であり、大嘗祭というプリミティヴな服属儀礼しかない日本皇帝とは異なる点であり、ここに日本国において法の支配が貫徹しえない淵源がある。チャールズは即位宣言で「生涯国民に奉仕する」としているが、王はもはや「君臨」するものではなく、「奉仕」するものである。イスラム国を除いて、民主主義国の王制は時代遅れになりつつあり、生き残りが課題になっているのである。
 元首相の葬儀では葬儀委員長が弔辞を述べるというような奇妙なことがある。しかしもともと国家と宗教が峻別される国においては、国葬には死をどう扱うという宗教的な要素を不可欠とする葬儀の性格が欠けている。元首相の国葬も追悼式にすぎず、政教分離の国では本来国葬はありえないのである。
 キシダ首相は弔問外交をしようとしたようだが、サブリーダーに対する分刻みの面談は外交とは言い難い。むしろ遠来の客人に対するレセプションをやっていないのは常識に反している。国葬が失敗したのはキシダが元首相の死を利用しようとしたからであろう。キシダには基本的判断力がないことが露呈している。
 キシダは聞き上手だとされるが、理解力がないから右の耳から左の耳に抜けているだけである。彼は核廃絶が悲願であるらしいが、核不拡散条約は核廃絶につながらず、核禁止条約から行くべきだと言っても理解しないであろう。
 国民の半数以上が国葬に反対だったそうであるが、それはまずは折からのインフレで国民生活がひっ迫しているところに無駄使かいすることへの反発であろう。政府・日銀はインフレの基本要因である円安に何らの根本的な対応をせず、何万円かを配るという焼け石に水の対象療法に終始している。為替介入は一日の効果しかなく、為替介入は無駄である。
 しかし国葬に反対するのは根本的には元首相が国葬に値しないためである。日本政治の癌が消えたことは喜ばしいことである。しかし国葬への反対者も元首相を政治的、法的に水から放逐したのではなく、精神的障害も予想される容疑者によって始末させられたという点については、あまり自慢にならない。一強政治などというものを存続させていたのもこの国民である。
 国葬反対者とともに献花者も存在する。この両群は保守的であるかどうかという点だけでなく、使っている情報システムが違っているようである。通信回路に互換性はなく、両群の間にコミュニケーションは成り立たない。両群はパラレル・ワールドであり、情報システムが社会の分断を招いているのである。

 元首相棒が頭角を現すようになったのは20年前の小泉訪朝あたりからのことである。この20年は政治的にはいわゆる政治改革によって政治の世界でも独占が可能になり、政治は劣化している。このことは経済に関しても言える。
 20年前には日本のGNPは中国を上回っていたが、今ではその三分の一以下である。20年前には一人当たりの国民所得はOECDの上位にあったが、今では下位に定着している。この20年は日本経済にとっては衰退と転落の20年である。中国のあり方がよいというわけでもないから、これはどうでも構わないことであるが、無視できないこともある。
 泡ゆるアホノミクスによって日銀が世界で唯一のマイナス金利をかたくなに続けているが、これはモラル・ハザードでもある。大企業はぬるま湯に漬かって先進性を失っているようであり、衰退はその帰結である。またその周辺では五輪の贈収賄事件に見られるような腐敗も忍び込んでいる。フェア・プレイの場にあってコネや賄賂といった芳しくないことが横行するということは経済の劣化の一面であろう。
 元首相某の時期の最大のスキャンダルはおそらくゴーン氏事件である。この事件についてはいまだにその核心が把握されていないようであるが、腹心とされたケリー氏の判決はこの事件がでっち上げられたものであることを示している。
 ゴーン氏は有価証券報告書に役員報酬を過少記載したとされ、秘書室で退職後に支払う未払い報酬が検討されたにもかかわらず、それが記載されていないとされている。だが役員報酬は役員会等によってオーソライズされなければ決定されるものではなく、秘書室の検討などで決まるものではない。だから未払い報酬が有価証券報告書に記載されていないのは当然のことなのである。もし未払い報酬というものが正規にあるとすれば、それは貸借対照表の「未払い金」に記載されなければならない。それがないということは、未払い報酬などというものはないということである。私は大学卒業後金融機関の審査部門で毎日有価証券報告書を見ていたが、検察官や裁判官はバランス・シートの見方を知らないのであろう。
 ケリー氏への判決からわかることは、ゴーン氏事件は違法行為などには関係がないものであり、ゴーン氏がルノーとの一体化を図ろうとしたという不確かな情報によって、ゴーン氏に違法行為があったという後述のもとに、政府にとって好ましくないと思われた人物を追放しようとしたものであったとみてよい。そうして有価証券報告書過少記載というような笑うべき事由が持ち出され、日産、経済産業省、検察などが連動して日産の再建者であるこの異色の経営者を失脚させようとしたわけである。こういう事件が首相官邸に無関係であるとは考えられず、法原則に関して浪花節的に出鱈目であったアベスガ政権がゴーサインを出したのであろう。
 ゴーン氏事件は国家権力が無実な者を犯罪者にいようとした国家犯罪のようなものであり、この20年間における経済の劣化を示すだけでなく、元首相某の政権の最も忌まわしい事件であるとともに、ひいてはガラパゴス国家の最も暗黒な部分を露出させている。コネと賄賂によって動くようになっている国において、独自の道を行く経営者を陰謀によって追放しようとしたわけである。ここには異質な者を排除しようとするガラパゴス国家の最も忌まわしい面が現れている。
 こうしてみるとゴーン氏事件は元首相某の時代に顕著になるガラパゴス国家の限界点を示すものであると見ることができる。閉鎖性を特色とするこの国家は、この時代に政治的劣化、経済的劣化に見舞われてきたが、近年には有効策を打てない学術会議の失墜に見るように学術的にも劣化しているようである。この総劣化はガラパゴス体制が持続可能ではないことを示唆するであろう。
 ガラパゴス体制とは世界で唯一の皇帝をあがめ、法や人権には無縁の酋長に服従するといった古代的あり方を維持している珍しい体制である。歴史的に効果がなかったわけではないこの体制が限界にあるということは、その転換のためには脱天皇主義がなければならないであろう。しかしその展望はほとんど存在していない。これは単に制度の問題でなくメンタリティの問題であろう。この国民には独特の緩い性格があり、近年では児童には関係がない天気予報にもぬいぐるみが見られるように、幼児化は一段と進んでいるようである(蛇足であるが近年では天気予報でも「これまで経験したことがない台風」というようなオーバーな表現を乱発してオオカミ少年になっている。北朝鮮のミサイルが騒がれたりしているが、北朝鮮の目的はアメリカの注意を引こうとして挑発することであり、日本国は眼中に置かれていたい。ミサイルも穀倉と同様に日本国は通貨である)。緩い性格は結構であるが、そこでは法の支配も貫徹はできない。
 ガラパゴスからの脱却が予測できないということは、この国家は沈没するほかないということであろう。近年の円安は単に日米の金利差によるものではなく、失敗国家の日本売りであろう。しかし犯罪国家が消滅することは慶賀すべきことでもある。葬送すべきはまずそうした国家なのである。

中間小括2022年06月30日 20:37

子供の戦争
 よく言われていることであるが、ウクライナでの戦争は今の世界の大部分の国家の安全が保障されていないことを示している。
 あまり言われていないことは、これは十七世紀のウエストファリア体制以来のことだということである。これは登場しつつあった主権国家の併存体制であって、そこにはそれを越えるいかなる権力も存在しない。国家間で紛争が生じると、それは必然的に戦争状態をもたらす。 
 ウクライナでの戦争の原因の一つはウクライナのNATO加盟の動きはロシアにとって死活問題だとされたことにあるようである。NATOは防衛機構であるからロシアの一方的な被害妄想というほかない。ロシアには臆病さと凶暴さが共存しているわけである。
 しかしNATOはソ連を中心としたワルシャワ条約機構に対抗してできたものであり、ソ連の崩壊とともにワルシャワ条約機構は消滅している。とするとなぜNATOは何のために存続しているのか、その説明は必要であろう。地域の安全を保障しようとするものであろうが、ロシアを仮想敵国化していることは否めない。ロシアが神経過敏になるのは想像できないわけではない。
 しかしウクライナがNATOに接近したとしても、なぜそのために戦争をしなければならないのかは説明されない。このためにロシアは特別軍事行動というような名称を与えているようであるが、それは政治目的のための軍事行動である。これは戦争は政治の延長であり、その道具であるというクラウゼヴィッツの戦争概念に合致するものである。
 とするとロシアはどういう政治目的で戦争をしようとしたのであるか、それがいかにも不明確である。NATO加入問題の他にウクライナのネイナチ(?)を撲滅するためであるとか、ウクライナはそもそもロシア領であるなどということが雑駁に言われたりしているようであるが、要するに戦争目的がはっきりしていない。クラウゼヴィッツ流の戦争概念の延長上にあるのはビスマルクの現実政治であるが、ロシアにはクラウゼウィッツ流のリアリズムが欠けている。妄想による蛮行に終わるのは目に見えている。戦争が結局は陳腐な領土獲得問題に収束したのは当然のことであろう。
 ロシアがこのようになるのは指導者の質が深くかかわっている。プーチンは秘密警察の職員レベルの人間であり、国内の批判者には次々に暗殺行為をしていたということは、対外的にどういうことするか当然に予想できたところである。小皇帝然とした指導者を持つロシアは典型的な専制国家と言ってよい。
 民主主義国家は戦争をしにくいが、専制国家は戦争をしやすいという説がある。古代ギリシアの代表的な民主主義国家のアテネは常時戦争をしていたから、この説は幾分修正しなければならない。しかしその場合でもアテネが戦争をした主な目的は民主制を守るためだったことは見失われるべきではない。
 専制国家は指導者だけでできるものではなく、国民がそれを可能にしている。ロシアの国民は今でも議論ではなく命令を好むところがあるようである。子犬のチンのような指導者を批判する有力な政治勢力もないようであるから反戦論も大したものにならないのは不思議ではない。
 しかし専制国家の軍隊はもろいものである。ウクライナ戦争も数日で決着すると見られていたが、もう4月以上もうろうろしている。これにはモラールが決定的に低いことの他に戦術戦略が一貫していないことが関わっているであろう。ロシアは百年前には新興の日本帝国に敗北している。
 ウクライナは古代にはスキタイが住んでいたところである。当時の態帝国ペルシャのダリウス大王はスキタイを征服しようとして大軍を派遣したが、相手を発見できず退却している。遊牧民のスキタイはペルシャの前に姿を見せなかったのである。ヘロドトスは『歴史』の巻末に「キュロスの訓戒」の一文を置いているが、そこで彼は豊かな土地に出て弱体化するよりは、貧しい土地にいて強大であった方がよいと言っているが、この訓戒はロシアにの通用するであろうか。
 ウクライナにも何も問題がないわけではない。NATOの加盟問題が一つの原因であったようであるが、早い段階でNATOの加盟は断然したと表明している。簡単に断念できるようなものであれば、戦争になる前に話し合いで解決しておくべきであったことである。ゼレンスキー大統領は亡命の助言を斥けてあくまでも踏みとどまっているのは立派であり、ベラルーシの買っていたとされる大統領候補がルカシェンコが居直ろうとするとすぐに亡命したのと対照的で、これではだめである。香港についても言えることであるが、民主主義を守るためにはどんなことがあっても母国にとどまらなければならない。しかしゼレンスキー氏には戦争を食い留めることができなかったという点では、政治的には未熟なところがあることは否めない。ちなみにウクライナ戦争はウクライナがNATOに加入する正当性を与えたということができよう。
 結局ウクライナ戦争は勝手に他人の領土に入って殺人と国土の破壊をほしいままににしているが、こんなことは馬や鹿でもしないことである。いまだに戦争の出口も見いだせていないが、それは戦争目的がはっきりしないから当然のことであろう。佐藤春夫は小学校時代の子供戦争について書いているが、ロシアのウクライナ戦争は子供の戦争以下と言えよう。
 ウクライナ戦争がいまだに終わっていないのは留め男のようなものが不在であることも一因である。アメリカは幻想的はヴェトナム戦争の失敗後、根拠のないアフガン戦争でも撤退するというように及び腰になっているが、今度の戦争ではNATOを直接出すことはできないとはいえ武器供与をしたり戦争を長引かす要因になっている。
 しかし根本的な原因は国連の無能にあると言える。事務総長が泣きながらロシアに戦争をしないでほしいと訴えていたのは今の国連の現実をよく示している。安保理事会はロシアが当事者としているから、何ら有効な決定をしえていない。総会は決議だけはしているが、決議だけではただの言葉にすぎない。戦争のような事態には何らかの強制力が不可欠である。
 要するに今の国連は諸国の安全を保障できていない。それはつまるところ今の国連は主権国家の連合であり、主権国家に対して有効な強制力を加えることはできないのである。細かく言えば、部分的には強制力を持っているが、それは常任理事国の主権には手を触れることができない。EUは国連よりはやや主権の削減があるが、それでも主権国家の方に近い。
 こうしてウクライナ戦争が示しているのは主権国家体制の限界ということであり、その枠がある限り諸国の安全は戦争以外には保障できないということである。無論今日でも戦争は法的には違法化されている。国家間の紛争は国連が乗り出すまでは自衛のために強制力を行使できるだけである。しかし国連軍はできたことがなく、国連の実効力がない以上戦争の禁止は無力化されている。
 多面においてウクライナ戦争に関して多様な支援がなされていることは何らかの国際社会が生まれていることは無視しえない。だから問題は国際社会の言う実質と主権国家という政治的体制のギャップにあると言ってよいであろう。国際社会はあっても警察もない状態である。つまり国際社会に見合った政治秩序が求められているということなのである。
 この問題で基本的な視点を出しているのはカントの永久平和の理念である。つまり永久の平和を実現するためには世界が一つの国、と言うより一つの共和国のようなものにならなければならないということである。世界共和国においては紛争があっても、それは国内的な問題であり、戦争の問題ではない。戦争の問題が最終的に解決されるためには世界は一つの国にならなければならないということである。
 しかしカントの世界共和国の弱点は、それが永久平和つまり理想形としてのみ提出されていることである。カントは商業の発達などに「自然」の狡知を期待したのであるが、それはあまり強力なものではない。つまりカントの世界共和国論は理想形とは別に現実形を必要としているのであり、それはつまり権力の構築ということである。いつの時代にもぐ社入るものであり、この世の悪に対して平和を維持するためには権力をなくすることはできないのである。したがってカントの世界共和国を補完する現実形はその共和国の権力をどのように構築するかという問題になる。
 この点で参考になるのは近代の主権国家を構築した理論である。代表的にはホッブズに見られるものであるが、彼は個人の生存を確保するためには、各人の自己防衛という自然権を共通の権力に譲渡するという契約を結ぶことであるとしている。この共通の権力が主権ということであり、それが近代の主権国家の理論となったものである。
 今日の世界が必要としているのはこの主権国家の解体の理論ということになる。かつての社会契約論から見るならば、それは諸国家がその生存を確保するために、自己防衛力を世界の共通の権威の譲渡し、その権力に従うということを意味するであろう。それが世界国家という名のものであれ、世界共和国というものであれ、現実形として世界の平和を維持するものになるものであろう。ここで重要なことは人間の世界になくせないように見える警察のような暴力装置をどのように世界に構築するかということであり、それがとりもなおさず世界国家への現実的な通路であろう。
 しかしこの現実形にも直ちに困難が予想される。どこの国が自分の警察や軍隊を世界の権力の譲渡するであろうかということである。だがそれは近代社会が国家形成をする際に自己防衛を放棄するという形で実現したものである。もっともアメリカはまだ抵抗権を維持するために国民の武器の所有を認めているのであるが。この点で代表的な民主主義国家となったアメリカはまさしくそのために世界共和国を実現するためにも大きな障害を含んでいる。
 とすると世界の安全を保障するためには世界を統一するよりは、地域的な安全保障網を作る方がよいということにもなるであろう。それが例えばNATOということであり、太平洋にも類似のものができ、それがリンクするならばかなりの程度のグローバルな安全保障網ができるでもあろう。しかしそうした安全保障網というものは結局軍事同盟ということであり、武装平和は実現したとしても戦争の廃棄という目標には程遠いものである。
 こうした中で日本国では火事場泥棒のように防衛力を増強しようとする声が出ているが、戦中派からするならば戦争を知らない餓鬼のたわごとである。また憲法に自衛隊を明記するというような議論があるが、憲法は原則を示すものであって個別の組織を規定するようなものではない。言に自衛隊は最初は警察予備隊と呼ばれ、次いで保安隊になり、最後に自衛隊になっている。
 こうした議論には原則に無関心な日本人の特徴が現れているが、ここで見逃せないのは憲法第9条がうめれたのは、そのころ国連が計画されており、戦力を持たないのは国連が安全を保障するという期待があったからである。このことは裏から見れば国連が安全を保障できなければ第9条も無効になりかねないということであろう。しかし憲法の趣旨からすれば日本国は国連が安全を保障できるようにしなければならないということであろう。今の国連に限界がある以上、それは国連を変えていくようなものでなければならないであろう。
 ここでは結論的にしか述べられないが、平和主義だけでは不十分なことは明らかであり、国連には国連警察のようなものがなければならないであろう。それは戦争をするのではなく、あくまでも平和を維持するためのものである。日本国に何しては、それは具体的には自衛隊を国連に移管することを意味するであろう。これは国際秩序を作るとともに自国の安全を保障するという二重の意味を持つものである。しかしこういったものを今の安保理事会に与えたのでは動きの取れないものになるであろうから、直接に総会に帰属しなければならないであろう。
 こうした課題はよほどの労力を要するものであり、日本人の実力を越えている可能性もあろう。現に現首相は大平や宮沢の流れにあるとは信じられないような憲法改正を叫んでいるのであるが、日米地位協定の改正は喫緊の課題であるが、憲法改正などは不要不急であるだけでなく有害無益でもある。少なくとも今言われているような改憲論は盥とともに戦争放棄という「赤子」を流すものであろう。

子供の議会
 日本国の首相は「新しい資本主義」とかいうもののセールスマンになっているようである。世界のリーダーの中で「資本主義」を宣伝しているのは日本の首相くらいのものであろう。
 キシダ君もアベと同じく学がないから資本主義の問題など分かっていないのであろう。資本家が潤えば「好循環」によって労働者も潤うというのは、資本が利潤を求めるものである以上、よほどの社会主義的な強制力が働かなければ無理なことである。
 旧政権以来の新自由主義的な政策で日本国の社会には貧富の格差が増大し、富裕者の社会と貧困者の社会の分断が進んでいる。これは「新しい階級社会」の登場と言ってよく、ここに求められているのはむしろ「新しい社会主義」であろう。
 資本の論理はインフレ、デフレで人々を翻弄させるが、物価高はその一局面である。今の物価高は円安による輸入価格の高騰によるところが大きいが、インフレ目標を持つ日銀は円安をむしろ誘導すべく超低金利を継続させている。日銀は少しでも金利を引き上げるならば景気を後退させかねないと日本経済をきわめて脆弱なものとみているようである。
 インフレの犠牲になるのはまず労働者層であり、景気後退でまず被害を受けるのは資本家層である。日銀が資本の利益を労働者の利益に優先させていることは明らかである。
 その当否はいずれ明らかになるであろう。しかし日銀は通貨の番人でもある。現総裁になって以来円の価値は30パーセント以上低下している。日銀総裁は辞任に値する。
 インフレに対する政治の対応はほとんどないようである。国会では財務大臣に「買い物に行ったことがあるか」というような子ども議会の問答が聞かれ、議長はセクハラにいそしんでいるようである。国会議員がこのように劣化したのはいわゆる政治改革に深くかかわっているようである。国会議員は通常一年で五カ月しか働かず二千万近い歳費を受けるだけでなく、何に使われているのかわからない文通費を毎月百万円もらっているようである。こんな国会は税金の無駄であろう。
 そうした中で立憲民主党の発信力の欠如は危機的であろう。「提案型」などは与党に吸い上げられるだけだということは、国民民主党が証明している。
 こうして日本の国会は限りなく大政翼賛会的なものとなったと言えよう。連合の会長が自民党にすり寄ったりしていることは、百年以上前に福沢諭吉が「権力の偏重」と言っていたことが続いていることを示しているが、「権力の偏重」とは権力が一元化しているということである。これは日本政治のロシア化である。
 実質的野党がほとんど存在しないことの直接的な問題は権力の監視ができていないことである。森友財務省事件は文書改ざんの問題に矮小化され、事件の真相は明らかにされていない。
 ウクライナ戦争に隠れていたが、元日産のケリー氏への判決が出ている。ゴーン氏の腹心とされていたケリー氏は有価証券報告書へのゴーン氏の役員報酬の過少記載に関与したとして起訴されていた。役員報酬には未払い金があるはずだということである。判決は一部について有罪とするものであった。
 この判決でまず不可解なのは、役員報酬の過少記載があるのであれば、真の役員報酬はいくらであるかが明らかでなければならないはずであるが、未払い金の支払いを証明するものが全くないことである。退職時に支払うことも検討されたようであるが、それは決定されておらず、無論貸借対照表の「未払い金」にも記載されていない。真の役員報酬額が明らかにできないであれば、有価証券報告書の記載が「過少」とすることもできないということは中学生にもわかることであろう。
 このようにこの判決は有価証券報告書の虚偽記載を証明することができていないだけでなく、その虚偽記載は審理対象とされていないゴーン氏が主導したものであるとして、ケリー氏に形だけの有罪判決にしている。こういうでたらめな判決は、この事件には犯罪の実体がなく、フレイムアップにすぎないことを示すものである。こういう判決が出ることはゴーン氏が日本の刑事司法は信用できないとして逃亡したことを正当化するようなものであろう。
 ゴーン氏事件は結局、政府にとって都合の悪い人物を企業、役所、検察さらに司法が連携して追放しようとした国策訴追であったと言える。私はこの事件の報道に接した時に第二の大逆事件のようなものであるとすぐわかったが、それは資本や権力が法を曲げる犯罪的行為という意味である。森友事件に続いてゴーン氏事件のようなものが法的にでたらめなアベスガ政権に生じたのは不思議ではない。自伝的小説で佐藤春夫は大逆事件に関して,「事もあろうに暗殺などとあるまじき不敬事を種に国民を煙にまいて、天皇を支配階級の具に供し」た事件であるとしていたが、支配階級のすることは変わっていない。なお子供戦争の相手方として崎山栄と出ているのは大逆事件で死一等を免じられた崎久保誓一氏をモデルとしている。
 アメリカにおいてもトランプの1.6クーデタ未遂事件が生じていた。しかしこの事件についてアメリカ議会は数百人の証人喚問、千人以上のインタビューなどによってトランプの責任(私には一年半前からわかっていたことであるが)をかなり明らかにすることになり、議会の一定の名誉回復を実現している。しかし日本国においては国会による国政の調査が全くできていないのである。
 むろん国会がこのようになるのは国民の態勢が関わっている。日本人が「太平の逸民」になる傾向があるのは直接には象徴天皇制が関係している。天皇は英訳すればEMPERORつまり皇帝である。泡沫的なものを別にすると、第二次大戦後も皇帝を持っていたエチオピアやイランも1970年代には相次いで皇帝を廃止し、今では皇帝を持っているのは日本国だけである。日本のガラパゴス制は端的には皇帝を持っている唯一の国ということである。皇帝は「王の中の王」と言われるように、ただの王ではない権威主義的な性格を持っている。こういう国は専制主義にはなっても民主主義を貫徹することは困難である。
 支配階級が法や権力をほしいままにすることは前の参議院選挙においても見られる。広島選挙区の河井議員が大規模な買収事件を起こしたが、それは自民党が1億5000万円を与えたことを引き金にしている。税金が買収に使用された公算が大きいから本来は会計検査院が調査すべきものである。当時の幹事長は支出を知らなかったということは、アベ元総裁が通常の手順を経ずに支出させたということであろう。前回の買収事件の資金の流れをうやむやにしたままで、また参院選に出かける有権者はご苦労様である。