オリヴェイラ讃2019年04月30日 22:16

 ポルトガルのオリヴェイラ監督が亡くなって早くも五回忌になる。映画のことなど書いている状況ではなかったためである。ひと山越えたようだから不要不急のことを書いておくことにしよう。
 といっても筆者は映画ファンなどとは言えない。私が最も映画を見ていたのは京都の小学校時代のことである。その頃は時代劇の最盛期であって、場末の映画館で見ていたのは中村錦之介や東千代之助のチャンバラ映画であった。
 小学校を卒業するとともに目の錯覚を利用した映画からも卒業することになった。映画を再び見るようになったのは大学で西洋思想史を専攻するようになって、その参考資料とするようになったからである。たとえば古代ローマの作家ペトロニウスの『サテュリコン』の世界を知ろうとしたときにフェリーニの『サテュリコン』を見るような具合である。もっともそれは私が予想していた世界と大して違っていなかったのであるが。
 これらの映画はほとんどがヴィデオであって、映画館にはほとんど言っていない。過去10年間に映画館に行ったのは1回程度だから映画は見ない方と言わなければならない。変則的な映画愛好家ともいえないであろう。
 私はフェリーニのアナーキズム的なところに興味を持っていくつか見ることになったが、さっそくマストロヤンニが主演していた『甘い生活』に出会うことになった。彼はプレイボーイであるとか性格俳優であると言われたりするようであるが、それは当たっていない。Mは170ほどの映画に出演し、農夫、漁民、兵士、組合指導者、医者、教師、検事、記者、政治家などあらゆる役柄をこなす職業的俳優である。私の見るところMは根本的には典型的なヨーロッパのジェントルマンである。
 私はMの生真面目なユーモアに興味を持たされて若いころからの映画を探すようになった。すでに十四・五歳でエキストラに出ていたようであるが、第二次大戦で兵役のブランクが終わると本格的に主演するようになる。私の興味を引いたのは彼の三十歳代の1950年代の初期の作品には田舎の風景が多く、それは私の小学校時代の情景に似たところがあったためでもある。
 Mというと私はいつもバリトンのヘルマン・プライを思い出す。年のころはほとんど同じで、同じようにあまり長生きしていない。ドイツとイタリアの差はあるが、プライも典型的なドイツ人というよりはバイエルンの農夫のようにずんぐりとした風貌の持ち主であり、それはMも同じであり、彼はローマとナポリの中間にある小村フォンタナ・リリの生まれである。私はたまたまキケロの生地アルピーノに行く途中でフォンタナ・リリを通ったことがあるが、アペニン山麓の舌が伸びたようなところにある全くの寒村である。彼の先祖は代々大工をしていたようであるが、M自身も大工のせがれのようなところがある。彼は決してハリウッド的な美男子ではなく、本質的に庶民的なところがある。Mは無数の役をこなしながら、英雄と聖人はやらないとしているのは、自分を知っているからであろう。
 初老になったMはギリシアのアンゲロプロス監督の2本の映画に出ている。Aの映画はあまり多くなく私はほとんどすべてみることになったが、それは彼の映画は歴史的かつ政治的であり、私には避けて通れないものだったからである。『旅芸人の日記』などの三部作は同時代史と名付けられており、それはナチス支配、軍事独裁、他面での反体制運動の時代を扱うものであり、Aの政治的な憤りが現れている。
 しかしギリシアも一応の民主主義体制が実現すると、Aはさしあたりの憤りの対象を失ったかのようであり、テーマは次第に個人を中心にするようになっている。それには過激派の自滅を扱った『アレキサンダー大王』あたりが分岐点になっているようであり、以後は政治的世界からの離脱の色を濃くしていく。Mが失踪した政治家の役で登場しているのはこのころのことである。
 Aの非政治的映画の代表的なものとなっているのはカンヌの受賞作『永遠と一日』であろう。このタイトルは明日=永遠+一日という形而上学を意味しており、もとよりあまり映画的なテーマではない。これは彼の歴史的な視点が哲学的な視点に移行したものであろう。そのテーゼは妥当なものであるかどうかは難問であるが、Aの基本的な問題関心が時間をめぐるものであることをよく示している。
 Aの最後の作となった『エレニの帰郷』を私は珍しくも東京で封切を見ることになった。しかしこの作品は何を問題にしているのかほとんどわからず、DVDで何度か見てやっとだいたいのことがつかめるようになった難物である。Aは以前から時間を前後に交錯するという手法を用いていたが、この作品ではそれが極度化して理解しがたいところが出てきている。たとえばソ連からウイーンへの帰郷とニューヨークからベルリンへの帰郷が意図的に混同されている。時間の交錯と空間の交錯は相関的なものであり、この映画では同じ部屋にいる人物を部屋の外に探しに行くといったシュールリアリズムが見られる。
 こうした時間空間の交錯はAの時間構成が基本的にはモダンの前進的な時間感覚によるものであり、その単調さを超えようとする苦心を示すものであろう。しかしその時間は基本的には1方向的なものであるために、時間は混線していくことになる。彼はしばしば越境を問題にしているといわれるが、同じことであるが、時間を超えることが問題であり、それは空間以上にうまくいっているとは言えないのである。
 Aの仕事は事故死によって中絶しているが、彼の仕事はすでに壁に突き当たっていたとも言えるであろう。しかし彼が最後の作品で、何も終わるものはない、時の埃によって忘れられたようであっても、いつか突然帰ってくると言っているのは、映画の扱う人間的時間の核心を指し示すものとして不滅の意味を持っていると言えよう。最後の作品でベルリンでエレニが死に、、ニューヨークに帰京したのは孫のエレニである。ここには時間の乗り越えがある。
 回り道をしたようであるが、オリヴェイラはマストロヤンニの最後の作品の監督になった人物である。私はOが死去する前に見た作品は子供の映画とこの『世界の始まりへの旅』の二つだけであった。訃報を聞いて初めて私は思うところがあってOの作品を系統的に見ることになったのである。
 O監督についてまず驚かされるのは、ほとんどの作品が70歳を超えてからのものであり、100歳を超えての何本かの作品があることである。しかもこの100歳の老人はいたずらをするのである。そうしてそれ以上に印象を与えるのは、彼には独特のカトリック的、特に修道院的な雰囲気があることである。しかしそのカトリシズムは抹香的なものでなく、カトリシズムの亀裂を見せるものである。こういう日本列島に異質な要素は異化させるものとしての映画を注目に値させるものである。
 Oの初期の作品にポール・クローデルの『繻子のスリッパ』の映画化がある。クローデルは20世紀初葉のフランスのカトリックの神秘主義化を示すものであって、シャルル・ペギーが左翼神秘主義であるとしたら、クローデルは保守的神秘主義の亀裂を示している。それはこの作品がアメリカ大陸のキリスト教化を意図したスペイン副王を奴隷として只で売却するというとんでもないテーマを扱っていることに見ることができる。この作品は極めて複雑な構成のもので、私はクローデルの台本を手にして見なければならなかったのである。Oはかなり忠実に映画化しているが、この7時間近い大作を破たんなく再現しているところにかなりの力量をうかがうことができる。
 『世界の始まりへの旅』はOの少年時代を訪ねようとするものであるが、マストロヤンニがOの役を演じている。この作品にはかなりトリックが使われており、まず記録映画のような感じを与える。俳優は台本なしにアドリブだけで話しているように見える。またOの考えかMの考えかわからないところがある。もっとも大きなトリックは時間を逆行しようとしているところにある。トラック映画は普通自動車の前方を映しているが、この映画は徹頭徹尾後方を映している。いうまでもなくこれは現在から過去に向かって進んでいることを意味しようとするものである。
 過去に向かって進むということは、過去に戻るということではなく、過去に出発点を見るということである。その意味では未来に戻るということであり、まさしくback to the futureということに他ならない。もっともこの作品では戻った過去はスペイン国境の山の中であり、世界から忘れられたところである。世界の始まりはどこにもないということでもある。これは相当に悪質ないたずらと言わなければならない。
 アンゲロプロスは時間を交錯することに苦心していたが、Oは時間を逆行させるという新機軸を打ち出している。時間を逆行するということは過去を発見するということであるが、タイム・トンネルをくぐるということがどういう実質を持つかということは結局発見された未来にかかっていることになるであろう。その点でこの映画は実験映画であって、どれだけの成果を得たのかはわからない。
 この映画が撮影された頃Mは末期がんに侵されており、若いころからやや猫背であったのがますます猫背になり、足元もおぼつかなくなっている。しかし若いころのMは甘くゆるいところがあったのに比べると、この最後の映画ではいぶし銀のようにしまっている。彼があえてこの作品に出演しているのは、この作品は単にOの作品ではなく、Mの企図でもあるようなところがあるからである。それはMがOを演じていることが示すだけでなく、Mの歴史的時間についての見方が現れているようなところがあるからである。OとMは融合しているだけでなく、さらにAの歴史概念が媒体になっているようにも見える。
 Mはこの撮影直後すい臓がんで亡くなっている。十代で映画界に入って以来Mの生涯は俳優の一生であったと言ってよいであろう。武満徹はMはクレジットの大きくない俳優であると書いていたが、その意味は分からない。170もの役を演じる人間というものに自分はあるであろうかという疑問がありうるであろう。私の見るところではMはカリスマ的な俳優ではなく、自己意識的な俳優であり、役は仮面にすぎない。彼は怪人百面相のようなものであり、その意味では稀有な存在である。言う必要のないことであるが、O讃はじつはM讃なのである。
 最後の映画を撮影していたころMは自分の映画人生を回顧するインタビュー映画に出ている。カトリーヌ・ドゥニューヴはこの映画の公開を阻止しようとしたようであるが、阻止できなかったのは幸いというべきである。
 この記録映画でMはローマよりはナポリの性格を持つことを語っている。Mはフェリーニのローマに出たころからLatin loverとされていたが、それはNapoli loverということに他ならない。彼の緩いキャラクター(ドイツ人であればジンパーティッシュと呼ぶ)は多分にナポリのものである。ベニスに死す、ならぬナポリでしぬ映画も撮っている。Mに興味を持った私としてはもう一度ナポリを見て死にたいものである。
 この映画でMはまた演劇的にはチェホフに影響されたと言っている。そうして失われた時にパラダイスを見たプルーストを修正して、本当に素晴らしいパラダイスはまだ見ない過去に出会うことであると意味深長なことを語っている。それは過ぎ去った過去ではなく、現在に帰り、未来を含んだものとしての過去である。これは彼の最後の映画のテーマでもある。
 この映画の最後のところでMはカフカの「隣村」の小文を引用して、カフカの祖父は隣村には一生かかっても行けないと言っていたのに対して、ある程度経験すると隣村はすぐ近くにあることがわかると言っている。この意味だけは私には不可解である。
 明らかにMは世界でもきってのインテリ俳優である。Mをとおして、そしてAとOを経て私は映画の一面に触れることになった。映画とは仮象の現実を提出するものであるが、それは現実の脱構築であると言ってもよい。現在よりも過去の方が現実的であり、その過去は実際にあったものではなく、未来に到来するということは時間のレベルでの脱構築である。
 私のように長いタイムスパンの映画とたまに見ていると時の効果に接することがある。Oの最後の作品では、Mと共演したてのジャンヌ・モローは堅い青梅のようであったが、この映画では好々婆のようになっている。またMと共演したてのクラウディア・カルディナーレはおきゃんな娘であったが、この映画では堂々たるイタリアのマンマとなり、息子のような男と夫婦になっている。Aの最後の作品ではエレニ(イレーヌ・ジャコブ)は息子(ウイレム・デフォー)よりはるかに年下である。監督も最後の作品になるともう年齢に拘束されなくなるようである。子供が親よりも年上になると、子供が存在して初めて親も生じることになり、ここには時間の脱構築が生じている。
 結局私にとって映画はタイムマシンのようなものであったようである。そこを通して私は異化されてまだ存在しない私に出会うことになる。しかし映画の現実は所詮は仮象である。その脱構築の有効性は限られており、世界も私もほとんど変わっていない。私は映画を見て世界観が変わったなどということはなく、かつてのオペラと同様に、すでに全盛期を過ぎて単なる娯楽となった映画にその力はないであろう。
 オリヴェイラへのオマージュに名を借りて無益なことを書く。

P.S.一段落したので5月下旬にはイタリアのルッカ温泉に滞在していた。この温泉はかなり前から知っていたところである。16世紀フランスのユマニスト・モンテーニュの『湯治旅日記』で最も詳しく述べているのがここである。私が持っているのはドイツ語版であるから、ドイツ留学中に入手したものであろう。この日記は当時の風俗を知る上でも有益なところがある。モンテーニュはどこの国にいても自国のような感じでいるが、彼こそは最初のEU人であったと言ってよいであろう。バーゼルでは有名な暴君放伐論者フランコ・オマンと食事をしている。食事には3時間も4時間もかかるという記事もある。
 実は私はこの温泉には前にも行ったことがある。それは私がイタリアの山岳都市の興味を持っていたころであり、ルッカの近くにmontefegatesiという平均的な山岳都市があり、その麓にルッカ温泉があったのである。しかしその頃は温泉には関心がなく、町の入り口に出ている温泉で手を洗ってきただけである。モンテーニュはルッカ温泉には美人がいないと書いているが、ミラノに比較的近いためか人々は洗練されている。
 今度ルッカ温泉に行って驚いたのはオールド・タウンから温泉は出なくなっているらしいことであり、入口のところの温泉も止まっている。山の反対側にテルメが設けられているが、以前よりさびれた感じである。ヨーロッパの温泉は日本のように内湯がないのが普通であり、温泉センターのようなところに行かなければならない。しかし今回私は源泉に作られたホテルに泊まったので外湯に行かないで済んでいる。
 モンテーニュは結石の持病があり、1年余りの湯治旅行の間に何十個という石を排出しており、これは温泉が石を砕いた効果であると思っているようであるが、結石に効果があるとすればそれは石ができないということのはずであるからこれはややおかしい。湯治というのは半分は保養ということであろう。今日ルッカ温泉は呼吸器に特能があるとされているが、これは私の持病から遠いものであり、私の場合も湯治というよりは単なる保養だったのであろう。
 この機会に私はマストロヤンニの映画に関係する何か所かを訪れている。ローマではieri oggi domaniでソフィア・ローレンは高等娼婦をしていたアパートに泊まっている。と言っても私がソフィアの顧客になったということではなく、そこがホテルになっていたのである。ソフィア・ローレンが神学生と話していたテラスがそのまま残っており、私はそこで朝食をとることになった。映画を見たときはまさか自分がそこで食事をするなどということは予想もしなかったことである。映画を巡っては時々こういう夢と現実の交錯が生じる。一泊5万円は私にとっては贅沢であるが、ソフィアへのお祝儀としては高くはない。
 国立歌劇場ではあまり見られないプロコフィエフのfiery angelを見ることができたのはもうけものだったと言えよう。プロコフィエフがどうして魔女狩りの犠牲者を主題にしたのかには不審なところもある。同時代のプーランクがどうしてフランス革命の犠牲者を主題にした『カルメル会修道士の対話』を作ったのかも同様である。音楽は面白いところがあるが、半世紀前であればブルジョア反動主義と呼ばれてもよかったであろう。
 ナポリではマストロヤンニがジャック・レモンと落ち合ったガレリア近くに宿をとった。すぐ近くのサン・カルロ劇場ではマダム・バタフライをやっている。バタフライ役のevgenia muravevaはよく歌っているが、幕間の取り方などはずさんである。サン・カルロ劇場はイタリアでも最古級の大劇場であるが、ミラノ、ローマ、ナポリと南下するにしたがって雑駁になっていく。この公演に日本人歌手は出ていなかったようであるが、イタリア人がぺこぺこした日本人をうまく演じているのを見るのにはやりきれないところがある。
 しかし実はナポリ人には日本人にかなり共通する面があるのである。ナポリ人のフレンドリイさは彼らが外国人支配者と共存するための生活の作法でもあったのであろう。南イタリアを支配していたナポリ王国は最後はフランス系の支配者を持っているが、ナポリ人は反乱を企てたシチリアとは異なり、彼らと折り合いをつけて生活をしている。バタフライは鳥小屋のようなところに生活しており、ナポリの庶民もそれと大して違いはないのであるが、王宮は豪華としか言いようのないものである。それだけ搾取は激しかったということであろう。半月型のナポリ湾の岬の先端にはソレントの町がかすみ、沖合にはカプリとイスキアの島が浮かび、背後にはいうまでもなくヴェスヴィオが鎮座するこの風景は確かに比類のないものであるが、ナポリ人の陽気さは異国人支配と無関係ではないのである。
 しかしこれは単に専制の問題としてはかたずけられないところがある。サン・カルロ劇場自体王宮の一翼にあるものである。スカルラッティ的な王宮オペラを市民オペラに転換したペルゴレージはサン・カルロ劇場の前身で仕事をしている。ペルゴレージこそはモーツァルトの先駆なのである。ここには王宮文化が市民文化をはぐくんだという弁証法がある。
 予想していなかったことはナポリの王宮では「イディアの身体」あるいは「ヴィコとレオパルディにおける想像と言語」という展示があったことである(7月21日まで)。giambattista vicoは私が西洋思想に取り組むようになったとき最初に扱った人物である。アルプスの北から南に来るとここには人間が生きているという感じがあるが、それは単に気質の問題ではなく、精神構造上の問題である。デカルト的な理性と情念の分割によって人間は死んでしま、両者を一体化して初めて生命の活動が生まれる。その代表的思想家がvicoだったのであり、私は最初から近代の正統ではなく異端の方に注目していたことになる。もっとも私はナポリ生まれのvicoの方に一方的に軍配を上げるほど幼稚にはなれていない。デカルト的分裂は近代人の運命であり、他方でvico的生命には分裂以前の古代的なところがあるからである。
 leopardiはあまりぞっとしない悲観詩人などとされていたから私は無縁の存在と思っていた人物である。しかしこの機会に「大地と月の対話」などという妙な文章を読んで、この死神は私にも無縁ではないように思えてきたのである。leopardiはナポリ生まれではなくナポリで死んだだけであるが、その古拙さはまさにvico的つまりナポリ的なものである。結局私はナポリまでやってきてleopardiを発見したと言ってよいであろう。人は時として目的をはっきり意識せずに旅に出るものであり、帰ってからそれが明らかになることがある。私の今回のイタリア行はleopardiを発見するためのものであったようである。
 このナポリがらみの古拙な分かりにくさはとりもなおさずローマの分かりにくさである。ギリシアはある程度頭で理解できるが、ローマについては何らかの生活体験がなければ理解できない。そのため私は西洋思想を専攻することになって以来何度も何度もローマに足を運び、そのたびごとに頭を振って帰ってきたものである。当初私にはローマは土建国家にしか見えなかったのであるが、そのうちのその支配を単に力ではなく、それを法に基づけようとするエートスに支えられていることがわかってきた。そうしてこのローマの偉業はのちにローマカトリック教会に受け継がれている。このようにしてローマがある程度分かりかけてきたときに、私はもうローマを研究しようなどという気はなくなっていた。偉大なものは享受し感謝しさえすればよいうのである。
 今回のイタリア行で私は絶えずゲーテを意識していた。思えば私が初めてイタリアにやってきたのは、ゲーテが『イタリア紀行』の書簡を書いていた年代に当たっている。このいつも満足している鈍重な文豪が私には疎遠な存在であったが、今度『イタリア紀行』を読み返して思い当たることが多い。それは向日性などというような外面的なものでなく、自分が抱えていた古典的世界の再興というテーマの源泉を知りたいというやむに已まれむ願望によるものである。そうして1年半に及ぶイタリア滞在中に何を食べていたなどということは一言も触れず、あくまでも対象をとらえようとするその研究心には脱帽するばかりである。
 私ももうイタリアに来ることはないであろう。そうしてローマを去る朝、わたしもまたカンピドリオの丘に登っている。神の子孫が支配する国などはいつ消滅しても惜しくはないが、私はこの永遠の都が文字通り永久に続くことを願ってきたのである。
 私がイタリアに滞在中に欧州議会の選挙をやっていた。この議会は立法権でなく意見を言うだけの議会であり、EUの制度的欠陥を象徴している。このために英国の離脱騒動も起こり、またこのために投票率が高まったというのは皮肉である。
 同じ時期にトランプ大統領が訪日していたようである。イタリアのメディアには報道がなかったようであるが、たまたま見たドイツのwelt紙には「友好のリスク」という記事が出ていた。トランプが来たのならまず持ち出すべきことは日米地位協定の見直しでもあろうが、スモー見物をしていたそうである。おもてなしは外交以前である。
 さらに日本の首相はトランプ大統領が新天皇が謁見する最初の要人になるように配慮していたようであるが、いうまでもなく天皇の政治利用であろう。新天皇と会見することがさも重要であると思っているとすれば哀れな思想の幼稚さであろう。しかし臣民向上を丸出しの馬鹿げた元号騒ぎなどを見ると、この意識の状態は単に首相だけでなく、マスメディアや国民自身の質を示すものでもあろう。
 訪日の翌週トランプ大統領は同じような日程でイギリスを訪問している。ここでは日本ではなかったような、差別主義的なトランプを歓迎しないというデモが起こっている。民主主義の後進国と近代民主主義国の母国の差異であろう。

 このたび下記の本を刊行することになった。
深草化人『天皇制国家の古層』東京図書出版

コメント

_ PEMF Giant ― 2020年02月06日 03:31

PEMF Giant

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