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    <title>archipelagogalapagos</title>
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    <pubDate>Thu, 30 Apr 2026 21:09:21 +0900</pubDate>
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      <title>シノーポリ没後25年</title>
      <link>https://nambaraca.asablo.jp/blog/2026/04/20/9849840</link>
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      <pubDate>Mon, 20 Apr 2026 20:19:35 +0900</pubDate>
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      <dcterms:created>2026-04-20T21:50:31+09:00</dcterms:created>
      <description>　　　　　　　　　　　　　　　　　　A&#13;&lt;br&gt;
　イタリアの指揮者ジュゼッペ・シノーポリが2001年4月20日にベルリン・ドイツオペラでアイーダの指揮中に急死して以来四半世紀が経過した。ヨーロッパではこれを記念してイタリア外務省などの後援のもとに関わりのあったロンドン、ベルリン、ローマ、ヴェネチアなどでSinopolianaの催しが企画されているが、日本国ではそうした試みがないようなので、不適任であるけれども駄文と蛇足を記すことにする。彼は今日の世界の精神的、文化的な困難の証言なのである。&#13;&lt;br&gt;
　ヴェネチア生まれのシノーポリはパドヴァ大学で精神医学を専攻して医学の学位を取得しているが、当時から音楽への関心を抱きダルムシュタットの現代音楽講習会に参加して音楽家への道を進んでいる。しかし彼は音楽に幻想は持っていなかったようである。ある種の指揮者のように音楽で世界が変えられるとは信じていなかっただけでなく、彼自身自分の要素は音楽や指揮だけではないとしている。&#13;&lt;br&gt;
　シノーポリの学生時代はいわゆる大学反乱の時代であり、彼も明確にその刻印を受けている。唯一無二の伝記を作ったキーンツル女史は、シノーポリは左翼であり続けたと述べている。もっともシノーポリには宗教的傾向があり、共産党に加わっていた同じヴェネチア生まれのルイジ・ノーにたしなまれたことがあったようにマルクス主義者ではなかった。著名オーケストラの常任を務め三つの住宅を持ち年俸１0億リラのエリートであったが、彼自身は共産主義者ではないとしても社会主義者であると自任している。ヘーゲルなどをたしなみ、チュービンゲンにエルンスト・ブロッホを聴講したり、私とは全く同世代であり、知的カタログも共通している。&#13;&lt;br&gt;
　私には流行嫌いの所があり、生前のシノーポリは一度も聞いていない。シノーポリに注目したのは実は彼が考古学もやっているということを知って以来のことである。シノーポリはベルリンで急死した2日後にローマで考古学の博士論文の口述試験を受けることになっていた。メソポタミアの宮殿建築をテーマとする論文は指導教授のもとで出版され、博士学位は死後授与されている。&#13;&lt;br&gt;
　彼はまた古代の陶器の収集家でもあるが、実は私も中国陶器、ギリシア陶器、縄文土器、弥生土器などを集めていたのである。もっともシノーポリの収蔵品は専門家によってAristaiosという立派な本になっているのに対して、私のものはガラクタであるが。シノーポリはチョコレート・ソースのスパゲティを作ったことがあるようであるが、私は料理の趣味は共有していない。　&#13;&lt;br&gt;
　音楽家としての道を進めたシノーポリは新音楽つまり現代音楽には限界を感じたようであり、オペラ『ルー・サロメ』を最後として作曲からは身を引き指揮者として転進することになる。彼はまず現代音楽の困難の証人なのである。&#13;&lt;br&gt;
　現代音楽の代表格としてリゲティとピエール・ブーレーズを挙げるのは異論のないところであろう。リゲティの音楽は名人芸的なもので誰にもまねのできないものであるが、ブーレーズのものは数学的構築を思わせるところがあり、人間の感性からは遠いところがある。&#13;&lt;br&gt;
　しかしプラトンは音は宇宙のハーモニーの模倣であるとしており、宇宙の構造とメカニズムが数学的に表現されることは看過できないことである。またピタゴラスは宇宙を構成する四元数というものを考え、音階というものも四元数に由来するものであるとしてiいる。ところで晩年のリゲティがフラクタル（自己相似的）幾何学を援用した作曲をしているのは興味深いことである。ピタゴラスの四元数は自己相似的三角形をしているが、宇宙もフラクタル構造をしていることが知られている。とすると宇宙の音楽を聴くことも全く空想的なことだとは言えなくなるであろう。&#13;&lt;br&gt;
　国際的に演奏される日本の唯一の作曲家の武満徹(今年は武満の没後30年である)は音楽はもともと自然にあり、作曲は自然に学ばなければならないとしている。武満の音楽が人間の感性に近いのはこのためであるとも言えようが、独学の彼に表現力の制約があることは否めず、またやや受動的な性格のものであることは日本人の自然観に関わっているろう。だが自然は風や波だけでなく、宇宙や素粒子の世界も自然なのである。&#13;&lt;br&gt;
　しかし音楽が自然に由来するということは、芸術にとっては自己矛盾的なことである。なぜなら芸術というものは自然に対置されてきたものであり、芸術が自然に近づくと芸術と娯楽との区別も難しくなる。ここに音楽芸術が当面している基本的な困難の背景があろう。とりわけ21世紀に入ってこれといった作品も生まれず行づまっているかのようであり、芸術音楽は過去の作品をもっぱら手を変え品を変え演奏するようなものとしてクラッシックつまり過去の音楽になったのである。&#13;&lt;br&gt;
　すでにヘーゲルは芸術の終焉ということに言及していたが、それはまずもって音楽について言える可能性がある。ヘーゲルが芸術の終焉として考えていたのは、哲学が真理を把握できるようになったから、真理を完成的に飲み表現しうるだけのものである芸術は不要であり、さしあたりは宗教がその代用になるとしていた。&#13;&lt;br&gt;
　しかしヘーゲルが考えていた絶対知というものは今日ではすでに崩壊しており、哲学自体真なるもののよりどころとしては美的なものや宗教的なものに帰着していく傾向を示しているから、終焉したのは哲学自体であるともいえる。その間に芸術も真なるものに関わりのない嗜好にすぎなくなったともいえるであろう。それは音楽だけではなく美術などにも言えることであり、美術はアートと呼ばれペンキの看板と同じようなものになっているようである。ここには趣味判断の劣化が観察されるが、そこには芸術が商品化され、消費されるようになった時代背景があろう。&#13;&lt;br&gt;
　指揮者に転じたシノーポリはレパートリーはかなり狭く、バロックは全くなく、古典派もわずかであり、ロマン派の演奏が中心であった。そのキャリアは一世代前のピブーレーズの後を追うようなところがあり、作曲家として出発しつつ指揮者に転じ、自分の演奏団体を作るとともに、晩年には二人ともバイロイトの常連になっている。どちらが優れているかというようなことは意味のないことであろうが、シノーポリが大指揮者であったかどうかは、議論のあるところであろう。だがシノーポリは指揮の仕事を生涯の仕事とは考えていなかったのである。&#13;&lt;br&gt;
　シノーポリがフィルハーモニア管弦楽団の首席指揮者になる際に前任のリッカルド・ムーティはこの楽団の特別なサウンドが破壊されるとして反対票を投じたが、この両者は対照的であったと言える。この団体との録音ではマーラーの第３番や第６番はよくできていると思うが、演奏効果を考えないリストやエルガーの地味なものは音楽の構造を浮かび上がらせて興味深い。&#13;&lt;br&gt;
　私はムーティもシカゴ・シンフォニーを一度聞いただけであるが、ナポリ生まれの彼の演奏はのびやかで明るいものであるのに対して、ヴェネチア生まれのシノーポリは鋭角的で一筋縄ではいかない。ムーティの演奏にはこれと言って悪いことはないのであるが、それだけのことであり、その職人的な演奏は本質的に娯楽音楽になっていると言えよう。だが問題は資本の介在と無関係でなく、芸術音楽と娯楽音楽の区別が解消しつつあることであろう。&#13;&lt;br&gt;
　シノーポリのようなインテレクチュアルな演奏家は他の分野においてグレン・グールドがあるくらいなものである。ショー的大家のホロヴィッツに対比されるグールドはバッハの演奏で大きな反響を呼んだが、彼の場合も学理的な裏付けを持つものであった。そうした背景のもとで彼は比類ないピアニズムでもってチェンバロからピアノへの演奏法の転換をもたらし、チューレックという先行者を持ちながら、その演奏はもはや異端ではなく新しいスタンダードになったと言ってよいであろう。&#13;&lt;br&gt;
　ところが知られているようにこのグールドは演奏会を放棄して録音に専ら宣念することになった人物である。これはテクノロジーに期待と信頼を持ち、そこには聞き手の参加の意味もあるというようなことを言っているが、しかし録音というものは本質的に編集であり、ベンヤミンの言う複製芸術における「アウラ」の喪失という落とし穴があることは否定できない。時間の現象である音楽にとって、録音はその生命を抜くような面を持っているからである。我々はいやおうなく疑似音楽に順応させられている。これはグラモフォンと専属契約をして短い期間にもかかわらず多くの録音を残したシノーポリの最後の問題であろう。&#13;&lt;br&gt;
　アウラを喪失したテクノロジーの進展はデジタル化された音楽にとどまらず、情報世界のあり方を変容させ、生活世界自体を規定するようになっている。ニュー・メディアと言われるXやMETAなどのプラットフォームと言われるものは一見中立的な装いを持っているが、そうしたプラットフォームを運営しているのは資本主義企業であり、これらの企業は押しなべて権力追随的であって、その情報処理手法（アルゴリズム）はその企業的関心によって制御されており、中立とは程遠いものである。これらのメディアの利用者は自由に利用しているつもりであろうが、実はコンピューターのアルゴリズムによってその頭には支配的通念が構造化され、精神は物象化されている。&#13;&lt;br&gt;
　アルゴリズムの特性は直観と創造に対置されるものであり、それらはコンピューターのアルゴリズムからあらかじめ排除されている。アルゴリズムに制御された人工知能（IT)と言われるものは既成の通念によって構成されるものであるから、それは当然に保守的なものである。ITによって政策が決まるのであれば政治は不要になるであろうから、Itに基底を置く政党というものも奇妙なものとなろう。&#13;&lt;br&gt;
　テクノロジーの発達とともに、それを制御すべき人知も重要になるが、人知はテクノロジーの進展についていけていないようである。近いところではデジタルによるマイナーカードのコントロール不全によっる混乱がある。大きいところでは、人間のテクノロジーが核融合反応を生み出し、そこから生まれた核兵器によって人間が支配され、原発を十分に制御できない現実である。ホモサピエンスの先も見えてきたと言えよう。&#13;&lt;br&gt;
　このようにコンピューター・アルゴリズムによって世界が支配され、アウラの喪失に無関係でない地球の混乱が出現しているとすれば、そうしたアルゴリズムの外にある芸術というような営みが困難になるだけでなく、そもそもそうした現実において芸術などという悠長なことを言うこと自体迂遠なことになるであろう。シノーポリが表現するに過ぎない指揮は現実に無力であると覚めた言い方をするわけである。&#13;&lt;br&gt;
　しかしそれは逆でもあり、芸術はそうした現実に随順することもあるけれども、またそうした現実から距離を取って、それを否定することもある。芸術は現実に対して仮想であるにすぎず、両者は別世界(parallel world)である。しかし宇宙空間において平行線は交差するのであり、この仮想と現実にも交差点はあるのである。ここで両面に触れる理由である。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　B&#13;&lt;br&gt;
　ウクライナ戦争の出口も見つけられないうちに、今度はアメリカがイラン戦争を始めている。戦争開始後ホワイトハウスを訪問したドイツのメルツ首相が「出口」はどこかと尋ねた時トランプ大統領は何も答えられていない。戦争の目的も明らかでないのであるから、出口など考えることもできないのであろう。核の開発をめぐるイランとの交渉が難航していたから最高指導者を殺害したのであろうが、これはマフィアのやり方である。トランプは野球帽をかぶって殺害の中継を観戦していたが、テレビゲームでもしていると思っていたのであろう。いすらえるにそそのかされるか、あるいは気まぐれに戦争を始めるから、終わり方に四苦八苦することになる。その間に無益に人名は失われ、国土は破壊される。&#13;&lt;br&gt;
　アメリカは２０世紀には民主主義のパイオニアとして一目置かれていたが、トランプの時代になって世界から唾棄される存在になってきている。その兆候は２００１年にニューヨークの同時多発事件にあったと言ってよいであろう。この時アメリカはなぜ攻撃されるのかを問うこともなく、やみくもにアルカイダへの報復活動に走り、直接的な証拠はなかったもののオサマ・ビン・ラディンを殺害している。それに関連してイラクのサダム・フセインが大量破壊兵器を隠しているとしてサダムも殺害したが、大量破壊兵器なるものはなかったのである。大男総身に知恵が回りかねである。&#13;&lt;br&gt;
　トランプの時代になってアメリカの暴走が顕著になったことの背景にはファシズム化があるであろう。ファシズムはある定度発達した資本主義国が経済的に不調になっと時に出現した強権政治体制であり、２０世紀の前半にイタリア・ドイツ・日本などに広がったものであるから、アメリカは一回り遅れてファシズムに至ったということであろう。しかしアメリカのファシズムはトランプという半狂人の存在と無関係ではない。彼は少なくともヒトラーと同定度に精神異常の所があり、ファンタスゴマリーは明らかであるが、精神科医の診断は不可欠であろう。トランプはホワイトハウスよりは精神病棟の方が似つかわしい。&#13;&lt;br&gt;
　2世紀前にトクヴィルはアメリカには哲学者はいないけれども、司法やジャーナリズムが健在だから民主主義が保たれているとしていたが、大統領が司法やジャーナリズムを攻撃するようになると、哲学者がいない国の弱点が表面化する。もっとも今ではどこにも哲学者などいないかもしれないが、おそらくその最後であった、私にも無関係ではないユルゲン・ハーバーマスが先月死去した。&#13;&lt;br&gt;
　世界に戦争が勃発する時代にハーバーマス理論は試練も受けている。彼の基本的な観点は利害対立を対話によって解決しようとするものであって、それはナチの法学者カール・シュミットに対置されるものである。シュミットは政治というものは敵対関係を本質とするもので、それは究極的には力と戦争によって決まるものであと見る。政治という概念は都市国家（ポリス）的な支配つまり自由人の支配ということに由来しているからシュミットの見方は誤りである。しかし対話というものは一つの理想形であって、ハーバーマスは理想形を現実態と見なす傾きがある。政治とは理性と暴力を両端とする実践体であり、そこでは暴力をふるうためにも理性は使わなければならないのである。だから対話的政治というのは民主政治の基盤であるとともに、政治を成り立たせる条件でもある。この洞察があったからこそ第二次大戦後のドイツがヨーロッパの一員として迎えられることも可能になったのである。ハーバーマスの死に当たってドイツの大統領と首相は弔文を発表してハーバーマスに感謝の意を表明している。これは全く異例のことであり、およそアメリカにおいては考えられないことである。ひるがえって今の日本国においてはこうした思想家は死に絶えているであろうが、逆に言えば、そうした弔文を出せる政治家がいるだろうかということである。&#13;&lt;br&gt;
　メルツ首相がホワイトハウスを訪問した次の週に日本の馬鹿一がホワイトハウスでトランプだけが「平和」をもたらせるとへつらっていた。馬鹿一もトランプと同様に「力による平和」主義のようであるが、力による平和は刑務所の平和であり、持続可能でもない。馬鹿一もイランは核を持てないと言っていたようであるが、なぜイスラエルは核を持ってよく、イランは持てないのか説得力のある説明は聞かれない。そもそも核禁止条約に参加もしていない国が他国に核を禁止する資格があるかどうかは疑わしい。内閣官房には核保有論者がいるそうであるが、日本国は核を持てるのか、持てないのか。&#13;&lt;br&gt;
　日本の首相（？）はアメリカのイラン戦争の合法性については情報が十分でないから変弾を避けるとしていたが、政府は裁判所ではないから、手持ちの情報で判断しなければならい。ファシズム党のイタリアの首相でさえイラン戦争には異議を表明している。今の告愛豊では戦争は原則的に違法であり、例外的に自衛の名目の武力行使が許容されているだけである。アラン戦争がアメリカの自衛のものでないことは明白だから、イラン戦争の違法性は明確なのである。&#13;&lt;br&gt;
　他方で日本の首相（？）はイラン戦争への自衛隊の派遣には国内法上の制約があると説明している。法というものをこのように便宜的に援用するということは特徴的であって、要するに政治的判断が欠如しているということである。だがこの首相（？）はトランプへの手土産として自衛隊の派遣を考え、補佐官に反対されたそうである。この首相（？）は参戦を手土産にしようとしたようである。&#13;&lt;br&gt;
　イラン戦争は安保関連法で集団的自衛権を容認した際に、集団的自衛権を行使する可能性がある典型的な例として言及されていたケースである。自衛権というものは正当防衛のようなものであるから、他人の正統防衛を代わってやるということはありえない以上、集団的自衛権なるものは憲法違反の疑いがあるだけでなく概念的に成り立たないものである。それはともかくとして、こういう場合に自衛隊を出さないとすれば、集団的自衛権の容認など意味はないということであろう。&#13;&lt;br&gt;
　日本の首相（？）は就任早々台湾有事に集団的自衛権の発動の可能性に言及してその見識レベルを明らかにしているが、半年間の成果は日中関係を悪化させ、俗な言い方をすれば国益を損ねている。その背景には国際政治への無知があるであろうが、旧統一教会の別組織の勝共連合的な時代遅れの反共意識だけは持っているのである。アメリカ議会での演説がキャンセルされたのは当然であろう。しかし首相の能力に欠ける人物が支持されているということは国民の政治的民度を示すものでもある。&#13;&lt;br&gt;
　この首相（？）の幼稚な発言は自己中心的な極右には他者が見えず、国際政治を理解できないことを示すものである。よく似た例は先行者のアベが拉致事件に関して見せた反応に見える。この事件は拉致被害者の5人が一時帰国した際にほぼ解決される方向にあったが、当時自民党の副幹事長か何かをしていたアベが横やりを入れて強制的に永住帰国させ、以後拉致問題は全く進展していない。それは当然のことであり、一時帰国が妥当であるかどうかはともかく、外交的約束を一方的に破って外交などできるはずはない。私は初めからこのことを指摘していたが、誰一人として気づくものはなかったようである。もう手遅れであろうが、馬鹿一が拉致問題を解決したいのであれば、日本の首相はまず北朝鮮に対してアベが外交的約束を破ったことを謝罪することから始めなければならないであろう。&#13;&lt;br&gt;
　この首相（？）は１月に突然衆議院を解散して総選挙にしたが、これは違憲クーデタと見られるものである。憲法第７条には天皇の国事行為として衆議院の解散が規定されているが、これは明治憲法にあった天皇の解散権に内閣の助言を加えたものに過ぎず、天皇が主権者でなくなった以上内閣に任意に解散権を与えるものではない。無論首相が恣意的に解散できるものではない。したがってこの私利私益的な解散は憲法違反の可能性がある。体液世代は訴訟などやりたくないが、現役世代は提訴すべきであったであろう。判決内容は予想しうるところであるが、少なくとも最高裁は解散の基準を示さなければならないであろう。&#13;&lt;br&gt;
　この総選挙では自民党が三分の二の議席を占めることになった。１５カ月前の参議院選挙では裏金問題がたたって自民党は過半数割れして首相は退陣し、解党的出直しをしなければならないと言われていたものである。ところが出直しどころか、首相を変えただけで自民党と金の問題など何もしないままに、自民党が大勝したのは国民の政治的民度を示すものであろう。この選挙は公約などよりも馬鹿一の方が「威勢」がよいというような印象論的な人気投票のようなものになったが、これは初期的ファシズムの兆候でもある。。与党に絶対多数を与えたらどうなるかというようなことは全く頭になかったことはこの国民の残念な政治的判断力の低さということになるだろう。。その結果元にそうであるように与党はほぼ何でもやれるようになる。有権者はそんなつもりではなかったのであろうが、これは有権者の愚かさの結果であるから自業自得である。野党の方では「中道」というものができたようであり、これは右と左の中間ということのようであるが、左もろくにないところに「中道」はないであろう。私はこんな選挙はボイコットしている。&#13;&lt;br&gt;
　この選挙でも公約というものはあり、かつての政治改革の時にはマニフェストを読み比べなければならないと、学校の授業のようなことが言われていた。だが選挙というものも権力獲得の闘争であるから、あまり素直に見ることはできない。ことに与党の公約は甘い公約で多数を取り、選挙後は言われていなかった苦いことをやりかねないのである。こうなるとマニフェストは有権者を欺くおとりのようなものになり、選&#13;&lt;br&gt;
挙の「信託」性は失われる。そうして日本人はごまかされの名人である。&#13;&lt;br&gt;
　この選挙で自民党は食料品の消費税ゼロを公約に掲げていた。だがそれは多頭も消費減税を唱えていたためにそう争点をずらすために掲げたものであり、やる意思はなかったはずである。医師があれば軍事費増強の時のようにさっさと閣議決定をすればよく、その他はすべて単なる技術的な事柄である。案の定馬鹿一は国民会議を設けてそこで検討すると引き延ばし、難点を出させてつぶそうとし、成立しなければ会議に責任転嫁しようとしている。このことは消費減税に反対の少数党を会議に招き、減税賛成の少数党を招いていないことからも明白なことである。&#13;&lt;br&gt;
　この会議の問題は本来国会で議論すべきところを第二国会のようなものを作り、しかもその構成員を与党の方で任意に決めるという似非会議を作っていることであろう。これは議会を弄び、代議制民主主義を掘り崩すものにほかならない。この首相（？）には民主主義のことなど頭にないであろうが、そういうあり方が可能なのは、それを支持する国民がいるからにほかならない。&#13;&lt;br&gt;
　この選挙でさらに観察されるのは馬鹿一がSNSを多用する一方で、公開の討論というものを避けようとしていることである。握手して手を痛めたという口実の下に討論会を欠席しているが、「手話」でもするのであろう。アウラのないSNSではごまかしがきくけれども、討論ではごまかせないからであろう。つまりこの首相（？）には本質的に欺瞞が伴っていることが想像される。&#13;&lt;br&gt;
　その背景にあるのはこの首相（？）の反主知主義であろう。すでに総裁に選出されたときに働き、働きというような非知性的な言い方をしている。実は裏腹に職務への覚悟欠けているのであるが。和風ロックは体制への随順の通過儀礼であるが、その非知性主義は質問を「いじわる」と言って拒否するところにも表れる。要するに討議に基づく民主主義を回避しているのである。&#13;&lt;br&gt;
　こうした首相（？）の姿勢には女流統治様式の特性も見ることができる。公開の討議が苦手であるから謀略が使われる。策謀の一つのあり方は、討議ではなく、笑顔でチャームし寝技に移ることである（トランプとの抱合）。おそらくこの首相（？）は女性に特有の策謀家なのであろう（詐欺師とは言わないことにして）。だから女性社長はだめだということにもなる。&#13;&lt;br&gt;
　こうしてこの首相（？）は少数与党を多数与党に転換するクーデタで絶対多数を獲得して国論を二分する政策を進めるそうであるが、アメリカのように国内を分断したいのであろう。その最初が国家情報会議であったようである。国家情報局はかつての特高の復活であろう。野党は国民を監視することはないであろうかと、生ぬるい質問をしているが、首相（？）はそれは「想定」していないというあいまいな答弁をしている。だが過激なデモには「関心」を持ちうるとも言っていることは看過できない。すでに警察は違法にデモ参加者の写真を撮っているが、これも合法化されるであろう。国家情報会議の法案は衆議院をすんなりと通過しているが、さらに殺傷兵器の輸出を認めることによって間接的に戦争に関与する死の商人国家への道を開いている。&#13;&lt;br&gt;
　さらには国民が選んだわけでなく政府が選んだ有識者（？）会議で安保法制を見直しを進めようとしている。ここには「新しい戦い方」を検討するという「平和国家」にはありえないような驚くべき鈍感な言葉が見られる。ここには日本国家が「戦争放棄」どころか戦争をする国家になっていることが明確に原れている。こうした戦争国家への転換は「環境が変わった」というような単細胞的な頭でなされているようである。だが近年の戦争の勃発を少し見ただけで、その「環境」が愚かな政治的指導者の台頭と、それを支持する愚かな国民のナショナリズムにあることはすぐわかることであろう。安保法制を見直すのであれば、国家存立危機とか集団的自衛権というような拙劣な用語はまず撤回すべきところである。&#13;&lt;br&gt;
　注意されることは、経済的に失われた３０年の日本国もファシズムに移行する条件を備えているということである。すでに日本人第一主義、テンノー宣揚、軍事増強、国民監視の強化が着々と進み、第二期ファシズムの段階に入っていると見られる。現代のファシズムは笑顔とともにやってくる。歴史から学びたくないものはまた泣けばよい。古人は歴史は一度目には悲劇に終わるが、二度目は喜劇に終わると言っている。すでに喜劇の幕は上がっている。&#13;&lt;br&gt;
　国論を二分する最終地は憲法の改正であろう。馬鹿一は改憲草案を「大好き」と言っていたようであるが、馬鹿一にとって憲法は猫に小判であることを正直に物語っている。違憲の疑義があることを重ねてきた自民党に憲法を問題にする資格があるかどうかは疑わしいところであるが、もともとこの国には法的原則が重みをもたないという伝統が存在している。原理原則よりも実際的な柔軟性の方が尊重されるのであり、基本的に非憲法的は国民であり国家なのである。&#13;&lt;br&gt;
　こういう非憲法的な国において憲法が取り上げられる場合には奇妙な特徴的な現象が生じる。それは改憲論に見られるように、憲法を文字としてのみ見るという文字フェティシズムである。基本原則についての考えなど何もなく、ただどういうことを書くかということだけが問題になる。それは安全保障について何のヴィジョンもなく、憲法に「自衛隊」を明記するという議論に観察される。憲法を原則を定めるものであって、個別的な制度を規定するようなものではない。今の自衛隊は最初は警察予備隊と言われたものであり、それが保安隊に変わり、さらに自衛隊になったものである。何のヴィジョンもなく文字をいじるような矮小な議論をしているのは、まことに非憲法的な国家国民にふさわしい。自民党は党大会に自衛官を読んで国家を歌わせるというような自衛隊の政治利用をしていたが、自衛隊明記も一種の政治利用であろう。&#13;&lt;br&gt;
　こういう非原則的な国は成文憲法はあっていないとも言える。なぜなら憲法を文字と見る場合、現実は変化するから憲法とのずれが生じ、憲法は建前に過ぎず、実体が本音になることは目に見えているからである。こういう非原則的な国では同じく実際的なイギリスのように成文憲法などなくして慣習で貫くところもあるのである。その場合は文字と実体の齟齬は生じない。&#13;&lt;br&gt;
　しかしすでに憲法がある国においてはそうも言っておられない。当面に問題になっているのは第9条であろうが、現実に合わせてどういう文字を入れるかというような子供じみたことでなく、そこでまず考慮すべきことはどういう安全保障の原則を考えるかということである。「力による平和」というのは憲法の基本的な精神ではなく、また今日以降の世界の安全を保障するあり方ではないであろう。世界において戦争が違法化されつつなおなくならないのは、今の世界は基本的に主権国家の併存というあり方をしているためである。主権国家にはそれを越える権力は存在しないから、利害の対立は最終的には武力対立としての戦争にならざるを得ない。確かに国際連合には安全保障機能が与えられているが、２１世紀に入っても戦争が噴出して国連が無力を示しているのは、国連が基本的には主権国家の連合だからである。主権国家は国連にも主権的な対立をすることができ、安保理事会の常任理事国は当然そうである。安全保障理事会が機能不全になっているのは直接的には常任理事国が拒否権を持っているためであるが、これらの国が拒否権を放棄することは当面考えられず、国連には限界が示されていると言えよう。&#13;&lt;br&gt;
　国連が機能しえない現在、持続可能な世界の安全を保障する体制はカントの世界共和国のあり方しか考えられない。世界を一国とすることであり、そうすれば内紛はあっても戦争はありえないことになる。平和の補償のためには神でない人間の国においては何らかの強制力が必要であろうが、それは軍隊ではなく、基本的には警察の性格を持つものである。それは実際的にはこれまでの諸国の軍隊を共通の世界の主権的な政府に譲渡することであり、個別国家の主権は世界政府に集約される。&#13;&lt;br&gt;
　こういう世界共和国などはユートピアであるという安易な見方はあるであろうが、カントも言っていたように一挙に世界共和国に至るのには無理がある。このために次善の策としては融資の国がそうした主権共同体を作ることであり、それを拡大していくことである。アメリカや中国やロシアなどは最後まで主権を手放さないであろうが、その先は予測できない。&#13;&lt;br&gt;
　こうした主権共同体は実は日本国憲法第９条に内在するものである。個別国家の軍隊を放棄して主権共同体に移譲することである。EUは不十分ながら主権を制限しており、世界共和国構想の初期的段階にあると言ってよいであろう。こうした連合国には日本やEUさらに韓国やインドなどの非同盟諸国がまず参加しうるであろう。このように考えるならば日本の憲法第９条は将来の世界の安全保障の原理を示すものであると見ることができ、またそのようにすべきなのである。&#13;&lt;br&gt;
　しかしここに厄介なことがある。それは古来日本人はそうしたヴィジョンを持ったためしがなく、その行動様式は他人の顔色を窺って動くものであり、日本国はそうした大規模なイニシャチブを取ったことがないことである。日本国民は自分の実力以上の憲法を持たされて四苦八苦しているのである。&#13;&lt;br&gt;
　積極的な意味での憲法改正がありうるとすれば、それは象徴天皇制を廃止することだけであろう。急に話が変わった感があるであろうから一言付言することにする。日本の丸山眞男は西洋のハーバーマスの位置にある人物であるが、自分に追随するような弟子は持ちたくなかった丸山は追随しない私には西洋よりも日本のことをやらせたかったようである。次世代の研究者が江戸時代でも「雅」というような美的な用語でノンポリ的な日本政治思想史をやっていたようであるから、私も日本のことを専攻すべきであったかもしれない。しかし私は東洋にはインドや中国には巨大な思想的遺産がある一方、日本にはちゃちな思想しかないから（空海はやや例外的だが密教の制限を受けている）西洋の方に行ったのである。最初から日本列島に限定していたら一段と馬鹿になるかテンノーに絡み取られていたであろう。日本政治思想は東洋政治思想の一コマにするくらいが妥当なところである。しかしヨーロッパに留学して私は日本のこともわかってきたのである。東アフリカに発生しはホモサピエンスは世界に拡散したが、極東の日本列島はそのもっとも遠隔地であり、かなり特殊な政治文化を育てることになった。それは論理的というよりも情緒的な年限を作ることになり、人々は自己を主張するよりは他人の顔色を窺って同調するという他人指向（リースマン）の行動様式を生んでいる。こうしたあり方は共同体を保全し、外からは静穏な国として好ましいところもあったが、それは国民の主体性の欠如と人権の不在の反面でもある。こうした行動様式の結晶であり、象徴するのがテンノーであったという基本問題が浮上してきたのである。だが今から考えると東も西もなく、分割は便宜的なものにすぎず、専攻などは問題ではないのである。丸山とハーバーマスという東西の学匠のゼミナールで学恩を受けながら何も現実に関わることができなかったことは自ら恥じるだけである・もっとも私も日本のことに何もしなかったわけではないというアリバイにペンネームで細々と夜店は出していたのである。このコラムもその一つであるが、そろそろ終わりに近くなっている。&#13;&lt;br&gt;
　遠回りになったが、以上のような観点から、世界政治と日本政治、憲法第９条と第１条の連関が明らかになってくる。憲法で示唆されている世界共和国を実現するためには、その行動様式上の障害になっている象徴天皇制の廃止が課題になってくる。第１条と第９条は両立しない。日本国の課題に対応するためにはこうした日本を超克しなければならず、それを通俗的なスローガンに表現すれば「日本をぶっこわせ」ということになろうか。だが国民の意識がそこまで行っていないことは確かなのである。&#13;&lt;br&gt;
・・・・・こういう現実的にはやや空しいつまらないことばかりに関わっていられないので、私は野川に釣りに行き、本業により近いイタリアに行ったのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　３&#13;&lt;br&gt;
　現実があまりに馬鹿馬鹿しくなると仮想的な世界により意味が出てくる。退役世代にとって現実よりはあの世の方が重要になり、つまるところ生死だけが興味深いものになる。わが友ジュゼッペはこのことに若い頃から関わっていた。&#13;&lt;br&gt;
　シノーポリをテーマとする場合、２つの素材を看過できない。&#13;&lt;br&gt;
　第１はオペラ『ルー・サロメ』である。このオペラはミュンヒェン国立歌劇場の監督をしていたゲッツ・フリードリッヒの依頼によるもので、上演日も決められていたから糟糠の間に作られたものである。&#13;&lt;br&gt;
　台本はカール・ディートリッヒ・レーヴェであるが、シノーポリもその作成に関与していたようである。登場人物はサロメの他アンドレアス、パウル・レー、リルケおよびニーチェといった当代の文人たちであり、シノーポリも熟知している者たちである。フロイトの教えを受けドイツで最初の先進分析医となったルー・サロメの『ニーチェ』を読んで私は自分を含め日本の思想史なるものはなっていないと感じさせられたものである。&#13;&lt;br&gt;
　この台本は上記の文人たちのテキストからの抜粋を集めたもので、セリフなどほとんど問題にならないオペラが多い中で、哲学的な文章が歌われるという異色のものである。発狂したニーチェがピエロになって妙なことを言っているところもあるが、概してドラマのようなものはほとんどなく、理解するには困難なところがる。&#13;&lt;br&gt;
　主人公のサロメはロシアの農奴解放の年に生まれた自由な人間であるが、４人の求愛者に取り巻かれ、拘束されるところに自由があると信じているが、終わりの方では自分の愛は常に死と結ばれており、生を肯定することは死を肯定することであり、そこでは自分の目は他者を見ないと言われて終わっている。これは神の視点を求めるようなものであり、やや反動的でシノーポリのパルジファルのようなところがある。&#13;&lt;br&gt;
　音楽的にはシェーンベルクの短編モノ・オペラ『幸福の手』を思わせるところがあるが、基本的には後期ロマン派的と言えよう。私はフェニーチェ劇場の録音を聴いただけであるが、やや騒がしいものである。しかしシノーポリ自身、これは様式化されない「爆弾」のようなものであり、新音楽つまり現代音楽に一石を投じようとしたものではないとしている。&#13;&lt;br&gt;
　音楽的、上演的にオペラの時代は終わっていると見なければならず、初演されただけでお蔵入りになるものがほとんどの中で、このオペラは何か所で上演され、少なからぬ上演の申し入れにもかかわらず、後半の改定が必要があるとして以後は許されなかったようである。改定は実現せず、ルチーア・ポップとホセ・カレーラスを歌い手とする組曲のCDが出ただけである。&#13;&lt;br&gt;
　このオペラが成功作であったか失敗作であったかを言うことは難しい。しかし最後の『希望の合唱』がニーチェのワグナー批判を呼びかねないところがあり、それは直接的には台本作家の問題であろうけれども、シノーポリとしてもおそらく全くは納得しがたいところはあったであろう。&#13;&lt;br&gt;
　第2の素材は『ヴェネチアのパルジファル』というシノーポリの著作である。これはフェニーチェ劇場でのワーグナーのパルジファルのリハーサル後、夜のヴェネチアに彷徨したというエセ―であり、シノーポリにおける音楽と考古学との連関性を物語るものである。&#13;&lt;br&gt;
　ニーチェの抗議を知りつつもシノーポリはこの楽劇を好んでいたようであり、その焦点となっているのは死と再生の連関性である。そうしてこの死と再生ということはヴェネチアの年の構造に象徴的に組み込まれていると見られる。この死と再生ということがパルジファルとヴェネチアの結節点なのである。&#13;&lt;br&gt;
　こうしてシノーポリはヴェネチアの迷路に出るのであるが、彼はそこでよくあるような陳腐なことを言っているのではない。彼はヴェネチアの迷宮はクレタの宮殿の迷路と同様に死から生への脱出の意味があり、そこには死から生へのより高い段階への入会（通過）儀礼の意味が織り込まれているとする。それは多くある橋についての言えることである。&#13;&lt;br&gt;
　こうしてシノーポリはヴェネチアという都市の構造を問題にするのであるが、ヴェネチアは宇宙の中心の模造としての都市の原型のようなものとされる。カナル・グランデはしばしばS字型と見られるが、シノーポリによれば二重螺旋であり、二つの半円弧が組まれたものであり、それがさらに分割されて４つの円弧ができる。彼はこの４象限に即してヴェネチアを彷徨するのであるが、そこで重要性を持たされているのは円弧の軸の交差点であり、それはサン・トロヴァ―ソ教会の井戸であるとされている。それは天と地上と地下を貫く都市の中心であり、それがある広場の階段数はピタゴラスの四元数を示しており、まさしく宇宙の模造なのである。ちなみに私はヴェネチアには水がないから雨水をためて生活しているという日本人の本を見たことがあるが、ヴェネチアには少なからぬ井戸がある。もっとも内陸から水道が引かれている現在、その多くは鉄の蓋があって使われていないが自然湧水しているところもある。。&#13;&lt;br&gt;
　途轍もない議論をシノーポリは、ヴェネチアの歴史的考察なのではなく、あくまでもイデーの痕跡をたどる寓話的な解釈であるとしている。それは歴史的というよりも考古学的な、また生死の問題についての哲学的な考察ではなく、あくまでも象徴論的な考察である。シノーポリは死というものを一応は生物学的に考えており、それだけでは収まらないためにさまざまは宗教などが考案されたのであるが、彼はその宗教的儀礼のようなものを問題にしているのである。哲学的に生死を考えるのであればより複雑な思考が必要であり、おそらくは生死を越えようとする禅などはそのもっとも洗練されたものになるであろう。しかしそうした哲学や宗教が自明なものでなくなっている今日、こうしたこうした考古学的、象徴論的な議論も全く無意味とは言えないであろう。シノーポリは精神医学に関してはフーコーに言及しているようであるが、考古学的な面では構造主義に共通の要素もあり、またその問題点もあるようである。&#13;&lt;br&gt;
　しかし都市の問題を生死の問題に連関させてみようとするシノーポリの議論にはカバラ的な神秘主義の要素があり、相当に分かりにくいものである。他方で日本で出版されている本は分かりやすいだけでつまらないものばかりだけであると思っていたから、私は暇つぶしのそれとは次元が違うこの本を日本語に置き換えていた。そうするうちに私はどうしてももう一度ヴェネチアに行かなければならなくなったのである。　とはいえ私は１０時間以上も飛行機に乗っていることに耐えられなくなっていたからもう数年前からヨーロッパには行かないことにしていた。&#13;&lt;br&gt;
　そのうち私は往復とも寝台で行けるビジネスクラスのティケットを手に入れたので、禁を破ってヴェネチアに行くことになった。だが井戸の石段を見るだけの何というビジネスであるか。円安で多くの日本人はヨーロッパに行けなくなっており、この十年でユーロに対して円の価値は半減している。しかし円を見限ってユーロ建てにしていた私には影響はないのである。サルトルに「最後の旅人」という副題の『アルベルマール王妃』という断片があるが、これは単にヴェネチアへの最初の旅行のメモにすぎない。だが彼は目が見えなくなってからもヴェネチアに入っていたそうであるが、それはラグーンの波の音を聞くためだけであったであろう。私もその点だけではサルトルの水域に入っている。&#13;&lt;br&gt;
政府が戦争国家へ進んでいても嘲笑するほか何の手もない退役世代は、戦死は現役世代に任せて、不良化し、無駄なことしかやらなくなる。&#13;&lt;br&gt;
　今のヴェネチアはテーマパークに過ぎなくなっているが、私はまずシノーポリの足跡をたどることにした。そうして彼の記述はかなり正確なものであることが分かった。例えば死の島サン・ミケーレに向かい合ったカッレ・ロンガ・サンタ・カタリナという細長い路地の５０００番地にはシノーポリが書いているような高い壁から木の枝がのぞいている。そうして最後にはサン・トロヴァ―ソ教会の井戸の階段に行っている。だがその階段は一段、三段、三段、四段であり、四元数ではなかったのである。私の感想はやれやれということである。&#13;&lt;br&gt;
　フェニーチェ劇場ではヴォツェックがやられている。このオーケストラはドイツ音楽を完璧に演奏する。だが軍医や上官がいかにも悪人的に演じているのはいただけない。普通人がファシストになるということが肝心なのである。&#13;&lt;br&gt;
　ポルトガルのオヴィレイラ監督の最晩年のマジック・ミラーという映画の終わりの方でサン・マルコ教会の内部の映像があったが、私はヴェネチアに何度来たか知らないけれども見覚えがなかったので寄って見ることにした。だがさして広くないマルコ教会をぐるっと回っても見当たらない。二階のテラスへ出てカサノヴァが脱獄したというドージェ宮殿の鉛の屋根を見た時、誰かがうわさをしたのであろうが私は急にくしゃみをした。するとたまたま記念撮影をしていたどこかの国からの観光客がびっくりしてi like youと叫ぶ・・・・・これはすべてMay Fool?&#13;&lt;br&gt;
　シノーポリの著書はほとんどの人にはチンプンカンプンのもので今の日本国の出版状況からすれば公刊しないことに意味があるであろう。訳稿は下記に保存している。ただし注は反映されていない。&#13;&lt;br&gt;
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      <title>quo vadis？</title>
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      <pubDate>Wed, 24 Dec 2025 13:49:42 +0900</pubDate>
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      <description> 5,6年前に『天皇制国家の古層』という小著を出版し、たいして反響もなかったものだから放置しておいてももよいものであるが、出雲伝承をあまり考慮していなかったことがあったから、若干の補足と蛇足をしておくことにしよう。&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
Ⅰ　現在出雲伝承を主に伝えているのは大元出版から出されている一連のものであり、著者は不詳であるけれども出雲王家の末裔に連なるもののようである。誤伝や粗雑なところも見受けられるが、契丹古伝とともに日本古代にヒントを与えるものがあることは否定できない。&#13;&lt;br&gt;
　出雲伝承によると出雲族は約４０００年前にインドからシベリアを経由して日本列島に到達したクナ族であるということである。年代の制度はさておき『マハーバアーラタ』にはクル族の王族がヒマラヤを超えて北に行ったという記事があるから、ありえないことではない。出雲族の宗教の核心は幸ノ神を信仰する子孫繁栄ということにあるようであるが、その半面でインド思想を特徴づける法（ダルマ）の要素は乏しいようである。クナ族はドラヴィダ族といわれ、クル族はアーリア系のようであるが、後者は法と実利（アルタ）と性愛（カルマ）を重視している。出雲族だけでなく以後の日本思想に特徴的なのは法の要素の希薄ということである。&#13;&lt;br&gt;
　出雲伝承によると出雲族は三内丸山遺跡などを経て出雲に到着したということであるが、三内丸山ということは後知恵であろう。だがその物見やぐらと大社建築が無関係とまでは言えない。ともかく出雲族は縄文時代の日本列島に到着している。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
Ⅱ　日本人がどこから来たかということは一つのテーマであり、今年は国立科学博物館でそれをテーマとする展示があったが、縄文人どこから来たかという点は明らかにできていない。博物館ではDNAの分析で縄文人がどこの地域と親縁関係があるかというようなことを示そうとしたようであるが、いうまでもなくDNAが似ているということはそこから移動したということではない。博物館では縄文時代に再婚や養子縁組などという観念があったというような滑稽な展示もなされている。単純な科学は文化人類学的な監修を要するということであろう。いずれにしても縄文人は直接的に現代人につながるものではなく、その意味では縄文人は源日本人ではなく、むしろ先住民といった方がよい。&#13;&lt;br&gt;
　国家が形成されてくる弥生時代の日本社会は母系制であり、通い婚が基本であるとされている。ドラヴィダ人も母系制であり、縄文時代に渡来したと考えられているモンクメール族もチベットから東南アジアに移動した母系制社会であったようである。&#13;&lt;br&gt;
　しかし私には母系制や通い婚のイメージが乏しく、日本人がほとんど行かなくなった今年は、荒瀬豊の論文などを見て母系制が残っているという中国雲南省のナシ族の麗江に行くことになった。しかし今の麗江はほとんど漢民族化しており、母系制の片りんも残っておらず、その宗教であるトンバ教もほとんど消滅しているようであった。永寧には通い婚が残存しているようであったが、時間の制約で行けていない。&#13;&lt;br&gt;
　ナシ族が縄文時代の日本列島に渡来したということはほとんどあり得ないことであるが、逆に母系制的であったと予想される縄文社会の理解のためにはナシ族的社会は参考になりうるであろう。チベット・ビルマ語族に属するというナシ族はモンクメールに由来する説もある。つまり雲南省には縄文文化の要素が保存されている可能性がある。しかし母系制は広く世界に流布していたものであり、母系制や通い婚についてはフィールドワークなどをしていない高群逸枝の『招婿制の研究』などに豊富な解明があったのである。なおナシ族には洪水伝説を含む創世神話があり、それは『日本書紀』と似ているという説がるが、ナシ族の説話はリーダーを含む民族の素朴な由来を伝えるものであって、支配の正統化を図った『日本書紀』とは性格が違うものである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
Ⅲ　弥生時代には初期的な国家が形成されてくるが、インドですでに国家をなしていたと考えられる出雲族は最も早い時代に王国を形成していたと考えられる。出雲には郷戸家の西王国と富家の西王国があり、主王は大名持、副王は少名彦と呼ばれ、交互に就任していた。西谷墳丘墓の四隅突出墓軍は紀元２世紀中葉から３世紀中葉のものであるが、西王家の墓であると考えられる。そこには多分大国主の墓もあるであろう。出雲の伝承によれば大国主が大名持の時に出雲は物部の一団に襲撃され、大国主と少名彦は亡き者にされたとされている。&#13;&lt;br&gt;
　出雲伝承で最も注目されるのは、他の伝承にもないわけではないが、徐福を便宜的に物部であるとしていることである。直接的にはニギハヤイヒが宗像の市杵島姫を迎えて物部家になったとされる。物部の出自は明確ではないが、もし徐福が物部になったという仮説が有効であるとすると日本古代の謎はかなり解明されることになろう。&#13;&lt;br&gt;
　道教の方士であった徐福は秦の始皇帝の命令で蓬莱山の不老不死の薬草を求めて５００人とか３０００人の大集団で２度にわたり日本列島に渡来している。この集団は二度目には佐賀に上陸しているが、そこだけでなく丹後や熊野や清水などに手分けして上陸し探求したようである。むろん薬草などは発見できていないが、本来は帰国することになっているから徐福を名乗ることはできず、物部を名乗ったのであろう。物部とは神事の集団であり、徐福の専門でもあった。西日本を中心に徐福の上陸の伝説が多く存在し、またそれと並行するかのように物部の地名があることは徐福と物部の連関を物語るものであろう。&#13;&lt;br&gt;
　むろん物部には多様な要素が窺われることは知られていることであり、おそらく九州に渡来していた様々な集団を包摂し、さらには朝鮮半島からの付与族もその一部になったと考えられ、ともかく物部は一つの氏族ではなく、氏族集団である。徐福は物部集団の核になったのであろうが、徐福集団自体多様な集団であったようである。その編成は『先代旧事本紀』に示されるところであり、同様に出自が不明確な尾張氏のその幹部をなしている。物部の祖先神のニギハヤイヒと尾張の祖先神の天火命が同一化されることになるのも不思議ではない。そうしてローマとともに世界の先端的国家をなしていた秦に由来する徐福が紀元前３世紀末に渡来したことは、古代日本における国家形成に大きな影響を及ぼしたであろうことは予想に困難ではない。&#13;&lt;br&gt;
　もっとも出雲の伝承は列島外からの渡来者をすべて物部とする傾向もないではない。伝承では徐福をスサノオであるとしたりしているが、大国主などを襲った物部一派はおそらくはスサノオ集団であろう。また伝承では天孫氏（後に天皇氏といわれる）も物部としており、それがいわゆる神武東征をしたことになっている。天孫氏が最初に国を作ったとしながら出雲に国の譲渡を求めるのは矛盾することであるが、天孫氏が目指した日本列島には実は出雲系の国があったのである。&#13;&lt;br&gt;
　天孫氏は元来は南越のムス氏に由来するようであり、秦の制服に伴って朝鮮半島に移動し、昭明県にいたようであるが、卑弥国に辰王権を奪われ伊都国に移動したようである。伊都国は高句麗との関係があるとされていたからであろう。伊都王墓からやや離れたとことにある平原遺跡は天孫氏の墓の可能性がある。この墓は女王の墓であるとされており、天孫氏も当初は女王を持っていたのであろう。この王墓には巨大な内向花文鏡が副葬されているが、これは三種神器の八咫鏡とほぼ同じものとされている。したがって平原王墓アマテラスの原型であり、日本列島における天皇氏の出発点であったといえよう。天孫氏の祖先に刃契丹古伝で中原でも活躍したという寧義氏がいたようであるが、歴史神話の執筆者はこのじんぶつを天孫降下のニニギとしのであろう。天孫降下とは無論朝鮮半島から渡来したということである。&#13;&lt;br&gt;
　大和の話に戻り、出雲の伝承によると、大国主などが遭難した後、少名彦であった事代主の妻であった三島溝杭の娘の活玉依姫などが三島にいたが、事代主の息子のクシヒカタ（奇日方）は大和を開拓することになり、事代主を祭る鴨都波神社などを建てたとされている。郷戸家も葛城に進出してアジスキタカネヒコを祭る高鴨神社を建てている。クシヒカタは三輪に移り、その子孫が磯城県主となり、この富（登美）家は磯城家とも呼ばれていた。&#13;&lt;br&gt;
　しかし大和にはすでに尾張氏が入植していた。天火明の息子の香語山は単語を開発していたが、その息子の村雲は河内を経て大和に進出し高尾張に本拠を置いて尾張氏と呼ばれたが、のちに三輪の穴師に移動している。大和において最初の実質的な王であったのはこの村雲であったといってよい。磯城家は尾張氏に妃を提供する位置にあったが、母系制社会にあっては母方の影響力が大きくなるのは自然であり、やがて磯城王朝と呼ばれるものができることになる。これが邪馬台国の始まりであると言ってよい。&#13;&lt;br&gt;
　そこに天孫氏のイワレヒコ（神武）が東征することになったと伝えられる。この集団はは和歌山で長兄の五瀬を失い、熊野沖ではイワレヒコ（佐野）は兄弟の飯稲と三毛入野を失い東征はぼとんど挫折したようである。古事記、日本書紀では高倉下の助力によって挽回して大和を制圧し、橿原で即位したことになっているが、これは疑わしい。高倉下は村雲の弟であり、征服者に協力することは考え難いことであり、実は高倉下に撃退されたのであろう。神武だけでなく、国を最初に統治したのが崇神とされているのは、神武の即位が文書の上だけであることを知すものであろう。神武即位が考えにくいことは、それによって王朝が形成された形跡はなく、その後は実は先住の物部、尾張氏や磯城家などから成る邪馬台国が生まれているからである。この時代欠史八代と言われる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
ⅳ　いわゆる神武東征は失敗したとしても、その後継は大和の南に進んで狗奴国を形作っていたと考えられる。邪馬台国と狗奴国は全く敵対していたわけではなく、その間には通婚関係もあったようである。イワレヒコの子孫が磯城王家の娘と婚姻関係を結んだ場合、当時は母系制の妻問婚であり、天孫氏が母系制であったかどうかは不明であるものの、天孫氏は少数集団であったから、母姓を継承し、その子も母系集団で育てられたから、天孫氏は次第に磯城王家に吸収されることとなったであろう。天孫氏の息子が皇后を「娶る」ということはありえず、そのいわゆる宮都も妻の実家に過ぎなかったであろう。&#13;&lt;br&gt;
　記紀はいわゆる欠史八代を後に一般化する父系性の視点で王統が継続したかのように記述しているが、そこに実体はなく、王朝としての事蹟の記述がないのは当然のことになる。その前半部は孤奴国の主張の可能性があるが、後半部は邪馬台国つまり磯城王朝の首長であった公算が大きい。磯城王朝は出雲系であったから、その首長は大物主といわれてもよいであろう。&#13;&lt;br&gt;
　しかし婚姻関係からしても磯城王朝と狗奴国との境界は判然としたものではなく、両者の関係は流動的なものであったであろう。このために出雲系の要素と天孫系つまり日向系との間には対立関係が生じることともなり、それは磯城王朝の動揺となって表面化する。それがいわゆる倭国大乱の背景であったようである。&#13;&lt;br&gt;
　したがって倭国大乱は磯城王朝の中で出雲系の要素と日向系の要素の対抗として考えられる。そこには単なる勢力争いだけでない宗教的な要素もあったようである。出雲はスサノオをバックとするものであり、日向系はアマテラスをバックとしており、それは祭祀的には銅鐸祭祀と銅鏡祭祀の対立になる。&#13;&lt;br&gt;
　倭国大乱がピークになったのはフトニ（孝霊）の時代であったようであり、この時、銅鏡祭祀に傾斜した孝霊は大和を追われ吉備に移動したとされている。それに同行した吉備津彦兄弟が孝霊の子であるかどうかは不確かである。彼らはさらにに出雲を攻撃し、孝霊は孝霊山の麓にある妻木晩田遺跡で死亡したとされる。&#13;&lt;br&gt;
　倭国大乱は磯城王家の分家である大田田根子（出雲伝承では太田種彦）が孝霊の娘の百襲姫と組んで銅鐸祭祀を継続し、銅鏡祭祀系を追放して終わっている。魏志倭人伝では倭国大乱は邪馬台国が卑弥呼を共立して終わっており、この点で出雲伝書とは異なっている。しかしいずれにしても倭国大乱は邪馬台国の一応の勝利で終結しているのである。&#13;&lt;br&gt;
　出雲伝承では東征を企てた天孫氏グループは出雲グループに回収されることによって挫折し、このためにいわゆる第二次の神武東征が企てられたとしている。この伝承では邪馬台国は九州、日向にあり、天孫氏は西都原で体勢を立て直し、また前回の大和攻撃が大和の巫汝の働きによるところが大であったことにかんがみて、宇佐の豊玉姫と提携し、これが卑弥呼であるとされる。そうして崇神に当たる人物は中途で死亡し、推仁が大和を制圧したとされている。これは通常の説と相当に食い違うものであるから、それ以上の言及を避ける。&#13;&lt;br&gt;
　通常の見方では崇神が大和に侵入し、新たに銅鏡祭祀を導入し、そのために先住勢力との間に相克がなされたとされている。この対立が大きなものであったことは、開化の兄である大彦が銅鏡祭祀を嫌って近江に移動し伊勢遺跡を作ったとされることにも示される。この遺跡は２世紀に突然生まれ３世紀に突然消滅している。つまりこれは銅鐸祭祀を継続するために人為的に作った施設であり、居住のためのものではない。しかし時代は銅鏡祭祀の時代に移り、ほど近い大高山遺跡には列島最大の銅鐸を含む大量の銅鐸が埋納された。これは銅鐸祭祀の終焉を告げるものであり、大彦は東北にさらに移動して安部氏になったと伝えられている。&#13;&lt;br&gt;
　同様のことは出雲にも生じており、加茂岩倉遺跡には列島最大の39基の銅鐸が埋納されているが、これは天孫氏勢力の接近を前にして銅鐸を放棄したものであろう。こうして天孫氏の支配の拡大とともに銅鐸祭祀も終わりを告げる。&#13;&lt;br&gt;
　出雲王朝についていえば、崇神は出雲の宝を見たいと要求しているが、宝を見るということは服属の要求である。出雲振根は自分が不在であったときに宝を提出した弟を殺したが、崇神は吉備津彦などを派遣して振根を殺している。こうして出雲王国は崩壊したが、出雲は国を譲ったのではなく、暴力によって失ったのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
Ⅴ　動乱の2世紀、邪馬台国の興亡の3世紀に続いて謎の4世紀になるが、これについてはもはや出雲伝承は存在しない。垂仁の後継は断絶し、景行とされる人物は架空のものであり、それは推人の子や武内宿禰の父の武雄心や各地で跋扈していたヤマトタケルなどを一括して景行という人物を捜索したのであろう。この世紀は中国に施設を贈るような統一的な権力は存在せず、大和王朝などはありえないから王統はありえず、騒乱でないとしても多頭併存の体制であったのであろう。&#13;&lt;br&gt;
　こうした状態は4世紀末の応神の渡来によって終止符が打たれ、一応統一的権力が生まれたようである。そうして前体制との連続性を保障するために神功皇后というフィクションが作られる。この皇后は妊娠中であるにもかかわらず三韓征伐を試み、九州に帰国して応神を生んだということになっているが、これは応神が九州を経て渡来したということであろう。&#13;&lt;br&gt;
　この応神王朝も5世紀末には崩壊し王統は断絶したようである。そこに北陸とかで応神の5世孫と言われる人物が発見され、継体が即位したとされている。これには疑問があったようで継体は河内で即位後20年後になってやっと大和に入ることができている。&#13;&lt;br&gt;
　応神5世孫はかなりお粗末な説話であり、実は大和に人質になっていた百済の昆支王の息子の一人が継体に仕立てられた公算が大きい。この息子の長兄はすでに百済の城東王になっており、その「男弟」が大和の大王に就任したのであろう。昆支の兄は百済の武寧王であり、詳細な論証は省略するが、ここには物証のようなものも存在する。隅田八幡神社の人物画象鏡は斯麻つまり武寧王が大和の忍坂に人質になっている「男弟王」に長寿を祈って河内の直などに作らせたものであるが、大和の次期大王に目されていた継体にエールを送ったものであろう。河内直は継体の即位に尽力した人物であり、河内の国造であったのであろう。継体の陵墓は高槻の今篠塚古墳であるとされているが、今城とは今来つまり新たに渡来したという意味であり、継体の素性を物語るものである。&#13;&lt;br&gt;
　こうして継体は百済の武寧王の従弟であったことになり、それは継体の政策が百済一辺倒であったことからも裏付けられる。以後の天皇家は基本的には継体を継承しているが、したがって日本国の天皇家は百済王朝の分家なのである。&#13;&lt;br&gt;
　日本の天皇家が以後1500年にわたって継続したのは、その固有のメカニズムと切り離せない。テンノーは神聖化されるとともに絶対化されるが、それが継続するためにはテンノーは実は非政治的主体になり、単に担ぎ上げられるだけの神輿になるということである。そうでなければテンノーも政治的責任を取らなければならない存在になる。テンノーが不可侵であり責任を取らない存在になるということは、テンノーが逆に没主体になるということであり、テンノーは空洞化することによって自己を維持する。こうしてテンノーは単に祭り上げられる存在になり、その実権は藤原を先駆とする臣下が振るうことになる。しかし臣下はまた最高権力ではないから究極的な責任をとるものではなくなる。ここにテンノーに象徴される、没主体的で、相互に依存し、それゆえ体制に順応する,[お」が付くめでたい独特の政治文化が生まれる。&#13;&lt;br&gt;
　かねてより皇統の安定的な継承ということが問題にされている。テンノーとは一般的に言えば皇帝であり、民主制が普遍化した今日では皇帝を維持しているのは日本国だけであり、日本の特性と限界をなすものであるから、日本人の精神的実の生涯になっている天皇制が消滅するに越したことはない。だがいざとなれば養子を取ればよいのであるから、皇統断絶というようなことは架空のテーマに過ぎない。しかしそういうテーマが蒸し返されるということは、主体の意識の乏しい日本人の依存心の所在を示すものであろう。&#13;&lt;br&gt;
　無論こうしたテンノー体制の存在は、それを支える人民があったからである。それはすでに魏志倭人伝が、倭人の上長あるいは権威に従順な性格として観察していたものである。倭人はおとなしいロバのような存在だったのであろう。ここにテンノーと、同じように主体の性格に乏しいロバ的臣民のシステムという日本国独特の政治体制が生まれることになる。こうしたあり方は秩序の安定に寄与し、結果的には他国からの侵略を防ぐものとなったが、それは国民の没主体性という代価を払うものでもあったのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
Ⅵ　テンノーの支配は暴力や人民の受動性だけでなく、意図的な教化、教導によってなされるものである。ここに古事紀や日本書紀といったテンノー支配を正当化しようとする著書が生まれることになる。これらは歴史書という体裁を持つが、言うまでもなく支配の正当化のための政治的な企図であると言ってよい。&#13;&lt;br&gt;
　テンノー支配は基本的には日本国はアマテラスの子孫が支配すべきであるとするアマテラスの勅命によるものであるとされている。それは要するに神話ということであり、テンノー支配が神話に立脚しているということは、支配の正当性根拠はないというに等しい。最初に神話が置かれ、後はそれが継続しているということが正当性の根拠になる。したがって記紀の叙述は万世が一系であることをもっぱら論証しようとするものになる。しかし万世一系でないことは容易に明らかになることであり、このために記紀の叙述は歪曲や捏造がおびただしいものになる。&#13;&lt;br&gt;
　万世一系が破たんした場合、テンノー支配の正当化は、マックス・ウエーバーの正当性の分類においては伝統主義的正当性によるほかないことになる。こうしてテンノー支配の正当化は人民の保守的な行動様式とメンタリティに依存するものとなるのである。&#13;&lt;br&gt;
　その間に明らかになるのは、日本においては政治的支配の根拠に正当化あるいは規範原理が極めて乏しいことである。古代ギリシアやローマにおいては政治には従うべき法（ノモス）があるという観念があり、インドにおいても法（ダルマ）に従うことは基本的陽性であり、中国においても皇帝は「天命」に従わなければならないとされていた。&#13;&lt;br&gt;
　これに対して日本においては支配は自然所与的であって、そこには従うべき規範原則というものが基本的に希薄である。普遍的規範に変わるも穂は力や便宜や「勢い」のようなものであり、規範的な要素は正直や誠といった心情的な倫理にとどまるものである。この規範的な原理は端的には法ということであり、日本の政治には法の拘束力が弱いという特性が近代にいたるまで一貫している。その背後には人民の法的な思考が不得意であるというという一般的な特性が存在する。法的思考というのは直感的な思考ではなく、個別的なものを一般的なものに包摂し、普遍的なものを特殊的なものに適用するという操作的な思考のことである。法的原則が希薄なところでは、状況主義が支配的になり、臨機応変の変化が可能になる一方で、憲法からヘノコを経て原発に至るまで、何一つ筋の通ったことができない。&#13;&lt;br&gt;
　こうして日本の政治的支配においては支配の正当性を問いこと自体が消極化することになる。その背後に人民の受動性と保守性があることは言うまでもないことである。無論こうした支配にあってもたまには反逆の例が欠けていないが、それは多くの場合間欠的なものであり、体制そのものをといまでに至らない「片隅異端」（丸山眞男）にとどまることになる。支配体制にとってはこうした片隅異端はガス抜きであり、適度に存在した方が支配の安定には望ましいものである。これは思考の側面では論理的というよりは情緒的な特性を持つものであり、それは前頭葉の構造によって規定される部分があるを否定できない。とすると将来は悲観的なものにならざるを得ないであろうが、習慣と訓練により前頭葉も変化するものである。&#13;&lt;br&gt;
　そうした国民的前提の下でテンノー支配の正当化を試みようとしている記紀の叙述には若干の特性が見える。それは政治目的のための歪曲とは別にまず偽善として観察される。出雲は暴力的に服従されることになったが、出雲の「国譲り」と表現される。20世紀になっても、例えば和辻哲郎は、テンノーは支配しようとしたのではなく、人民が自発的に服従したのであると説明する。また孝霊や吉備津彦は大和から追放されたが、それは吉備に進出したと説明される。また大彦は崇神の銅鏡祭祀に反発して近江に銅鐸祭祀施設を作ることになったが、これは崇神が四将軍の一人として大彦を北陸に派遣したと説明される。こうした話法は対面維持語法あるいは受動的行為を能動的な行為であったとする主客倒置語法と言ってよいであろう。&#13;&lt;br&gt;
　記紀の叙述は歴史学の企図ではなく、あくまでも政治的な目的のためのものであるから、こうした叙述法は避けられないことであろうが、それは中国正史のあり方とはかなり違うものである。記紀の執筆者は要するに御用史家であり、歴史家ではない。しかし彼らは後の歴史家の先駆であり、とりわけて御用学者の先駆である。最初の歴史敵執筆者がこのように歴史を政治目的に従属させていることは、その後の歴史学にとってやや懸念されることになろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
Ⅶ　このようにして生まれたテンノーの支配体制は中世や近世においては有名無実なものとなっていたが、明治維新とともに復活することになる。明治維新は近代の市民革命ではなく、テンノーという古代的な原理を再利用することによって近代のチャレンジに対応しようとし、ここに優れて天皇制国家と言われてよいものが成立する。&#13;&lt;br&gt;
　しかしこの古代と近代の原理を折衷しようとした試みに矛盾があることは明らかであり、この体制は第二次大戦において瓦解する。これは近代国家と資本主義が抱える矛盾をテンノーを絶対化することによって解決しようとしたものであり、ここに天皇制ファシズムが生まれる。これはヨーロッパのファシズムとはかなり異なっている。イタリアのファシズムやドイツのナチズムはムッソリーニやヒトラーといったデマゴーグが暴力的は支配体制をもたらしたものであったが、日本のファシズムはテンノーの名によって国民が自縄自縛になり、自分から圧政に従ったようなものである。その帰結が太平洋戦争であったが、これは誰が明確に指導したものではなく、その相互依存体制のもとで戦争になっちゃたものである。戦争の最高責任者は昭和テンノーであったが、彼は戦争の責任は取らず、とぼけてテンノーに居座っている。しかしこれは天皇は神輿であって責任主体ではないというテンノーのあり方に従ったものである。しかしそれはまた戦後の責任回避政治家の先例うともなるものであった。&#13;&lt;br&gt;
　第二次大戦の敗北によってこうした天皇制的な支配は消滅するかのようであったが、それは実はそうではない。丸山眞男は戦争中までは天皇制に肯定的で戦後になってようやく苦しい思いをして天皇制から脱却している。それは天皇制が日本人の自由な人格形成つまり自分の良心にしたって判断し行動して、その結果に対して自ら責任を負う人間つまり「甘え」に依存するのではない人間類型の形成にとって致命的な欠陥を持っている、という認識に到達したからである。&#13;&lt;br&gt;
　明らかなように丸山のこの認識は天皇制それ自体ではなく、そのエートス、いわば天皇制的な精神構造の問題に焦点を置くものであった。私はマルクス主義者ではなかったが、ゼミなどで丸山先生にたてついていたのは、彼は天皇制が民主制の対立物であるというマルクス主義者が明確に認識していたことをよく理解していなかったからなのである。&#13;&lt;br&gt;
　丸山はこうした天皇制の問題は敗戦とともに解消したと思ったようであるが、それは実はそうではなかったのである。そこにはテンノーの制度の存否いかんにかかわらず国民のエートスが存在するということと、実体は異なっても制度としてのテンノーの存在が国民の意識に作用するという二つの原因がある。&#13;&lt;br&gt;
　こうして第二次大戦後テンノーは象徴化されて政治的には無になったと言えようが、エートスとしては復帰したとも言える。今日のテンノーは単に週刊誌に話題を提供するにすぎないものとなっているが、それは社会の天皇主義（テンノイズム）の復活の指標でもある。それは単に週刊誌にとどまるものでもなく、かつてはテンノーに関する著作で発禁処分を受けた岩波書店が昭和テンノーの拝謁記というものを出していることにも窺える。テキストは拝謁記であっても書名としては会見記とでもするのが編集者の見識であろう。&#13;&lt;br&gt;
　教育の場においても、田舎都政をしている東京都の教育委員会は国家を歌わない教員を処分し、教師の思想信条の自由を否定している。このように自由を奪われた教師のもとで従順で自分の考えを持たない人間が大量生産されることになる。大学の自治はかつては教授会の自治であったが、今では学長が決定権者になるようになっているようである。&#13;&lt;br&gt;
　こうしたテンノイズム的管理社会化の瀰漫はおそらくは学術的なレベルにも及ぶものである。今年は日本学術会議が特殊法人になることが決まったが、政府が批判的な学問を警戒するのは今に始まったことではないが、学術会議の人事への政府の介入に当たってこうした措置が学者を委縮させるものであるというような議論があったことは、学術と国家との今日的な配置状況を示すものとして興味深いことである。学者がそれほど気概のないものとなっているかのようであり、現に政府の理不尽な措置に対する学術会議の態度も困惑したりして一貫したものであったとはいえない。任命を拒否された学者の個人情報の海自を求めるというような見当はずれの要求をしていたことは、この国のいわゆる学者の政治的センスを表している。政治は正論を言うだけでは済まないものであって、どういう結果になったかという問題なのである。しかし今日の政治と学問の配置に関しては、すでに国民が選んだわけではない政府御用の有識者に答申させてそれを政策とするという有識者民主主義（？）のようなものが定着し、学術会議は存在意味を減退させているのである。　学術会議が特殊法人化はナショナル・アカデミーではなくなることを意味するであろう。&#13;&lt;br&gt;
　政府に批判的な要素があった学術会議が実質的に解体され、国立アカデミーとしては日本学士院が残ることになる。顕著な科学者を優遇することによって学術を振興させようとする学士院は政府に批判的であり得ないであろうが、近年の学士院は恩賜賞の授与に際して天皇を出席させるようになり、皇室との結びつきを強めているようである。学士院会員は勲章を授与されたものが多いようであるが、あたかも学問は国家のためにあるかのようである。私は大正デモクラシーのことを調べ聞いたときに、宮内庁の参与か何かをしているある東大教授の本を見て参考にならなかったことがあるが、この著者も文化勲章を授与され学士院の会員のようである。学士院はかなり体制化され、学問が国家に従属するかのように見えることにはかつての記紀の御用史家を彷彿させるものもないではない。フランスの学士院も保守性を批判され、サルトルなどは参加を拒否していたが、最近の日本学士院は右傾化したということであろう。&#13;&lt;br&gt;
　こうした学術状況は68年の大学紛争の後遺症と見ることもできる。この紛争に際して気骨ある若者は大学を去り、従順で無批判的、ある意味で要領の良い若者が大学に残ることになったのである。大学紛争の時代こうした学問は何のための学問であるかということなど考えたこともない「専門バカ」と言われたものである。こうした若者では問題意識など何もない小さいテーマを設定して考証のようなものをし、論文なるものが一丁上がりとなる。この傾向は日本古代史などに顕著であり、文化史や社会史のようなものがテーマになり、政治史や天皇制の問題などは回避されているように見える。私が本業ではない古代史に目を向けた際に、アカデミズムからはほとんど裨益するものがなく、教えられるものがあったのは在野のアマチュア研究家のものであったことはこのためだったのであろう。&#13;&lt;br&gt;
　日本学士院の前身である東京学士院の創設者であった福沢諭吉は「学者の職分を論ず」という論文でこの連関のことを問題にしている。福沢は明治維新となった後も「政府は依然たる専制の政府、人民は依然たる無気無力の愚民のみ」う現実を前に、学者の気風を問題にし、これらの学者は「官」があって「私」があることを知らず、「私」にあっては智であっても、「官」にあっては愚であり、政府の上に立つ術を知って、政府の下にいる道を知らず、皆利のために管につきたがり、政府に依頼して青雲の志を遂げようとしており、世の大家先生もこの範囲を脱していないと喝破している。もっとも福沢の議論は政府の範囲を脱して「私立」することの利害得失を言う彼一流の平俗な議論に終わっているのであるが。&#13;&lt;br&gt;
　学者の中の学者であったマックス・ウエーバーは「職業としての学問」という講演で、近代の学問が合理化、理知化して魂を欠いた専門家の仕事になったのは運命であるとしつつ、そこで究極の価値に関わろうとする要求があることを認めるとともに、その際にイザヤ書にあるエドムの斥候の歌にあるようにただあこがれているだけでは無駄であるとし、肝心なのは我々の仕事のとりかかり、「時代の要求」(Forderung des Tages)に取り掛かることであると言っている。私の経験では日本古代史についてのアカデミーの学問は「時代の要求」に応じたものではなかったのである。&#13;&lt;br&gt;
　こうしてみると問題は学問が時代の要求にこたえているかどうかということが一つの問題になろう。今年の日本国民の一人当たりの国民所得は先進国の最下位になったようであるが、経済の衰退は精神的衰退と並行している。貧すれば鈍するであるが、逆にドンするからひんするでもある。&#13;&lt;br&gt;
　今年も新聞記事を素材にしてAIで編集したようなあぶくのような本は無数に出ているようであるが、知的に注目されるようなものは一冊もなかったのではないか。そうした精神状況の結果として国民は初代神武天皇といった幼稚な歴史観しか持ちえず、テンノイズムの浸透の中で没主体性の支配のもとで民主主義も低迷したままになる。多少想像的と言えるのは漫画と絵本くらいのもので、歴史書もエンタメと区別がつかないものになってはいないか。書店は相変わらず減少しているようであるが、コンテンツがなければ書店の衰退も避けられない。これは学問の問題であるとともに政治の問題でもある。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
Ⅷ　今年は米価が急騰するという「米騒動」があったと言われるが、騒動のようなものは何も起こっていない。消費者はぶつぶつ言うだけだが、大正時代の米騒動では米屋の打ちこわしなどがあったのであるから、日本人もおとなしくなったものである。需要供給に大きな変化がないにもかかわらず、合理的な理由なしに米価が2倍にも高騰するということは思惑で利益を得ているところがあるはずである。関税障壁で米作農業を保護して国際競争力のない生産体制をしておきながら、需要面を自由放任にしているのは片手落ちであり、国民の主食に関しては価格規制があってもおかしくはない。&#13;&lt;br&gt;
　今年は戦後80年であったからイシバ首相は退任間際という奇妙なタイミングで所感を発表している。よほど自分の勉強を公表したかったのであろう。イシバ死はどうして戦争を防げなかったのかという問題を出し、それは文民統制がなかったからであるとしている。これは単に形式的な制度上のことにすぎない。なぜなら明治憲法体制のもとでは統帥権はテンノーにあり、文民統制などありえなかったからである。そうした体制のもとで先の戦争は天皇制ファシズムの結果として生じたものであり、誰が明確に主導したということもなく、相互依存行動の中で、戦争になっちゃたのである。国民ももとより戦争大賛成であり、防げるはずはなかったのである。イシバ氏が選挙の敗北の責任を取って退陣することを遷延したのは昭和テンノーが責任を取らなかったことの準じている。国民は戦争はいけないと言っておきながら、を準備している政府を支持しているのが現実でろうる。&#13;&lt;br&gt;
　イシバ氏の後は金権腐敗と放漫財政のアベ・アソーの流れにあるじゃじゃ馬が首相になり、早くも馬脚を現している。この馬鹿一（？）は自民党の総裁に選ばれた時には過労死を称賛するような発言をして奈良の山猿のような野蛮な本性を示すことになる。半世紀前にこの種の日本人は『エコノミック・アニマル』と酷評されたものである。&#13;&lt;br&gt;
　馬車馬のよう妄動するのは下僚のやることであり、トップは要所要所で適切な判断をする見識を持たなければならないものである。政治と金、ではなく自民党と金の問題などには頭がなく、積極財政の名のもとに世界最悪の借金政策を継続させようとしているが、自民党は創立７０年に当たって少数与党化に居直り、自民党の欠陥を集約した奈良の馬（鹿）)総裁を選んだのであろう。&#13;&lt;br&gt;
　就任早々には台湾有事発言で早速日中対立を招くことになったが、台湾有事は中国の内政問題であり日本国の「存立」（？）などには関係がないものである。馬鹿一は台湾有事でアメリカの「戦艦」が攻撃されるような場合には日本国の「存立危機事態」になru&#13;&lt;br&gt;
としているが、これはたまたまの失言というようなものではなく、馬鹿一の識見のレベルが表れたのものであろう。それは従来の政府見解を逸脱するものであり、説明が必要であろうが、何ら説明ができておらず、また馬鹿一の粗雑な頭では説明ができるものでもなかろう。&#13;&lt;br&gt;
　馬鹿一は軽率に虎の尾を踏んで国民に多大な被害を与えることになったが、それを謝罪する謙虚さも持っていないようである。日本の野党はだらしないから、中国が野党の代わりをしているのであろう。通常であれば外相や特使を派遣するところであるが、日中関係の改善に無為無策なのは異常と言えよう。今の自民党には助言をするものもなく、トランプから指(sika) (sika) 導される始末である。官房長官はこれは「米中関係」の説明を受けたのであると設制していたが、この対面保持話法は記紀の執筆者以来の伝統である。太平洋戦争以来大本営発表は信用できないと決まっている。アメリカの本音はG2であり、台湾有事に干渉するとも言っていないにもかかわらず、日本のような中位国が中国と無用なトラブルを起こされたら迷惑なのである。&#13;&lt;br&gt;
　米兵の前で飛び上がるような軽佻浮薄な首相（？）の存在自体が日本国の「存立」危機なのである。その先は、気が付いてみれば戦争になっちゃていたということであろう。知恵遅れの馬鹿一を支持するロバ国民という構図は見慣れた風景である。&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
Ⅸ　もっとも海外に目を向けるならば、よりましなものでもない。アメリカは今では1世紀遅れのファシズム国家になったようである。MAGAということはNAZIということとほとんど同じである。政府を批判するメディアや大学に対する攻撃や内外に対する違法な暴力行使もファシズムと同じである。選挙結果を否定して暴動を起こそうとしたトランプを再選させる国民も愚民化している。もっともトランプは産業を国際競争力のないものにするだけの関税でアメリカを偉大にすると妄想したりする間抜けのファシストにすぎないが。ともあれアメリカは民主制から新たに皇帝を生んだと言ってよいであろう。&#13;&lt;br&gt;
　ロシアのプーチンはウクライナをネオ・ナチを読んで知識不足を露呈したが、ポーランド侵攻を思わせるウクライナを無造作に侵略することによって野蛮さを見せているプーチンの方がネオ・ナチにふさわしい。ロシアは結局はロシア帝国であり、ここにも皇帝が再現する。&#13;&lt;br&gt;
　中国は人民共和国になっても皇帝制の伝統から脱却できず、香港の一国二制度は雨散霧消し、事実上の皇帝が復帰しているようである。日本国は名目上の皇帝を持つ点で最先端にあるが、日本人やロシア人だけでなく、中国人にも民主主義は無理ということか。皇帝のいるところに民主主義はありえない。&#13;&lt;br&gt;
　皇帝の復活は多かれ少なかれ社会のファシズム性を示すものであるが、それには地域による差異がある。西洋的なファシズムはイスラエルのようにポンポンと銃撃殺人をするドライなものであるが、日本などのファシズムは兵庫県に見られるようにパワハラ自殺させる陰湿なものである。無論ドライの方が良いというものではない。&#13;&lt;br&gt;
　皇帝の復活はとりもなおさず民主主義の今日的脆弱性を示すものであるが、それは端的にはウクライナ戦争の和平交渉に見ることができる。アメリカが提示した和平案は侵略者に褒美を与え被侵略者に懲罰を与えるようなものであったが、ファシス・トランプとネオナチ・プーチンと通底しているのは不思議でない。プーチンがウクライナに領土的野心を持つように、トランプはグリーンランドやヴェネズエラに帝国主義的野心を持っており、両名は同じ穴のむじなである。今の人類世界は禽獣社会以下の面を露出させているとも言えよう。&#13;&lt;br&gt;
　もっとも反面でトランプの介入がなければウクライナ情勢が動かないことも確かである。国連は全くの無力で、今の世界に対応力を持っておらず、せいぜい環境問題を扱うのが関の山のようである。結局政治の世界は悪魔と手を結ばなければならない世界であり、悪魔の効用を考えなければならないのである。&#13;&lt;br&gt;
　このように見ると人類が進歩しているかどうかは疑わしくなり、人類の将来には黄金のゴールがあるというようなことは考えにくくなっていよう。&#13;&lt;br&gt;
　このためゾロアスター教の善悪二元論の方が世界の現実により適合しているように見えてくることになる。人類に完成したゴールなどはなく、最後まで戦わなければならないのである。&#13;&lt;br&gt;
　ザラスシュトラとともに、アフラ・マズターに、正義の報酬と善思の支配を祈るがよい・・・・・&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
Ⅹ　An unhappy new year?&lt;br&gt;
</description>
    </item>
    <item>
      <title>終わりの始まり</title>
      <link>https://nambaraca.asablo.jp/blog/2024/12/30/9743314</link>
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      <pubDate>Mon, 30 Dec 2024 20:27:14 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2025-01-01T10:20:38+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2024-12-30T23:07:37+09:00</dcterms:created>
      <description>１　歳末雑景&#13;&lt;br&gt;
　イシバ首相は自民党には珍しい理屈を言うタイプだが、実践には不慣れのようである。&#13;&lt;br&gt;
　彼は新しい政権はできるだけ早く国民の信を問うべきだと思っているようである。しかし国民から選ばれた国会から指名されているのだから、正当性を欠いているわけではない。政権ができるたびに選挙ということになれば始終解散をやらなければならなくなるだろう。&#13;&lt;br&gt;
　明示的に解散がありうるのは内閣不信任案が可決した場合の他は憲法第７条の解散があるだけである。後者は国王が諸身分の意見を聞くために議会を開いていた時の国王大権としてあったものである。だから半分王政のイギリスでは解散があるがアメリカの議会には解散は存在しない。ドイツでは解散の乱用が独裁をもたらせた経験から、解散は首相が不信任された場合に限っている。日本でも解散は首相の専権事項であるわけではなく、第７条の解散は休眠事項にした方がよい。どうしても解散したければ与党が内閣不信任案を可決させればよいのである（建設的不信任）。ちなみに国会の召集などはテンノ―が署名すればよいことであり、国会で詔書を読むというのは滑稽な時代錯誤であろう。&#13;&lt;br&gt;
　今度の新政権は自民党の裏金事件で前政権が中絶したことによっているが、解散するのであればこの事件の徹底した処理が不可欠であったであろう。しかし首相は中途半端なことしかしなかったのであるから、自民党が大敗したのは当然のことであろう。その結果イシバ政権は最初から自殺的レームダックになったが、熟議せざるを得なくなったのは予期しないハプニングであろう。&#13;&lt;br&gt;
　今度の裏金事件は３０年前の愚劣ないわゆる政治改革の帰結であるが、一番の問題は政治腐敗は自民党の問題であったにかかわらず&#13;&lt;br&gt;
政治一般の改革という間延びした問題にすり替えたことである。腐敗政党は政権から放逐すればよいのである。&#13;&lt;br&gt;
　むろん政治に改革の余地は残っている。今問題になっているのは企業献金の問題のようである。企業にも表現の自由があるという奇妙な話があるが、今問題になっているのは表現ではなく、あくまでも献金の問題である。自動車工業会や医師会が多額の献金をしているのは言うまでもなく政策的に配慮してもらうためである。政策は業界を対象にすることはあっても個人を対象にすることはない。だから献金は個人に限定すべきなのである。政治資金規正法がざる法になっていることについて言えば、その第一の要因は何万円以下であれば立件しないという検察の態度である。日本国の検察は権力には甘い反面で、庶民には多くの冤罪を生んでいる。&#13;&lt;br&gt;
　問題になっていないようであるが、選挙制度の改正も必要なことである。前のいわゆる政治改革で小選挙区制と比例代表の並立制がとられたが、少ない議席のところを比例代表にしても、集合論的には比例代表の意味を持たない。ドイツのように比例代表で全体の議席を決め、各議席には小選挙区制をとる併用制には一定の意味があるが、並立制は端的に没理論的である。&#13;&lt;br&gt;
　今度の総選挙では国民民主党が議席を伸ばしたが、これは自民党を忌避した票が流れたことと課税最低限を引き上げるというアピールが功を奏したということであろう。手取り所得を増やすということは耳あたりはよいが、税の減収はじせうぃ支出の削減をもたらし、それを避けたいとすれば借金を増大させることになる。これまでの放漫財政と「金利がある時代」になって驚いたりする間が抜けた財政運用の結果、世界最悪水準の日本の財政は予算の四分の一は国債の返済と利払いに向けられており。財政破たんは目に見ている。国民個人にとって得のように見えることも財政的には国民に不利になって跳ね返ってくる。課税最低限の引き上げということは大衆迎合、典型的なポピュリズムである。その際SNSが有用であったことはこれからの選挙の問題点を示唆している。&#13;&lt;br&gt;
　しかし自民党が大敗しても政権交代は起こっていない。ここには野党の問題が潜在している。そもそも公明党は政策的には野党に近いにもかかわらず与党と野合しており（半自民党）、政権交代を困難にしている。維新も保守改革の党であり（第二自民党）、国民党も元来が保守的な党である（第三自民党）。野党の多くが保守的であるから、立民党はよほど野党協調をうまくやらなければならない。しかしこういう機会を逃したのでは、立民党が政権を取るのは困難であろう。&#13;&lt;br&gt;
　日本の政党が自民党化する背景の一つに自民党が国民政党であると僭称していることがある。フランス革命のときに「国民」とは第三身分であると宣言されていたが、その意味で自民党は国民ではない。自民党は既得権益の有産者政党だからである。だからそれは当然に保守政党になる。その他は概して無産者政党であるが、男女間に中間地帯があるように、有産者と無産者の違いは截然としたものではなく、境界は流動的である。&#13;&lt;br&gt;
　こうした保守的な政党構造のもとでは、自民党が国民政党と仮構することも可能になる。しかしその背景には国民自体の保守性があるであろう。自民党と国民との関係は、夫が不倫しても離縁できない妻のようなところがあり、夫を取り替えること、つまり政権を取り替えることをせず、せいぜいお灸をすえたり、多少すねたりするだけである。これは韓国とは大変な違いである。&#13;&lt;br&gt;
　韓国では多くの大統領が退任後逮捕されたり投獄されたり、政権の交代は日常茶飯事である。韓国には瞬間湯沸かし器のように不安定なところがあるが、民主的という点では韓国の方がそうである。日本は外見的には安定しているが、その実態は停滞である。注目されることは、こうした韓国は一人当たりの国民所得では日本より上になったことである。朝鮮半島からやってきた権威（？）をありがたり、個人の自由を抑止する日本国は、個人の自由を活性化する国に負けるのである。大勢順応のこの従順システムはすでに行き詰まっている。&#13;&lt;br&gt;
　今年のノーベル経済学賞を受賞したアメリカの経済学者は、国の衰退は経済だけでなく法治主義が徹底しているかどうかということが関k令しているとしている。このことは大統領の犯罪をふい門にしようとするアメリカというよりも日本国に当てはまるであろう。その最たる例は日産のゴーン氏事件である。&#13;&lt;br&gt;
　ゴーン氏自身やや思い違いをしているようであるが、この事件では人質司法というようなことは付帯的なことであり、核心ゴーン氏がはルノーと経営統合しようとしたという不確かな情報をもとに、偏狭な経済ナショナリズムで、日産、経済産業省、検察が連携して、役員報酬の過少表記という笑うべき理由を挙げて、ゴーン氏を政策的不当逮捕、拘束し、失脚させた国家犯罪だという所にある。これはあたかも買収交渉をしていたUSスティールの会長を逮捕するようなものである。こういうことをしている国家が衰亡していくのは当然のことである。日本国がなおかつ法治国家であるというのであれば、特別検察官を任命して事件を徹底的に調査すべきなのである。ゴーン氏も政治的迫害を受けたとして国際司法裁判所などに救済を求めるべきであろう。&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
２　国民番号&#13;&lt;br&gt;
　被統治者の側では日本人には国民番号（マイナンバー）が与えられて管理されている。今年はこれを健康保健証に一体化して健康保険証をなくすとされた年である。ここには基本的な間違いがある。マイナンバーは任意的なものとされているのに対して、国民皆保険を前提にする限り、健康保険証は必須のものだからである。任意的なものと必須なものは一体化できない。無理にそうしようとするならば、健康保険証が任意的なものとなることになる。マイナンバー保険証を持たない国民の四分の一は無保険者になる。保険証と同じような資格証明書を発行するということであるが、保険証を継続していれば済むことであり、無駄なことである。そして資格証明書も有効期間は５年とされているから、５年後には無保険者になることは同じである。日本国はオバマケアが廃止晴れて再び無保険者が増えようとしているアメリカと同じようになろうとしているのである。&#13;&lt;br&gt;
　国民の健康を守るということは政府の基本的な任務であるが、国民皆保険の崩壊をもたらしうるこの変化が、デジタル化という名目でなされようとしていることは注目されることである。デジタル化は手段であって目的ではないが、デジタル後進国では往々にしてデジタル化自体が目的化して暴走することになる。そもそも保険証の廃止がどのようにして決定されたのかも不明である。コーノとかいう世襲三代目のボンボン大臣が行ったことであるとも言われるが、アリストテレスは政治家の要件として思慮分別（フロネーシス）ということを挙げていたが、思慮分別は世襲できるものではない。この言われていることが正しければ、保険証の存廃は厚生労働省ではなくデジタル庁が決めるということになりかねないであろう。健康保険という基本的な政策決定過程が明らかでないということは、軍事費の大幅な拡大の目的が不明で金額だけが閣議で一方的に決められたことと同じである。基本的政策決定が民主主義の原則から離れている。&#13;&lt;br&gt;
　健康保険のこうしたあり方は７５歳以上の人間を「後期高齢者」とする用語にも現れている。この用語は７５歳以上のものはできるだけ早く死んでほしいという含意を持つであろう。人間の尊厳にはふさわしくないが、人間を管理対象物とする役所の本音を示すものであろう。こうした後期高齢者の扱い方は、他方での少子高齢化のしわ寄せでもある。高齢者の保険料や自己負担は増大する一方であるから、後期高齢者健康保険は脱退した方がよいということにもなろう。日本では労働人口を増やしたい一方で、非生産的な後期高齢者の福祉は削減されることになる。だがこのシステムでは労働者もやがてポイ捨てになる。かつて福祉国家はゆりかごから墓場までと言われたものxであるが、日本国ではベビーカーから無縁仏へであろう。この変容には貧すれば鈍するという面があるが、いずれにせよ日本国は再び姨捨国家になろうとしているのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
３　公共性の崩壊&#13;&lt;br&gt;
　今年のと知事選挙では、はっきりした政策もなしにただ人を動かそうとするだけの扇動家がSNSを使用して大量得票をしたり、売名目的の魑魅魍魎のような泡まつ候補が乱立するという異常が見られたが、それが極端化して由々しい警告を出しているのは兵庫県の知事選挙である。&#13;&lt;br&gt;
　この知事には在任中から役得を要求するとか威圧的態度をとるとかの大したことのない欠点があったようであるが、それが報道各社への告発によって表面化することになる。&#13;&lt;br&gt;
　後に告発者はこれを公益通報とすることになったが、知事は公益通報に当たらないとしたようである。まず第一に告発された知事がその判断に当たることは利益相反であり、不適切である。さらに知事は公益通報の判断がなされ前に職員のパソコンを調べたり犯人探しをして懲戒処分をしているが、これは告発した職員に対する単なる報復行為であり、また公益通報者保護の趣旨を理解しないものであろう。その結果として告発した職員が自殺したことに道義的責任はないかと問われた知事は「道義的責任の意味が分からない」と答えていることは、この知事には良識面で欠けるところがあることを示唆するものであろう。のみならずこの事例はハラスメントによる重大な人権侵害の疑い、刑事事件の可能性があり、遺族には補償請求が考えられるであろう。&#13;&lt;br&gt;
　この知事も東大法学部の出身の役人であったようであるが、中央省庁のトップになるだけの能力がないものは国会議員になったり、地方の自治体の首長になったりして小権力をふるいたがる者がいる。東大法学部には目的合理性だけしか頭になく価値合理性には盲目な田舎秀才がいたものである。この知事にはまた単細胞的に不適切なことでもまじめかつ熱心に追求しようとする維新的な要素もあったようである。&#13;&lt;br&gt;
　しかし県会議員全員から不信任された人物が再当選したということには、この選挙には異常な力が働いたことを予想させる。県庁でいかがわしいことをする人物は選挙でもいかがわしい行動をする。それは知事が広告会社に選挙運動を依頼したことによっている。選挙に広告会社を利用することになると、候補者や政策は売られるべき商品となり、選挙自体がコマーシャル化されることになる。&#13;&lt;br&gt;
　この広告会社は大量のインフルエンサー等を導入してSNSを発信し、その印象操作によって酷薄・狭量が予想され人格的に問題がありそうな知事が「善人」であり、告発の犠牲者であるという真逆のイメージが出来上がったようである。こうしてこの知事を当選させた兵庫県民が、職員の人権よりも自分たちの利益を優先させたことも無視できない。&#13;&lt;br&gt;
　この選挙では対立候補の支援団体のSNSアカウントが虚偽の発信をしたという偽りの申し立てによって停止されるという重大な選挙妨害が生じている。広告会社は「広報全般」を請け負っているから、妨害活動も請け負ったのであろう。この広告会社は公職選挙法違反の容疑で告発されているから、徹底的な解明がなされることが望ましい。&#13;&lt;br&gt;
　SNSの利用は一見すると直接民主主義の意味があるように見える。その背後には在来のマス・メディアの後退があるようである。受信料を徴収するという特権的な位置にあるNHKは受信契約の意味も理解せずにすぐに裁判に訴えるという権力的は態度を取り、朝日新聞などの大新聞は体制化してお座なりな決まり文句を流しているから相手にされなくなったのは不思議ではない。&#13;&lt;br&gt;
　しかしSNSの情報は在来のマス・メディアのような真偽のチェックきのうはないから偽情報が自由に流通し拡散することになる。さらにSNSは私的言説の発信であり、それを統合する機能は存在しないから、社会的意思形成に寄与するというよりは、同じ意見の組織化に向かい、合意というよりは分断に作用する。SNSというミ二・メディアの特徴は商品広告と同様に好悪反応・反射的であるから、草の根では政治に求められている熟議とは反対の動きがあることになる。こうして見るとSNSは民主政治に寄与するよりの衆愚政治に直結すると言った方が当てはまっている。&#13;&lt;br&gt;
　この現象は一般化すればSNSによる公共性の崩壊ということである。半世紀前にユルゲン・ハーバーマスは１８世紀ころに生まれた市民の意見交換から生まれた公共圏の機能を公共性と呼んでいるが、これは市民の討議による意思形成という意味で民主主義の基底にある機能である。彼によるとこの公共圏は権力（政府広報）と資本（広告産業）の登場によってゆがめられるようになり、それを公共性の構造転換と呼んでいる。この転換はSNSの登場によって崩壊に瀕するようになったと言ってよい。&#13;&lt;br&gt;
　選挙の場では従来の対話型の運動はアナログ的なものであって、有権者は候補者を丸ごと把握できるところがあった。デジタルなSNSは身体性を持たないものであって、私的言説が直ちに政治の場を覆うことになる。あるいは公共空間が私的空間になり、政治機能は失われる。ここには討議的な機能がないだけでなく、容易に商業化と結びつくことになる。こうしたメカニズムがファシズムにもつながることは予想されるところである。&#13;&lt;br&gt;
　アドルノ等はこうした広告機能を「大衆欺瞞としての啓蒙」と呼び、文化産業はそれが当てはめようとする型通りの人間を再生産すると言っている。この消費者たちの強制された模倣の中では、個人性はほとんど［白く輝く歯］以外のものを意味しない（『啓蒙の弁証法』）。&#13;&lt;br&gt;
　知事選挙で兵庫県民はこの「広告の勝利」に屈したのであろう。止k氏兵庫県民が特に愚かということはありえないであろうから、これは付和雷同を得意とする日本人一般について言えることであろう。&#13;&lt;br&gt;
　このようにSNSは厄介な問題を抱えており、何らかの規制も考えざるを得ないことになる。オーストラリアでは１６歳以下のSNSの利用を禁止したが、マッカーサーは日本人は１３歳であるとしていたから、その伝では日本人には全面禁止も考えられよう。今年のルーマニアの大統領選挙ではSNSが投票を誘導したとして憲法裁判所が無効であるとしていた。ルーマニアの基準では兵庫県知事選挙は完全に無効であろう。もっとも選挙時のSNSの使用制限自体困難な問題である。だが少なくとも選挙運動に広告会社を利用することは禁止されるべきものである。政治に関心がない若者が詰まらない公告に誘導されていることに関しては、無関心なものに無理に投票させることはなく、したがって選挙権は自動的に与えられるのではなく、政治に関心があるものだけが登録するというアメリカの登録制が一案であろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
４　homo sapiensの終焉？&#13;&lt;br&gt;
　デジタル技術の精華であるSNSは人間生活を便利（？）にするとともに、脅かすようにもなっている。通信技術の進化は犯罪技術の進化ともなり、詐欺の増大はその一面でもあろう。しかし根本的にはデジタル的知性は従来の人間の知性のあり方そのものに変容を与えつつあると言えよう。二進法に立脚するデジタル技術が人間を単細胞化していくことは容易に見通されるところであり、その電算的知識は人工知能（AI）も生み出すが、それはまずは在来の人間の智慧（フロネーシス）を放逐するという性格を持っている。かつてルソーは際限なく進展する人間の文明のあり方に不満を持ち、それを人間の「完成能力」というあまりぴったりしない呼び方でしている。確かに人間以外の動物は単純再生産をするだけであるが、人間だけは拡大再生産し、そのあり方を変容させている。ルソーはそれを患いであるとして「自然」に帰れと叫んだわけである。しかし歴史は不可逆的であり、人間の「自然」も実は明らかでない。&#13;&lt;br&gt;
　ルソーは文明を人間の「自然」に反するとしたが、それは人間の本性から離れることであったと言ってよい。後にマルクスはこの人間の本性から離れることを「疎外」であると表現することになった。彼によると近代において人間を疎外させるのへ「資本」であるとし、人間の資本の論理からの解放を唱えることになった。デジタル技術の時代に在っては、この資本は「情報」であると言ってよく、あるいは情報が新しい資本になったと言えよう。そうしてデジタル時代になって人間は多分に情報に従属し、それはまたデジタル知性に従属することであると言ってもよい。かつて人間を特徴づけていた「知」が外部知性に従属するということは、人間が人間でなくなること、人間の自己疎外の完成であろう。&#13;&lt;br&gt;
　それを端的に示すのは人工知能であり、人間は幾分人工知能に従属するようになっている。人工知能は今のところ従来の知識の集合体であって、創造能力はないとみなされているようである。しかしそれは反面で人工知能が確実なもので、創造力は誤差にすぎないという見方につながるものである。つまり人工知能はかつてつかみどころのない弁証法に対して実証主義が主張していたことと通じるものである。そうなると人工知能が科学的なものであり、それ以外の考え方は単なる主観の幻想にすぎないということになるであろう。もしこうした時代が来るとすれば従来の人間の定義は成り立たなくなり、ユートピア＝デストピアの素晴らしい新世界も生まれるであろう。それにどう対処するかということはここのテーマではない。&lt;br&gt;
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    </item>
    <item>
      <title>ふるさと納税あるいはraccoon dog</title>
      <link>https://nambaraca.asablo.jp/blog/2024/06/20/9694730</link>
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      <pubDate>Thu, 20 Jun 2024 20:14:39 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2024-06-23T10:30:03+09:00</dcterms:modified>
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      <description>　私は10歳の時から東京に住んでいるが、東京が故郷と思ったことは全くない。それは出生地でないということだけでなく、東京には単なる地域以上の特性がないためである。弁証法的理性批判の用語を使うと、東京は集列体（セリエ）であって集団ではない。&#13;&lt;br&gt;
　東京は都道府県という地方公共団体であるとともに首都であるという二面性を持っている。それはまた首都部分と多摩あるいは武蔵地区に分けられる。この首都部分は地区の集合体であって、東京市といった独自の自治体をなしていない。ここには市民というものはないわけである。&#13;&lt;br&gt;
　大阪は都になりたがっていたようであるが、無駄なことであろう。都になると府と市の二重性は解消されるであろうが、市民不在となり、自治性は損なわれる。むしろ東京が大阪や京都のように府制にした方がよいくらいである。&#13;&lt;br&gt;
　首都としての東京が集列的なものになるのはその成立に由来&#13;&lt;br&gt;
している。今でも東京の住民の多くは里帰りと言われる移動をしている。彼らの根は地方と言われる田舎にあり、東京では浮草の居留民である。こういう滞在者が市民として自治の担い手となるのは困難であろう。トミンの多くが田舎者だから、東京は狸が出る巨大な村なのである。&#13;&lt;br&gt;
　確かにリスクの多い都会よりはのどかな田舎の方がよさそうであるが、田舎には共同体規制があり、自由が制限されている。最近の政治学者（？）の中には田舎の寄り合いを民主主義の原型のように早合点するものも無きにしも非ずのようであるが、寄り合いは同調を強いられる場でもあり、不同意は村八分につながる。だから「都市の空気は自由にする」のであり、リベラルでなければ都会ではない。&#13;&lt;br&gt;
　他方で昔からの江戸っ子がいるが、その多くは江戸の町人に由来する。江戸町人というのは支配はお上としての役人に任せ私的利益を追求する。町人は市民とは異なって支配の主体とはなろうとしないものであり、政治的自由の圏外にある。こうして東京では内外両面から能動的市民とは無縁だったのである。&#13;&lt;br&gt;
　近代になって封建制度は一応は解体されたが、それはほとんど忘れられていた皇帝を持ってくることによって統一を図ろうとするものであり、前近代のプリミティブな受動的な随順という精神傾向を温存し利用するものであった。一方でテンノーを崇め、他方で他人指向で主体の自由を抑止する独特の政治文化が生まれる。西洋的な制度を導入しても、仏作って魂入れずであるから、民主主義や憲法も妙なものになる。&#13;&lt;br&gt;
　イニシャティヴを持った能動的な市民が生まれるようになったのは１９６０年の安保闘争のころからである。しかしそれも社会の保守化が進んだ２１世紀になるとともに交代することになる。そうしてそれを体現しているのが首都だったのである。&#13;&lt;br&gt;
　この文脈で近年の東京で特徴的なことは東京都教育委員会は君が代を詠わない教員を処分していることであろう。東京都の教員は思想史温情の自由という基本的な人権を奪われている。これは極右的作家の石原知事が始めたことであるが、コイケ知事は教育的見識など持ち得ない下水道局長とかの単なる行政職員を教育長に任命して踏襲している。&#13;&lt;br&gt;
　コイケ知事に特徴的なことは慣例となっていた関東大震災に犠牲となった朝鮮人犠牲者にメッセージを送ることを拒否していることであろう。ここにはコイケの歴史認識の程度が現れている。&#13;&lt;br&gt;
　さらにコイケは横田基地の地下水汚染の問題について調査を使用ともしていない。これがコイケの都民ラースト主義ということであろう。&#13;&lt;br&gt;
　あるいはコロナの問題の際には国が基準を示してもらいたいという受動的な姿勢が顕著であったが、国家優先主義的な発想の結果であろう。地方政府としての自覚という点でと知事は沖縄県知事よりはるかに遅れている。こういう知事の人気があったということはとりもなおさず都民が田舎者であるということにほかならない。&#13;&lt;br&gt;
　コイケの反リベラル的な傾向は他の自治体に先駆けてカスハラ条例なるものを導入しようとしていることであろう。カスタマーということが消費者であるならば、それはまず消費者庁が取り上げるべきとであろうが、あえて自治体がそのハラスメントを取り上げるということは、要するに都庁に対する批判を禁止しようということであろう。だが従僕が主人に叱られるのは当然のことであり、公務員は住民の声を聴かなければ適正な判断ができないものである。より問題なのは逆にオフィサー・ハラスメントの方である。すでに「権利の乱用はいけない」という迎合的な声が聞こえるが、都民の由来から見てより当てはまるのは「権利の上に眠るものは権利を失う」という法諺の方である。&#13;&lt;br&gt;
　コイケの反リベラルの反動的な国権優先主義はマイナーカードに見るような国民に対する統制管理の強化、中央政府の地方自治体への指示権の拡大、地方自治の破壊という自民党政府の路線と合致している。&#13;&lt;br&gt;
　その背景にあるのはやはり東京における市民の受動性であろう。政府よりは財政に余裕があるパイをわけることであればだれにでもできることである。トミンは能動的市民として何かをやらせるのではなく、施政者に何かをやってもらう受動的市民、顧客（クライアント）にすぎないものとなっているようである。それはえさを求めて口を開いている小池の小鯉であろう。&#13;&lt;br&gt;
　この反転した世界がどのようにして生じたかということの蛇足としては旧ソ連の権威主義的な建物を想起させる都庁舎があろう。神宮の木を切るよりは都庁舎を解体する方が都民のためである。&#13;&lt;br&gt;
　コイケの特徴を集約しているのは学歴詐称のエピソードであろう。コイケはカイロ大学２年の時に進級試験に不合格になって帰国しているから留学しただけのことであろうが、卒業証書なるものがあるという珍現象は興味深い。柿の葉を小判にするのはraccoon dogの得意技であった。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　私は20年ほど前から東京の府中市に住んでいるが、私の叔母は前からここに住んでいる。府中市というところは古い保守的な町である。叔母は合併前の多磨村の小学校のＰＴＡ会長をしていた時に、村の当局の頑迷さに業を煮やして村会議員になり、合併して府中市になった時には一基だけ市会議員をやっている。この叔母というのは後に婦人有権者同盟の会長をしていた松浦三知子である。彼女は審議会で一緒になった委員について「最近の東大教授は小心者だね」などという反面で、また「最近の若い会員のものの見方は甘いね」などと言っていたが、これはその後の婦人の位置や労働運動の現状、ひいては日本没落の背景となるものであろう。&#13;&lt;br&gt;
　府中市の保守性は政府の問題がある政策に先駆けているところにも見られる。最近ではマイナンバーカードの利用などがそうであるが、一般的に問題なのはそれと健康保険証との一体化の問題であろう。&#13;&lt;br&gt;
　マイナンバーカードは任意のものとして導入されたが、それと健康保険証を一体化することになるとすれば、必然的に保険を持たない人間が大量に生まれることになる。おそらく国民の四人に一人は無保険者になるであろう。今の劣化した政治家はこの中学生にもわかる単純な理屈が理解できないものとなっているのである。保険証がなくなることで国民皆保険も崩壊する。&#13;&lt;br&gt;
　国民皆保険というのは世界の福祉国家の出発点にあったものである。これが崩壊するということは福祉国家の起点が崩壊するということである。福祉政策を担当している厚生労働省は、例えば当初コロナの検査に二万数千円を設定していたことがしめすように、その認識の遅れには度し難いものがあるが、保険証の廃止によって日本の福祉史上最大のスキャンダルを生むことになろう。&#13;&lt;br&gt;
　明らかにマイナンバーと保険証の一体かということは単に技術的な問題があるということではなく、国民皆保険の原理に関することである。無論そこから漏れる人の多くがアナログ的高齢者ということはあるであろう。その意味では保険証の廃止は高齢者の切り捨てになる。社会が困窮化するとまず犠牲になるのは高齢者であり、これは現代のオバステのように見える。&#13;&lt;br&gt;
　だが必ずしもそうではない。痴呆のようにいつも薄笑いを浮かべている往生際の悪い現首相は税務担当に数万円の減税を明記するように小細工をしているが、その反面で今の日本国の財政は国家予算の10倍の借金を抱え、プライマリー・バランスがどうのという域を越えて破産の瀬戸際にあることを理解していない。今年だけでも借金の利息１０兆円を無駄にどぶに捨てている。１０兆円あれば大抵の政策は楽にできるものである。だがこの利息は金利の上昇によって何倍にもなるものであり、その時には予算の何分の一かは利払いに捨てられるという悲惨なことになるであろう。その意味で日本国民の苦難は前途にあるというべきであろう。巨大な債務の重圧のもとにあり、医療保険も出鱈目になろうとしている日本では死ぬことは早い者勝ちなのである。少子化になるはずである。少子化の最大の原因は国のリーダーが劣化して将来が見通せないことにあるのである。&#13;&lt;br&gt;
　政府の間違った政策に追随している府中市はいかにも保守市政らしいところであるが、私が移転してきたころは府中市南口の再開発が行われていた。その中核になっていた伊勢丹は十数年後に撤退し、後は雑居ビルのようになっているが、これは市の企画力の問題でもあろう。&#13;&lt;br&gt;
　しかし私は時に図書館を利用するくらいしか市には関わりしか持たない。ところがしばらく前に図書館から返却した本に汚れがあるから同じものを本屋で買って弁償してもらいたいという電話がかかってきた。心当たりがなかったので見に行くと表紙の裏に二つほど斑点のようなものが付いていた。こういうものに現物弁償を求めるというのはオフィサー・ハラッスメントの例であろう。もっとも府中市の図書館は運営会社に委託しているようであるから、これは民営化の問題でもあろう。民営化では図書館も貸衣装屋のようになり、本来の市民サービス性が没却されることにもなるのであろう。私はもう図書館は利用しないことにした。&#13;&lt;br&gt;
　図書館の民営化は人件費の削減を理由としているようであるが、他方で利用者がるのかわからないようなサッカー場をラグビー場に改修すると言ったことをしているが、これは市長の個人的な関心からくるもののようである。&#13;&lt;br&gt;
　最近の府中市で特徴的なことは土建事業で官製談合があったということである。市長は監督責任を取って辞任するのがふさわしいところであるが、今年の市長選挙には再出馬している。この市長は市政の見識などなさそうな幼稚園長であるが、祖父が多磨村の村長をしていたようであるから地元の古い層に属するのであろう。選挙の際にはどこでもやっているコロナの実績の他土建事業にやり残しているものがあるというような理由を挙げていたようである。そこに癒着の土壌もあったわけである。隣の国立市では最近景観上の理由で完成直前のマンションの解体が命じられている。両方の違いは住民意識の低さと高さの差異であろう。&#13;&lt;br&gt;
　この選挙で感心しないのは、市長が共産党と生活クラブ以外の自民党や立憲民主党などすべての議員から支持を取り付けていたことであろ。これらの議員は市の予算の説明などして市政と一体化しているが、これでは官製談合の監視などできないだろう。保険証の廃止については少なくない自治体の議会が反対の決議をしているが、府中市では考えられもしないことであろう。&#13;&lt;br&gt;
　今年の市長選挙に幻滅して私は自治会を脱退した。市政に感心できないと市政に末端サービスしているような自治会も衰退する。&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
　府中市の官製談合が発覚していら私は東京への税金の支払いを少なくしたいと考え、ふるさと納税を始めた。私が生まれたのは五歳まで住んでいた四国の高松市であるが、ここもそれほど関心するところではない。&#13;&lt;br&gt;
　１０年ほど前であったか、市が汚水処理場を廃止するにあたって調べたところ、施設の中に私名義の土地があるが、現況は市の施設であるから寄付してほしいという文書が送られてきた。この汚水処理場は市の中心から遠い所にできたものであり、結局市の中心にある施設に一括することになったもののようである。このために国立公園の中にあった浜辺はつぶされてコンクリートの壁ができることになった。住民の声を聴かないおろかな建設であったが、私の生家はこのあたりの地主の家であったから、所々に売れ残った土地があり、それが買収漏れになっていたのであろう。この田舎でしか通用しない厚顔無恥の申し入れを私は断ったのであるが、その後市が時効取得したという通知が届くことになった。それがどうなったかは知らない。&#13;&lt;br&gt;
　それより少し前には、私名義の私道を市道にしたいから寄付してほしいという申し出があった。私の先祖は地元を搾取したかもしれないので、私はうっかりと１００坪ほどの土地を寄付したことがある。しかし市からは礼状一枚来ていない。こういう所にふるさと納税するのは難しいであろう。&#13;&lt;br&gt;
　結局草の根ののどかな田舎が必ずしも都市よりましなわけではなく、両者は両面現象である。７０年ほど前に『二十四の瞳』という映画があり、その主題はのどかな田舎にも戦争の影が押し寄せてくるというものである。それは国は悪いが地方はよいというものではなく、地方のあり方が国のあり方の土壌になっているということである。この映画の初めに高峰秀子が、天皇陛下はどこにいるかと聞いているが、テンノーをありがたがる素朴な臣民の従順性が戦争とファシズムの土壌になり、上の権力に盲従する校長がその中間管理者になっているということなのである。&#13;&lt;br&gt;
　付け加えると私の生家は今は古民家再生の対象となり「旧南原亭」というカフェになったようである。この家は私の曽祖父の千太郎が小学校長をしていた大正時代に建てたものであり、第二次大戦後の農地改革によって没落して家屋敷も手放されていたものである。すでに故人になった自分の記念のようなものとして再生されたわけである。行政と違って民間は味なこともやるものである。&#13;&lt;br&gt;
　私の故郷というとこの父方とともに、高松の南の西植田には母方の家がある。江戸時代に作られたこの家はより古民家にふさわしいものである。私が生まれるのと前後して祖父の鎌野藤太が死去しているが、彼は岡山の犬養毅に師事して民政党の香川県常任幹事をするとともに県会議員もしていた。この時期は民政党から政友会に転向する議員が多く、藤太は孤軍奮闘しており、時の若槻礼次郎首相も激励に来ていたようである。しかし藤太は県議を一期だけでやめ、実業に復帰し高松琴平電鉄の社長などを務めていた。その中核駅の瓦町駅は天満屋デパートが撤退した後は集合ビルのようになっているが、これは地方中都市の一般的光景なのであろう。この藤太の次女が松浦三知子である。これが私の生い立ちの環境であった。&#13;&lt;br&gt;
　私の第二の故郷と言えるのは小学校時代を過ごした京都市であり、ここには三条大橋の改修向けにふるさと納税をしている。&#13;&lt;br&gt;
　今年はさしずめ地震にあった能登半島が考えられるであろう。しかし影像を見ると家屋や道路の耐震性が不足しており、これは人災の一面がある。能登半島は地震の巣のような所として知られていたのであるから、石川県などの地震対策の遅れが被害と犠牲を大きくしたことを否めない。その点では政府から地方自治の不当な破壊を受けた沖縄の方がより支援にふさわしいであろう。&#13;&lt;br&gt;
　しかしふるさと納税は返礼品があるから純粋な寄付とはいいがたい。最近私が寄付したのは「国境なき医師団」である。&lt;br&gt;
</description>
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    <item>
      <title>ガラパゴス国家の終焉</title>
      <link>https://nambaraca.asablo.jp/blog/2023/12/29/9646841</link>
      <guid>https://nambaraca.asablo.jp/blog/2023/12/29/9646841</guid>
      <pubDate>Fri, 29 Dec 2023 20:08:24 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2024-01-02T10:27:45+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2023-12-29T23:43:22+09:00</dcterms:created>
      <description>　失われた30年ということが言われる。確かに３０年前はこの国のGNPは中国を上回っていたが、今では三分の一以下である。一人当たりの国民所得は、この時期が始まったころはこの国はG７で首位であったが、今では最下位である。もっともその前の高度成長期には日本人はエコノミック・アニマルと呼ばれていたのであるから、こういう経済的数値自体は大した問題ではなかろう。しかし近代史においてこれほど急速に転落した国家は珍しいことであり、興味ある現象である。そしてそれは単に経済だけの問題ではないはずである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
a&#13;&lt;br&gt;
 政治的にはこの時期はいわゆる政治改革の時期である。失われた３０年は政治改革の３０年に符合する。&#13;&lt;br&gt;
　この政治改革というものはよく言われるように、いわゆるリクルート事件にみられるような自民党の腐敗に端を発したものである。長期政権の下での権力腐敗である。&#13;&lt;br&gt;
　しかし政治改革では自民党の腐敗が政治の腐敗一般にすり替えられ、政治の金権腐敗は派閥政治があるためであるとされ、それは複数の自民党議員が立候補しうる中選挙区制にあるとされて小選挙区制の導入ということになった。だがこれは自民党の都合によるものであり、自民党本位の改革（？）であって、政治制度全体が巻き添えにされ、いわゆる政治改革には欺瞞があったのである。&#13;&lt;br&gt;
　この改革（？）によって選挙は政策中心のものとなり、二大政党的なものが生まれ、政権交代も容易になるだろうと喧伝されたものである。しかし政治改革が始まる前年には細川非自民党政権が生まれており、事実上の政権交代がなされていた。その後の３０年の間にいわゆる政権交代があったのは鳩山政権が生まれた時だけであり、それも政策選択というよりはムード的なものであった。こうして自民党政権は復活することになり、政治改革は結果的には自民党の救済策であったといってよい。&#13;&lt;br&gt;
　それだけでなく小選挙区制の導入は少数政党を淘汰することになった。単独では当選の可能性がない公明党は自民党にすり寄ることになり、自民党の補完勢力になった。かつては平和政党といわれたこの政党は、敵基地攻撃を承認するまでに自民党という金魚の糞になったのである。他方でかなり原則的な論点を提出していた共産党は連携がうまくいかずミニ政党になることになった。こうしてこの国の政党の構図は右に傾斜し、政権交代はかえって困難になることになった。&#13;&lt;br&gt;
　いわゆる政治改革が失敗した一つの原因は政治というものを単に制度的にとらえようとしたからであろう。政治というものは結局政治家を含めてその国の民度以上にはならないものである。問題があると制度の問題にしようとするが、政治というものはゲームでもあり、机上の制度通りにはならない。腐敗があればその政党を権力から追放すればよいのであり、ゲームの途中でゲームのルールを変えるのは角を矯めて牛を殺すことになる。腐敗政党が失脚することは政治の自律反転ということである。だから制度いじりではなく、ゲームを進行させ、権力を交代するが最も良い政治の改革なのである。&#13;&lt;br&gt;
　このいわゆる政治会改革の最大の収益を得たのはアベ政権であった。政治改革はアベ政権を準備し可能にしたといってよいであろう。いわゆる政治改革は小選挙区制の導入とともに権力を集中させて、効率化を図り、首相官邸の主導性を確保するものであった。こうしてアベ政権は秘密保護法などの反動立法を成立させ右傾化を鮮やかに示すものとなった。&#13;&lt;br&gt;
　しかしこの独裁的権力は当然に再び腐敗することになり、森友、加計事件のような権力の私物化を招くだけでなく、さまざまの不法行為をもたらすものであった。その最悪のものは無実の人間を犯罪者にしようとした日産のゴーン氏事件であった。&#13;&lt;br&gt;
　この政治の劣化の背景にあるのはいわゆる小選挙区制導入によるによる政治家の劣化であろう。これも自民党だけのことであるが、国会議員は人口４０万人程度をテリトリーとする利権ブローカーのようなものになり、こうした議員に国際政治はもとより内政についての見識を求めることはできないことになる。議員の三代目の世之助化である。&#13;&lt;br&gt;
　マルクスは歴史は二度終わるといっている。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。アベは右派宗教団体との近さから流れ弾に当たったが、そのあとに出てきたキシダ世之介は、党内党の派閥はつまらないものであるが、リベラルなところがあった宏池会の本性を知らず、それと対極的なアベ派的なことをするほどに滑稽で無知蒙昧なところがある。&#13;&lt;br&gt;
　思いつくことを挙げればまずマイナンバーカードのことがある。これはキシダが考え付いたものではないが、健康保険証と一体化することにしたそうである。マイナカードはもともと任意のものとされていたが、健康保険証と一体化するものであれば、事実上義務化するということであろう。任意のものとして導入されたものがいつの間にか義務的なものにされるということは、政府が国民をだましたということであろう。こういうことをする政府は全く信用できないことになる。&#13;&lt;br&gt;
　さらに重大なことは、健康保険証を廃止するということは、何千万人という国民を無保険者にするということである。これは福祉国家の出発点である「国民皆保険」の原理を破壊するものである。こういう粗雑かつ乱暴なことが生まれるのは医療行政の専門家でなく、単なるデジタル技術者が切り回しているからであろう。健康保険証をデジタルしたいのであれば健康保険証をカード化すればよいことであり、わざわざ面倒な紐づけなどということを素人にさせるべきものではない。ともかくこういうことはモンキー大臣世之介が独断でやるべきことではなく、立法措置を必要とするものである。&#13;&lt;br&gt;
　マイナカードは元は国民総背番号制の失敗を引き継ぐものであるが、これは最終的には国民の金融資産の名寄せを目的とするものであった。政府が鳴り物入りでマイナカードの普及に狂奔するのは最終的にはそういうことが目指されているからであろう。信用できない政府にデータがすべて把握されるということは、この国民の境涯をよく示すものであろう。老人保険料を少子化対策に流用するなどということは糞食らえの類であろう。&#13;&lt;br&gt;
　他方でキシダは軍事費を倍増するそうであるが、それは主に敵基地攻撃つまり憲法が禁止している戦争行為のためのようである。そもそも金欠病の国が少子化対策も軍事費増大もというのが間違いである。むろん軍事費の中身を問わずに税金だけを問題にする国民も国民であるが。&#13;&lt;br&gt;
　軍事といえばヘノコのお粗末さがある。ヘノコの有義性はすでに完全に失われているが、政府はなおも固執し、最近は不同意の沖縄県に代執行して強引に進めようとしているようである。地方自治も何もあったものではないが、これは世之介政治がもはや耐え難い次元のものになっていることを示すものであろう。&#13;&lt;br&gt;
　付け加えると、核融合反応を利用している点では原発と核兵器は似たところがある。この点で顕著なことは日本ではいつの間にか原発に回帰しているが、ドイツでは再生可能エネルギーに転換することによって原発ゼロを実現したことである。また日本では核の傘にあるという理由で核禁止条約に参加していないが、同じようにアメリカと同盟関係にあるドイツはオブザーバーとして参加している。「核の傘」という言い方は思考の怠惰を示すものであり、実際にあるのは安全保障条約を結んでいるアメリカが核を保有しているということに過ぎない。日本人の国民所得は30年前にはドイツを上回っていたが、今ではドイツ人の三分の二である。思考停止の世之介政治が転落をもたらしているのである。&#13;&lt;br&gt;
　大阪万博が怪しくなっている。東京五輪は中止する決断ができずに汚点を残したが、大阪万博は言及するのもはばかるような低レベルのテーマを抱えているのであるから、うまくいかないのは当然であろう。しかしこれは何の指導理念もヴィジョンもなくただ土建工事をしているような今の日本国の縮図であり、とりもなおさず政治改革以来劣化した日本の世之助政治の狎れの果てであろう。&#13;&lt;br&gt;
　この時期の終わりにはアベ派議員の政治資金違反事件が表面化することになった。これは不思議なことではなく、権力が腐敗する場合は権力に近いところから腐敗するものであるからである。そうしてこの事件は小選挙区制によって議員を劣化させ、企業献金も禁止しないざる法の政治資金規正をもたらせたいわゆる政治改革の失敗を確認するものであり、日本政治は元の木阿弥に戻ったわけである。私はこういう皮相な政治改革は最初から虚妄であると思っていたが、その通りになったのは遺憾なことである。一般化すればそれは、権力は必然的に腐敗するというアクトン卿の公理りを忘却したことを意味するであろう。&#13;&lt;br&gt;
aa&#13;&lt;br&gt;
　政治改革に関してはいわゆる政治臨調が看過できない。この政治臨調はかつての臨時行政改革をモデルにしたものであるが、産業人と現実主義的は学者（？）が連携した産学連携の政策提言集団のようである。いわゆる政治改革の推進に当たっては政治臨調が一定の役割をしたようである。&#13;&lt;br&gt;
　産学連携が意味を持つ分野はありうるであろうが、政治に関しては疑問である。産業人は資本の論理に従わざるを得ないが、現実的でその限りで保守的な学者（？）はこの場合東大法学部系の政治学者（？）のようであるが、ここは本質的に官僚養成機関のようなところがり、民間政治臨調といわれるものの、財界と官界をバックとしてはどういう政治観となるかは予想に困難ではない。&#13;&lt;br&gt;
　政治臨調は公的機関ではないが、政党の代表を呼びつけたり、あたかも公的機関であるかのような振る舞いがある。しかしある集会では極右政党的な維新の会は読んでも、伝統的な左翼政党である共産党を読んでいないことは、臨調の反共的性格を物語るものであろう。そうしてこの臨調は小選挙区制の導入に当たっては単に提言するだけでなく、政治家に接近し、横からの介入という非民主的なやり方でそれを実現させようとしている。そうしてその結果については責任を取ることはない。政治的活動をするのであれば、資金収支を公表すべきであろう。&#13;&lt;br&gt;
　いわゆる政治改革が失敗したことは臨調的な政治観にも関係があろう。この集団は近代経済学的な人間観つまり合理的エゴイスト像を持っているようである。選挙の際にはマニフェストを読み比べて合理的選択をするかのようである。しかし現実の政治は合理的計算ではなく、そこにはレトリックや取引や暴力もかかわっている。したがってこういう現実主義的な単純な政治観は現実の政治によって裏切られることになる。&#13;&lt;br&gt;
　臨調的提言が失敗するのは経済人的、官僚的な政治観の結果でもある。彼らにおいては目的は与えられて、その目的を達成するにはどのような手段が適合的であるかが問題である。マックス・ウェーヴァーの用語を使うならば、それは「目的合理性」の原理に立つものであり、目的そのものが合理的であるかを問う「価値合理性」の世界ではない。しかしそれは政治を行政に縮減するものであり、むしろ政治の世界を排除するものであろう。だが今の政治の中心的な問題は、マイナにしろ、ヘノコにしろ、あるいは原発にせよ、ジェンダーにせよ主な問題は価値合理性の問題なのである。&#13;&lt;br&gt;
　臨調は最近は令和臨調として新しい問題に対応しているようであるが、その名称自体が旧守的であることを否定できない。のみならずこの団体には政治学者（？）が財界人の雇われマダムのようなところがり、学問の自律性にも危惧すべき喪に尾がある。臨調に必要なことは提言というよりも自己批判であろう。&#13;&lt;br&gt;
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 経済の側面ではこの時期はバブル経済が崩壊してデフレに苦慮していた時期である。これに対して政府は財政支出を増大させて対応しようとしていたが、その後半にはいわゆるアホノミクスが登場する。これはいわゆるレーガノミクスをモデルとしたものであるが、大企業が潤えば中小企業にも「好循環」するであろうというトリクルクランと呼ばれる気楽な議論に立脚するものであった。&#13;&lt;br&gt;
　しかしアメリカにおけると同じくうまくいかなかったのは、利潤を追求する資本主義に「好循環」というものは内在していないから当然のことである。資本主義は慈善事業をしているわけではないから、いわば社会主義的な介入が不可欠だったのである。&#13;&lt;br&gt;
　アホノミクスは金融緩和することにより、それに伴う円安とともに自動車産業などの輸出型の大企業には膨大な利益をもたらすことになった。しかし日本の大企業は新しい事業を展開するというよりは内部留保に努めたから産業は停滞することになった。その半面で中小企業には一向に潤いは回らず、むしろ実質賃金は減少することになったのである。&#13;&lt;br&gt;
　その背景には連合の会長が自民党首相の私的懇談会に参加することにみられるように（連合がどうしてこんな会長を選んでいるのかは知らないが）、日本の労働運動が右傾化して労働者の立場を主張することに消極的になったことがあるであろう。日本の労働組合は大体が企業内組合であり、堂々とゲームをするというよりは同調同に傾斜することになる。この日本的協同主義（コーポラティズム）を背景として今では日本国では居住、食事から旅行に至るまで大企業従業員と中小企業従業員の間には歴然としたギャップが生まれることになり、その断絶は同じ国とは言えないようなものになっている。&#13;&lt;br&gt;
　アホノミクスの他の面は低金利政策とともに膨大な財政出動によって景気を刺激させようとして巨大な財政赤字をもたらしたことである。それは日銀が無制限に国債を引き受けることによってなされている。このためにも金利は当然に低くしなければならないことになる。しかしそれはまた円安を加速させ、輸入品価格を高騰させ一般国民を苦しめることになる。&#13;&lt;br&gt;
　ここにもたらされた円安は日本の経済力の低下を示すものとなっているが、それはまた放漫財政の結果である。日本国の借金は国民総生産の倍以上になっており、革命が起こって以前の政府の負債を帳消しにすれば別であるが、ハイパーインフレでも起きなければほとんど返済不能のものである。今の日本国はかつての幕末と同じように実質的に財政破綻しているといえよう。&#13;&lt;br&gt;
　放漫財政による財政の危機は低金利によってかろうじて避けられているが、これはいつまでも続くものではない。仮に長期金利がアメリカ並みになるとしたら政府の年間の返済額は五十兆円以上になり、明らかに返済不能であり、債務不履行（デフォルト）は現実のものになるであろう。その際には日本国はかつてのギリシアのようにIMFの管理下に置かれ、厳しい財政支出の削減を求められることになるであろう。&#13;&lt;br&gt;
　産業の実態は停滞していたが産業経済省は「日本はすごい」などと自画自賛していたものである。しかしその実は日本国はロケットも打ち上げられず、ジェット機も作れない国になっていたのである。日本が世界の先端を行っているのはコンビニくらいのものであろう。日本人は雄大な事業には向いていないようであるが、細かいことに忠実なところがあるから便利屋には向いているのであろう。さらには観光業があげられようが、観光業は本質的に乞食産業的なものであり、奨励するようなものではないであろう。&#13;&lt;br&gt;
　看過できないのは経済が退嬰することに政治的腐敗が連関するようになっていることである。その代表的な例は日産のゴーン氏事件である。これはゴーン氏がルノーとの統合を図っているという不確かな情報をもとに、日産と産経省と検察、およびおそらくは首相官邸が連携してゴーン氏に不正があったことにして失脚させようとした事件である。ここには偏狭な経済ナショナリズムと権力の腐敗に結合があり、みじめな産業政策がうかがわれる。その訴追はゴーン氏が有価証券報告書に役員報酬を過少に記載したという口実でなされたが、ゴーン氏は報酬の一部を退職時に受け取ることを秘書室に検討させていたものの正式には決定に至っていないのもである。その検討した金額が記載されていないから過少記載であるというような笑うべき低次元の起訴理由はこの事件が捏造されたものであることを物語っている。このようにして日本の産業は有能な経営者の一人を闇に葬っている。ともあれこの事件は日本の産業が無実の人間を罪に陥れるようなものになっていることを示すものとなっている。私はこの事件の方を聞いた時にこうしたことで逮捕したり長期拘留するということには何らかの背景があり第二の大逆事件のようなものであるとすぐわかったが、この事件の全体像はいまだに明らかにされていないようである。太百事件の冤罪性についてはすでに明確になっているが、この事件では研究者の追求力の後退が目に付く。&#13;&lt;br&gt;
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 　いわゆるアホノミクスに関しては多少ともマルクス経済学の心得があればすぐ問題に気が付かれるはずであったが、多くの人が追随していたことは、マルクス経済学が後退したことにも関係があるであろう。むろんマルクス経済学がそのままで通用するものではなくなっているが、資本主義の基本性格に関しての洞察は必ずしもすべて過去のものとなったのではないであろう。この点でこの時期にカラタニという哲学者（？）がたえずマルクスを論じているのは興味深いことである。&#13;&lt;br&gt;
　カラタニは経済というものを交換からとらえるという新しい機軸を打ち出しているようである。だが経済というものは元来オイコスを問題にする家政学から出るものである。つまり経済というものは衣食住という端的に物質代謝的なものに係るものである。その意味で交換に機軸を置くというのはすでに出発点において懸念されるものがある。彼はポトラッチのようなものに一種の理想を見ているようであるが、ポトラッチはいわば経済外的な行為である。&#13;&lt;br&gt;
　カラタニの主題も資本主義にあるようであるが、その扱いはマルクスとはかなり異なっている。かれは交換のような経済構造と「力」との関係によって経済をとらえようとしているようであるが、この力というものが判然としない。力は交換から生み出されるようでもあり、その外側にあるようでもある。&#13;&lt;br&gt;
　おそらくカラタニの力というものは経済の上部構造であり、イデオロギーや権力のことなのであろう。マルクスにあっては上部構造と下部構造は相互に制約関係にあるが、弁証法的な論理を持たないカラタニの場合は、この両者が外在的なものになっている。&#13;&lt;br&gt;
　これはカラタニが学部時代には宇野経済学を学んだが、大学院では文学を専攻していることに関係があるようである。宇野経済学というのはマルクス経済学の科学化であり、それはマルクス経済学にあったイデオロギー的な要素を払しょくして科学的なものにしようとするのもである。しかしマルクス経済学というものは政治経済学であり、単に記述的なものではなく実践的なものである。しか宇野のようにマルクス経済学をそのように脱色するならば、それは科学としての近代経済学と同じような構造のものとなる。つまり経済学は現実の客観的な記述として、実はパレート均衡に由来する近代経済学とさして変わらないものになる。これはマルクス経済学の根本的は変容をもたらすものっである。&#13;&lt;br&gt;
　おそらくカラタニが文学に移行したのは、宇野経済学が単なる科学になった空洞を埋めるためであったのであろう。しかし宇野経済学も非弁証的なものであるから、科学としての経済学とイデオロギーとしての文学は外在的な関係とならざるを得ない。宇野経済学と文芸評論の折衷である。&#13;&lt;br&gt;
　こうしてカラタニにあってはマルクス主義的な議論は、一方で史的唯物論的なものになるとともに、片方のイデオロギーや権力はそれとは必然的な関係にないことなり、両者は外的に配置されることになる。その弱点が端的に表れるのはまさしく資本主義の場合であって、カラタニは資本主義に対抗する力を見つけることができずに、マルクスは力に負けたなどとしている。&#13;&lt;br&gt;
　こうした帰結になるのは経済システムは一定のイデオロギーを生み出すとともに、またそのイデオロギーによって制約されているという相互関係に立つものであり、そうであってこそ上部構造が下部構造に働きかけることも可能になるが、カラタニにあってはこの両者が外的関係にしかないためである。経済システムとイデオロギーや権力との内在連関がなければ、思想や実践がシステムに介入することもできない。これはまさしく哲学の貧困であって、哲学ならぬ臆断による様々な意匠の羅列は不毛なものに終わっている。&#13;&lt;br&gt;
　こうして国家破産の現実を前にして、それに対応すべきマルクス経済学も、まさしくそれに見合った無力さを示しているといえよう。これも一種のマルクス葬送であろう。これは独創的なペテンといってもよいであろうが、こうしたカリオストロ的な議論に感心する向きもあるというのがこの時期のこの国の的風景の一端なのであろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
c&#13;&lt;br&gt;
　この国の衰退には社会的、文化的、学術的な要因が関与しており、それは筆者も直接的に見聞していることである。&#13;&lt;br&gt;
　筆者が大学を卒業するころはいわゆる大学紛争の時代であり、大学は学問をするような環境にはなかったものである。このために筆者は緊急避難的に保険会社に就職することになった。就職の理由は終業時刻が４時であるという理由だけであった。ところが入社してみると終業時刻が過ぎても上司が帰らない限りは何をすることもなく机にしがみついている。低生産性は明らかであり、こうした日本的会社風景は今でもある程度は続いているようである。こんなところに長くいるつもりがなかった筆者は終業と同時に帰っていたものであるが。&#13;&lt;br&gt;
　数年後の大学というものに帰ったが、実は大学もこうした日本的会社と大して変わらないものであった。ここでも業績というよりは集団への忠誠のほうが重視され、有能なものはかえって排除されるようなところがある。これが産業や学術にプラスになるはずがない。&#13;&lt;br&gt;
　筆者が研究生活に入ったころ一つの特徴的な出来事が生じている。東大法学部の機関誌である国家学会雑誌に佐々木宥司という助教授が「バルトルスの政治思想」という論文が出、東大法学部にしては面白い論文だと思ったものである。ところがこの論文には資料の使い方に問題があるというようなクレームがついたそうである。そこで調査委員会がもたれたが，盗用のような問題はなく、掲載は削除されてもいない。しかしこの助教授は他大学に転出したそうである。&#13;&lt;br&gt;
　これが東大法学部的な人事政策なのであろう。多少独自的な論文が出ると小役人風情から足を引っ張られている。こうして創造性はないけれども役人的なそつのない論文が大量生産されることになる。学会というものは凡庸のシンジケートのようなものになる。そうしたルートに乗ると独創性は見当たらなくても文化勲章などが与えられ、日本のガラパゴス体制を構成するものになる。&#13;&lt;br&gt;
　東大の学問が概してこのようなものになるとすると、ノーベル賞受賞者が京都大学よりも格段に少ないことは不思議ではないことになる。しかし京大も安泰ではなく、創造力の乏しさは日本の学術の特色となってきているようである。政治学や経済学はさておき、筆者は数年前に日本の古代を調べようとしたが、参考になるアカデミーの業績は乏しく、皇国史観に先祖返りした感を受けたものである。これは日本古代史にはグローバルな視点が不可欠であり、日本列島限定の日本古代史ではどうにもならないためであろう。&#13;&lt;br&gt;
　おそらくここに一端を見るような学術の在り方によって、日本の学問の創造性は後退し、科学論文の引用においても大学のランクにおいても日本国はtop25に入らなくなっている。こうした指数は民主主義度や報道の自由度や女性の社会的進出度といった他の指標とも対応するものであり、合わせて日本国の衰退を表示するものである。このように日本の衰退は政治、産業、学術の劣化の三位一体よるものであることが明らかになってくる。&#13;&lt;br&gt;
　日本の学術が置かれた状況を象徴的に示しているのは、この時期の終わりの方に起こった学術会議会員の任命拒否事件であろう。政府が理由を明らかにすることもなく任命を拒否するということの理不尽さは言うまでもないことである。しかし学術会議の対応も当惑したりして毅然性を欠いていたことも否定できない。こうした弱腰のために学術会議は民間団体になるという憂き身を見かかっているようである。&#13;&lt;br&gt;
　この関連で一つ注意されるのは、原発事故の「処理水」である。政府は「科学的」根拠によるものとしているが、それはEIAEが国際基準に合致しているとしていること以上のものではない。処理しきれていない放射性物質が残存しているのであるから欺瞞的に「処理水」などというのではなく、「核汚染水」とした方が適切であろう。しかし科学政策に提言するはずの学術会議は沈黙したままである。おそらく政府の政策を批判すると首が危なくなることを危うんでいるのであろう。&#13;&lt;br&gt;
　この事件で特徴的なことは、政府が無茶苦茶な任命拒否をしても、こんなものはやっていられないといって蹴っ飛ばして辞任する人間が一人もいなかったことである。戦前の滝川事件でも同じようなことがあったが、その時は京都帝大法科大学の七人の教授が辞任している。戦前の学者のほうが学者としての矜持を保っていたといわざるを得ない。&#13;&lt;br&gt;
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　失われた３０年ということを言うとすれば、それ以前との関係はどうかということになるか。戦後の日本国は復興、高度成長及びバブルの崩壊を経験し、この時期はその終末期になろう。&#13;&lt;br&gt;
　近代で言えば明治維新によって幕藩体制から脱皮した大（？）日本国は革命ではなく天皇という古代的な要素を援用して精神的にはほとんど変わることなく政治経済の近代化に進んでいった。福沢諭吉が信後も独立自尊の精神に乏しいと慨嘆したゆえんである。かくしてこの体制は７８年後の１９４５年に軍事的に崩壊することになった。&#13;&lt;br&gt;
　第二次大戦後の日本国は天皇を象徴に帰ることによって民主化の道に進んだのであったが、この体制も７８年後に経済的衰退によって自滅したといってよいであろう。第一の配線が外からの実力によるものであるとすれば、第二の敗戦は経済的自滅であった。&#13;&lt;br&gt;
　二つの近代に共通していることは、社会的、文化的には大きな変化がなかったということであるが、実はこれは古代以来のことなのである。&#13;&lt;br&gt;
　古代邪馬台国の報告をしている魏志倭人伝では、和人は従順な性格で目上の者に道で出会うと道端にうずくまると伝えている。この和人の自発的隷従性は邪馬台国を抹殺した由来不明のテンノーの支配によって強化され、古事記日本書紀によって教化されることにもなった。&#13;&lt;br&gt;
　この古代天皇制は支配の正当性根拠を伝統におく権威主義的体制であるが、実はこの体制は多少の変容を伴いつつも実は今日までも継続しているものである。これをガラパゴス体制といってもよいであろうが、日本国は世界でも最も保守的な国の一つなのである。日本人そのものが化石的であるが、テンノーは現代に残る化石である。&#13;&lt;br&gt;
　このガラパガス体制の一つの特質は個人よりも集団を優先することである。個人主体はそれほど尊重されるものではなく、滅私報国は称賛され、善悪という普遍的な規範は重視されず、国家にプラスになるのが善であり、マイナスになるのが悪であるという国家功利主義が特質的なものになる。日本人に人権感覚だ希薄であるのは当然のことであり、一般原則というものが重視されないから憲法を代表にする法的威信は必ずしも高くない。主体の意味合いが乏しいところでは変革も起きにくい。なぜなら革新ということは状況に対する主体の関与が前提になるからである。&#13;&lt;br&gt;
　こうしたガラパゴス体制は一定の成果を上げ、あるいは上げすぎて第二次大戦に至るまでは外国の支配を受けることなく継続してきたわけである。しかし近年における衰弱現象は個人主体の消極性、法的支配や人権保障の弱体性、変革力の希薄性などガラパゴス体制の弱点と限界が表面化したことであるとみてよいであろう。この期間では断続的に閉塞ということが言われつつ何がその要因であるか見抜かれていないようであったが、それは人間の自由を抑止するガラパゴス体制にあったわけである。&#13;&lt;br&gt;
　このガラパゴス体制を象徴するのがテンノーである。天皇は一般的な用語では皇帝であり、日本国は今でも皇帝を有する世界で唯一の国である。日本国はまた皇帝が変わるたびに代わる元号という化石を持つ世界で唯一の国である。しかしあまり信奉されてもいない化石化した皇帝を信奉しているかのように仮構して国民主体の自由を抑止している国が民主主義を貫ぬけるはずがない。人口減少は国民もこの体制の将来が明るくないということをぼんやりと感じているからであろう。&#13;&lt;br&gt;
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　こうしてこの国はガラパゴス体制の限界に直面しているといえそうであるが、その先は自明ではない。弥縫策を取ることはかえって死に至る病を長引かせるだけであろう。必要なことはむしろ日本システムをぶち壊すことであり、ガラスの天井を取り払うことには積極的な意味があろう。この体制を象徴するのはテンノーであったから象徴天皇制を廃止することは正道であろう。むろんテンノーを廃止してもガラパゴスを脱却する保証はないが、その象徴にはなるであろう。&#13;&lt;br&gt;
　象徴天皇制を廃止することは、何よりもテンノーを解放することである。今の天皇は参政権はもとより結婚や職業選択のような基本的人権を奪われており、それは人権後進国の日本を代表するようなものである。象徴天皇制を廃止することは必ずしも暴力革命を必要としない。テンノーは京都に戻り無形文化財として保護されるのがよいであろう。秋篠氏には面白いところがあるから民間人として通用するであろう。&#13;&lt;br&gt;
　しかし革命というようなことはこの国の国民がいまだ一度もしたことがないことであり、まず無理であろう。そもそもガラパゴス体制は国民の習俗やエートスをなすものであり、そこからの脱却は自己同一性を危うくするものであり、容易なことではありえない。今までなるべく自己主張をせずに目立たないことが美徳にされていた国民がどうして急に活発な主体になるであろうか。今までかわいくしておくことが求められていた女性が、急に男女共同参画などできようか。今まで美徳としていたものが悪徳になるのであるから、よほどの精神革命を要するであろう。&#13;&lt;br&gt;
　大きな変化を予想しにくいのは、何よりも国民が老衰減少に満足しているように見えるからである。確かに一部のスポーツ選手や音楽家のようにトップクラスの人間は日本を脱出し海外に拠点を置こうとしている。船が沈没するときはネズミも脱出するそうである。しかし一般の国民は泥船に自己満足する「お」が付くめでたいところがある国民であり、MJGAと叫ぶような狂人もいない。とするとありうるのは安楽死かギリシア化であろう。古代ギリシアは世界先端の国であったが、今ではヨーロッパの最貧国になっている。&#13;&lt;br&gt;
　当面の課題として人口が減少しすぎると社会が成り立たないということが言われる。しかし人口が減少するならば移民を開放すればよいことである。もっとも日本のことであるから、それは順調にはいかないであろう。日本国はもともとは穴安眠の集合体であったが、いったん国家形成があると、おらが国として外国人をは維持したがる。損の上位は建国の初めから存在する。対外関係はその国の特質が表れるものであり、欧米諸国が難民の受け入れを原則としているのに対して、日本国は難民の拒否を原則としているかのようである。入管当局は重病者を放置して死に至らしめている。このような国では労働者能切れも変則的なものにならざるを得ない。すでに技能実習生という美名のもとに日本国は三十万人以上の実質的奴隷を抱えているのである。&#13;&lt;br&gt;
　しかしそのように労働者の手当てをしたとしても日本国の生活環境は急速に悪化している。環境問題を軽視して環境保護団体からは化石賞を受賞する常連となっている日本では、東京の夏は数か月にわたって猛暑日と熱帯夜が続き、次第に人間が住めないところになり、やがて熱中死が続出することにもなろう。&#13;&lt;br&gt;
　こうして日本列島は実質的には人間が住まないところになり、インバウンドが絶滅危品種を見学し、ガラパゴスの廃墟を観光して化石を拾うことになるであろう。&#13;&lt;br&gt;
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f&#13;&lt;br&gt;
　世界に目を向けるとロシアのウクライナ侵略問題を解決できていないところへ、イスラエル戦争が起きている。ハマスはパレスティナ問題に注意を向けさせようとしたのであろうが、エスらエルは一人殺されれば十人を殺す「目」には「目」の国であり、どの程度の成算があったのかは不明である。イスラエルはナチスによるホロコーストを被ったにもかかわらず、それによって教訓を得ることもなく、領土を持つようになると今度は自分がジェノサイドをやっているようである。&#13;&lt;br&gt;
　パレスティナ問題の解決の方向はすでに明らかになっている。だ愛二次大戦後イギリスが撤退し、そこにはユダヤ人、アラブ人およびその葉の国が作られることになっていたが、イスラエルが一方的に建国され、パレスティナ人が二級国民にの状態に置かれたために紛争が繰り返されている。したがってこの問題の解決は二つの国を分離独立させるほかはないのである。&#13;&lt;br&gt;
　したがって日本国はアメリカの顔色を見ることなく、パレスティナ自治政府の承認へ進むべきなのである。むろんパレスティナ自治政府にはガザ地区を制御できていないという点でも自治能力に問題を持っている。アッバース議長はバオデン大統領がイスラエルを訪問した際に犠牲者の喪に服しているという理由で面会もしなかったそうであるが、これでは犠牲者も救われない。パレスティナ自治政府の当事者能力を高めることは先決問題であろう。&#13;&lt;br&gt;
 ひるがえってアメリカでは反乱を先導した刑事被告人が有力な次期大統領候補になっており、ロシアでは殺人常習犯が次期大統領に確実視されている。こうした現状においては日本国のありさまはまだ生ぬるいとも言えよう。しかしこれは暴力の使用法の問題ともみられるものである。地球の西側では物理的な殺人が好まれるのに対して、日本国では真綿で窒息させるようなハラッスメントガ一般である。&#13;&lt;br&gt;
　神はhomo sapiensを神に似せて作ったそうであるが、ここには手違いがあり、紙に梁成だけで済むものの不完全な人間には理性だけでなく力も与えられ、力菜必ず腐敗する。だから人の世界は善悪二元論的なものになることになる。だからまた闘争は必要であり、正しい。&#13;&lt;br&gt;
　しかし闘争は結局つまらないものである。それだから人間の世界には文化芸術も必要になる。もっとも仮象としての文化芸術は現実の不完全性の反面であるか手放しで称賛することはできない。しかし力のある芸術は現実を解体することができる。&#13;&lt;br&gt;
　秋の一日私は観世能楽堂に関寺小町を見に行った。秘曲中の秘曲であり、今まで見たことがないものである。武田宗和一世一代の舞台である。前座におかれた今年文化功労者になったという観世宗家の高砂八段之舞などは足高く俗臭ふんぷんとしたものであるが、武田のは違っていた。この能楽堂は銀座の地下という場違いなところにあるが、舞台と現世との落差を感じさせるところである。私は銀座の通りに出たとき一瞬舞台のほうが現実であり、銀座の通りは幻ではないかと錯覚したものである。インバウンドでにぎわう銀座はいずれ消え去るであろうが、関寺小町がなくなることはないであろう。　　&#13;&lt;br&gt;
　今年は大江健三郎が死去している。大江の文章はあまりにも切り貼り細工をしすぎていて面白くないが、文化勲章を拒否したことは一目置くべき存在であった。テンノーから勲章などもらいたくないということであろう。大江はガラパゴス体制に対する最も徹底した対抗者の一人であった。ノーベル賞を拒否したサルトルのほうが一枚上ではあるが。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
ga　今年の裁判１&#13;&lt;br&gt;
　旧統一教会の解散命令が申請されたそうである。この教会の本部は韓国にあるから、日本国で解散させることはできないであろう。せいぜい日本支部を廃止することくらいであろうが、それも韓国の本部がすることである。日本支部が公益に著しく反することがあるならば、日本での宗教法人の認定を取り消すことが必要かつ十分なことである。解散命令などというのはイワシの頭も信心という宗教の本性を見ないものであって、資産だけを問題にし、あいまいな公益を持ち出して禁教的な措置をすることは宗教の自由を理解しないものであろう。&#13;&lt;br&gt;
　これは宗教法人法の問題でもあるが、あえて触れるのは暴力団に対しては公認性（指定暴力団）を取っているという奇妙なことがあるからである。犯罪団体には結社の自由を認めて、宗教団体には認めていないのは、いかにも無宗教的な日本国の宗教鈍感性であろう。&#13;&lt;br&gt;
gb　今年の裁判２&#13;&lt;br&gt;
　京アニメ事件の裁判が行われている。作品が盗まれたという被告の主張は単なる妄想であるとされているようである。そうであるとするならば、京アニメのどの作品のどの部分が被告のどの小説のどの部分の登用である可能性があるか検証されなければならないであろうが、そういうことはしていないかのようである。また妄想としても、高度の妄想は心神耗弱をもたらしうるであろう。&#13;&lt;br&gt;
　京アニメ社長は盗用などする会社ではないとしているようであるが、それは当たり前の一般論であり、この事件を説明するものではない。京アニメの対応が事件の引き金になったとしたら、抒情酌量の余地も生まれるであろう。だがそういった精査もされているようではないようである。おおまかさも予想される裁判で死刑になるとすると、それはいまだに国民の半数以上が死刑に賛成している人権小国にはふさわしいものになるであろう。&lt;br&gt;
</description>
    </item>
    <item>
      <title>ユトリロetc</title>
      <link>https://nambaraca.asablo.jp/blog/2023/06/30/9598400</link>
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      <pubDate>Fri, 30 Jun 2023 20:21:15 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2023-07-02T21:51:37+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2023-06-30T22:24:23+09:00</dcterms:created>
      <description>a  今年はユトリロ生誕14０年である。ユトリロは風景画家であると言われるが、絵葉書をもとに少なからぬ絵を描いているように、風景を描こうとしようとしたのではないであろう。その風景も大体は街路であって、街路の作家と一応は言える。なぜ彼は街路を描こうとしたのであろうか。&#13;&lt;br&gt;
　西洋の絵画は中世の宗教画に始まっており、ルネッサンス期になって人間が主役として登場する。印象主義派になって風景も画題になったと言ってよいであろう。しかしそれを受けたパリ派といわれるものにおいては再び人間が中心的になり、モジリアーニやシャガールなどは人間的、あまりに人間的になる。人間中心主義には有限なものを絶対化する過誤がある。現代アートの元祖であるピカソの絵などは化粧品の広告のイラストのようなものである。ユトリロは美しいものを美しく描くという普通の意味での画家ではない。&#13;&lt;br&gt;
　ユトリロの初期の作品には日本人の肖像や自画像などがあるように人物が描けなかったのではないが、彼はそうした流れにそっぽっを向け、もっぱら街路を描いている。&#13;&lt;br&gt;
　ユトリロの街路には人間が小さく描かれている。それは矮小であるだけでなく、案山子のように非個性的である。しかも人物の大部分は後ろ向きである。その意味を解き明かした人はほとんどいないが、それはまさしく人間の楽園追放である。ユトリロは意図的に人間を矮小化しているのであり、それは反人間主義的であると言ってよい。&#13;&lt;br&gt;
　しかしユトリロは人間をことさらに醜悪には描いていない。それは馬鹿な人間を憐れんでいる。ユトリロの視点は人間に対する神の慈悲の視点なのである。&#13;&lt;br&gt;
　ユトリロは人間を中心としない一方で教会の絵をおびただしく描いている。２０世紀の画家でユトリロほど教会を描いた人物はいないであろう。人間主義を否定し、教会を顕彰するということは、彼の絵がキリスト教に動かされていることを示している。ユトリロの絵は宗教画なのである。&#13;&lt;br&gt;
　ユトリロは下手な詩も書いているが、その一つで彼は、初めに「悪」があり、次いで「善」が生じたとし、したがって神は月並みでない「精神」であると書いている。ユトリロは悪があるにもかかわらず、この世界はよいという弁神論を持っているのである。&#13;&lt;br&gt;
　ユトリロが街路を絵いたのもこのためである。彼は人間を愚劣なものとしつつ、全体としての人類はよいとみて、人間の作り出した街路を肯定的に描いたのである。ユトリロの絵は世界観の表明である。その絵の全体に表題をつけるとすれば神聖喜劇divina commediaとするほかない。&#13;&lt;br&gt;
　ユトリロは自分の真意を口外することはなかったから、人々はわびしさがよく出ているなどと、巧妙に騙されている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
ｂ　　ユトリロの絵の相場は２０００万円といわれるように、貧乏書生が持てるものではない。しかし私はどういうわけかユトリロの油彩を２枚持っている。両方とも「雪のモンマルトル」と題されており、一枚はアベス広場、もう一枚はノルヴァン街のようである。それを確かめるという口実で久しぶりにパリを訪れている。&#13;&lt;br&gt;
　かなり前からテルトル広場などはユトリロが追放しようとした俗悪な人間どもの商売の場となっており、街路を確かめるという気はなくなり、次いでにルーブルに寄っている。&#13;&lt;br&gt;
　ルーブル美術館も今な一日１万人くらいの入場者がある一大事業体となっているから官僚主義化も大変なものである。私は混雑を避けようとしてネットのチケットを持ちその入り口に入ったが、番人は入場券売り場に行けということで、そこに行くと元の入り口に戻されることになった。私は末端の番人が権力を乱用して自己満足したいという欲求を尊重して、ほかの人ともめている間に勝手に入場したものである。&#13;&lt;br&gt;
　しかしリシュリュー館で見ようとしたものが閉鎖中であったため、結局ルーブルの女主人に別れの挨拶をしてきただけのようなものである。モナリザは以前は階段の踊り場のようなところになったような気がするが、今では大広間に鎮座している。その時私はモナリザの含み笑いはマリア・テレジアと同様の政治家的な微笑であると気がついたものである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
ｃ　　パリからベルリンに移る。ベンヤミンのパッサージュ論は知られているが、パッサージュは今では狭苦しい路地であり、この本はパッサージュだけを取り上げたものでなく、１９世紀のパリについての雑多な本の抜き書きにすぎず書物の堕落のようなものである。しかし彼のベルリンの幼年時代の文章はこの著者の特異な性格を容く表現している。パリに比べると不愛想で武骨なこの街も私にとってはかなり親しいものである。もっともベンヤミンが生まれたマグデブルグ広場４番地は今では何の変哲もないアパートに変わっているが。&#13;&lt;br&gt;
　私が初めてベルリンに来たのはまだ東西が分裂していたころであり、地下鉄のフリードリッヒ・シュトラーセ駅の検問所から東に入ったものである。しばらく滞在していたベルリン郊外のダーレムにはルーブルやウフィチィに引けを取らないようなボティチェリやルーベンスやフェルメールのコレクションがあることに驚かされたものである。これは再統一後はポツダム広場の近くの文化f－ラムというところに移されている。名称も奇妙であるが、ドレスデンのツヴィンガー宮殿とは比較にならないようなバラックの建物だから、訪れる人は少ない。フランス人は美術品を商売道具にしているが、ドイツ人は美術品を隠そうとしているかのようである。&#13;&lt;br&gt;
 ベルリンに寄ったのはオペラを見ておくためである。ベルリンでは国立オペラよりもコミシェ・オーパーの方に問題作が多い。私は近年バロック・オペラに少し関心があるが、それはバッハとは異なりヘドニズムもいとわない点があるためである。それはまずヘンデルに見られるものであり、ラモーニなるとバロック的グロテスクさが目につくようになる。&#13;&lt;br&gt;
　まずヘンデルのセメレを見たが、これは元来はオラトリオである。このプロダクションではかなりオペラ化されており、セメレが灰になることも視覚化されている。セメレを見に行ったのは知人が出ているためであるが、なぜ人間セメレの灰からディオニュソスが生じるのかという寓意は不明のままである。&#13;&lt;br&gt;
　もう一つはコシ・ファン・ツッテである。これはロシアで上演禁止になったものである。このプロダクションは最初はチューリッヒの市立歌劇場で出されたが、この時演出者のセレブレニコフは自宅軟禁されていたそうである。わいせつなところがあるためだそうであるが、逆にロシアの水準が分かるようなものである。演出者は、この主題はややalt-modischであるが、モーツァルトは人間の幼さを肯定しており、その意味で人間に希望を与えると書いている。 　&#13;&lt;br&gt;
　オペラ座ではないが、以前に来たことがあるある施設の入場券売り場で私は一つの体験をした。入場券売り場は閉鎖され、小さなQRマークが一つ張られているだけである。そこから入場料を払えというつもりなのであろうが、多くの人はkeine ahnungとぶつぶつ言って帰っている。これがデジタル時代の入場券売り場の近未来なのであろう。デジタル化は便利さと同程度の不便さが伴っている。人間がすることは所詮ゼロサムなのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
d　　察しの通り今回は私のヨーロッパへのfarewell tripである。私にはもう十時間以上も飛行機に乗ることは精神的にも肉体的にも耐えがたくなっている。もう欧米諸国に行くことはないであろう。&#13;&lt;br&gt;
　しかし今のユーロに対する円の価値下落からすると、日本人はヨーロッパには行きたくてもいけなくなっていると言った方がよいであろう。首相は円安を利用するなどと間抜けなことを言っているようであるが、今の為替レートは旅行禁止的水準である。&#13;&lt;br&gt;
　私が欧米諸国に行って第一に得たものは人間を越えるものを知ったことである。それは必ずしも宗教だけのことではなく、絶対的なものに近づこうとする動きであり、またそこからする愚行である。それに比べると東洋の世界は良くも悪くも自然の水位にとどまっている。もし私が最初から日本政治思想史などを専攻していたら、一段とおろかになっていたであろう。&#13;&lt;br&gt;
　ウクライナ戦争のおかげで北極に回り道をすることになったが、この戦争はなかなか終わりそうもない。ウクライナは領土をすべて取り戻さなければ和平にしたくないようであり、ロシアはすべて手放した形で和平するのはメンツが許さないであろう。クリミアの処置が焦点になるであろう両方とも疲れて泣くまで待たなければならないのか。欧米諸国はウクライナ側に加担しているから仲介できる立場になく、インドや中国は国際的に大きな動きをしたがらないようであり、トルコや日本は力能不足である。&#13;&lt;br&gt;
　今回のように双方に言い分がある紛争の和平というよりは、一方的当事者の一方的侵略を阻止することが困難であるのは今の国際秩序に欠陥があるからである。それを端的に示しているのは国連であって、国連には国連軍もありえたが、安保理事会の常任理事国が該当する場合はお手上げになる。もともと国連は主権国家の連合体であり、主権を制約するのは困難なのである。&#13;&lt;br&gt;
　別の言い方をすればウクライナ戦争は主権を解体した国連とは別の世界秩序が必然であることを示すものであろう。それは安全保障装置の点では、従来の個別国家の軍事力を世界秩序に譲渡し、それによって安全を保障するということである。この世界秩序は世界政府といわれてもよいであろう。EUはそれへの一歩を示しているが、まだまだ主権の枠に制約されている。&#13;&lt;br&gt;
　無論世界政府のようなものは夢のような話であり、少なくとも一挙になしうるものではなく、有志連合を拡大する以外にはないであろう。それも今世紀中には困難が予想される。人間は神に似せて作られたそうであるが、神よりは猿の方に近い。だからサル山の猿のように陣取りをしたり騒ぐわけである。人類はこれまで地球上に出現した生物のうちでは最も有能であるとともに、最も有害な生物である。だからあまり申請でない悲喜劇が繰り返される。&#13;&lt;br&gt;
　ところで日本国憲法はこうした世界政府の安全保障原理を指し示しているところがある。無論それは諸国民に信頼するとか、戦力を持たないとか漠然としたものでしかないが、個別軍事力を放棄して世界秩序に譲渡するという世界政府の基本的原理を先取りしているところがある。もっとも日本人にそうしたイニシャチィヴを発揮する力量が備わっているかどうかは別のことであるが。&#13;&lt;br&gt;
　今度の国会の会期では憲法審査会を毎週開くのはサルのようだと言ったということで物議があったようである。憲法で受権された国会に憲法審査会があるということ自体が、憲法が疎遠であることを示すものである。サル山のサルがサルと言われて騒いだのであろうが、こういう議論をしているところでは、憲法も所詮はサルに小判である。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
e　　G7はベルリンのホテルで見かけたが、西洋から見ると、どうしてあんな貧弱なテーブルで首脳が会議をするのだろうと違和感を感じたものである。日本国は今では一人当たりの国民所得はG７中で最下位である。これは経済だけの問題ではない。ドイツは福島の教訓から脱原発を完了したが、日本はなし崩し的に原発に回帰している。日本人の無原則性がよく表れているが、ドイツが環境投資を成長の柱にしていたことからわかるように、それは経済にも関係している。&#13;&lt;br&gt;
　その他の近年の例では日本国は性的少数者差別禁止という点でも、難民保護という点でも再開に定着している。日本の難民保護の遅れは以前から有名であり、最近は法改正を下から改善されたかといえば、逆に難民の相関をしやすくしたというのであるから論外である。日本人は難民を受け入れるのは国際社会の義務であるということが分からないようである。&#13;&lt;br&gt;
　日本国は法や人権という価値観において西洋諸国と一致していると言われることがあるが、こういう事例から明らかのように、日本国は基本的価値観において西洋補国と差異を示している。日本国はG７から離脱した方がよいであろう。&#13;&lt;br&gt;
　今度のG&amp;#39;７は首相がわざわざ広島で開いて核廃絶につなげたいとしていたようであるが、逆に核抑止力を容認することによって大失敗をしている。もともとG&amp;#39;７は核問題を扱うところではなく、アメリカなのの保有国は核廃絶などに関心がなかったのであるから、この結果は予想されたことである。いまではG７の実際的意味は低下しており、今度の年一度のエクスカーションと記念撮影に終わったようである。キシダ首相は国連の核不拡散条約の検証会議で折り鶴を弄びながら演説をしていたが、少女趣味で核は動かせない。軍事費を拡大しながら核軍縮など言うのも矛盾している。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
f  キシダ君の看板政策は新しい資本主義ということのようであるが、自民党本部が経団連本部になったかのような看板は、この人物の程度を示しているようである。&#13;&lt;br&gt;
　当初キシダは国葬や改憲という言葉をポンポンと叫び、これは保守派への媚だろうと思われたのであるが、実はキシダという人物は中身のない空っぽだったということであろう。彼は宏池会の出身であり、派閥というものはくだらないものではあるが、宏池会はリベラル派とされているようである。しかしキシダは快調であるにかかわらず宏池会がどういう派閥であるかも理解していないようである。要するにキシダは何一つまともに勉強することもなくエスカレーターを登ってきただけのボーヤであり、いかなる信念とも無縁な羅針盤を欠いた人間のようである。宏池会から軍拡首相が出るとは誰も予想しなかったことであろう。&#13;&lt;br&gt;
　この空洞性は根拠を欠いた軍事力の急拡大や敵基地攻撃の容認でいかんなく発揮されている。敵基地とはまず北朝鮮のミサイルなどのことであろうが、このミサイルはアメリカを狙ったものであり、日本は問題にもなっていない。アメリカ自身北朝鮮基地の攻撃というような愚かなことを考えていない中で日本国が騒ぐのはご苦労なことである。もっとも在日米軍基地が狙われることはありうるであろう。それだけに在日米軍基地は危ない存在であるが、横田基地には土地汚染の問題もあるようである。しかし都知事は調査さえしようとしていない。軍拡以前に日米地位協定の改正が必要なのである。&#13;&lt;br&gt;
　他面でキシダは少子化対策として何かの手当を何円増やすというような低次元の政策を出しているが、少子化の第一の原因がわかっていないようである。その政策というものも打ち上げただけで財源を欠いている。過去の放漫財政の結果日本国な世界最大の借金国であり、何をするにも財源の壁に突き当たる。そもそも軍事拡大をしつつ少子化対策をしようというのが矛盾であり、軍拡は撤回するは凍結すべきなのである。&#13;&lt;br&gt;
　首相本人が空洞である場合官邸に人材がなければならないであろうが、その人事がまた欠けている。それをよく示したのは首相秘書官に銅鑼息子を任命したことであろう。首相秘書官は公職であり、身内を避けることは人事の鉄則である。キシダは任命責任は自分にあると認めているが、責任は取っていない。責任を取らなければ無責任と同じである。総裁になったら派閥会長を辞するのは慣例であるが、その常識も見についていない。非常識もたまには愛嬌であるが、常時非常識となれば人間の質に疑問符が付く。日本国はかつて植木等が演じていたような無責任首相のもとに羅針盤がない状態なのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
g　　他方で野党の方であるが、野党第一党であるはずの立憲民主党の発信力の欠如は救いがたい。発信力の欠如は発信すべきものがないということなのであろう。与党は軍事力の大幅拡大を御用有識者会議に諮っただけで国会をパスしていたから、次の総選挙では第一の争点とすべきであろうが、その心構えもないのであろう。&#13;&lt;br&gt;
　今の代表は次の選挙で１５０議席とれなかったら辞任するそうである。目標に達しないのは明らかであるから、負けて辞任するのではなく、事前に交代して被害を少なくすべきであろう。野党第一党の代表は首相候補でなければならない。今の立民党で首相をやりうるのは小沢一郎くらいであるが、高齢すぎるのが問題ということか。&#13;&lt;br&gt;
　ところが立民党は維新によって野党第一党を奪われかかっている。維新はヨーロッパで言えば極右政党である。ヨーロッパの極右政党はサロン化することによって勢力を伸ばしているが、日本では保守とリベラルがトロトロしている間にシンプルな極右政党が伸長しているのである。&#13;&lt;br&gt;
　まともな政党を持たない日本国民はお気の毒である。しかしこれは政治的民度の現れであろう。&#13;&lt;br&gt;
　今度の国会で決まったことの一つに後期高齢者の健康保険料を値上げすることがある。７５歳以上の老人が後期高齢者というような侮辱的な言い方をされて抗議もしていないのがまずだらしがないというべきで人間というよりは奴隷である。&#13;&lt;br&gt;
　保険というものは大数の原理に基づくものであって、個人のリスクのばらつきを多数に平均化することによってリスクを軽減しようとするものである。したがって母集団は大きい方がよく、健康保険も全国民を一つの母集団にするのが理想である。それでは年齢階層の差異が無視できないためにやむをえず階層別の保険料も導入される。しかし過度に階層化するならば保険の意味がなくなる。&#13;&lt;br&gt;
　今の健康保険料の改正の問題は、老人保険料の増額分を証しか資金に流用しようとしていることである。健康保険の問題と少子化の問題は本来は全く別のことであり、日本国の財政難の問題が福祉の削減という形でいびつなものになっているのである。&#13;&lt;br&gt;
　こうした中でただ選挙をすればよいというものではない。若者の投票率が低いのは問題であるというのは新聞や素朴な政治学者の言うことであろう。投票率というものは民主政治にとって決定的な問題ではない。一般に投票率は民主国家よりも独裁国家の方が高いものである。首相の演説会場に爆弾を投げて逮捕された青年は参議院の被選挙権が３０歳になっているのを不満として裁判をしているそうである。被選挙権を制限して若者の投票率が低いことを嘆くのは理屈に合わない。投票を進めるのは不合理な選挙制度を正当化することでもある。見逃せないことは爆弾でも投げなかったら人々はそういう問題に気が付きもしなかったということであろう。爆弾を投げるのは愚かなことであるが、政治への参加は単に投票だけのことではなく、デモのような威力の行使でもありうるのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
ｈ　　今度パリに行った時は例によってサンミシェルに宿を取っている。不相応の高級ホテルに投宿していたのは健康に懸念があったためである。ところが夜中に警官からたたき起こされ、爆弾が仕掛けられている情報があるから避難するようにということである。当時フランスでは年金支給年齢を６２歳から６４歳に上げるということが問題になっていた。この引き上げはやむを得ないとも見えるものであるが、マクロン大統領が採決をせずに可決するという異常手段を取ったために反対運動が急進化することになった。憲法院がこれを正当化したために抗議は過激化してマクロンが行きつけのビストロに放火されることも生じている。&#13;&lt;br&gt;
　今度の爆弾事件もその一部なのであろう。私の目論見は裏目に出たわけであるが、政府がこういうやり方をしている場合、過激派が偽の爆弾情報を流して社会を動揺させるのを私は容認する。そうした反対運動はむしろ社会の健全性を示すものである。&#13;&lt;br&gt;
　他方でフランスの警察にも暴力性があり、それに対する抗議運動がまた生じることになる。しかしフランスは人権大国でもあり、また違った面を見ることができる。&#13;&lt;br&gt;
　部下を引き連れていた私服姿の警視風の男は、寝間着姿で外に出ていた私の肩に手をやって、上着を着てきた方がいいと言って、にやりとしたものである。私は昔ある労働組合を支援していたサルトルが過激派からボナパルト街のアパルトマンを襲撃されたことを思い出して苦笑しただけである。しかしこのパリ警察の幹部がわたしの部屋が何号室であるかを知っていたのは気味の悪いことである。&#13;&lt;br&gt;
　ユトリロを愛好し、フランスの過激派から狙われたかもしれず、しかも過激派を容認し、さらにパリ警視庁の幹部と親しいかもしれないこの私はいったい何者なのか？&lt;br&gt;
</description>
    </item>
    <item>
      <title>老人と本</title>
      <link>https://nambaraca.asablo.jp/blog/2022/12/30/9551562</link>
      <guid>https://nambaraca.asablo.jp/blog/2022/12/30/9551562</guid>
      <pubDate>Fri, 30 Dec 2022 20:54:03 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2023-01-02T21:00:14+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2022-12-30T23:07:38+09:00</dcterms:created>
      <description>　内閣はウクライナ戦争に便乗して軍事費をNATOなみにGNPの2パーセントにすることにしたそうである。NATOとは憲法的前提が違っていることを忘れている。何に使うのか不明で金額だけだから馬鹿のような話である。御用有識者会議に諮問させて国会をバイパスしているのは国葬の場合と同じである。こういう決定は内閣がつぶれたら反故になるまでのことである。単細胞内閣はつぶれることが望ましい。&#13;&lt;br&gt;
　それに関連して内閣は敵基地攻撃をすることにしたそうである。「敵」というのはすでに戦争を前提にした用語であり、戦争を放棄した国にさぞふさわしいことであろう。かつて真珠湾を攻撃した軍人は攻撃した後どうなるかを考えることができていないが、今の政治家は攻撃後どうなるかを考えることもないのであろう。敵基地を攻撃するということはパンドラの箱を開けるようなものであり、大戦争の開始であり、確実に核弾頭が落ちるであろう。認知症的国家は消滅がふさわしい。&#13;&lt;br&gt;
 今年のワールド・カップのあったカタールは人権抑圧が問題になっており、ドイツ・チームは抗議の意思表示をしていたが、日本のサポーターはそんなことには無関心で競技場の掃除をしていた。身の回りのミクロのことには細かな気を使うけれども、人権や法などのマクロのことには盲目、鈍感で出鱈目な日本人の根本的は国民性が極めて鮮やかに照射されている。今の首相は先天的浅薄性（判断力と人事力に欠陥がある）のようであるが、浅薄なハト派は浅薄なタカ派になるものである。国民はさておき、政治家がここまで劣化すると年中相手にしてもつまらないから、閑話休題&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　人類は最初から本を読む生物ではなかったようである。言語は早くから阿使用していたであろうが、紙の本の歴史はせいぜい２０００年のことである。これによって人間の歴史は急激に変化したが、近年はその歴史にも転換が生まれている。WEB化の進展は紙の本を放逐しかかっており、将来は紙の本は美術書などに限定されることにもなろう。&#13;&lt;br&gt;
　この外形の変化は単にツールの変化だけの問題ではない。本というものには行間を読む機能があったが、WEBの情報は記号だけである。このことはすでに本の方にも影響を与えており、本自体が情報化している。となると利便性の点で紙の本は太刀打ちできないことになるであろう。&#13;&lt;br&gt;
　このメディアの変化は人間の変質をもたらさざるを得ない。今でも月に３冊の本を読んだほうが良いというようなことが言われるが、それはすでに情報化されているような本であろう。私は学生時代にヘーゲルの『精神現象学』を一日に３ページしか読めず、全体を読むのに一年以上かかっているという経験をしている。私が哲学者を自称する著者のものがいかさまかどうかを判断することができるようになったのは、ひとえにヘーゲルに取り組んでいたからであるが、今の若い人にはそういう機会がないのであろう。&#13;&lt;br&gt;
　大学に勤務していたころは職業的に本を読んでおり、蔵書の一万冊は超えていたであろうが、退職すると同時にほとんど処分し、今では千冊も残っていない。まだあるのはプラトン全集、アリストテレス全集、ヘーゲル全集、サルトル全集などでである。これらはもう読むこともないのであるが、自分の一部のようなもので処分できていない。新刊書というものはほとんどない。これは書評などで絶賛されているような本はつまらないものであったという経験からのことである。新しく買ったものはほとんどが古書である。&#13;&lt;br&gt;
　退職後習慣的に読んでいたものはまずアドルノの文庫本のようなものである。それも社会哲学のようなものではなく主に音楽評論のようなものである。マーラーの本では楽譜の議論が多いので楽譜を読むようになっている。それが終わり『碧巌録』を読もうとしたが、これは朝比奈宗源の旧文庫版で字が小さすぎて読めないから、新しくワイド版というものを取り寄せることになった。&#13;&lt;br&gt;
　しかしアームチェアばかりで読んでいると背中が痛くなり、一日に三十分は机に座るようになった。机では文庫本は具合が悪いから大きい本を求めるようになる。私はしばらく前からユトリロに関心を持っており、新しいカタログの最初の巻だけが出ていたのでそれを取り寄せた。これは４万円くらいのものであり、今私が持っている一番高い本である。しかしこれは三十分くらいで一通り見ることができてしまう。&#13;&lt;br&gt;
　そこでバルザック全集２０数巻をとりだすことになった。マルクスは資本論が終わったらバルザックの注解をしたと言っていたようであるが、&#13;&lt;br&gt;
こういう小説はすぐに読めてしまうものである。次にこれまであまり読んでいなかった芥川龍之介を読むことにした。最近は厚本の個人全集は不人気のようであり１２巻が２０００円であった。しかし芥川は同工異曲のコントであり、『河童』や『或る阿呆の一生』などは気の毒なほどに哲学的能力が欠けている。&#13;&lt;br&gt;
　次いで私は何を思ったのか大般若経６００巻を取り寄せることにした。６００巻といっても昔の軸巻にしてのことであり、印刷本では六冊に収まっている。しかしこの経典も語句を変えただけの同じ文句の繰り返しが多いものであり、朗読向きのものであり、読むことには向いていない。そこで私は中国の仏家が華厳経に亊亊無碍法界という解釈をしているのに興味を持っていたので華厳経を読むことにし、これは終わりまで行っている。&#13;&lt;br&gt;
 それと並んで中国仏家と同時代人の『蘇東坡全詩集』を読みだした。六巻２７００首あるが、他に読むものがないので３回読むことになった。　&#13;&lt;br&gt;
 その間数年前にナポリでレオパルディを再発見することになった。レオパルディの『カンティ』は悲劇的なものが多いが、道徳的対話篇『モラーリ』には滑稽なものもあり、両者がどのようにつながるのか不審があったが、ノート（Zibaldone）にそのカギがあることが分かったのである。私はイタリア語に不自由のため英訳版を入手したが、この膨大なノートは２０００ページを超えるけれども、聖書のような薄い紙に印刷されているので一冊に収まっている。彼は独学であったが、２３歳のころにはいっぱしの哲学者のような議論をしている。人間は幸福を求め、失われると悲観的になるというレオパルディの哲学はスピノザ主義のようであり、１８００年ころにはゲーテなどスピノザの愛好者が多かったようである。レオパルディの場合は幸福というのは自然的なものであり、理性は無力と考えている。理性も自然に属するという点でこの説には弱点がある。日本ではスピノザ主義の本性はあまり理解されていないようであるが、スピノティズムの本質は主体なき実体であり、その哲学的欠陥は明らかであるが、２０世紀末の反主体主義のポストモダン主義のよりどころとなったものである。レオパルディの欠陥もすぐに気が付くことであるが、彼の面白いところはそういう結論ではなく、ギリシャ語とラテン語とイタリア語の差異などについてのこまごまとした詮索にある。内容を読むのではなく、議論の仕方を読むというのは私も進歩したものである。&#13;&lt;br&gt;
　レオパルディを３００ページほど読んだところで９０歳になるドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスが「もう一つの哲学史」（Auch eine Geｓｃhichte der Philosoｐｈie)という１７００ページの大著を出版した。私がフランクフルトのハーバーマスのゼミナールに出入りしていたのはもう４０年も前のことである。彼は私にとっては師匠というよりは大先輩のようなものであるが、こういうものが出てくると読まざるを得ない。といってもハーバーマスの四角四面の議論はあまり面白いものではなく、あまり期待してもいなかったものである。彼はかなりのbookmakerであり３０冊以上の著作があり、そのほとんどは持っていたのであるが、手元には数冊しか残っていない。&#13;&lt;br&gt;
　この第一巻は「信と知の西洋的布置」と副題されているが、これはハーバーマスにとってはアイロニカルなことである。というのも彼の仕事は独断性を排した哲学ということで、形而上学以後的なものを目指して五tからである。その場合信というような形而上学的なものはコミュニケーションによってのみ妥当性を持つものとされる。しかしコミュニケーションというものは認識原理であって実在原理ではない。ハーバーマスが時として両者を混同することには実践的な意味があったが、それが信の特性をとらえたものであるかどうかは疑問のところがあり、したがって改めて信と知の関係を哲学史的に問題にしなければならなくなっているのは彼にとって不本意なことでもある。&#13;&lt;br&gt;
　ハーバーマスはその哲学史的考察をヤスパース以来の中国、インド、イスラエル及びギリシアのいわゆる枢軸の時代あたりから始めている。儒教や仏教を勉強しているのは彼らしいところであるが、その時代の傾向を神話の宗教への知的合理化としてとらえているのはそれ以上に特色的なことである。ハーバーマスは結局西洋の信というものは知と矛盾しない限度において成立するものであり、これは単なる理性の限界内の宗教というカントの視点に近づくものであろう。&#13;&lt;br&gt;
　こうした信と知についての調停的な見方は、同様に最晩年には「信と知」という論文を書いていたデリダが両者が紙の両面のように相反的に併存するというようなクリティカルな関係にあるとする議論とはやはり異質なものである。ハーバーマスは旧師アドルノの『否定弁証法』を自己の中に完全にカプセル化された否定というように批判的な言い方をしていることが示すように、彼の弁証法がやはり調停的なものであることを明らかにしている。&#13;&lt;br&gt;
　第二巻は「理性的自由」と副題されているが、自由は反理性的なものではないという含意がある。フランクフルトであるからマルクス主義が問題になるであろうが、この本ではマルクスに関しては「生産活動的、政治的、行動的な主体の歴史的に位置づけられた自由」というテーマにおいて論じられている。この扱い方もマルクス主義の合理化的把握という性格があり、博物館的把握ともいえよう。しかし日本国に目を転じるならば、自称哲学者が構造と自由を媒介できないために不毛で夢想的な社会主義のようなものを唱えていた例もあるあるから、ハーバーマスの所説は教科書的な意味は持ちうるであろう。&#13;&lt;br&gt;
　ハーバーマスのこの本は実質的には政治思想史のようなものであり、これは私が大学時代に扱っていたものであるから、特に新しいものはない。もっとも私は思想を詮索するだけの思想史というものをあまり好んでいなかったのであり、ことに流行思想としての現代思想のようなものを嫌悪していたのであるが、それはハーバーマスのような哲学史的バックを背景に持っていたからである。&#13;&lt;br&gt;
　ハーバーマスの本をざっと読んだ頃にサルトルの『家の馬鹿息子』の最終巻が刊行された。私が学生時代に鍛えられたのは丸山眞男の演習とサルトルの本であったから人文書院から出ていたサルトル全集はほとんど全巻を読んでいたが、『家の馬鹿息子』は読んでいなかったものである。というのも私はフローベルには関心を持っておらず、この本はいかにも冗漫でサルトルの老化を感じさせるようなものであったからである。最終巻を読むことにしたのは、この間では十九世紀中葉のフランス社会のイデオロギー的考察がされており、そこには多少興味を引くものがあったからである。この巻は２万円以上もしたが読者の数が少なくなっているようであり、おびただしい誤植があったのはおのずから出版界の衰退を物語るものなのであろう。&#13;&lt;br&gt;
　サルトルは十九世紀フランスのロマン主義以後の作家の文学的状況に関してイデオロギー的考察をしている。この場合イデオロギーは主に支配階級の意識形態を意味している。サルトルによれば支配階級は自分たちが維持しようとしている秩序が人間と事物の自然にふさわしいものと思えるように自分についての虚偽意識が与えられる。しかしこのイデオロギーは単に階級的利害の反映ではなく、あるいはそれに対立するものでもある。だからイデオロギーは相互の対立あるいは「示差」によってのみ規定しあう言葉の関係の集合である。この示差作用は示差の全体性によって構成される土台の上に形式として現れる一対の相互的規定であり、双代から浮かび上がる対になった形式との差異によって構成されるものとして確定されることによってのみ、他の対と示差化されうる。つまりイデオロギーとは、母体と作業図式の非実体的な偽の全体性である。&#13;&lt;br&gt;
　こういう文章は今日ではほとんど理解されないものとなっているであろうが、こういう虚偽意識としてのイデオロギーはすべての階級的個人に共通のものであり、彼らが自分の階級をありのままに意識することの不可能性から生まれるものであるという指摘は、おそらく基本的な妥当性を持つものであろう。&#13;&lt;br&gt;
　サルトルはブルジョアとしてのフローベールはブルジョアでありつつそれを否定することによって、自己を正当化するためには神経症にならざるを得ないとしているが、その妥当性については留保することにしよう。一般的には十九世紀中葉のブルジョアは、その支配が絶対的なものでないために軽侮する貴族階級や皇帝に接近することになるのであり、これが第二帝政時代のいわゆるボナパルティズムである。サルトルはボナパルティズムにかなり説得的な分析をしているのであるが、いかんせん私はフローベールには何の関心もなく、次の世代に当たるプルーストがブルジョアでありながら没落貴族に接近するスノッブ根性を示すイデオロギー的分析を残していないのは残念に思うだけである。おそらくプルーストはブルジョアを否定せず、したがって貴族階級に接近してもそれは癒着であり、分裂症に陥る必要はなかったのであろう。&#13;&lt;br&gt;
　サルトルを読み終わって再びレオパルディに戻ることになった。ほかに読むものが見当たらないから死ぬまでに終わりまで行ってしまう恐れがあり、一日２ページだけ毎日ではなく読むことにしている。読むものがないと自分で読むものを書くということにもなり、私は「深草断章」という本を出版することになった。しかしほとんど人の読まないようなものを読む人間の本を読む人はまずないであろう。考えてみるならば、自分の本などは読みたくないものである。こうして私は誰も読まない本という本の自己否定に行くつくことになったわけである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　今年の初めにはイタリアの女優モニカ・ヴィッティが死去している。ヴィっティは映画史上でも屈指の美女であったが、レイプされる役が多く、６０くらいになってアダルト映画に出たりしている。長くアルツハイマー病と認知症を患っていたようであるが、トラウマからの脱出を図ったのであろう。モニカはアントニオーニと映画の犠牲者といえよう。共演したことのあるマストロヤンニの葬儀は国葬並みのものであったが、彼女はひっそりと葬られたようである。冥福を祈る。&#13;&lt;br&gt;
　年末には例によって庄司紗矢香を聞いている。そのすぐ前にモーツァルトのソナタのディスクを出していた。前作のベートーベンの協奏曲は音が出ていなかったが、今度のはアルノンクール張りに突然大きな音を出している。ハスキルとグリュミオーを聞いていたものにとってはロロコ調からの脱皮といえよう。それは良いのだが、ヴァイオリンのオブリガート付きのピアノソナタとも言われるモーツァルトのソナタはヴァイオリンの真価を発揮するには難しいものであろう。庄司にはライトクラシックだけでなく、去年スペインの春の音楽祭でやっていたシューマンの協奏曲や、音源は知らないがちょっと耳にしたリゲティのコンチェルトなどをリリースしてもらいたいものである。このように言うのは私は交通機関を使って音楽を聴きに行くのが億劫になっており、この稀有の演奏家がどこに行きつくのかを見届けられないのは残念であるが、もう出かけることはないだろうからである。私が死ぬことでもあれば、べリオのセクエンツァ第８番を衛星からあの世に送ってもらいたいものだ。&lt;br&gt;
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      <title>「国葬」を笑う</title>
      <link>https://nambaraca.asablo.jp/blog/2022/09/30/9529800</link>
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      <pubDate>Fri, 30 Sep 2022 20:47:25 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2022-10-05T11:29:56+09:00</dcterms:modified>
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      <description>　元首相某は自分にふさわしい仕方で死亡した。この元首相は様々な事件で訴追を免れていたが、最後に路上で射殺されて横死している。これはマフィアの争いで射殺されたようなものである。マフィアの葬式を国葬でするという国家は大したものである。&#13;&lt;br&gt;
　元首相は元統一教会の関係が命取りになったようであるが、これはこの元首相の本質を示している。統一教会は今では振り込め詐欺団体のようなものになっているようであるが、もとは「勝共連合」をやっていた反共宗教団体である。&#13;&lt;br&gt;
　元首相の実績は、まず教育基本法に「愛国心」の規定を導入し、これは教員に対する君が代の強制を導くことになった。さらに国家機密法、共謀罪の導入、集団的自衛権の容認といった一連の反動立法を強行採決し、日本国の右傾化を印象付けることになった。&#13;&lt;br&gt;
　外交にも実績があったとされている。だがいわゆる拉致問題は小泉訪朝でほぼ解決していたが、当時自民党の副幹事長あたりであった元首相の横槍でとん挫している。拉致被害者の五人が一時帰国した際にこの副幹事長が無理やり永住帰国させ、拉致問題は暗礁に乗り上げることになった。北朝鮮が日本国を信頼しなくなったのは当然であり、外交のイロハを知らない行動である。拉致被害者家族には適切な助言者がなかったのであろう。&#13;&lt;br&gt;
　ロシアとの関係ではプーチンとおしくらまんじゅうをしていただけで、何も結果は出ていない。&#13;&lt;br&gt;
　この元首相の特徴はトランプ、プーチンと気脈を通じていたことによって明瞭になる。トランプはクーデタ未遂事件を起こすとともに、退任後は公文書館に移すことになっている公文書を秘匿することによってFBIの強制捜査を受けた人物である。この文書は北朝鮮の核保有に関するもののようであるが、トランプは不適切な取引でもしていたのであろう。公文書を自宅に秘匿すれば政策の検証をまぬかれるかのように考えていたとすれば幼児的なメンタリティが表れているということであろう。日本の元首相某はトランプの就任前にご機嫌窺いに行って「信頼できる人物」と思ったそうであるが、言いえて妙である。&#13;&lt;br&gt;
　クーデタ未遂事件については議会が特別調査委員会を設置してほぼ全容を明らかにしているが、トランプ自身を喚問していないことには過度の慎重さがうかがえる。公文書秘匿事件に関しても司法省は物件を押収するだけでなくトランプを訴追しなければならないはずであるが、トランプ派の反発を恐れてかいまだに実現されていない。アメリカの司法も前大統領については王権に対するかのような過敏さを持っているようである。&#13;&lt;br&gt;
　トランプの例は今の世界でもっともナチズムが活発なのはアメリカであることを示している。フロリダ州知事は移民入国者を民主党知事の州に移送するということをしているが、これはナチスがユダヤ人を強制収容所に移送しいていたのと同じようなものである。&#13;&lt;br&gt;
　プーチンは国内的には暗殺行為をしていた人物であるが、ウクライナ侵略戦争で無数の戦争犯罪をしているのは不思議ではない。だが国際刑事裁判所に引き出すためにはロシアの同調が不可欠である。しかし動員を逃れるために国外に脱出を急ぐロシアの青年を見るとスラブ人は奴隷根性から抜け出すことができないようであり、正義の裁きの見通しは難しい。&#13;&lt;br&gt;
　日本国の元首相はこれらの独裁的指導者と同類の現象である。これらの右派的反民主主義者がいずれも不法行為と身近な関係にあることは興味深いことである。&#13;&lt;br&gt;
　元首相某は経済的にはアホノミクスと揶揄されるものを提唱していた。これは大企業が閏えば「好循環」によって地方や中小企業も閏うというようなものであった。実質的には日銀に超低利政策を取らせただけであるが、結果的には大企業は内部留保を肥大させ、労働者の賃金はむしろ減少することになった。また結果としてはデフレから脱却したが、今度はインフレ要因を抱えることになった。これが資本の論理というものである。&#13;&lt;br&gt;
　この元首相の政治手法は縁故主義であって、政治はクリエントへの利益誘導に帰着する。代表例としては首相夫人が関与していた森友に対して国有財産を大幅に値引きして売却させるという財務省の背任事件を起こしている。また獣医学部の新設は認めない原則がある中で、愛媛県を経済特区とすることによって、知人に獣医学部の新設を可能にさせている。「学部」新設も「経済」化によって可能になっている。経済はコネとワイロによって動くものになる。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　こうした多大な実績があるために元首相の「国葬」が行われたのであろう。&#13;&lt;br&gt;
　政府によるとそれは第一に最も長く首相の座にあったからである。長いがゆえに意味があるわけではなかろうが、アメリカ大統領で二期８年は普通のことである。ドイツのメルケル首相は元首相より長く在任しドイツ再統一に多大の貢献をしたが、国葬というような野暮なことはおそらくないであろう。のみならずこの元首相は政権の延命のために汚いことをしている。森友事件に夫人が関与していたら辞任するとしていたが、それを示す財務省の文書を改ざんさせ、担当者を自殺させている。ちなみにこの元首相は側近であった河井議員の妻の選挙では１億５０００万円という桁違いの選挙資金を出させ、それが引き金となって大規模な買収事件を引き起こし、河井夫妻が投獄せれても知らん顔をしている。ここには元首相の温かい人柄が現れている。&#13;&lt;br&gt;
　第二に暗殺に関して国外からの弔意が多いことがあげられているが、外交辞令を文字通り受け取るのはナイーヴであろう。&#13;&lt;br&gt;
　前後して行われたエリザベス女王の国葬とは月とスッポンであって比較にもならない。教会は葬儀のプロであり、イベント会社と役人がやるものはこんなものにしかならない。&#13;&lt;br&gt;
　エリザベスの葬儀が壮麗なものになったのは、女王は議会と主権を共有する主権者でもあるからである。１９世紀のジャーナリスト、バジョットは国家には権威の部分とと権力の部分があるとしていたが、項の強いイギリス時の中にあって権威の担い手である王権は壮麗なものでなければならなかったのであろう。たとい王は「君臨」はしても「統治」はしないとしても。&#13;&lt;br&gt;
　しかし今度の常王の葬儀はエリザベスの葬儀であるとともに、イギリスの王政の葬儀のようなところがある。チャールズが即位したが、これは無条件的なものではなく、即位協議会で読み上げられた王の義務に対してチャールズはいちいちI agreeと同意しており、王位は契約である。これは無条件的であり、大嘗祭というプリミティヴな服属儀礼しかない日本皇帝とは異なる点であり、ここに日本国において法の支配が貫徹しえない淵源がある。チャールズは即位宣言で「生涯国民に奉仕する」としているが、王はもはや「君臨」するものではなく、「奉仕」するものである。イスラム国を除いて、民主主義国の王制は時代遅れになりつつあり、生き残りが課題になっているのである。&#13;&lt;br&gt;
　元首相の葬儀では葬儀委員長が弔辞を述べるというような奇妙なことがある。しかしもともと国家と宗教が峻別される国においては、国葬には死をどう扱うという宗教的な要素を不可欠とする葬儀の性格が欠けている。元首相の国葬も追悼式にすぎず、政教分離の国では本来国葬はありえないのである。&#13;&lt;br&gt;
　キシダ首相は弔問外交をしようとしたようだが、サブリーダーに対する分刻みの面談は外交とは言い難い。むしろ遠来の客人に対するレセプションをやっていないのは常識に反している。国葬が失敗したのはキシダが元首相の死を利用しようとしたからであろう。キシダには基本的判断力がないことが露呈している。&#13;&lt;br&gt;
　キシダは聞き上手だとされるが、理解力がないから右の耳から左の耳に抜けているだけである。彼は核廃絶が悲願であるらしいが、核不拡散条約は核廃絶につながらず、核禁止条約から行くべきだと言っても理解しないであろう。&#13;&lt;br&gt;
　国民の半数以上が国葬に反対だったそうであるが、それはまずは折からのインフレで国民生活がひっ迫しているところに無駄使かいすることへの反発であろう。政府・日銀はインフレの基本要因である円安に何らの根本的な対応をせず、何万円かを配るという焼け石に水の対象療法に終始している。為替介入は一日の効果しかなく、為替介入は無駄である。&#13;&lt;br&gt;
　しかし国葬に反対するのは根本的には元首相が国葬に値しないためである。日本政治の癌が消えたことは喜ばしいことである。しかし国葬への反対者も元首相を政治的、法的に水から放逐したのではなく、精神的障害も予想される容疑者によって始末させられたという点については、あまり自慢にならない。一強政治などというものを存続させていたのもこの国民である。&#13;&lt;br&gt;
　国葬反対者とともに献花者も存在する。この両群は保守的であるかどうかという点だけでなく、使っている情報システムが違っているようである。通信回路に互換性はなく、両群の間にコミュニケーションは成り立たない。両群はパラレル・ワールドであり、情報システムが社会の分断を招いているのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　元首相棒が頭角を現すようになったのは２０年前の小泉訪朝あたりからのことである。この２０年は政治的にはいわゆる政治改革によって政治の世界でも独占が可能になり、政治は劣化している。このことは経済に関しても言える。&#13;&lt;br&gt;
　２０年前には日本のGNPは中国を上回っていたが、今ではその三分の一以下である。２０年前には一人当たりの国民所得はOECDの上位にあったが、今では下位に定着している。この２０年は日本経済にとっては衰退と転落の２０年である。中国のあり方がよいというわけでもないから、これはどうでも構わないことであるが、無視できないこともある。&#13;&lt;br&gt;
　泡ゆるアホノミクスによって日銀が世界で唯一のマイナス金利をかたくなに続けているが、これはモラル・ハザードでもある。大企業はぬるま湯に漬かって先進性を失っているようであり、衰退はその帰結である。またその周辺では五輪の贈収賄事件に見られるような腐敗も忍び込んでいる。フェア・プレイの場にあってコネや賄賂といった芳しくないことが横行するということは経済の劣化の一面であろう。&#13;&lt;br&gt;
　元首相某の時期の最大のスキャンダルはおそらくゴーン氏事件である。この事件についてはいまだにその核心が把握されていないようであるが、腹心とされたケリー氏の判決はこの事件がでっち上げられたものであることを示している。&#13;&lt;br&gt;
　ゴーン氏は有価証券報告書に役員報酬を過少記載したとされ、秘書室で退職後に支払う未払い報酬が検討されたにもかかわらず、それが記載されていないとされている。だが役員報酬は役員会等によってオーソライズされなければ決定されるものではなく、秘書室の検討などで決まるものではない。だから未払い報酬が有価証券報告書に記載されていないのは当然のことなのである。もし未払い報酬というものが正規にあるとすれば、それは貸借対照表の「未払い金」に記載されなければならない。それがないということは、未払い報酬などというものはないということである。私は大学卒業後金融機関の審査部門で毎日有価証券報告書を見ていたが、検察官や裁判官はバランス・シートの見方を知らないのであろう。&#13;&lt;br&gt;
　ケリー氏への判決からわかることは、ゴーン氏事件は違法行為などには関係がないものであり、ゴーン氏がルノーとの一体化を図ろうとしたという不確かな情報によって、ゴーン氏に違法行為があったという後述のもとに、政府にとって好ましくないと思われた人物を追放しようとしたものであったとみてよい。そうして有価証券報告書過少記載というような笑うべき事由が持ち出され、日産、経済産業省、検察などが連動して日産の再建者であるこの異色の経営者を失脚させようとしたわけである。こういう事件が首相官邸に無関係であるとは考えられず、法原則に関して浪花節的に出鱈目であったアベスガ政権がゴーサインを出したのであろう。&#13;&lt;br&gt;
　ゴーン氏事件は国家権力が無実な者を犯罪者にいようとした国家犯罪のようなものであり、この20年間における経済の劣化を示すだけでなく、元首相某の政権の最も忌まわしい事件であるとともに、ひいてはガラパゴス国家の最も暗黒な部分を露出させている。コネと賄賂によって動くようになっている国において、独自の道を行く経営者を陰謀によって追放しようとしたわけである。ここには異質な者を排除しようとするガラパゴス国家の最も忌まわしい面が現れている。&#13;&lt;br&gt;
　こうしてみるとゴーン氏事件は元首相某の時代に顕著になるガラパゴス国家の限界点を示すものであると見ることができる。閉鎖性を特色とするこの国家は、この時代に政治的劣化、経済的劣化に見舞われてきたが、近年には有効策を打てない学術会議の失墜に見るように学術的にも劣化しているようである。この総劣化はガラパゴス体制が持続可能ではないことを示唆するであろう。&#13;&lt;br&gt;
　ガラパゴス体制とは世界で唯一の皇帝をあがめ、法や人権には無縁の酋長に服従するといった古代的あり方を維持している珍しい体制である。歴史的に効果がなかったわけではないこの体制が限界にあるということは、その転換のためには脱天皇主義がなければならないであろう。しかしその展望はほとんど存在していない。これは単に制度の問題でなくメンタリティの問題であろう。この国民には独特の緩い性格があり、近年では児童には関係がない天気予報にもぬいぐるみが見られるように、幼児化は一段と進んでいるようである（蛇足であるが近年では天気予報でも「これまで経験したことがない台風」というようなオーバーな表現を乱発してオオカミ少年になっている。北朝鮮のミサイルが騒がれたりしているが、北朝鮮の目的はアメリカの注意を引こうとして挑発することであり、日本国は眼中に置かれていたい。ミサイルも穀倉と同様に日本国は通貨である）。緩い性格は結構であるが、そこでは法の支配も貫徹はできない。&#13;&lt;br&gt;
　ガラパゴスからの脱却が予測できないということは、この国家は沈没するほかないということであろう。近年の円安は単に日米の金利差によるものではなく、失敗国家の日本売りであろう。しかし犯罪国家が消滅することは慶賀すべきことでもある。葬送すべきはまずそうした国家なのである。&lt;br&gt;
</description>
    </item>
    <item>
      <title>中間小括</title>
      <link>https://nambaraca.asablo.jp/blog/2022/06/30/9504954</link>
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      <pubDate>Thu, 30 Jun 2022 20:37:26 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2022-07-01T22:31:45+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2022-06-30T23:33:27+09:00</dcterms:created>
      <description>子供の戦争&#13;&lt;br&gt;
　よく言われていることであるが、ウクライナでの戦争は今の世界の大部分の国家の安全が保障されていないことを示している。&#13;&lt;br&gt;
　あまり言われていないことは、これは十七世紀のウエストファリア体制以来のことだということである。これは登場しつつあった主権国家の併存体制であって、そこにはそれを越えるいかなる権力も存在しない。国家間で紛争が生じると、それは必然的に戦争状態をもたらす。　&#13;&lt;br&gt;
　ウクライナでの戦争の原因の一つはウクライナのNATO加盟の動きはロシアにとって死活問題だとされたことにあるようである。NATOは防衛機構であるからロシアの一方的な被害妄想というほかない。ロシアには臆病さと凶暴さが共存しているわけである。&#13;&lt;br&gt;
　しかしNATOはソ連を中心としたワルシャワ条約機構に対抗してできたものであり、ソ連の崩壊とともにワルシャワ条約機構は消滅している。とするとなぜNATOは何のために存続しているのか、その説明は必要であろう。地域の安全を保障しようとするものであろうが、ロシアを仮想敵国化していることは否めない。ロシアが神経過敏になるのは想像できないわけではない。&#13;&lt;br&gt;
　しかしウクライナがNATOに接近したとしても、なぜそのために戦争をしなければならないのかは説明されない。このためにロシアは特別軍事行動というような名称を与えているようであるが、それは政治目的のための軍事行動である。これは戦争は政治の延長であり、その道具であるというクラウゼヴィッツの戦争概念に合致するものである。&#13;&lt;br&gt;
　とするとロシアはどういう政治目的で戦争をしようとしたのであるか、それがいかにも不明確である。NATO加入問題の他にウクライナのネイナチ（？）を撲滅するためであるとか、ウクライナはそもそもロシア領であるなどということが雑駁に言われたりしているようであるが、要するに戦争目的がはっきりしていない。クラウゼヴィッツ流の戦争概念の延長上にあるのはビスマルクの現実政治であるが、ロシアにはクラウゼウィッツ流のリアリズムが欠けている。妄想による蛮行に終わるのは目に見えている。戦争が結局は陳腐な領土獲得問題に収束したのは当然のことであろう。&#13;&lt;br&gt;
　ロシアがこのようになるのは指導者の質が深くかかわっている。プーチンは秘密警察の職員レベルの人間であり、国内の批判者には次々に暗殺行為をしていたということは、対外的にどういうことするか当然に予想できたところである。小皇帝然とした指導者を持つロシアは典型的な専制国家と言ってよい。&#13;&lt;br&gt;
　民主主義国家は戦争をしにくいが、専制国家は戦争をしやすいという説がある。古代ギリシアの代表的な民主主義国家のアテネは常時戦争をしていたから、この説は幾分修正しなければならない。しかしその場合でもアテネが戦争をした主な目的は民主制を守るためだったことは見失われるべきではない。&#13;&lt;br&gt;
　専制国家は指導者だけでできるものではなく、国民がそれを可能にしている。ロシアの国民は今でも議論ではなく命令を好むところがあるようである。子犬のチンのような指導者を批判する有力な政治勢力もないようであるから反戦論も大したものにならないのは不思議ではない。&#13;&lt;br&gt;
　しかし専制国家の軍隊はもろいものである。ウクライナ戦争も数日で決着すると見られていたが、もう４月以上もうろうろしている。これにはモラールが決定的に低いことの他に戦術戦略が一貫していないことが関わっているであろう。ロシアは百年前には新興の日本帝国に敗北している。&#13;&lt;br&gt;
　ウクライナは古代にはスキタイが住んでいたところである。当時の態帝国ペルシャのダリウス大王はスキタイを征服しようとして大軍を派遣したが、相手を発見できず退却している。遊牧民のスキタイはペルシャの前に姿を見せなかったのである。ヘロドトスは『歴史』の巻末に「キュロスの訓戒」の一文を置いているが、そこで彼は豊かな土地に出て弱体化するよりは、貧しい土地にいて強大であった方がよいと言っているが、この訓戒はロシアにの通用するであろうか。&#13;&lt;br&gt;
　ウクライナにも何も問題がないわけではない。NATOの加盟問題が一つの原因であったようであるが、早い段階でNATOの加盟は断然したと表明している。簡単に断念できるようなものであれば、戦争になる前に話し合いで解決しておくべきであったことである。ゼレンスキー大統領は亡命の助言を斥けてあくまでも踏みとどまっているのは立派であり、ベラルーシの買っていたとされる大統領候補がルカシェンコが居直ろうとするとすぐに亡命したのと対照的で、これではだめである。香港についても言えることであるが、民主主義を守るためにはどんなことがあっても母国にとどまらなければならない。しかしゼレンスキー氏には戦争を食い留めることができなかったという点では、政治的には未熟なところがあることは否めない。ちなみにウクライナ戦争はウクライナがNATOに加入する正当性を与えたということができよう。&#13;&lt;br&gt;
　結局ウクライナ戦争は勝手に他人の領土に入って殺人と国土の破壊をほしいままににしているが、こんなことは馬や鹿でもしないことである。いまだに戦争の出口も見いだせていないが、それは戦争目的がはっきりしないから当然のことであろう。佐藤春夫は小学校時代の子供戦争について書いているが、ロシアのウクライナ戦争は子供の戦争以下と言えよう。&#13;&lt;br&gt;
　ウクライナ戦争がいまだに終わっていないのは留め男のようなものが不在であることも一因である。アメリカは幻想的はヴェトナム戦争の失敗後、根拠のないアフガン戦争でも撤退するというように及び腰になっているが、今度の戦争ではNATOを直接出すことはできないとはいえ武器供与をしたり戦争を長引かす要因になっている。&#13;&lt;br&gt;
　しかし根本的な原因は国連の無能にあると言える。事務総長が泣きながらロシアに戦争をしないでほしいと訴えていたのは今の国連の現実をよく示している。安保理事会はロシアが当事者としているから、何ら有効な決定をしえていない。総会は決議だけはしているが、決議だけではただの言葉にすぎない。戦争のような事態には何らかの強制力が不可欠である。&#13;&lt;br&gt;
　要するに今の国連は諸国の安全を保障できていない。それはつまるところ今の国連は主権国家の連合であり、主権国家に対して有効な強制力を加えることはできないのである。細かく言えば、部分的には強制力を持っているが、それは常任理事国の主権には手を触れることができない。EUは国連よりはやや主権の削減があるが、それでも主権国家の方に近い。&#13;&lt;br&gt;
　こうしてウクライナ戦争が示しているのは主権国家体制の限界ということであり、その枠がある限り諸国の安全は戦争以外には保障できないということである。無論今日でも戦争は法的には違法化されている。国家間の紛争は国連が乗り出すまでは自衛のために強制力を行使できるだけである。しかし国連軍はできたことがなく、国連の実効力がない以上戦争の禁止は無力化されている。&#13;&lt;br&gt;
　多面においてウクライナ戦争に関して多様な支援がなされていることは何らかの国際社会が生まれていることは無視しえない。だから問題は国際社会の言う実質と主権国家という政治的体制のギャップにあると言ってよいであろう。国際社会はあっても警察もない状態である。つまり国際社会に見合った政治秩序が求められているということなのである。&#13;&lt;br&gt;
　この問題で基本的な視点を出しているのはカントの永久平和の理念である。つまり永久の平和を実現するためには世界が一つの国、と言うより一つの共和国のようなものにならなければならないということである。世界共和国においては紛争があっても、それは国内的な問題であり、戦争の問題ではない。戦争の問題が最終的に解決されるためには世界は一つの国にならなければならないということである。&#13;&lt;br&gt;
　しかしカントの世界共和国の弱点は、それが永久平和つまり理想形としてのみ提出されていることである。カントは商業の発達などに「自然」の狡知を期待したのであるが、それはあまり強力なものではない。つまりカントの世界共和国論は理想形とは別に現実形を必要としているのであり、それはつまり権力の構築ということである。いつの時代にもぐ社入るものであり、この世の悪に対して平和を維持するためには権力をなくすることはできないのである。したがってカントの世界共和国を補完する現実形はその共和国の権力をどのように構築するかという問題になる。&#13;&lt;br&gt;
　この点で参考になるのは近代の主権国家を構築した理論である。代表的にはホッブズに見られるものであるが、彼は個人の生存を確保するためには、各人の自己防衛という自然権を共通の権力に譲渡するという契約を結ぶことであるとしている。この共通の権力が主権ということであり、それが近代の主権国家の理論となったものである。&#13;&lt;br&gt;
　今日の世界が必要としているのはこの主権国家の解体の理論ということになる。かつての社会契約論から見るならば、それは諸国家がその生存を確保するために、自己防衛力を世界の共通の権威の譲渡し、その権力に従うということを意味するであろう。それが世界国家という名のものであれ、世界共和国というものであれ、現実形として世界の平和を維持するものになるものであろう。ここで重要なことは人間の世界になくせないように見える警察のような暴力装置をどのように世界に構築するかということであり、それがとりもなおさず世界国家への現実的な通路であろう。&#13;&lt;br&gt;
　しかしこの現実形にも直ちに困難が予想される。どこの国が自分の警察や軍隊を世界の権力の譲渡するであろうかということである。だがそれは近代社会が国家形成をする際に自己防衛を放棄するという形で実現したものである。もっともアメリカはまだ抵抗権を維持するために国民の武器の所有を認めているのであるが。この点で代表的な民主主義国家となったアメリカはまさしくそのために世界共和国を実現するためにも大きな障害を含んでいる。&#13;&lt;br&gt;
　とすると世界の安全を保障するためには世界を統一するよりは、地域的な安全保障網を作る方がよいということにもなるであろう。それが例えばNATOということであり、太平洋にも類似のものができ、それがリンクするならばかなりの程度のグローバルな安全保障網ができるでもあろう。しかしそうした安全保障網というものは結局軍事同盟ということであり、武装平和は実現したとしても戦争の廃棄という目標には程遠いものである。&#13;&lt;br&gt;
　こうした中で日本国では火事場泥棒のように防衛力を増強しようとする声が出ているが、戦中派からするならば戦争を知らない餓鬼のたわごとである。また憲法に自衛隊を明記するというような議論があるが、憲法は原則を示すものであって個別の組織を規定するようなものではない。言に自衛隊は最初は警察予備隊と呼ばれ、次いで保安隊になり、最後に自衛隊になっている。&#13;&lt;br&gt;
　こうした議論には原則に無関心な日本人の特徴が現れているが、ここで見逃せないのは憲法第９条がうめれたのは、そのころ国連が計画されており、戦力を持たないのは国連が安全を保障するという期待があったからである。このことは裏から見れば国連が安全を保障できなければ第９条も無効になりかねないということであろう。しかし憲法の趣旨からすれば日本国は国連が安全を保障できるようにしなければならないということであろう。今の国連に限界がある以上、それは国連を変えていくようなものでなければならないであろう。&#13;&lt;br&gt;
　ここでは結論的にしか述べられないが、平和主義だけでは不十分なことは明らかであり、国連には国連警察のようなものがなければならないであろう。それは戦争をするのではなく、あくまでも平和を維持するためのものである。日本国に何しては、それは具体的には自衛隊を国連に移管することを意味するであろう。これは国際秩序を作るとともに自国の安全を保障するという二重の意味を持つものである。しかしこういったものを今の安保理事会に与えたのでは動きの取れないものになるであろうから、直接に総会に帰属しなければならないであろう。&#13;&lt;br&gt;
　こうした課題はよほどの労力を要するものであり、日本人の実力を越えている可能性もあろう。現に現首相は大平や宮沢の流れにあるとは信じられないような憲法改正を叫んでいるのであるが、日米地位協定の改正は喫緊の課題であるが、憲法改正などは不要不急であるだけでなく有害無益でもある。少なくとも今言われているような改憲論は盥とともに戦争放棄という「赤子」を流すものであろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
子供の議会&#13;&lt;br&gt;
　日本国の首相は「新しい資本主義」とかいうもののセールスマンになっているようである。世界のリーダーの中で「資本主義」を宣伝しているのは日本の首相くらいのものであろう。&#13;&lt;br&gt;
　キシダ君もアベと同じく学がないから資本主義の問題など分かっていないのであろう。資本家が潤えば「好循環」によって労働者も潤うというのは、資本が利潤を求めるものである以上、よほどの社会主義的な強制力が働かなければ無理なことである。&#13;&lt;br&gt;
　旧政権以来の新自由主義的な政策で日本国の社会には貧富の格差が増大し、富裕者の社会と貧困者の社会の分断が進んでいる。これは「新しい階級社会」の登場と言ってよく、ここに求められているのはむしろ「新しい社会主義」であろう。&#13;&lt;br&gt;
　資本の論理はインフレ、デフレで人々を翻弄させるが、物価高はその一局面である。今の物価高は円安による輸入価格の高騰によるところが大きいが、インフレ目標を持つ日銀は円安をむしろ誘導すべく超低金利を継続させている。日銀は少しでも金利を引き上げるならば景気を後退させかねないと日本経済をきわめて脆弱なものとみているようである。&#13;&lt;br&gt;
　インフレの犠牲になるのはまず労働者層であり、景気後退でまず被害を受けるのは資本家層である。日銀が資本の利益を労働者の利益に優先させていることは明らかである。&#13;&lt;br&gt;
　その当否はいずれ明らかになるであろう。しかし日銀は通貨の番人でもある。現総裁になって以来円の価値は３０パーセント以上低下している。日銀総裁は辞任に値する。&#13;&lt;br&gt;
　インフレに対する政治の対応はほとんどないようである。国会では財務大臣に「買い物に行ったことがあるか」というような子ども議会の問答が聞かれ、議長はセクハラにいそしんでいるようである。国会議員がこのように劣化したのはいわゆる政治改革に深くかかわっているようである。国会議員は通常一年で五カ月しか働かず二千万近い歳費を受けるだけでなく、何に使われているのかわからない文通費を毎月百万円もらっているようである。こんな国会は税金の無駄であろう。&#13;&lt;br&gt;
　そうした中で立憲民主党の発信力の欠如は危機的であろう。「提案型」などは与党に吸い上げられるだけだということは、国民民主党が証明している。&#13;&lt;br&gt;
　こうして日本の国会は限りなく大政翼賛会的なものとなったと言えよう。連合の会長が自民党にすり寄ったりしていることは、百年以上前に福沢諭吉が「権力の偏重」と言っていたことが続いていることを示しているが、「権力の偏重」とは権力が一元化しているということである。これは日本政治のロシア化である。&#13;&lt;br&gt;
　実質的野党がほとんど存在しないことの直接的な問題は権力の監視ができていないことである。森友財務省事件は文書改ざんの問題に矮小化され、事件の真相は明らかにされていない。&#13;&lt;br&gt;
　ウクライナ戦争に隠れていたが、元日産のケリー氏への判決が出ている。ゴーン氏の腹心とされていたケリー氏は有価証券報告書へのゴーン氏の役員報酬の過少記載に関与したとして起訴されていた。役員報酬には未払い金があるはずだということである。判決は一部について有罪とするものであった。&#13;&lt;br&gt;
　この判決でまず不可解なのは、役員報酬の過少記載があるのであれば、真の役員報酬はいくらであるかが明らかでなければならないはずであるが、未払い金の支払いを証明するものが全くないことである。退職時に支払うことも検討されたようであるが、それは決定されておらず、無論貸借対照表の「未払い金」にも記載されていない。真の役員報酬額が明らかにできないであれば、有価証券報告書の記載が「過少」とすることもできないということは中学生にもわかることであろう。&#13;&lt;br&gt;
　このようにこの判決は有価証券報告書の虚偽記載を証明することができていないだけでなく、その虚偽記載は審理対象とされていないゴーン氏が主導したものであるとして、ケリー氏に形だけの有罪判決にしている。こういうでたらめな判決は、この事件には犯罪の実体がなく、フレイムアップにすぎないことを示すものである。こういう判決が出ることはゴーン氏が日本の刑事司法は信用できないとして逃亡したことを正当化するようなものであろう。&#13;&lt;br&gt;
　ゴーン氏事件は結局、政府にとって都合の悪い人物を企業、役所、検察さらに司法が連携して追放しようとした国策訴追であったと言える。私はこの事件の報道に接した時に第二の大逆事件のようなものであるとすぐわかったが、それは資本や権力が法を曲げる犯罪的行為という意味である。森友事件に続いてゴーン氏事件のようなものが法的にでたらめなアベスガ政権に生じたのは不思議ではない。自伝的小説で佐藤春夫は大逆事件に関して，「事もあろうに暗殺などとあるまじき不敬事を種に国民を煙にまいて、天皇を支配階級の具に供し」た事件であるとしていたが、支配階級のすることは変わっていない。なお子供戦争の相手方として崎山栄と出ているのは大逆事件で死一等を免じられた崎久保誓一氏をモデルとしている。&#13;&lt;br&gt;
　アメリカにおいてもトランプの１．６クーデタ未遂事件が生じていた。しかしこの事件についてアメリカ議会は数百人の証人喚問、千人以上のインタビューなどによってトランプの責任（私には一年半前からわかっていたことであるが）をかなり明らかにすることになり、議会の一定の名誉回復を実現している。しかし日本国においては国会による国政の調査が全くできていないのである。&#13;&lt;br&gt;
　むろん国会がこのようになるのは国民の態勢が関わっている。日本人が「太平の逸民」になる傾向があるのは直接には象徴天皇制が関係している。天皇は英訳すればEMPERORつまり皇帝である。泡沫的なものを別にすると、第二次大戦後も皇帝を持っていたエチオピアやイランも１９７０年代には相次いで皇帝を廃止し、今では皇帝を持っているのは日本国だけである。日本のガラパゴス制は端的には皇帝を持っている唯一の国ということである。皇帝は「王の中の王」と言われるように、ただの王ではない権威主義的な性格を持っている。こういう国は専制主義にはなっても民主主義を貫徹することは困難である。&#13;&lt;br&gt;
　支配階級が法や権力をほしいままにすることは前の参議院選挙においても見られる。広島選挙区の河井議員が大規模な買収事件を起こしたが、それは自民党が１億５０００万円を与えたことを引き金にしている。税金が買収に使用された公算が大きいから本来は会計検査院が調査すべきものである。当時の幹事長は支出を知らなかったということは、アベ元総裁が通常の手順を経ずに支出させたということであろう。前回の買収事件の資金の流れをうやむやにしたままで、また参院選に出かける有権者はご苦労様である。&lt;br&gt;
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      <title>今年のゴミ箱</title>
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      <pubDate>Wed, 08 Dec 2021 21:32:25 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2021-12-25T09:53:49+09:00</dcterms:modified>
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      <description>　昔から資本主義の害悪や資本主義の危機が叫ばれながらも、資本主義は一向になくなりそうもない。しかしその資本主義はかつてのものとは違ったものになっている。&#13;&lt;br&gt;
　自由資本主義の牙城であったアメリカ自体連邦政府が１００兆円を超えるインフラ投資をするようになっている。&#13;&lt;br&gt;
　他方で資本主義にとって代わるかに見えた社会主義はマックス・ウェーバーも予期していたように経済学的には成り立たずさしあたりは退場したかのように見える。確かに中国は一応は社会主義を自称しているが、その実質は国家資本主義と変わりない。&#13;&lt;br&gt;
　こうした事態は純粋の資本主義も社会主義もそれ自体ではありえなくなっていることを示すもので、経済体制はいずれにせよ複合的なものになるほかないことを表している。&#13;&lt;br&gt;
　だから資本主義それ自体の正当性はもはやなくなっているのであるから、成長か分配化などというのは古い資本主義の枠の中の問題であり、まして持続可能性の要件を備えない資本主義は資本主義ですらないと言ってよいであろう。&#13;&lt;br&gt;
　社会主義が問題にし中心的なテーマの一つは労働力の商品化にあったが、フーリエのファランジェのような構想は結局はユートピアにとどまらざるをえないということになったと言ってよいであろう。経済というものは人間の物的欲望を肯定するものであり、それはリビドーのように破棄することはできず、制御するほかないということであろう。それは具体的には社会的な市場経済の姿をとるものとなるであろう。&#13;&lt;br&gt;
　こうして経済に関しては体制選択の問題は消失しつつあると言ってよいであろう。物質経済は狭い地球上で直接に接続しており、経済体制は均衡化せざるをえないのである。&#13;&lt;br&gt;
　これに対して政治の世界では民主主義が争点化するようになっている。一方でアメリカに代表される欧米民主主義があり、他方で中国に代表される非民主主義国家群があり、それがイデオロギー的に対立するようになっているのである。アメリカは欧米の民主主義に対立する中国やロシアを「専制国家」と規定している。体制選択の問題は民主主義をめぐるものになっていると言ってよいであろう。&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
　しかし欧米民主主義の旗頭を自任するアメリカでもまさしく民主主義の危機が表面化している。それを端的に示すのは昨年の大統領選挙でトランプが選挙結果を否認したことであるのは言うまでもない。この民主主義への挑戦は今年の1月6日のモッブによる議会襲撃においてピークに達している。&#13;&lt;br&gt;
　アメリカの大統領選挙は一般選挙で終わるものではなく、選挙人の選出などの何段階かのプロセスがあり、その最後には議会における投票の確定作業があり、それが1月6日に行われることになっていた。実質的には一般選挙で決まっているのだから、議会での作業はセレモニー的なものであるが、これによって最終的に当選者が決定される。&#13;&lt;br&gt;
　トランプは様々な州で選挙の不正を提訴していたが、すべて裁判所から却下され、議会での作業が最後に残された機会であった。当日トランプは暴徒を前にして「命がけで議会に行け」と指示しており、モッブは議会に乱入したわけである。これはベルリンやミュンヒェンにおけるナチス党員の議会襲撃事件とほぼ同じものである。バイデン大統領が実益のない民主主義の宣教師になっているのは立派なことであるが、自国内での右派集団によるクーデタという民主主義の破壊工作に目を閉ざしているのは片手落ちである。&#13;&lt;br&gt;
　FBIは数百人の乱入者を逮捕して処罰しているが、この事件の主犯はトランプであるから、末端をいくら逮捕しても意味はないであろう。退任した大統領には特権はないはずであるから、FBIはトランプを逮捕・収監すべきであったのである。明らかなことはトランプがいなければこの事件はありえなかったということである。アメリカにも捜査局の問題があることを窺わせる。ヴィデオを見ると議会警察は本腰で暴徒を阻止しようとはしておらず、議会警察にもトランプへの内通者がいたことを予想させる。&#13;&lt;br&gt;
　この前代未聞の議会襲撃事件は政権最終日における大統領による国家の最高機関へのクーデタ事件であったが、そ道具となったのがSNSであったことは無視できない。インターネットは民主主義に寄与するという見方もあったが、ネットというものは異なった意見の交換になることはほとんどなく、同好者のプロパガンダに向いていることが明瞭になってきている。民主主義には新たな脅威が生まれつつあるわけである。&#13;&lt;br&gt;
　２００年ほど前にトクビルはアメリカには哲学者はいないけれども、司法や新聞があるので民主主義が機能していると言っていたが、司法がやや疑わしくなるとともに、新聞という伝統的なコミュニケーション手段がデジタル的な情報通信によって後退するようになっているから、民主主義の基盤は浸食されてきている。&#13;&lt;br&gt;
　それとともにアメリカには哲学者がいないことの弱点も表面化している。アメリカのオピニオン・リーダーは新聞のコラムニストやテレビのコメンター程度であり、長期的、マクロ的な診断がほとんど存在しない。その上に通信情報がデジタル化されていることが、人々の思考を二進法的に単細胞化してきているから、人々は容易に単純な社会陰謀論のようなものに支配されるようになる。民主主義を取り巻く状況は厄介なものになってきていると言わなければならない。&#13;&lt;br&gt;
　しかしこういう現象はアメリカだけのことではない。哲学は存続危惧品種となっているようであり、日本国でも自称する哲学者は少なくないようであるが、その多くは哲学とは逆の臆断家のようである。&#13;&lt;br&gt;
　現代世界で唯一残ったドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスの講演には三千人の聴衆が押し寄せたことが示すように、今の世界にも真の知（ハーバーマスのそれというのではない）を求めようとする意欲は残されているのであろう。しかしその重厚長大さは明らかに今の世界の趨勢には反している。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　アメリカによって「専制国家」と規定された中国は今年共産党設立１００周年を迎えている。共産党は人民の開放を目指すものであり、その意味で民主主義の貫徹が趣旨であったはずである。共産主義の教祖によれば資本主義の金権主義のもとでは民主主義はゆがめられており、民主主義のためにも経済的には社会主義・共産主義が求められたのである。共産主義は民主主義の完成のはずであった。&#13;&lt;br&gt;
　国家間に関するとマルクス主義の国家に対する見方の根本にあるのは、共産党指導部は忘れているようであるが、「国家の死滅」ということである。国家は搾取のシステムなのである。もっともレーニンは共産主義の初歩段階には国家権力は強大でなければならないという見解であった。しかし中国共産党は１００年も経って未だに初歩段階であると言うことはできないであろう。中国共産党はレーニンの言説を誤解して国家権力主義的なものをもたらしたと言ってよい。アメリカなどから専制国家とされるのには理由があると言える。&#13;&lt;br&gt;
　中国は中国流の民主主義をしているという反論を出しているが、そこには民主主義の概念規定がないから説得力がない。民主主義というのは古来人民が権力を握ることであり、直接的には選挙によって代表を選出することにあるとされている。中国にはいまだに一般選挙がなく、その意味ではいかなる意味でも民主制とはいいがたい。&#13;&lt;br&gt;
　中国の政治システムは基本的には共産党が人民の利益を代表するという代行論に立脚している。それは支配者が被支配者を配慮するという儒教以来の仁政論を継続するものであり、その意味では人民に権力を与えるという民主主義を否定するものである。これは人民を主体にしようとした毛沢東の歴史的な志を裏切るものである。&#13;&lt;br&gt;
　この民主主義の欠如を補填しているのは単純なナショナリズムや大国主義のイデオロギーである。偉大な中国民族の伝統といった言い方は国家指導者だけでなく一般人民にも浸透している意識であり、こういう幼稚な意識が瀰漫しているのは、とりもなおさず中国の政治思想の後進性を示すものであろう。&#13;&lt;br&gt;
　専制国家の規定として民主主義の欠如のほかに人権の侵害や法の支配の欠如があげられる。中国における人権の侵害は、そもそもアジアには人権感覚がなかったという背景を持っている。これはよく知られていることであるから法の支配についてだけ付言する。&#13;&lt;br&gt;
　中国には法治よりも人治という伝統があったが、近年の現象としては南シナ海は中国の「核心的利益」であるから国際法に関わらず中国が支配するという主張が着目される。ここに露骨に表れているのは「利益」が「法」に優位するという発想であり、法の支配の考えは根本的に存在しない。中国には利益を越えた法規範という発想がなく、国際法を無視するのは当然なのである。&#13;&lt;br&gt;
　今年の中国の専制主義を代表するのは香港の民主制の破壊であろう。香港の民主制は議員は「愛国者」つまり親中国派に限定することによって完全に破壊されることになった。これは民主主義への無理解であるだけでなく、一国二制度という香港の英国から中国への返還の協定にも違反するものである。英国がそれに強く抗議することができないのは英国はもはや大国ではなくなったということが背景にあるであろう。&#13;&lt;br&gt;
　むろん香港の運命には今の中国の思想水準の低さも関係している。中国では共産党の指導の下で洗脳教育はあっても自由な思想の展開は封じられている。その結果は「愛国者」というような幼稚かつ無教養な用語の使用となる。無論ここには思想家などは一人もいない。共産党指導部は「愛国心はならず者の最後の言葉である」という西洋の格言すら知らないのであろう。&#13;&lt;br&gt;
　香港の民主制が破棄されたことは、香港の一応の民主制は英国の植民地として与えられたものにすぎなかったことと関わっているであろう。このカッコつきの民主制は後見人がいなくなるとともに、もろくも壊滅したわけである。新聞や組合が早々と自発的に解散したこともこのことを物語っている。しかしこのように民主主義が自ら獲得したものでないことによって簡単に破棄されたことは、同様に民主主義を占領によって与えられた日本国にとっても無関係ではないのである。&#13;&lt;br&gt;
　ロシアには歴史的に西洋的要素とアジア的要素があるが、プーチンのロシアは明らかにアジア的専制の流れにある。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　日本国は民主主義と人権及び法の支配によって特徴づけれらる西洋と価値観を共有しているとされるが、これは疑わしい。&#13;&lt;br&gt;
　まず第一に反民主主義原理としてのテンノーが存在する。象徴天皇制は君主制の遺制（識者の中には日本国は立憲君主制の国であるとして、主権の所在によって規定される政治体制への無知もあるようであるが）というよりも、権威に対する受動的服従という価値観の具象化なのである。&#13;&lt;br&gt;
　天皇制は上下貴賤という差別意識のもとに成り立っているが、またテンノーに基本的人権がないことに示されるように、人権無視は日本国の国是のようなものである。この人権無視は他国との接点である出入国管理において端的に表面化する。&#13;&lt;br&gt;
　日本国は以前から欧米諸国よりも難民受け入れ率が二けたも少ない。出入国管理施設で自殺者が相次いでいたが、今年も人権無視で病死者が出ている。さらに今年は難民申請に関して裁判を受けさせることなく送還して裁判所から憲法違反とされている。&#13;&lt;br&gt;
　法務省の機関が憲法違反をしているのであるから、日本国の法の支配が怪しいものであることは容易に想像できることである。法の支配は国家権力を限定し人権を守ることを基本モチーフにしているが、人権医師に乏しいところでは本の支配も薄弱なものになる。ここでは条約について触れておくことにする。&#13;&lt;br&gt;
　たびたび北方領土の返還ということが唱えられているが、このいわゆる「北方領土」と言われるものは地理上「千島」と呼ばれるもので、それはサンフランシスコ平和条約で日本国が放棄しているものである。これについては当時の首相や外相が認めていることであり、条約批准の際に条約局長が明言しているところである。「北方領土」という表現は１９６０年ころ右翼団体大日本愛国党の赤尾敏などが言いがしたもので、いつの間にかそれが国論のようなものになってしまったものである。&#13;&lt;br&gt;
　サンフランシスコ平和条約のような第二次大戦後の最も基本的な条約の主要部分がこのように出鱈目になるということは、自ずから日本人の法認識を窺わせるものである。「北方領土」という発想に見えることは法規定よりも卑俗な国益を優先させることであり、それは実は中国の「核心的利益」圏の発想と似たものである。ここでは同様に国際法原則よりは利益が優先される。両国ともに西洋流の人権や法の支配があるとはいいがたい。日本政府が香港の民主制弾圧やウイグル族の人権弾圧やミャンマーのクーデタに対する批判が中途半端なものになるのは不思議ではない。&#13;&lt;br&gt;
　民主主義、人権、法の支配というどの面からみても日本国は欧米よりも中国に代表されるアジア的な価値観と近い関係にある。&#13;&lt;br&gt;
　国際法について言いうることは憲法についても生じることになる。その代表は第九条の規定と現実の齟齬に見られるが、そうした例からも見られることは、日本国に法の支配がありうるかということであろう。内外ともに法よりも便益が支配し、法の不支配が否定できないことである。これは国家功利主義と言ってよいであろうが、そうしたありかたがもたらされたのは、南島からの渡来人を北方からの渡来人が支配し、法よりは権威を優先させるテンノーを生み出した国家形成の由来にまでさかのぼるものである。&#13;&lt;br&gt;
　利益に優位する法の観念や法原則によって権力を創出し制御するという発想がなかったから、日本国は元来は非憲法的国家であり、日本人は非憲法的人民であると言っても過言ではない。こういう非憲法的な国家国民がたまたま憲法というものをもたらされる場合には奇妙なことが生じる。それは一方において憲法が単なる建前にすぎないものになり、他方では憲法を仏神化したり単なる文字とするという文字フェティシズムが生まれる。それは別の局面では憲法改正が倒錯的に自己目的になったり、中身よりは文字表現の問題になることに現れる。しかしそうした思想も理念も欠いた憲法改正が単なる建前になることは目に見えている。&#13;&lt;br&gt;
　日本国では憲法が猫に小判となる疑いは国会における憲法審査会なるものにも見ることができる。憲法によって授権された国会が憲法を審査するさするというのは奇妙なことであるが、その国会というものは議員の四分の一以上の要求があれば内閣は臨時会を招集しなければならないとされている（第五十三条）にもかかわらず、無造作に無視されている存在である。内閣が憲法違反をしているということは国会が憲法違反をしているのと同じであり、そうした国会に憲法を審査する資格があるかどうかは疑わしい。&#13;&lt;br&gt;
　このように元来が規範原則的でなく、便宜主義的なところに短所だけでなく長所を持っていた日本人には憲法を持つ能力があるのかという由々しい懸念が浮かび上がってくることになる。似たような事情にあるのは抽象的思考を好まず、成文憲法を持たないイギリスである。だから誰も理解しない言い方をすれば、日本国は成文憲法などは廃止して不文憲法つまり慣習法にした方がよいくらいのものである。そうすれば建前と本音のギャップの生まれないことになろう。しかし成文憲法を持たないことはややプライドを傷つけられることではあろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　今年はガス首相が辞任したが、これは単なる能力不足の結果である。この首相はコロナが急増する中で「中等症は自宅療養」と言って反発を買い、撤回したくないので「中等症以上は入院」と言いかえたが、これは低能が言うことであろう。この首相の能力不足は記者会見を見ても一目瞭然で、記者に提出させた質問に役人が書いた回答を棒読みしている。もっともこうした専制国家的なやらせの記者会見にぺこぺこと「お伺い」をしている記者も記者であり、内閣記者会は御用記者会と言ってよいであろう。日本国の報道の自由度が国際的に低いのは当然のことである。そうして報道の自由度は民主主義度のバロメーターでもある。&#13;&lt;br&gt;
　こういう首相がどうして首相になろうという気を起こしたのは謎であるが、この首相がデジタル化を進めたがっていたことはデジタル化の一面を物語るものであろう。つまり見識がないものにおいては政治は管理統制であり、デジタル化を思い至ったのであろう。しかし国民の個人情報を一手に集約する半面で、学術会議事件で見られるように、政府は集めた情報について一切説明をしないということは、デジタル化は単なる支配の道具になるということであろう。情報の非対称性は専制国家の特質であろう。もともとCDが自然の音を一部を集めたものにすぎず、利便性はあるけれども自然の音でないことはデジタル化についても言いうることである。&#13;&lt;br&gt;
　その間に日本国家はいざとなれば国民を見殺しにする（命の選別）ものえることが明らかになったことは記憶に値することである。とかくして無能な施政者は災いである。&#13;&lt;br&gt;
　続いてキシダが首相になったが、彼れは考えの浅い軽量級のようである。新しい経済ならばともかく、新しい資本主義などと妙な大ぶろしきを広げていたが、その実はアベの成長の好循環によって分配も潤うという枠の中にある物のようである。しかし「好循環」というのは単なる期待であり、政策ではない。政策というものは例えば富裕者増税というように具体化されなければならないものである。そこで残るのは大企業の優遇ということだけであるからペテンに近い。&#13;&lt;br&gt;
　キシダは広島の出身だから核兵器の廃絶に思い入れがあるということを言っているようであるが、彼を特質づけるのは、外相時代に国連における確信し条約の反対投票していることである。それがアベ政権の方針であり、キシダが核廃絶の志を持っているのであれば、外相を辞任すべきであったであろう。しかしキシダな核廃絶論はそれほど徹底したものではないのである。核禁止条約に反対するということは、アメリカのような核保有国が核拡散防止を優先し、また核の傘のもとにあるという意識からするものであろう（非核三原則はもう忘れたのであろう）。しかし核の傘などというものは単なる幻想であり、またそれは核禁止と矛盾するものではない。なぜなら愚かにも核の傘を信じているとしても、核を禁止すれば核の傘という妄想も不要になるからである。&#13;&lt;br&gt;
　キシダはまた敵基地攻撃を選択肢にしているようである。野党は敵基地攻撃を現実性がないなどと言っているようであるが、与野党も劣化している。今年は太平洋戦争８０年の年である。敵基地攻撃ということは戦争行為であり、それが憲法と合致するかどうかは言うまでもないであろう。敵基地攻撃は第二の真珠湾攻撃である。キシダは何もあまり信じることはないスマート（デジタル）人間なのである。浅薄な姿勢者も困りものである。&#13;&lt;br&gt;
　その間に衆議院の総選挙が行われている。この選挙は立憲民主党の一人負けであった。敗北の原因は争点形成に失敗したことであろう。すでに長期政権による権力腐敗が目に余るものとなっており、権力腐敗に対する王道は権力を変えることにある。だが立民党はそこに焦点を当てることなく、かえって成長か分配かという自民党が作った土俵に上がってしまい、ピンボケの選挙をしていたようである。立民党は相手の力に負けたというよりも、自分で勝手に滑って敗北したわけである。批判ばかりという批判があるようであるが、権力を監視しなければならない野党が批判するのは当然のことであり、むしろ批判が不徹底と言った方が近い。権力をとらない野党第一党はネズミを捕らない猫と同じで役に立たない。立民党は政治とはまず優先順位を決めることであることを知らないようである。このアマチア集団の失敗はベテラン政治家の助言を求めなかったことにも一因があろう。逆に、後になって意外な結果であると驚いているような現実感覚を欠いた学者が関与すると、選挙には必ず敗北する。&#13;&lt;br&gt;
　今年はいわゆる政治改革の２５周年でもあったが、その結果はすでに出たと言ってよいであろう。。この事態は長年の自民党支配がリクルート事件などの腐敗によって政権から転落し、その原因は派閥の横行を許す選挙制度に原因があるとされ小選挙区制を導入することに帰着するものであった。小選挙区制を導入すれば選挙は政策中心的なものになり、派閥は弱体化するであろうし、やがて二大政党が生まれる可能性があり、政権交代も容易になるであろうとされた。しかしこの幾分皮相な改革論は自民党の事情から生まれたものであるが、御用学者たちはこれを政治改革と呼んだのである。そもそも政治は国民性に深く根差したものであるから、一つの法律で改革できるようなものではないのである。現に面白みのない選挙制度のもとで有権者の半数近くは棄権するようになっている。&#13;&lt;br&gt;
　この政治改革によって予期されたように自民党は政権に復帰し、また腐敗も復活することになった。政権が腐敗する時には、腐敗するにふさわしい担い手を生み出すものであり、２０１０年代の腐敗の主な担い手はアベ商店であった。&#13;&lt;br&gt;
　それを象徴するのは近年の参議院選挙での河井候補者の買収事件であろう。河井候補者の夫はアベの側近であるが、妻の候補者には自民党から１億５０００万円の選挙資金が渡されている。これは普通の候補者が受け取る金額の十倍にあたるものであり、それが買収の引き金になったのであろうことは容易にそうされる。党の経理責任者の幹事長は知らなかったそうであるが、ということは総裁が直接指示したことしか考えられない。権力の私物化はアベの専売特許なのである。この場合党からの資金は買収に使われていないとされているが、金に色目はついていないのであるから、買収は別会計にしているという非現実的な想定でもしなければならないであろう。自民党の収支構造からすれば党資金の大半は政党交付金であるから、政党交付金つまりる国民からの税金が買収に使われたということであろう。&#13;&lt;br&gt;
　しかし政治改革以前の腐敗がロッキード事件やリクルート事件のようにいわば単純な贈収賄構造を持っていたのに対して、政治改革後の腐敗は河井事件とは異なって権力そのものの腐敗という違った種類のものになっている。腐敗に質が変わり、いわば腐敗の進化が見られる。&#13;&lt;br&gt;
　その代表的なものは森友事件である。これは文書改ざん事件に矮小化されているようであるが、本来は財務省の背任事件であり、文書改ざんは、そこからの不都合を隠ぺいするための付帯事件である。財務省は国有地を大幅に値下げして売却したのはゴミがあったということを口実にしているが、ゴミなどなかったというのが真相であろう。この肝心な点について検察は捜査すらしていない。&#13;&lt;br&gt;
　つまり近年の腐敗は政治家だけの腐敗ではなく、権力そのものの腐敗という特性を持つようになっている。かつての諸事件の時には検察がまだ機能していたのであるが、近年においては検察つまり権力そのものが腐敗するようになっているのである。&#13;&lt;br&gt;
　どうしてこのように権力が腐敗するようになったのか、その原因ははっきりとしている。近年の腐敗は権力は腐敗する、絶対的権力は絶対的に腐敗するというアクトン卿の命題そのものである。政治家改革は小選挙区制を導入するとともに権力の集中化もたらすものであり、腐敗しないはずがないのである。&#13;&lt;br&gt;
　近年の検察がらみの腐敗の最も不可解な事件はゴーン氏事件である。有価証券報告書の役員報酬の過少記載があげられているが、そういうことは任意の事情聴取でもすればよいものであり、空港で待ち受けて逮捕し、人権侵害を伴う長期間の収監には極めて異常なものがある。フランスではこの事件は当初からゴーン氏を追い出すための仕組まれた陰謀であるとされていたが、それは基本的に正しいと言えよう。そうしてこの陰謀は日産だけでなく、産業経済省、検察おそらく首相官邸を含んだ国家的犯罪を窺わせるものである。権力の恣意的行使はまさしく「専制国家」の特質である。国民がボヤボヤしている間に国家権力の腐敗は奇怪なところにまで達している。&#13;&lt;br&gt;
　こうした由々しい国家権力の腐敗が予想されるにもかかわらず、ゴーン氏が逃走することによって事件の真相は裁判で明らかにすることはでないようになり、日本国の国家権力には闇が漂っている。この事件はアメリカにおいてはトランプのクーデタ事件に似たところがある。アメリカでの司法当局は解明に消極的であるが、議会は特別委員会を設置して、トランプ政権の幹部を含む１００人以上の事情聴取し、応じない場合は処罰を課している。しかし今の日本国の国会にはこうした国家権力を解明する力はありそうもない。&#13;&lt;br&gt;
　二大政党化や政権の交代に関するならば、この２５年間で政権交代が生じたのは一度だけである。政治改革以前の野党（維新は含まない）の議席は与党（公明を含む）のほぼ2分の１であったが、改革後は3分の1にまで縮小し、政権交代の可能性はむしろ少なくなっている。選挙制度の変更の一つの顕著な結果は公明党が与党化したことである。小選挙区では勝ち目がない公明党は自民党に接近し、下駄の雪のように従うことになった。本来中道政党であった公明党が保守政党に加担するようになっために、日本国の政治構造では政策と政権とのずれが生じ、政治構造が保守に傾き、ひいては政権の交代を困難にしているのである。&#13;&lt;br&gt;
　あまり芳しい結果と言えないだけでなく、政治の不気味な再腐敗をもたらしたいわゆる政治改革には学者も関与したことは注目される。政治学は実践の学であるということを学者も実践的であるべきと理解したのであろう。しかし机上の教科書的な議論が政治の現場にそのまま通用することは予期しがたいことであり、現に予想外の結果を生むことになっている。このようにして学問が政治に接触することになると、必然的に学問は政治に従属するようになり、学問は自律性を失い、学者は宦官化することになる。だから古来学者は政治から一歩距離を置くように戒められていたのである。第一級の政治学者で勲章をぶら下げているものはない。この学問の荒廃が学術会議事件の背景にあるであろう。&#13;&lt;br&gt;
　学術会議会員の任命拒否事件は学術会議側の理不尽への完敗に終わったようである。任命を拒否した私首相側が論外であるのは当然であるが、学術会議側にも拙劣さを否定できない。もし任命拒否が違法なものであるならば、そのこと自体を裁判所に提訴するという正面作戦をとるべきであって、本人の情報公開を求めるというような側面作戦は感心しない。&#13;&lt;br&gt;
　学術会議側の態度が毅然としていないのは、学術会議にも問題があるからにほかならない。そもそも会員の選出が不透明であり、もし選挙制をとっているならば首相の介入の余地はなかったはずである。さらに学術会議の人事への介入は今回に始まったものではなく、アベ政権の時代からのものである。学術会議が提出したリストに首相側が難色を示すと会議側はリストを差し替えている。学術会議側は強い態度に出られないはずなのである。　&#13;&lt;br&gt;
　今回の任命拒否事件は戦前の瀧川事件に似たところがあるが、違ったところもある。瀧川教授がトルストイの刑罰観という講演を行ったために文部大臣が辞任を要求したというレベルの低さは任命拒否事件にも通じている。しかしこの文部大臣の要求に京都帝大は総長はじめ断固反対の態度を示し、16名の法科大学教授が辞表を提出し、最終的には７人が免官になっている。当時の法科大学教授は今日の法学部教授とは比較にならない社会的地位を持つ高等官であり、彼らの矜持の高さが窺える。その際京都大は他大学の賛同を求めようとして学生を派遣しているが、東大法学部は学問の自由を守ろうとはせず、傍観的態度に終始している。ここには権力の近くあろうとする東大法学部の特性と問題性を見ることができよう。これは９０年前のことである。&#13;&lt;br&gt;
　半世紀前の日本国では学者は専門のほかは何も知らない専門バカと呼ばれたものであるが、今の日本では恥ずかしげもなく哲学者や思想家や学者と自称する向きがあり、学者へのマイナス・イメージはなくなったかのようである。しかし政府の態度からするならば学術会議の会員は政府の眼鏡にかなった御用向きの学者ということになるであろうが、会長をはじめ辞任したものは一人もないようである。とすると学者というものもかつてのようなプライドはもはやなく、ささやかな地位や利得に固執しようとする集団になっているかのようである。無論これは多くの若手研究者が貧しい環境にあることの現れであり、その反面で一部の特権者が既得権益に安住しているということであろう。とすると学術の現状はどうなのかということが問題になってこよう。&#13;&lt;br&gt;
　日本国の学術が上昇過程にあるとは誰も言えないことであろう。それは出版物を見ても一目瞭然である。むろん学術の比較ということは容易ではなく、データとしては論文の引用度程度のものしかなく、多くは実感にとどまらざるを得ない。実感としてであれば日本国の学問が数十年前よりもレベルダウンしていることは否定しがたい。ノーベル賞も多くは数十年前の業績に対するものであって現況を示すものではない。今日の身近な例では、コロナワイルスのワクチンは欧米諸国のほか中国、ロシアやインドでも自国で生産されているが、日本国ではまだ自力で生産できていない。これは単に政府の補助金の有無だけのことではないであろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　今年はまた五輪の年であった。コロナが拡大する中で五輪を開くということ自体が常識に反していることは疑いない。外国人の入国を原則的に禁止している中で何万という五輪関係者は気前よく入国させているのは&#13;&lt;br&gt;
誰のためだったのであろうか。&#13;&lt;br&gt;
　おそらく五輪ないし政府関係者には五輪を開かないという選択肢がなかったのであろう。なぜなかったのかと言えば、それは既定のことだからである。一度決めたことは、その非が明らかになっても、改めて見直そうとしないという行動様式はすでもにヘノコに関して観察されることである。さらに遡れば太平洋戦争の開始がそうであった。あらゆる側面から見てアメリカと戦争することの無謀さは明らかになっていたが、やることになっている以上はやらざるを得ない。どうしてやることになったのかと言えば、さまざまなステップの積み重ねでそうなっているのであり、「自分が主催者ではない」。要するにこれが日本的意思決定というものであり、そこには決定主体というものがなく、したがって責任というものもなく、すべてはもたれあいの相互依存の中でなされているのである。本来は考えられない五輪開催という事態は結局日本国にはリーダーというものがなく、リーダーシップもないためと考えるほかはない。リーダーシップは見識と実行力によって成り立つものである。そうした主体がないところではリーダーシップもありえない。&#13;&lt;br&gt;
　他方で五輪にパンとサーカスという意味があったことは確かである。餌と娯楽を与えれば政治から国民の目をそらすことができる。これはローマ以来専制国家の施政者が愛用してきたものである。現に日本国は選挙の年であり、１億５０００万円の問題から国民の目をそらすことができている。&#13;&lt;br&gt;
　この五輪の特徴は開会式に見ることができる。これは一見して一貫したコンセプト、というよりもコンセプト自体が欠けているものであった。それは開会式の直前に演出者のお笑い芸人が解任されたことによるところもあろう。お笑い芸人がナチのユダヤ人虐殺も笑いの対象にしていたことが発覚したためであるようである。組織委員会の見識レベルのお粗末さが現れるとともに、この五輪の意識水準も現れている。&#13;&lt;br&gt;
　最初の方で「君が代」が出ているのにも耳を疑われることであろう。そもそも五輪がアナクロニズム的なものになっているのは、国民国家の限界が現れている時代に国旗や国歌を大げさに扱っていることにある。しかも今回の五輪自体が「多様性と調和」をモットーにしていたのであるから、個別的なものを強調するのはそのモットーにも反している。コンセプトの欠落はここで最も著しい。東京都教育委員会は君が代を歌わない教員を処分しており、コイケ知事は恒例の朝鮮人の震災犠牲者へのメッセージを送ることを拒否している。こうした東京に五輪をやる資格があったかどうかどうかは疑わしい。&#13;&lt;br&gt;
　多様性ということは個々の違いを尊重するということであるから、特殊性を強調するのではなく、むしろインターナショナリズムを前提にするものである。ところがどうやらこの五輪ではナショナリズムが垣間見られる。無論ホスト国の文化を提供することは自然なことであるが、国際的な場では特殊なものはあくまでも普遍的なものに寄与するものでなければならない。ところがこの開会式ではどうやら和風を強調したものになっているようである。&#13;&lt;br&gt;
　今年は丸山眞男の没後25年にもなっているが、今でも丸山を「西洋的」とする幼い非難があるようであるが、加藤周一の卓抜な言い方を借りれば、これは単に思想が「発生」した地域と、それが「妥当」する範囲を混同しているだけのことである。ここで肝心なことは伝統からの障害をおさえ、そのための有効な地盤として働きうる要素を継承することなのである。&#13;&lt;br&gt;
　開会式がモットーに反して和風を強調していることは入場行進に見られる。これは今や普遍化しているアルファベットでなくあえていろは順にしている。とするとアメリカは最初の方に出てくるはずであるが、Uとして扱い最後の方に出させている。和風原則は無原則でもあるのである。&#13;&lt;br&gt;
　アトラクションでは漫画アニメのようなごたごたしたものがやられていたが、これはない方がよいようなものである。お笑い芸人にしろ、漫画アニメにしろ、今の日本文化はこういうB級文化であるとしている点では正直なところもあろう。しかし全体的にはこれは子供文化であり、大人の文化に通用するものでもなければ、そこに寄与するようなものではない。&#13;&lt;br&gt;
　開会宣言の時に五輪会長は深々とお辞儀をしていたが、テンノーは会釈していただけである。実質的な戦犯を父としていたアキヒト氏は終始謙虚であったが、無知なナルヒトはズが高い。&#13;&lt;br&gt;
　もっともバッハ会長は消息不明の中国の女子テニス選手の拘束状態を確認することなくテレビ会見に応じて中国に乗せられている。北京五輪ではメリカが中国のウイグル人弾圧を理由に外交ボイコットを呼びかけ、日本政府はアメリカに同調するのが「国益」か、中国を怒らせないのが「国益」かと考えている。「人権」を「国益」とてんびんにかけて弄んでいることに日本国の特性が現れている。しかし結局は人権などに何の関心もないアベなど自民党の右派議員の圧力によって外交ボイコットをして五輪の政治化に終わっている。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　五輪開会式は成人式を思い起こさせる。日本人は気が付いていないようであるが、世界の約２００国のうち成人式のようなものをしているのは日本国だけである。成人式はかつての元服のように閉鎖集団の入会式（イニシェーション）に相当するものである。この種のものは諸国でも行われていたが、社会がムラ共同体（ゲマインシャフト）から個人単位の社会（ゲマインシャフト）に変化するにしたがって消滅していったものである。日本国で成人式がなお行われているのは、日本国がなおムラ共同体的なものを持続させていることを示すものである。村共同体は情緒的な中世によって成り立つものであるが、市民社会は契約への参加によって成り立つものである。&#13;&lt;br&gt;
　元号とともに成人式が持続しているということは、したがって日本国が世界でも珍しいガラパゴス島の状況を持続させているということである。成人式の機能は社会の一人前の構成員としての権利を与えるとともに、その社会のルールに従うことを習慣づけようとするものであろう。しかし日本国の成人式は大人になったことを記念し、社会の習慣に従うとともにあまり独立的な主張をしない文化、自発的従順を表明するようなものである。それは古代以来の日本国の成立に根差すものであるが、若者も成人式を喜んでいるらしいことは、自発的従順性の文化がDNA的に遺伝しているということであろう。その意味では成人式は２０歳になっても未成年であることを確認するようなものであり、七五三の延長のようなものである。無論成人式で和気あいあいとするのは微笑ましいことであるが、日本の和というものは輪であり、真綿で絞めるようなものである。画一的に振袖を嬉しがっているのでは持たないものは疎外されるであろう。各人が多様な服装をして初めて成人と言える。成人式的なありかたはチームへの参加というよりはムラに「入る」かのような入社式にも残存している。&#13;&lt;br&gt;
　このように社会構成員が子供的であるということは、元号と同様、天皇制国家と深くかかわるものである。構成員が未成年であるということが天皇制国家の前提であり、したがって旧憲法下では天皇は親であり国民は赤子であると仮構されたわけである。そうしたテンノーを神化して狂信的な戦争もしている。新憲法下では親子関係というのはあまりなことであり、テンノーは保護者のように「寄り添う｝ものになっている。しかし国民が独立的でなく依存的なものとされているのは同じである。こうした臣民があって、こうしたテンノーがあり、両者は相互前提的なものである。&#13;&lt;br&gt;
　今年の珍事はマコの結婚であろう。この結婚には国民の半分以上が反対であったということであるが、婚姻は両性の合意のみによって成立するという憲法のもとで、他人が容喙すべきものではない。日本人の多くは皇族の結婚は制限されて当然であり、国民に発言権があると思っているようである。ここには差別するものが逆に差別されるようになる差別の弁証法がある。この件で表面化したのは国民の意識の方がマコのそれよりも遅れているということであろう。その意味で基本的人権がないことに満足しているテンノーよりは皇族の虚構から脱して、リスクを自分で負うことにしたマコの方が偉い。&#13;&lt;br&gt;
　憲法学者の中には平気で皇族には結婚の自由がないとする意見があるようであるが、現行憲法下では皇室典範は憲法の下にあるから、皇室典範に憲法違反があるのである。しかしもともと象徴天皇制には問題があると言った方がよい。象徴というものは多くは物がなるものであり、人間が象徴になるのは変則的である。人間が象徴になると物化してロボットになるほかはない。こうした物に基本的人権がないのは当然のことになる。象徴天皇制と人権は二律背反で両立しない。したがって現行憲法に改正の必要があるとしたら、それはまさしく第一条にあると言ってよいであろう。他に挙げられているものは憲法を改正するための口実にすぎない。&#13;&lt;br&gt;
　しかし象徴天皇制の廃止ということはほとんど見通せない。それは「変化」「とか「多様性」ということが声高に言われながらも、その基底にある象徴天皇制についてはほとんど盲目状態であることからも、だれも本気で何かを「変化」させようなどと思っていないことが自明だからである。これが日本国のガラパゴス状況であって、必要に迫られて「多様性」ということにも譲歩しているが、その原則は画一同調性である。日本国の転換が困難であるのはガラパゴス的価値観は生得的なものとなり、そこからの転換はアイデンティティの危機を招くからである。これはジャーナリズムに関しても言えることであり、批判的で知られる新聞もテンノーに関するならば急にかしこまっている。学者という人種も多くは去勢されているようである。&#13;&lt;br&gt;
　にもかかわらず民主主義等の基本的価値観からも、また国際的な接触の増大によってガラパゴス体制は維持することが困難になる。日本国は歴史的アイデンティティと国際的生存の間でジレンマにあり、絶滅危惧品種になっていると言ってもよいであろう。しかしここからの打開策としては、歴史的に多くの日本人がとるのは「回心」ではなく「移行」である。それは問題点をずらすということであり、あるいはせいぜいが維新ということであろう。それは明治維新が市民政府への革命ではなく、支配の上部の取り換えであったことが示すように、改革保守主義である。&#13;&lt;br&gt;
　しかし愚かで航路難ということは日本国だけのことではない。今までもそうであった以上に最近は神に似せられて作られたと言われる人間があまり賢くないということが顕著になってきている。それは状況と問題が大きくなったためである。おまけにデジタル化によって思考力は急低下し、人間は状況をコントロールできなくなりつつある。ハーバーマスは「知らないということを今ほど知っている時代はない」という言い方をしているが、コロナは終わるのか終わらないのか、だれも知っていない。これは神の声を聴かなかったソドムとゴモラが破壊されたのと同じようなものなのか、だれも知らない。&#13;&lt;br&gt;
　しかし心静かにメシアンの奇妙な四重奏曲を聴くがよい。この世が終わりになることはあの世が始まるということである。またこの世がこの程度で済んでいるということは、状況に抵抗する人々がいたからであろう。ペレイラ博士のように。&#13;&lt;br&gt;
　とはいえ「移行」好きの国ではさしあたり問題を回避しようとするであろう。幕末維新の不安定な時代には、だれが企図したのかは不明であるが、エエジャナイカという運動が起こっている。無知でエエジャナイカ、ガラパゴスでエエジャナイカ、沈没でエエジャナイカ、子供でエエジャナイカ、愚かでエエジャナイカ等々。かくして日のもとに新しきものはなく、すべて世に変わりない。めでたさも中くらいなりおらが島？a happy new year?&lt;br&gt;
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    </item>
    <item>
      <title>今年の護美拾い</title>
      <link>https://nambaraca.asablo.jp/blog/2020/12/31/9332730</link>
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      <pubDate>Thu, 31 Dec 2020 20:17:54 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2021-01-02T00:30:09+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2020-12-31T23:27:17+09:00</dcterms:created>
      <description>１　トランプはアメリカ史上最低の大統領であった。それは彼が選挙結果を否定し、そのことによって法の支配を否定し、結果として民主主義も否定することになっているからである。政権移行が円滑になされないということはいまだかつてないことである。ホワイトハウスではトランプが敗北した州に戒厳令を施行し、軍隊の管理下で再選挙をさせることが検討されたようであるが、これは事実上のクーデタである。&#13;&lt;br&gt;
　トはアメリカを再び偉大な国にするとしていたが、実際はアメリカをルカチェンコのベラルーシにしたと言ってよいであろう。ルカチェンコは不正とされる選挙によって大統領の座にとどまっており、形は逆であるが。&#13;&lt;br&gt;
　トの在任の最後の年はコロナに見舞われたが、トは何もせずゴルフをしていたト。これはidiotというほかない。その結果三十数万人の死者が出たが、これは人災であり、カタストロフィである。無論トにとっては経済のコストにすぎないのであろうが。&#13;&lt;br&gt;
　しかしこうしたト現象は一人のタレント豊かなfoolが生まれたということではない。アメリカ人の半分近くがそうしたfoolを支持しているのはそれなりの背景があるからである。アメリカ経済にはさび付いた部分があり、それは中国の台頭と比例している。トはまじめにアメリカを保護し競争相手をたたこうとしたのであろう。&#13;&lt;br&gt;
　この現象自体には奇異なものはない。一世紀前にも経済の後退を前にしてナショナリズムを鼓吹したファシズムが起きている。ファシズムのやりかたは友と敵を分断して敵をたたくことである。友は右翼的ナショナリストであり、敵は多く左翼的（とされる）リベラル派ということになる。その意味ではアメリカにも一世紀遅れてファシズムが到達したということであろう。&#13;&lt;br&gt;
　しかし幸か不幸かトはヒトラーのような徹底さは持っておらず、容易に陰謀論によって動かあれるようなムッソリーニ的出来損ないにとどまっている。またアメリカでは先行諸国と違ってまだ司法とマスメディアがある程度健在であり、ファシズムが全面的に開花することは困難であろう。トランプ現象は一世紀続いたアメリカの世紀の弔鐘と言えよう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
２　ロシアでは野党指導者ナヴァリヌイ氏の暗殺未遂事件が生じている。ベルリンのシャリテ大学病院によると、旧ソ連軍が開発した毒物が検出されたそうである。秘密警察出身のプーチン大統領がそれに関わらなかったはずはない。プーチンは年末の記者会見で、この騒ぎは国家元首に対するものであるかのようであると言っているが、国家元首でなければ暗殺してもよいということであろう。プにはこれで何人の暗殺行為をしたのか聞きたいものである。おそらく青ひげ公よりは多いであろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
３　中国では香港の民主化運動への弾圧が続いている。香港国家安全維持法の制定は香港の返還に際し一国二制度を維持し、香港の高度な自治を保障する約束を反故にしたものにほかならない。香港の安全はまさしく香港自身の事柄だからである。&#13;&lt;br&gt;
　昨年のこの欄では香港の若者にノーベル平和賞を授与したが、これは取り消さなければならない。彼らはあまりにも簡単に断念してしまったからである。民主化運動は粘り強さと冷徹さ利口さと戦略が要求されるものである。そうでないとアラブの春の二の舞になるであろう。&#13;&lt;br&gt;
　しかし香港の民主化運動の挫折の主因は無論中国の側にある。中国は香港の若者におびえたのであろうが、巨像が足元にじゃらつく子犬を恐れているようなものである。習主席は元来は小心者であるが、中国は一党独裁であるから小心者も権力を持つと独裁者になる。&#13;&lt;br&gt;
　香港の民主化運動への弾圧を見ると中国には、ひいてはアジアにはやはり民主主義は無理なのかという問いが浮かんでくる。ここでは上のものが支配し、下のものは従うという伝統が牢固として支配しており、問題は上の在り方だけのことになる。こうした伝統に対して人民を政治の主体にしようとしたのが毛沢東であったが、共産党政権も王朝体制に絡み取られたようである。&#13;&lt;br&gt;
　今の中国は国父の志を裏切っている。しかし民主主義の不全という点では素性不詳の天皇をありがたがっている、極端にアジア的な日本国も無論無縁ではない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
４　日本国では官邸の用務員が総理になったようである。この首相の目玉商品はデジタル化ということのようである。しかしデジタル化というのは目的ではなく手段の次元のものである。のみならずデジタル化というのは行政の効率化に関するものであり、政治の場では問題的なものである。なぜなら政治とは根本的にアナログ的なものであり、政治の場にデジタル化を持ち込むことは政治を行政に縮小することであり、それは民主主義にとっては由々しいことである。&#13;&lt;br&gt;
　デジタル化施策からわかることは、この首相にとって政治とは効率の良い支配ということであり、政治は役所の行政に還元される。デジタル化ということは定型化ということであるが、しかし定型化以前のことが政治なのである。したがってデジタル化によって効率化を目指すことは政治の切りつめになり、説明抜きの自動機械化が目標ということになろう。説明と説得と同意という面倒な手続きを要する民主主義というものは非効率性を特性とするものであり、効率だけを目指すことは致命的である。&#13;&lt;br&gt;
　それは折からのコロナ問題で表面化している。コロナを禍とばかり捉えるのは間違いであり、人間の限界も教えている。人間は地霊が次の展開をしただけで活動を停止しなければならないような脆弱な存在だったのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
５　コロナの直接的な担当部署は厚生労働省である。厚労省は相変わらず南一缶過熱がある場合はPCR検査をするかどうかを医師と相談せよというバカげた方針を持っているようである。これでは無症状感染を把握できず、源泉を抑えていないから、感染が収束することはないであろう。感染の心配があればサッサと検査させればよいのである。&#13;&lt;br&gt;
　さらに厚労省はPCR検査に二万数千円を求めるというバカバカしいことをしている。この検査は自分のためという鳥は公衆衛生のためなのであるから本来は公費で行うべきものである。ニューヨークやロサンゼルスで誰でも何回でも無料で検査できるのが本来の在り方であろう。&#13;&lt;br&gt;
　さらにあきれるのは第三者機関の調査によれば厚労省はできるだけ検査をさせないように画策している。感染の拡大の第一の原因は検査をサボタージュしていたことにあると言ってよい。厚労省は国民ではなく役所の方を見て仕事をしているようである。&#13;&lt;br&gt;
　厚労省は病床が満杯になることを心配していたかのようであるが、病床数を所与のものと見ることはまさしく役人の発想である。そうしてキャパシティを拡充することが政治の役割であるが、その政治が機能していない。中国では一週間でプレハブの病院を作っている。日本国では政治の問題を行政の問題に削減することの問題性が現れている。&#13;&lt;br&gt;
　厚労省関係では７５歳以上の高齢者の医療費の自己負担を二割にすることが予定されているようである。たとえばAさんは年収四百万円以下の富裕ともいえない人物であるが、年間保険料二十数万円を支払い、しかも自己負担率は三割になっている。これでは年間医療費三十万円以下の人は健康保険から脱退した方が得になる。二割の自己負担は避けられないであろうが、三割となると保険概念を破壊するようなものになる。役人意識を端的に示しているのは７５歳以上の高齢者を「後期高齢者」としていることである。これは「公僕」が主人に対して使うべき用語ではあるまい。&#13;&lt;br&gt;
　&#13;&lt;br&gt;
６　現首相は政権の安定にとって重要なのは警察と検察であるというような卑俗な考えの持ち主であるようである。効率的な行政を目指すことに脱落しているのは国民の理解と承認ということである。警察とは情報警察ということであり、検察が重視されるのは都合の良いことは捜査させ、都合の悪いことは捜査させないということであろう。この首相が政権の番頭をしていた時期に森友財務省事件やゴーン氏の事件が生じたのは不思議ではない。検察に関係する不祥事は多く金に関係している。&#13;&lt;br&gt;
　いわゆる政治改革によって金権派閥政治がなくなったと言われるが、この首相は派閥の総すくみによって生まれたようなものである。派閥力学がなくなっていないことは広島の河井議員の選挙法違反事件を見ればよく分かる。この事件では幹事長に対立する派閥の候補者に一億五千万円の選挙費用が出されている。この金額は通常の選挙活動では使いきれないものであるから、自民党本部が買収するように指示したようなものであろう。&#13;&lt;br&gt;
　前首相の金権政治については触れないことにして、興味あることは違法行為の疑いの多いこの首相が××の一つ覚えのように改憲を言っていたことであろう。法を軽視する人物が憲法を論じるという笑うべき現象に、いわゆる改憲論の実質が現れていると言ってよい。&#13;&lt;br&gt;
　ちなみに前首相が信用できないことは経験者であればすぐわかることであるが、多くの若者が支持していたことは無視できない。デジタル的環境の中で生身の政治家への判断力が退化しているということであろう。これもデジタル化の効用であろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
７　現首相は学術会議の会員の任命を拒否した問題で早くも地金を表している。もし任命権がすべて実質的なものであるとするならば、天皇は首相の任命を拒否してよいということになるであろう。この首相は六人の会員の任命を拒否したのは「総合的、俯瞰的」観点からのものであるとオームのように繰り返している。これは学術会議の任務に関して言われている言葉であって、任用の基準についてのものではない。この首相はまともな思考力を欠いているようである。任命拒否が問題化して政府はあわてて学術会議の改革を言うようになったが、これが問題のすり替えであることは言うまでもない。&#13;&lt;br&gt;
　注目されるのは任命拒否を取り仕切っていたのは警察庁出身の内閣官房副長官であったということである。彼がこれらの人物は「任命できない」としたようである。ここに戦前の情報警察であった特別高等警察が復活していることを見ることができる。内閣は学者の言動を監視するようになっている。しかし戦前の特高警察がマルクス主義者を弾圧していたのに対して、今の特高は穏健無害のリベラル派を排除しようとしているのであるから情報警察も落ちたものである。&#13;&lt;br&gt;
　むろん学術会議に問題があることは否めない。任命を拒否された政治学者は、選ばれたことは名誉であり感謝するというコメントをしていたが、日本の学界にはボス支配があり大した名誉にもならない。&#13;&lt;br&gt;
　不可解であるのは学術会議側が、説明なく拒否されて困惑しているとするだけのへっぴり腰であることである。学者がだらしないから愚かな政治家に軽侮されるのである。学術会議は任命を拒否された六人の地位保全をめぐって行政訴訟をするなり、各術会議の会員諸君は理不尽な拒否に抗議して全員辞任でもすべきなのである。&#13;&lt;br&gt;
　日本国の国立アカデミーとされるものは学術会議のほかに日本学士院がある。学術会議が政策提言というやや特異な任務を持っているのに対して、学士院は「功績顕著」な学者を優遇するための年金支給機関である。この学士院は皇室の「下賜金」による恩賜賞を授与している。このことはこの国では学問が皇室の下にあることを示すものであろう。日本国の学問の自由が容易に失われるようになるのは不思議ではない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
８　しかし芸術は長く人生は短い。政治や社会（政治の下にある学問を含めて）ばかりを問題にしたのでは実も蓋もない。政治の世界は近年はますます動物農場（オーウェル）の様相を濃くしており、ホモサピエンスとされた人間もあまり上等なものでないことをあらわにしている。政治から逃れることはできないが、それは選挙のような最小限に切り詰めた方が賢明のようでもある。しかしそれは日本人がよくやるようにお灸をすえたり妙なバランスをとったりするような中途半端なものではだめであろう。近頃の政治家はほとんどが伝い捨ての雑巾のようなものであるから、ダメなものはバッサリとやらなければならない。&#13;&lt;br&gt;
　普遍的な意味があるのは学術（学術会議ではない）と芸術だけのようであるから若干の付け足しをしておくことにしよう。&#13;&lt;br&gt;
　私は今年ノーベル物理学賞を受賞したペンローズの愛読者である。彼はビッグバンの論者として知られているが、そこには素人からする疑問もないわけではない。ビッグバンはしばしば宇宙の始まりとされるが、しかしそれは物質宇宙の始まりにすぎないであろう。宇宙空間はそれとは別に存在するものである。とすると宇宙空間はどのようにしてできたのかということが問題になる。しかし宇宙空間には最初も最後もなく、始まりを問題にすると神を想定しなければならないということにもなるであろう。この問題にヒントを与えているのは物質とエネルギーの等価というアインシュタインの公理である。物質宇宙の前があるとすると、それはエネルギー空間であろう。ペンローズもそのことを理解しており、今の宇宙には前があり、また消滅があり、宇宙空間はおそらく無限にエネルギーと物質が交換する無限空間であることを示唆している。私がそうした物理学に関心を持つのは、それが宇宙内存在である人間の存在条件に関わっているからである。&#13;&lt;br&gt;
　人文社会科学の領域では今年というよりもこの１０年来感心するようなものにお目にかかっていない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
９　今年は三島由紀夫の没後５０年であった。三島は芥川龍之介とともに日本の作家の中ではまれにみる頭がよい作家であった。しかし彼の思想の世界はそれと極めてアンバランスな幼稚なものであったと言わなければならない。三島は天皇を崇拝していたようであるが、それは単に歴史的無知にすぎない。三島の自殺は私が大学を出て会社で働き始めたころの頃であったが、その報道を見てくだらないと思っただけである。精神的幼児の言動は大人の世界には何の意味もなかったのである。&#13;&lt;br&gt;
　これは芸術の領域ではないが、今年は正義を問題にしたアニメが流行したようである。現実の不正義の中で、仮想のアニメに留飲を下げるのは一種の代償行為であろう。アニメのイデオロギー性についてはアニメの元祖であるディズニーを主題にしたフィリップ・グラスの「パーフェクト・アメリカン｝を見るのがよい。&#13;&lt;br&gt;
　その一方で京アニメの容疑者が起訴されたようである。容疑者の言い分を問題にせず会社側の言い分だけを聞いたその起訴理由は説得性がない。ゴーン氏事件のように加害者とされていたのが実が被害者かもしれないのである。その間にマスメディアはアニメーターを急に美化している。日本のメディアのセンティメンタリズムは冤罪の元である。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
１０　今年はまたベートーベンの生誕２５０年であった。ロマン的人間であるにかかわらず理知的な作品を書いたバッハ、風の神エーオルスのような音楽を書いたモーツァルトに対するとベートーベンの音楽は人間の意志の音楽であった。しかし彼については何も言わまい方がよいであろう。というのも私の音楽との関わりはプラトンが『ティマイオス』において、音楽とは心的な調和の模像であり、それは愚か者に尾は快楽を与え、知力あるものには歓喜を与えると言っていたことに関係しているからである。&#13;&lt;br&gt;
　今年はコロナの中をまたウイーン・フィルが来日している。今年が３６回目ということであるが、私が初めてウイーン・フィルを聞いたのは３回目にショルティと一緒に来た時である。その時のプログラムは運命と田園だったのでややげんなりした記憶がある。毎年来日したわけでもなく、多く聞いたわけでもないが、私は半世紀にわたってこの楽団を聞いているわけである。昨年のティーレマンによるブルックナーの第８はウイーン・フィルには珍しい力演であったと言える。私の席は前の方にあったので指揮者が楽団員にvielen dankと言っているのがよく聞こえた。今年のゲルギエフのプログラムはドビュッシーとストラヴィンスキーというやや陳腐なもので、演奏の方が楽曲を上回っているようなものであった。月並みなプログラムでは日本の聴衆も進歩しないであろう。しかし半世紀にわたって進歩も退歩もせずに同じ音を出すのも大したものである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
１１　年末には庄司紗矢香を聞いている。５年前のメナヘム・プレスラーとのデュオ・リサイタル以来のことである。その時はややニュアンスに流れるのではないかという危惧があったが、それは杞憂であった。彼女が日本にめったに来ないのは日本の浮薄な聴衆がそれほど気に入っていないからかもしれない。今回も隣の席のに若い女性たちが営業の成績がどうのこうのと大きな声で話をしていたが、それが庄司の音楽にどういうつながりがあるのかと思ったものである。それだけに今回８回のリサイタルを開いたのはエポックメイキングなことであった。&#13;&lt;br&gt;
　庄司がややびっこを引くようにして出てきて椅子に座ったので私は思わず拍手の手を止めてしまった。しかし始めてみると前半だけで１時間ぶっつずけという相変わらずのスタミナぶりである。中心になっていたのはバルトークの第一番のソナタであったが、これは驚異的なものであった。ソナタというよりは組曲のようであり、パストラーレ的なものとするならばどうしてこんなに激しく難しく書くのだろうというような不可解な曲である。バルトークの一番には未知のところがあるということを示しただけでもためになるものであった。庄司の音はハンガリーのジェルジ・パウクよりもオイストラフに近いようであるのもキューリアスであるが、しかしオイストラフにない独自のものを持っている。それはどこから来るのかわからない、まさしく天性とした言えないような音である。それは中国宋代の詩人蘇東坡が「知らず　微妙の声/究境　何く従りか出づる」と言い、至上の調和は弦を爪弾くこともなく、至上の平静は弦をおさえることもないと表現したようなものである。これがエーオルスの琴というものであろう。&#13;&lt;br&gt;
　庄司というと私は学生時代に活動していた巌本真理を思い出す。彼女も天才少女と言われていたが、早くカルテットに転じている。比類ない録音を残しているが、庄司も脇道（失言）にそれないかというのが新しい懸念である。地球の軋みを見ると人間動物園から退場したくなるが、娘の（ような）紗矢香君に免じて今しばらくとどまることになろうか。&#13;&lt;br&gt;
　終わりに大きな犠牲を払って歴史的名演を実現させたオラフソン君をほめたい。&lt;br&gt;
</description>
    </item>
    <item>
      <title>ゴーン氏と巌窟王(habeas corpus)</title>
      <link>https://nambaraca.asablo.jp/blog/2020/05/03/9242559</link>
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      <pubDate>Sun, 03 May 2020 20:24:17 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2020-05-06T22:00:37+09:00</dcterms:modified>
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      <description> ゴーン氏が逃走したことは事件の真相が解明できなくなったという点で残念なことである。なぜならゴーン氏の迫害事件は国家犯罪の疑いがあるからである。&#13;&lt;br&gt;
　マスメディアが報道していたこととは正反対に、この事件は日産の誣告によってでっち上げられた事件を検察が取り上げ加担し、無実の人間を罪に陥れようとした事件とみることができる。&#13;&lt;br&gt;
　したがって司法が正常であれば９９パーセント無罪になるはずのものである。ところがゴーン氏は日本国では起訴されれば９９パーセントは有罪になるという恐れから逃走したようである。無論それは逃走の理由にはならない。しかしゴー氏が日本国の刑事司法を信用できず逃走したことは理解できないわけではない。&#13;&lt;br&gt;
　この事件はゴー氏に権限が集中し、またゴーン氏が日産をルノーに統合しようとしているとみられることによって日産の経営陣の対抗勢力と経済産業省が手を結んでゴーン氏の不正調査をすることによって失脚させようとしたことに始まるようである。しかし明白な不正を発見できず、有価証券報告書に役員報酬を過少記載したというような笑うべき理由で告発し、検察は飛行場で待ち受けて逮捕し、何カ月も拘留するというような異常な捜査を続けていた。有価証券法の過少記載があった場合、それはまずは日産の経理当局の問題であるが、検察は経理担当者と司法取引してゴーン氏の指示によるものとして免責している。これは明らかにこの捜査がゴーン氏を失脚させようとして「ためにした」ものであることを示すものであろう。&#13;&lt;br&gt;
 しかも過少記載というのは未払い分のようであるが、有価証券報告書は当期主義であって、未払い分などは記載すべきものではなく、少なくとのこれは記載範囲についての解釈の相違にすぎないものである。ゴーン氏がこうしたこじつけられた告発による逮捕の理由を理解できなかったのは当然といえよう。これは人身保護律（habeas corpus)が実質的に機能していないことを示すものである。&#13;&lt;br&gt;
　日産がゴーン氏の権限集中を問題視することはありうべきことであるが、それはあくまでも経営方針に関する社内問題に過ぎない。問題はゴーン氏を失脚させようとして、検察に訴え、無実の人間を罪に陥れようとしたことであり、これは犯罪的行為に近い。日産はさらに海外送金などに関して特別背任で告発しているが、業務上の送金をあたかも不正送金のように言いがかりをつけたりしているのは、憐れむべき企業というべきであろう。&#13;&lt;br&gt;
　この事件には経済産業省も関与しているようであるが、日産は同省から役員を受け入れているなど準国策的企業であるから監督官庁の介入があっても不思議ではない。しかしこの事件はアベ政権の経済産業政策の破たんを示すものであると見た方がよいであろう。&#13;&lt;br&gt;
　いわゆるアホノミックスに成長政策がなかったことは知られるところであり、規制緩和しただけで成長するものでないことは中学生にでもわかることである。成長政策の行き詰まりは、あたかもカジノに成長策を見ているような言い方にも見られる。しかし根本的な問題は経済政策についての展望を持っていなかったことであろう。それは結局は自動車のような在来型の大企業に依存するものであり、まさしくそこに日産が問題の対象になる背景があったと言ってよいであろう。&#13;&lt;br&gt;
　ゴーン氏がルノーとの経営統合にどの程度積極的であったのかは明らかでないが、経済産業省は統合を進めようとしていると受け取り、その狭い視野の下で一大事と受け取り、ゴーン氏を失脚させることに加担したのであろう。したがってこの事件は一面では経済産業省の劣化を示すものであり、それがとりもなおさずアベ政権の経済政策の破たんともなっているのである。&#13;&lt;br&gt;
　しかしいかにに日産が卑劣な企業であり、いかに産業経済省がゴーン氏を失脚させようとしたとしても、どうして検察がこの無理な告発を取り上げ、あたかもギャングが大金持ちを拉致するかのように滅茶苦茶な違法捜査をすることになったのかは理解できないことである。経済産業省には検察を自由自在に操るような力はない。検察に野心があることは確かであるが、人道に関する犯罪的行為はそれほど簡単にはできないからである。&#13;&lt;br&gt;
　つまりこの事件は日産や経済産業省や検察だけでは成立しないものであり、日産と検察を結び付ける媒介項が不可欠である。ゴーン氏は会見で、この事件には日産と検察と「安倍政権の行政官」が関わっているとしていたが、検察を動かしているのは政治であり、そうした媒介力を持ちうるのは「官邸」でしかありえない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　郷原信郎氏は近著で、検察の起訴理由が成り立たないことを明快に整理しているが、ゴーン氏が「大きな力が背景にある。検察は操り人形」であるとしている、かなり重大な発言を聞き逃している。背後の「大きな力」を見なければこの異常な事件は理解できない。「大きな力」とは政治にほかならず、無実の人間を罪に陥れようとしたこの国家犯罪は政治権力の腐敗の現れとみるべきものである。郷原氏の元検察官的な視野の狭さとナイーヴさがあるようであり、このためにこの事件の本質をとらえていないようである。主に日産と検察に注目する郷原氏の著書にはミッシング・リンクがある。&#13;&lt;br&gt;
　その意味この事件は近年の検察の動向ことにいわゆる森友事件との連関性でとらえるべきものとなろう。森友事件は森友財務省事件であり、この明白な背任事件を検察は不起訴にし、財務省には強制捜査もせず、別件で籠池氏を逮捕し、十カ月も拘留して有罪化している。この事件でも検察の恣意的な捜査が顕著にみられたが、検察のこうした異常な行動は政治との関連なしには考えられない。ゴーン氏迫害事件は森友事件のでたらめな捜査の延長線上にあると考えられる。&#13;&lt;br&gt;
　森友事件は首相との関連があったために理不尽な結果となっているが、現に官邸から法務省（検察）に圧力をかけている文書も存在する。つまり近年の検察は明らかに鑑定によって牛耳られており、ゴーン氏事件の異常な帰趨にも官邸の圧力なしには考え難い。森友財務省事件では不捜査への圧力であり、ゴーン氏事件では異常捜査への圧力である。森友事件で圧力をかけていた中心人物は経済産業省出身の今井とかいう首相秘書官であったようであるが、ゴーン氏事件での「安倍政権の行政官」もこの人物とみてよいであろう。&#13;&lt;br&gt;
　ゴーン氏事件の政治関与を裏書きするのはゴーン氏が逃走した後、東京高検の黒川検事長が困難かつ重大な事件の処理のために定年が延長されたことである。困難かつ重大な案件とはゴーン氏事件以外には考えられない。この定年延長はまたゴーン氏迫害事件の検察側の中心人物が黒川検事長であることを示唆するものであろう。検事長の定年延長は検事総長に昇進させることを視野に入れているようであるが、それはこの国家犯罪を予想させる事件に関して首相や官房長官の逮捕を防ぐためであろう。それは官邸がその犯罪性を自覚しているということであろう。&#13;&lt;br&gt;
　なお公務員の定年延長に関しては検察官には適用しないことになっているが、官邸は法の解釈を変更したとしているようである。しかし検察官に適用しないということは法の趣旨を説明した了解事項であり、「解釈」の問題ではない。法務省が「解釈」を変更したとされているようであるが、法務省自体がこうした違法行為を自主的にすることは考えにくいことであり、明らかに官邸主導によるものであろう。ともかく黒川検事長の定年延長は法を管理する法務省が違法行為をしているという注目すべき事例である。すでに検察の違法行為は看過できないものとなっているが、日本国の法治国家は態をなしていないのである（細かいことであるが、公務員の定年延長は一年未満に限って現職に留めるものであり、定年延長というよりは定年延期である。したがって検事総長への昇進はありえず、そういうことをした場合は二重の法律違反になる）。&#13;&lt;br&gt;
　こうした逸脱にはここ十年ほどの政治の変容が関わっている。それは権力の集中を求めたいわゆる政治改革の結果であって、それは絶対多数権力を作ることを可能にし、首相の権限を強化することになった。それは上級役人の人事権を握ることによって可能になっているが、その権力核となっているのが「官邸」なのである。だから政治権力の腐敗の中枢が「官邸」になるのは不思議ではないのである。この「官邸」は首相補佐官や秘書官などの選挙で選ばれたわけでもない役人によって取り巻かれ、しかも彼らが政策の実権を握っているようである。かつては聖域視されて不介入になっていた検察も人事権を現実的に握られることになって、「官邸」に従属するようになっている。首相を逮捕するというようなことは今の検察にはありえないことである。&#13;&lt;br&gt;
　検察が政治に従属し、逮捕や投獄が恣意的になされるようになったということは検察の腐敗と言ってよいであろう。しかし政治の世界がすでに職権乱用という形で腐敗しているのであるから、腐敗は検察に及んでいるということである。政治の腐敗は権力が集中化されたことによるものであり、日本国の場合は絶対権力は絶対的に腐敗するというアクトン卿の公理の見本のようなものである。アホとかアソといった政治屋は腐敗システムの歯車にすぎない。そうして権力が腐敗するときは犯罪に接近することになり、かくして検察の在り方が問題の焦点になってくるのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　政治はさておき、検察自体の問題が露呈していることは明らかである。まず取り調べに弁護士が同席できないというような、前時代的な状況が存在する。これでは容疑者は丸腰で法律の専門家に対しなければならなくなる。弁護士がいると効果的な供述が得られないとかいうことであるが、取り調べ側本位がよく表れている。&#13;&lt;br&gt;
　しかし日本の検察の根本的な問題は、検察が政治的に行動していることであろう。本来検察は法だけに照らして粛々と動くべきものであるが、日本国では操作する、しないということは検察首脳部の胸先三寸で決められている。操作は基本的に国策としてなされ、国策捜査、国策非捜査になる。それは検察官の限られた視野と通念によってなされているのである。&#13;&lt;br&gt;
　これが日本国の司法がカーディ司法（ウエーバー）的なものとなる背景である。カーディ司法とは法規定よりもイスラムの宗教的な価値が優先されるものであるが、その意味では日本国もイスラム国の水準にある。無論日本国では特定の宗教があるわけではないが、日本教とも言えるような固定観念が存在する。それは通俗的通念であるが、国家功利主義と言われてもよいであろう。彼らなりに捉えた有益なものが善ということになる。それは基本的には恣意的判断である。&#13;&lt;br&gt;
　むろん検察は弁護士とともに司法の一翼に参加しているが、法務省の管理下にあるという点では訴追業務を行う行政の一面を持っている。しかもそれは多分に私的な政治判断によって動いており、公正中立性は保証されていない。なお「正義」ということを言うとすれば、検察は正義それ自体ではありえず、正義それ自体の担い手は裁判官である。&#13;&lt;br&gt;
　こうした検察であるとすると、検察改革が迫られていることは自明のことである。その根幹は検察が政治的に動いていることにあるから、監督が必要であるということである。検察が政治的に動いている以上、検察は政治の場で追及されなければならないものとなる。検察も説明責任を避けられない。国会の法務委員会では常時検事総長を呼んで捜査、不捜査についての説明を求めなければならないであろう。&#13;&lt;br&gt;
　しかし検察を管理しているはずの法務省にも問題が存在する。ゴーン氏の逃走は金持ちだからできたことであると言われるであろう。金を持たない場合は、入国管理の収容所で自殺者が続出していたことが示すように、自殺するよりほかないということになろう。収容者が自殺するということはどのようになるかわからないところからする絶望を原因としている。法というものは本来予測可能性を与えるものである。それがどのようになるかわからないということは、とりもなおさず法が支配していないことを意味している。だからゴーン氏迫害事件を問題にする意味があるのである。法務行政には暴力団を登録制（指定暴力団）にするというような常識では考えられないことが少なくない。&#13;&lt;br&gt;
　更に正義の担い手であるはずである裁判所にも疑問が存在する。最高裁判所はNHKの受信料裁判で、契約は当事者の意思の合致によるとしつつ強制契約（意思の不合致である）を認め自己矛盾を示している。これは法原則を掲げつつ行政に追随したための矛盾である。最高裁においても法の支配はあやふやである。なおこれは放送法の受信契約の規定のあいまいさからくるところがあり、NHKから国民を守る党というのがあるそうであるが、放送法６４条の改正を実現すれば一定の意味があったことになるであろう。&#13;&lt;br&gt;
　その他検察のプロパガンダをしていたマスメディアや日本国の遅れた刑事司法を弁護していた学者などは問題にならない。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　このように日本国の法の支配はかなり怪しげなものであり、それには歴史的由来がある。そもそも憲法第九条で戦力を否定しながら、自衛隊を持っている。むろんこれは某首相が言うように自衛隊を明記すれば済むことでなく、現実につじつまを与えるだけであれば、成文憲法など不要になる。憲法を文字とばかり見て現実に目を閉ざすのも非憲法的であることを否定できない。この規定は計画中の国連において安全保障が考えられていたこととセットで考えられるべきものである。つまり単なる戦力の放棄ではなく、国連による安全保障制度に参与せよということなのである。&#13;&lt;br&gt;
　国際面に関しては北方領土問題なるものがある。しかし日本国はサンフランシスコ平和条約でいわゆる北方領土を放棄している。それがある右翼団体が日本固有の領土だから返還せよと言い出し、いつの間にか政府の見解のようなものになることになっている。この場合不都合は条約は急に忘れるわけである。ロシアが第二次大戦の結果こうなったというもの不勉強であり、ロシアとしては千島はサンフランシスコ平和条約で放棄しているではないかといえば済むことである。もっとも択捉、国後画地島であることは確かであるが、歯舞、色丹は北海道の一部ともみられる。しかしそれは地理学的に決定できることである。&#13;&lt;br&gt;
　日本における法の不支配という現象は天皇制と密接な関係にある。両者がどのように連関するのかは拙著でも見てもらうほかないが、簡単に言えば天皇制というのは他の君主制的な遺制と異なって規範的な統制原理がないという特色がある。通常であれば君主は天命に従うとか、正義を実現するとか、仁政を行うとかの指導原理があるものであるが、天皇制においては神聖だから従うべきだというだけで、何らの制約原理がなく、あえて言えば神話だけである。&#13;&lt;br&gt;
　天皇制というものは外から権威を持ってきて、従うべきだから従うべきというもので、法的な統制の要素を持たないものである。そうしたものである以上、その国家において法の支配が弱体になるのは何ら不思議ではない。そうした天皇制の特徴は即位礼の中心にある大嘗祭がよく示している。即位礼の中心は天皇が入浴して采女とベッドインするという破廉恥なものである。こういう天皇制は日本社会の安定化に寄与したが、国民を傍観者的にするものでもある。天皇は日本国の象徴とされているが、日本の恥部でもある。&#13;&lt;br&gt;
　しかしこうした天皇制を成り立たせているのは倭人以来の国民の性格である。倭人とは従順な人間という意味であるが、倭人は目を上につけて上の様子をうかがって動くメダカ人間でもある。その特性は個人や主体が希薄であるということにあり、ここから日本における人権や法の支配の弱体性も生まれる。このことは例えば歌舞伎においてハラキリが延々と演じられることにも見えるのであり、欧米人にはグロテスクとした思えないであろうが、日本人は何とも思っていないようである。またEU祖国は死刑を廃止しているが、日本国ではなお死刑賛成派が多数である。&#13;&lt;br&gt;
　この背後には楽観的な国民感情というものがあり、そこでは人権という抽象観念はかえって嫌われる。倭人は古来一般原則ではなく、状況主義的に動いている。お人よしと言われる日本人は、お人よしにもかかわらずというよりは、お人よしであるからこそ笑顔で人権侵害をするのである。しかし法というものは第一に人権を保障するところに出現したものであるから、こうしたところで法の支配が弱体化するのは不思議ではない。&#13;&lt;br&gt;
　このように日本における法の不支配には長い背景があり、原則でなく、状況によって行動するという習性には消し難いものがある。とすれば単なる制度改革に限界があることは自明であろう。しかしこうした習性がゴーン氏迫害事件をもたらした今となっては、日本人も悔い改めなければならないであろう。しかし背に腹は代えられず、日本人は悔い改めないであろう。そこには再び制度改革の意味も生まれる。この種の議論はブラーメンのように循環する。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ゴーン氏迫害事件に単に法的でないイメージを与えるものとしてはデュマの巌窟王（モンテ・クリスト伯）があげられる。これはもと一等航海士であったモンテ・クリスト伯が船の会計係や恋人を奪おうとした若者の共謀でナポレオンに通じていると告発され失脚し、栄達と保身のために検事代理から投獄された事件である。陰謀の構造はゴーン氏迫害事件と全く同じである。モンテ・クリスト伯は収監者の助力によって死者を入れる袋に入れられて脱獄したが、これもゴーン氏が楽器の箱に入れられて逃走したことと類似している。モンテ・クリスト伯は大金持ちになって自分を陥れた者どもに復讐するというのがそのあらすじである。&#13;&lt;br&gt;
　このようにモンテ・クリスト伯とゴーン氏迫害事件は極似しているが、モンテ・クリスト伯は自己救済をしている点で違っている。モンテ・クリスト伯の自己救済は時代的に法的正義を求めることが不可能であることによっている。ゴーン氏迫害事件の場合はやや異なっている。&#13;&lt;br&gt;
　ゴーン氏の逃走はまず不当な支配に対する抵抗権の行使とみられる。ドイツ基本法はナチス支配の教訓として支配権力の不法に対する抵抗権を規定しているが、合法性には限界があるのである。ゴーン氏の場合は不当逮捕、不当拘束等の国家権力による犯罪といってもよいような迫害から逃れようとして逃走したのであろう。その逃亡はしたがって亡命といってよいであろう。&#13;&lt;br&gt;
　しかしゴーン氏は逃走することによって正義の判定を受けることができなくなっている。日本国における裁判は逃走によって不能化している。しかしまた報復という私的救済もできる時代ではない。こうしてしてゴーン氏はレバノンを出ると逮捕されるという状況で、名誉を回復することも自由を得ることもできなくなっている。このままでは地上には正義はないことになるであろう。&#13;&lt;br&gt;
　もともと国家権力による犯罪に対して国家権力による正義を求めることは困難なことである。こうした場合考えられることは、国家の司法権が解体しているときには、裁判権は人民に戻るということである。ベトナム戦争についてはラッセル法廷が開かれ、サルトルが裁判長になってアメリカに有罪を宣告している。&#13;&lt;br&gt;
　しかし今日ではその時代とは異なり、国際刑事裁判所が設けられている。もしゴーン氏が無罪を確信し、人道に関する犯罪の証拠を挙げることができれば、名誉と自由を回復するためには不当逮捕、不当拘束、不当解任、人権侵害、名誉棄損等の政治迫害を理由として国際刑事裁判所に提訴した方がよいであろう。&#13;&lt;br&gt;
　人道に関する犯罪の容疑の候補者としては日産の西川元社長、東京高検の黒川検事長及び首相官邸の今井秘書官がさしあたり想定されよう。首相自身がどれほど関与したかは確かでないが、アベ首相はマクロン大統領から何度もゴーン氏の処遇に関してくぎを刺されており、関与していないはずはない。いずれにせよ「官邸」の最終責任者は首相である。アベ首相の叔父の佐藤栄作は造船疑獄の際に逮捕状を出されていたが法務大臣の指揮権発動で逮捕をまぬかれている。国際刑事裁判所のハードルは高いが、もし受理されるとすると、甥は捕まる可能性もあろう。&#13;&lt;br&gt;
　ゴーン氏はこれまで日本の政治家の関与については漠然とした発言しかしていない。彼は別の著書を計画しているようであるが、もし国際刑事裁判所に訴えようとするならば、日本の政治家についてできるだけ詳細に報告しなければならないであろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　ゴーン氏の逃走と前後してcovid-19が襲ったことは暗示的である。非常事態宣言にもかかわらず日本国では諸外国に比較して感染者が極めて少ない。しかしこれは日本国では検査体制が遅れていることが関わっているようである。日本国の「感染者」は実質的には「発病者」にすぎない。日本国の検査体制は世界水準になっていないために国際比較もできない。感染者の全体像が分かっていないのに場当たりの対応をしていることは、基礎データなしにマクロの戦略を持たずに太平洋戦争をしているようなものである。政府は布マスクを各家庭に配布したそうであるが、太平洋戦争中に敵の侵入に備えて竹やり訓練をしていたことを想起させる。&#13;&lt;br&gt;
　日本国の検査は症状があるものを対象としているようであるが、未症状者が急死した例があり、感染力が最も大きいのは発症の数日前のようであるから発病者だけを調べたのでは意味が乏しい。未発病者が問題なのであるから、医者に「相談」しなければ検査できないなどというのはナンセンスである。ロサンゼルスのように希望者全員に無量で検査すべきものである。日本国の医療行政は法務行政と同様にピンボケと言わざるを得ない。ここには役人に依存した政治の無能が現れている。資金をばらまくのではなく、必要なところに投入するのが政治というものであろう。&#13;&lt;br&gt;
　covid-19は環境異変の一例ともみられるものである。ウイルスは国境を越え、一国主義ではどうにもならない。だからアメリカが最大の被害を受けたのは、環境問題を軽視しでたらめな放言をしてきたトランプへの懲罰であろう。ゴーン氏の逃走とcovid-19が同時に起こったことは、でたらめなことをしていた国家に対する天罰であろう。dies iraeである。&#13;&lt;br&gt;
　covid-19は今秋以降も再来すると予想されており、人間はウイルスと共存していかなければならないであろう。ウイルスは人間によって気ままに酷使された地球が、自己保存のために発熱し放出したものともみられる。より強力なウイルスが出現したら、人類の滅亡にも現実味が生まれる。長期的に見れば、自然の摂理には逆らえず、人間はウイルスとの戦いに負けるであろう。個人だけでなく、人類も終末（最後の審判）を頭に置いていた方がよいであろう。&lt;br&gt;
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    </item>
    <item>
      <title>今年の屑拾い（最終回）</title>
      <link>https://nambaraca.asablo.jp/blog/2019/11/28/9182701</link>
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      <pubDate>Thu, 28 Nov 2019 20:30:29 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2019-11-30T12:07:29+09:00</dcterms:modified>
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      <description>１　ガラパゴス列島&#13;&lt;br&gt;
　今年は元号が変わったようである（私は全く使用しない）。この元号というものは民俗学的に興味ある現象である。世界にはほぼ２００のいわゆる国家というものがあるが、そのうちで自国だけの年号を使っているのは日本国だけである。国民は気が付いていないようであるが、日本国はこの点でも世界で珍しい国家である。&#13;&lt;br&gt;
　日本国は独自の元号を使用しているが、特徴的なのは西暦も使用していることである。つまり日本国は二重の年号を持っているわけであるが、その自明ともいえる二重年号の不効率性を意識していないことはいかにも日本国的である。&#13;&lt;br&gt;
　生活の基本的な指標を二重にしてなんとも思わないということは、まさしく多神教的だということであろう。神道や仏教等もごちゃまぜにしてケロとしており、和魂洋才であり、洋魂和才でもある。&#13;&lt;br&gt;
　したがって二重年号というダブルスタンダードは端的には無原則性という意識の現れとみられる。元号は日本人の無原理性、融通自在性、機会主義を示すものであろう。この無原理性は国家原理を定めた憲法論議に現れることになる。ここでは何を変えるかというのではなく、改憲が自己目的になるという世界に例のないような滑稽な改憲論が生まれる。&#13;&lt;br&gt;
　元号は天皇にともなうものとされているから、元号があるということは歴史は天皇が形作るものであるという考えの現れであろう。ここには国民が主権者であるという意識はほとんど存在せず、はからずも臣民根性が表面化することになっている。&#13;&lt;br&gt;
　だから元号が変わったから「時代」が変わったなどという迷論も生まれることになる。国民主権であるならば、元号は単なる期間を示す記号であろうが、天皇が時代を作ると見るのであれば、元号は「時代」を示すものになる。しかし今の天皇はもはや時代の実質的な構成要素ではないのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
２　引きこもり症候群&#13;&lt;br&gt;
　元号は「時代」の指標ではなく、単なる期間の記号に過ぎないが、ヘイセイというものが終わったことに伴って、その期間の概括というものがあるようであるから、一応若干の特徴点を羅列することにしよう。&#13;&lt;br&gt;
　この期間はベルリンの壁が崩壊して東西の冷戦構造が解体していき、他方では中国が天安門事件を制圧して経済大国化し、米中両超大国構造が生まれてくる時代である。その中にあって日本国は長く冷戦意識から脱却できず、環境の変化に挑戦するというよりは、自国に閉じこもることによってアイデンティティを確保しようとしたと言ってよいであろう。したがって内向きということが基本特徴であり、保守化と右傾化がその帰結である。バブル経済が崩壊し、経済は低迷していたが、経済不振の不安的期にファシズムが生まれるのは世界史の定石である。&#13;&lt;br&gt;
　政治的的はこの期間はいわゆる政治改革の時代であった。自民党の長期政権のもとで様々な腐敗が表面化し、その元凶は自民党の派閥にあるとされ、政策本位の選挙にするために小選挙区制が導入されることになった。これは政界の問題というよりは自民党の事情であったであろうが、さらに政権交代をしやすくするということも主張されていた。しかしこの小選挙区制の導入は、人口四十万人程度の選挙区で支持をえればよいうのであるから、外交問題などを議論できる国会議員はいなくなっている。そうして小選挙区制は絶対多数を作りやすい方独裁的な生還を生み出すことになった。政治改革がなされることによって政治は死んだのである。そうしてこういう政治改革の旗振りをした皮相な政治学者も同伴者となった。&#13;&lt;br&gt;
　選挙制度の変更によって政権交代を可能にするということは邪道であるが、結果的にこの改革によって国民の平均水準以下の政治家も生まれるようになっている。日本国の状況からは選挙の存在理由の問題が浮かび上がっているともいえる。選挙というものは資金の点からでも必ずしも平等なものではない。だから古代民主制の母国のギリシアのポリスでは評議員の選出は選挙ではなく、抽選によっていた。日本でも抽選によって国会議員を選ぶことはそれほど非現実的なことではない。&#13;&lt;br&gt;
　政治改革には政治主導をもたらすという意味も挙げられていた。政治が行政を主導するということは当然でもあるが、それは価値合理性と目的合理性の分業の問題であり、政治が行政を包摂するということではない。大臣が役人の人事権を持っていなかったのは問題外であるが、首相官邸が上級役人の人事権を握るようになると、役人は全体に奉仕する公僕ではなく、首相に奉仕する私僕になる。日本国の官僚制は猟官制ではなく、メリット・システムのはずなのである。こうした首相への権力集中によって日本的独裁は「官邸」独裁になる。しかもその名称が示すように「官邸」はブラック・ボックスであり、責任の所在も不明確なのである。&#13;&lt;br&gt;
　この危難の最後の五分の一ほどはアベ政権によって特質づけられる。この政権は自民党の最右翼の政権であり、この期間の右傾化を集約するものである。現にこの政権は教育基本法に愛国を入れ、国家機密法を制定し、共謀罪を導入し、集団的自衛権の行使を容認するといった国家主義的政策を実現している。&#13;&lt;br&gt;
　一見異常なことはこの前の七政権は直ちに支持率が下落し短命に終わったが、第二次アベ政権は比較的高支持率を維持した長期政権になったことである。基本状況がそれほど変わったわけでもないこの政権の長期化には不可解なところがあり、そこには右翼ポピュリズムの波及、政治的に極度に憶病な日本人の特性の再現などがあげられるであろうが、直接的には通信情報システムの変化があるであろう。すでにソーシアルメディアしか見ない人の内閣支持率が高いという調査があるが、発信者の側の原因もある。大企業に都合の良い労働条件の緩和を「働き方改革」とネーミングすることには広告代理店の助言があろう。他方で野党は「まっとうな政治」などと言っているのであるから選挙に負けるはずである。ネットを制する者が権力を制する時代になってきている。&#13;&lt;br&gt;
　経済的にはこの期間は衰退の期間と把握できる。この期間の初めには日本国の一人当たりの国民所得は世界数位にあったが、貴下の終わりには二十数位になっている。それは基本的には相変わらず自動車や家電のような大量生産型の産業を軸としており、マイクロソフトやグーグルのような企業が生まれなかったことが直接的に示すものである。&#13;&lt;br&gt;
　いわゆるアホノミックスは愚者にもできる金融緩和策に過ぎなかったと言ってよいであろう。かえって財政赤字は世界最悪となり、１０００兆を超える謝金を抱えているのであるから、金利が高騰したら財政破たんは必至である。経済の主体は民間にあるが、役所では「すごい」などと言っているのであるから新しい成長政策はあり得ない。&#13;&lt;br&gt;
　この経済の衰退の背後にあるのは教育の問題であろう。従来のこの国の教育は効率的な生産の担い手を作ることにあったようであり、その欠陥を集約しているのが東京大学である。ノーベル賞がすべてではないが、ノーベル賞受賞者のほとんどは京都大学の出身者であり、東京大学の出身者はほとんどいない。これはこの国の教育が画一的な労働者あるいはせいぜい有能な役人を生むことを目指し、創造力ではなくマニュアルのマスターを主軸としていたことの帰結であろう。&#13;&lt;br&gt;
　したがって衰退の基底にあるのは学問や文化の在り方であろう。この期間の代表的な著作として『世界史の構造』があげられることがあるようであるが、これは「歴史」と「構造」の論理矛盾に無頓着な知的ディレッタンティズムともみなされよう。&#13;&lt;br&gt;
　総じてこの期間には書籍の売り上げは三分の二にまで衰退し、１兆円を切っている。これはパチンコ業界の二十分の一であり、日本国は出版小国化しているようである。世界的に出版が後退していることは否めないが、日本国の極端ともいえる。その反面で漫画は世界の先端にあるようであるが、このことは日本人は活字よりも画像に親縁性があることを示すものでもあろう。&#13;&lt;br&gt;
　総括すればこの期間は内向きの「引きこもり」によって特徴づけられると見られよう。この期間の後半には「引きこもり」が注目されるようになっている。この「引きこもり」はある点では画一的な日本社会への抵抗であろう。しかしこの現象は積極的な反抗や挑戦を意味するものではなく、あくまでも消極的な自己保存にとどまっている。無論それは頭隠して尻隠さずである。若者の一部がこうしたあり方をしていることは、日本国の将来にとって暗示的である。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
３　即位礼とゴーン氏&#13;&lt;br&gt;
　今年に戻ると、代替わりに伴って即位礼が行われている。これは天皇制国家の劇場構造をよく示すものである。&#13;&lt;br&gt;
　即位礼では鳥かごに入れられたような天皇のカーテンが開けられ、あたかも新天皇の御開帳のようである（皇后の籠は小さかったようであるが）。その下では臣民代表としての首相が万歳をし、あたかも天皇を主権者として神格化し、施政者がそれを利用して好きなことをしているかのようである。即位礼は愚かな善男善女を幻惑し、倭人以来の受動的服従性向を確認するものであったと言えよう。&#13;&lt;br&gt;
　即位礼の中心は大嘗祭である。宮内庁は大嘗祭は五穀豊穣を願うものであるという愚民向けのきれいごとを言っていたようであるが、それでは新嘗祭と同じであり、大仕掛けに深夜行い、しかも秘儀とする必要もないはずのものであろう。秘儀とするのはそこにはいかがわしいものがあるからであろう。大嘗宮の前には鳥居がたてられ、式殿の屋根には千木が設けられており、大嘗祭は正真正銘の宗教行事である。、&#13;&lt;br&gt;
　大嘗祭が収穫祭の基本性格を持つことは確かである。しかし大嘗祭の特質を示すものは、式殿の真ん中に寝台が置かれていることである。この寝台については折口信夫は新天皇が布団の中で物忌みをし、それが終わって神になるとし、天皇霊を身に着けることが核心であるとしていた。これは天孫降臨の神話に左右されすぎたものであろう。あるいは前天皇の遺体を安置し、前天皇と共寝するという説もあるようであるが、天皇が添い寝をするわけではないであろう。しかし折口が大嘗祭では天皇に入浴過程があることに注目し、天皇の腰のひもを娘が妃になる習わしであるとして、聖婚を示唆しているのは意味深い。&#13;&lt;br&gt;
　寝台に関しては後土御門天皇の御告文に「采女はほとををきてまいるへし」と書かれていることがヒントになる。「ほと」とは女陰であり、「をき」とは招きということであり、采女は下着をつけずに奉仕せよということであろう。采女はコメを献上した国から献上された娘である。寝台は天皇とその采女が交合するところである。各地の田植祭では男女の交合が行われていたが、天皇家の収穫祭では天皇と采女の交合がなされたのであろう。それは田植祭と同様に多くは見せかけに過ぎないであろうが。&#13;&lt;br&gt;
　とすると大嘗祭には服従儀礼の要素があったことになるであろう。食料と女性を提供するのは服従儀礼の通例である。新天皇は地方からコメを献上させるとともに女性と交合し、そこでは収奪と性支配が一体化している。ともあれ大嘗祭は世界でも珍しいポルノグラフィックな要素を保存する即位礼なのである。&#13;&lt;br&gt;
　天皇と皇后は皇祖神をまつる伊勢神宮を参拝して即位の報告をしている。しかしアマテラスは最初からある神ではなく、太陽母神オオヒルメの伝承と先住の海人族のアマテル神を融合してできた比較的新しい神である。だからアマテラスは最初は男神とされていた。もともと伊勢地方を支配していたのは海人族であり、天孫族によって制圧されることによって海人族のｋ実は外宮に置かれることになっている。そうして皇祖神とされるようになったアマテラスのために内宮が設けられたのであるが、その皇祖神とは万世一系のために作文されたものであり、伊勢神宮自体が虚構のシステムであることは否定しがたい。&#13;&lt;br&gt;
　この二人はまた神武天皇陵にも則位の報告に行ったそうである。神武天皇が存在しないことは歴史学の常識であり、天皇家は知的に遅れているようである。イワレにおいて即位した可能性がある人物としては崇神があげられるが、即位した橿原が東扶余が都をおいた迦葉原に由来していることは明らかであり、崇神が朝鮮半島から渡来していることを示唆している。&#13;&lt;br&gt;
　天皇制は即位礼が端的に示しているように、信ぴょう性のない神話や伝説に依拠する、無知な善男善女向きの支配装置であり、そこにはグロテスクでポルノ的な要素も保持するものである。こうした天皇制を基底の一部に持つ国家がどのようなものになるかは容易に予想できることである。天皇制は上下貴賤の原理に立つから人権やそれを保証する法の支配とは無縁のものであり、そこから多くの帰結がもたらされる。今年の一例としてゴーン氏の基礎を取り上げておく。&#13;&lt;br&gt;
　１年前にゴーン氏が有価証券虚偽記載容疑で突然逮捕されるという事件が生じている。このような形式犯容疑でいきなり逮捕するということは不当逮捕といわれてもよく、さらに数か月にわたって勾留するというのは職権乱用の疑いがあろう。保釈の差異には証拠隠滅の疑いがあるということで妻との接触を禁じるというような反人間的なことをしているが、これは夫婦の同居義務を定めた民法にも反している。安易に証拠隠滅ということが言われるが、ゴーン氏は当初より無実を語っており、隠滅すべき証拠のようなものはあり得ないともいえる。同様の容疑のある西川前社長に対しては逮捕もされなければ基礎もされていないことは検察の公平性に疑問を抱かせるものであろう。&#13;&lt;br&gt;
　さらにゴーン氏は会社法上の特別背任の容疑で逮捕・起訴されている。海外への不正送金などによって日産に損害を与えたというようなことが挙げれている。ここでまず疑問になるのは、ゴーン氏には絶対的と言われるような権限が与えられていたとされているからである。とするとゴーン氏の活動は基本的に権限内のことであり、「不適切」なことはあり得ても「不正」なことはあり得ないともいえるからである。不適切と不正が混同されている。&#13;&lt;br&gt;
　この点で注意されるのは、検察は例の森友事件の際に公務員には広範な裁量権が与えられており、財務省の役人を背任罪で起訴しなかったことである。ゴーン氏の場合は広範ではなく絶対的な裁量権が与えられていたのである。背任とは「自己若しくは第三者」の利益を図るか、又は「本人」に損害を加えることを目的にしているが、「又は」ということは二者択一を意味する。第三者の利益を図ろうとしたことは自明であるが、検察は財務省の役人が「本人」つまり国に損害を加えるとまでは言えないとして、法をまげてまで不起訴にしていた。ゴーン氏に本人つまり日産に損害を与えようとすることはあり得ないであろうから、その伝ではゴーン氏も起訴できなかったことになるであろう。要するに検察の起訴は恣意的と言わなければならない。&#13;&lt;br&gt;
　ゴーン氏事件はルノーとの経営統合を図ろうとしたゴーン氏を失脚させようとして西川日産が同氏を犯罪者として告発した事件とみられる。これは本来は企業内の路線論争としてなされるべきものであるが、それを検察に告発し、また検察が本来受理するべきでないようなものを受理したものとみられる。西川日産には刑事処分を受けさせることを目的にした誣告（虚偽告訴罪）の疑いが濃厚である。&#13;&lt;br&gt;
　さらにゴーン氏起訴に関しては経済産業省の意向があった疑いがあろう。森友事件に際して「官邸」からの圧力を示す文書があることからして、「官邸」からゴーサインが出されていた可能性もあろう。一部には日産を外国資本に渡すべきでないという議論があったようであるが、あたかも民族系企業を維持するためには法をまげてもよく、国策捜査を許容かのようである。しかし国内第三位の自動車メーカーが民族系か外資系かということなどは、法の支配の破棄という問題に比べると、どちらでもよいようなものである。&#13;&lt;br&gt;
　ゴーン氏事件が注目されるのは、それが日本国の刑事司法の問題性を鋭く浮かび上がらせるものだからである。直接的には検察の問題であるが、それは独占的権力の登場によって権力の腐敗が生じているということであろう。法治国家体制が危うくなっているのである。人を逮捕したり投獄する法執行権が恣意的になるということは専制国家の特質なのである。&#13;&lt;br&gt;
　検察を一部に含む司法が法合理性ではなく、特定も宗教的価値などによって動くということはイスラムの「カーディ裁判」の特質である（マックス・ウェーバー『法社会学』参照）。その意味では日本の刑事司法は「カーディ裁判」的になっているということである。&#13;&lt;br&gt;
　韓国では検察が保守集団の番犬のようなものになっているということで検察改革が唱えられているが、日本の検察は狂犬の面も示しており、大逆事件の時代と似ている。そうした意味で日本国の法務省・検察改革は喫緊の問題になってきていると言えるであろう。しかし日本ではほとんど誰一人として検察改革の問題に気が付いていないことが問題である。上のような事件に関して刑事法学者からの疑問は寡聞にして耳にすることがなく、日本国の刑事法学も腐っているということであろうか。&#13;&lt;br&gt;
　即位礼とゴーン氏事件にどんな関係があるかということは、例えば朝日新聞を見るとよくわかる。朝日新聞は今年の初めから昭和天皇賛美のキャンペーンをしていたが、天皇讃美は民主主義を交代させるものでもある。一見急進的な意見を載せても、天皇批判だけは登場せず、明らかに天皇はタブーになっている。日本の新聞はタブーと自己規制のシステムとなっており、国際的な評価が低いのは不思議ではない（自由度は世界五十以内に行っていない）。この新聞のランクはほぼ民主主義のランクに対応している。&#13;&lt;br&gt;
　そうしてこの朝日新聞は森友事件で検察が捜査するふりをしていただけであることに全く気付いておらず、またゴーン氏事件での検察の捜査の問題性には同様に盲目であった。天皇讃美は権力の把握を鈍化させる。その意味で即位礼とゴーン氏事件は通底しているのである。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
４　非対称性&#13;&lt;br&gt;
　国際面では今年は日韓関係が戦後最悪になった年であると言われる。それは直接的には韓国の裁判所が徴用工への補償を認めたことに始まっているようである。これに対してアベ首相は戦後補償を放棄した日韓条約に反するもので「約束違反」であるとしているが、これはピントが外れている。出発点にあるのは裁判所の判決であり、それについて行政府に国際法違反と言っても始まらない。どうやらアベ首相は裁判所は日本のように行政府に従属するものであると思っているかのようであり、言い換えれば三権分立を理解していないようである。&#13;&lt;br&gt;
　この件は法的にはかなり難しい問題がある。徴用工の問題は国家賠償の問題なのか、あるいは民間企業の賃金未払いの問題なのか、ということから始まり、国際法優位か国内法優位かという最終的には解決されていない法理上の問題がある。そうして司法と行政が異なった見解を持つ場合には、国の意思はどのようなものであるべきかという難問がある。それを単純に国際法違反と言っても何の解決にもならない。&#13;&lt;br&gt;
　アベ首相は徴用工の判決に対抗して韓国に貿易上の優遇措置を解除するという対応をしているが、判決と貿易上の対応は全く対照性を欠いており、江戸の仇を長崎で打つようなものである。これは感情的な対応であり、その反面におけるアベ首相の法的無知が関わっているであろう。そうしてこの強硬策によって韓国からの観光客は半減し、両国間の貿易は減少し、民間交流にも支障をきたすというように、両国民が愚かな首相の被害を受けている。愚かな首相が先頭になって犬も食わぬ兄弟喧嘩をしているわけであるが、それを支持する国民も「お」が付くめでたい国民であろう。&#13;&lt;br&gt;
　二権が違った見解にあるときには第三件の意味が注目される。この点で韓国議会議長が和解立法を提案しているのは無視できない。判決後の和解ということは変則的なことであるが、もともと二権が齟齬するということが変則的なことであるから、その解決が変則的になるのは避けられないことである。韓国と日本は約束違反などという単細胞的なことを言うのではなく、無い知恵を絞るべきなのである。&#13;&lt;br&gt;
　アベ首相のこうした傾向はすでに拉致事件でも示されたものである。その時は一時帰国した拉致被害者が北朝鮮に子供を残していたにもかかわらず強制帰国させている。これは外交的「約束」違反であることは言うまでもなく、人間のやることではないであろう。こうして拉致問題は一歩も前進せず、いまだに首脳会談すらできていない。アベ首相は北朝鮮との関係をダメにして登場し、韓国との関係を泥沼化して退場である。私のアベ首相についての判断は登場の時点で確定しているが、当時のマスメディアはアベ首相は強硬策によって国民の人気を得たと言っていたものである。&#13;&lt;br&gt;
　アベ首相は太平洋戦争に一歩を進めた田中義一と同様にもともと外交能力などなかったと言ってよいであろう。そうしてアベのような日本の右翼的政治家には朝鮮への偏見があるが、これは大体において無知からきているものである。韓人の中心はアショカ王に制圧された南インドからの難民であるが、その一部は北九州や葛城に入植している。韓国と日本のかなりの部分は同族である。継体から始まる今の天皇家は百済王統の継続なのである。&#13;&lt;br&gt;
　アベの韓国に対する強硬策は実は日本の国力が低下していることのコンプレックスの現れであろう。その反面でトランプにはごますり外交で、就任前からご機嫌伺いに行ったりしている。これはアベとトランプは基本的に同類であることを示すものであろう。そのトランプは権力乱用の容疑で弾劾裁判を受けることはほぼ確実になっている。日米の違いは基本的には議会の力の違いであろう。今度の臨時国会でも日本の議員は何をやっていたのか。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
５　不自由展その他&#13;&lt;br&gt;
　表現の不自由展のトラブルがあったようである。一枚の脅迫状が来て中止するのはふがいないことであるが、再開されたこと自体は評価しえよう。しかしこの問題はこの国における表現の自由が確保されていないことを明るみに出すものである。名古屋市長や一度交付を決定していながらあとから不交付にした文化庁などは、表現の自由とは自分の好まない表現の自由であることを理解していないようである。&#13;&lt;br&gt;
　この展示のテーマが「情」とされていたことは示唆的である。情を活動化させるというのであろうが、情が情に対立する場合はそれを決定するのは力になり、テロを誘発するものにもなる。そこの芸術監督は根本的な考え違いをしているようである。表現の自由を担保するのは情そのものではなく、情の条件ともなっている「理」なのである。情を強調することは情緒的であって法理に弱い日本人の弱点を示すものでもあろう。&#13;&lt;br&gt;
　半世紀ほど前ミシェル・フーコーはコレージュ・フランスの就任講義ｘで、今後の言語表現はコミュニケーションの糸を切って断片を提出することであると予言的なことを言っていた。これはロゴスよりはパトスを強調するものであり、それは犯行の論理ともなればテロの論理ともなる。その意味ではこのポストモダン的な言説は民主主義を脅かすものを内包している。ともあれそこでは対話というよりは、力の意味を表面化させるものであり、それは反復と強度によって規定されるものである。そこでは視座は羅列的なものとなり、構成的な視座は成り立たなくなる。そうしてロゴスよりはパトスが優位というポストモダンの特性は、日本においてはプレモダン以来生得的なものだったのである。&#13;&lt;br&gt;
　そのほかでは京アニメへのテロ事件があったようである。私のような京映画の卒業生にとってはアニメに感動するということは想像できないことであるが、ここにも漫画的な伝統があるのであろう。しかし京アニメに感動するということには若干の危惧もないわけではない。京アニメと容疑者の間にはトラブルがあったはずである。そこでアニメを美化していただけではアニメの闇を見ないことになるであろう。&#13;&lt;br&gt;
　アニメに感動するということは、理知よりも感情に動かされやすい心情と、当然ながら精神が幼くなっていることに関係するであろう。占領軍最高司令官のマッカーサー元帥は日本人は１２歳だと言ったが、７０年たっても１２歳である。ここには長所と短所がある。&#13;&lt;br&gt;
　近年の日本の若い男子の一部は引きこもっているようであるが、女子について耳につくのはカワイイという言葉である。カワイイというのは共感の表現であり、コミュニケーションの基底にあるべきものであろう。しかしこの感覚的表現は感覚を超えた世界への盲目となっている点がありそうである。たとえば世界には環境保全のために学校ストライキをやってその運動を進めようとする動きがある。しかし日本のカワイイ若者はポカンとしている。人類の滅亡は核戦争よりも地球温暖化による可能性が大きくなっているとき、このカワイイは幼稚であるだけでなく、鈍感で醜い。&#13;&lt;br&gt;
　日本の若者が多くは大腸菌でいっぱいのぬるま湯の中で満足し、少数の男子は引きこもり、かなりの女子はカワイイでポカンとし、総じて時代に対してチャレンジしない気概のなさを示しているのに対して、今年の香港の若者は際立った動きを見せていた。その中心問題は容疑者を中国に送致するという法案であり、これは実質的に一国二制度を破壊する可能性を持つものであった。これに対して香港の若者は何か月かのデモによって法案を撤回させることに成功している。中国人も民主化運動をすることができるということを示したものとして大きな功績である。&#13;&lt;br&gt;
　以上の理由で本ノーベル賞選考委員会は、今年のノーベル平和賞を香港の若者に贈ることを決定した。区議会選挙で圧倒的に支持されたのであるから今後は議会の年長者に主導権を渡す方が良いであろう。&#13;&lt;br&gt;
　一方今年のノーベル平和賞マイナスは香港の林行政長官、日本のアベ首相およびアメリカのトランプ大統領に授与する。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
０　シュティール島への船出&#13;&lt;br&gt;
　このブログもだんだんと断腸亭日乗に似てくることになったようであり、そろそろ閉じるべき時が近づいているようである。&#13;&lt;br&gt;
　日本の社会は放っておくと引きこもって江戸時代のようになる特性を持っている。だからへーせーの期間に江戸時代が人気を得たのは不思議ではない。江戸趣味と言えば永井荷風がすぐ思いつくが、しかし荷風の江戸の愛好は今日の江戸人気とは異質のものである。荷風には江戸文化は「専制時代の萎靡した人心の反映」であるという明確な認識があり、彼の態度は「東洋固有の専制的精神」のもとで正義をうんぬんすることの愚なることを悟った結果としての韜晦である。&#13;&lt;br&gt;
　そうした社会の将来の指標は若者であろう。しかしカワイイ日本の若者は引きこもったりしながら概して現実に満足し、世界の課題にチャレンジしようとする気はないようである。しかしまたそうした不甲斐なさは若い世代自身も知らないわけではないようである。それはこの時期に人口減少化が明瞭になり、若い世代自身未来がないことを意識するようになっているかのようである。&#13;&lt;br&gt;
　鶏は卵ではないが、こうした傾向が実は年長者がもたらしている。この社会では未来を指し示すようなリーダーが存在していない。多少元気があるのは薄汚れた反動主義者だけであろう。オピニオンにおいても保守だらけであり、変革力はほとんど見当たらない。さらに年長者になると、一定以上の人間は行政的に「後期高齢者」と呼ばれて医療費の自己負担が多くなっているが、これは国家的「姥捨て」と呼ばれてもよいであろう。こういう国ではあまり長生きしたくないものである。&#13;&lt;br&gt;
　こうした持続的停滞意識はつまるところ迷信的でプリミティヴな天皇制的精神構造に根差すもののようである。ここではたとえばローマ教皇のような普遍的な精神を見ることはできない。逆に言えば天皇制国家の限界が示されている。&#13;&lt;br&gt;
　このめでたい国の善男善女はどこに行こうとしているのであろうか。おそらくそれはシュティール島であろう。ギリシアのキティラ（シュティール）島は幸福であった人の行くところであるとされている。だからクールベの有名な絵に触発されてドビュッシーは「幸福の島」を作曲している。しかしギリシアのアンゲロプロス監督は国外退去を命じられて筏に乗せて沖合に流された老夫婦を描いた作品を『スティール島への船出』と名付けている。シュティール島は幸福だった人のゆくところであるが、死者の島でもあるのである。&#13;&lt;br&gt;
　ガラパゴス列島の人々が安楽死の道をたどっているのかどうかは知らない。筆者としてはよい旅を祈るだけである。&#13;&lt;br&gt;
　というわけでこのブログは一応今回で打ち切ることにしたい。筆者が馬齢を重ねてまた私語を漏らすことがあった場合、その時は多分archipelago galapagosという名に代わっているであろう。乱筆多謝&lt;br&gt;
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    </item>
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      <title>オリヴェイラ讃</title>
      <link>https://nambaraca.asablo.jp/blog/2019/04/30/9066632</link>
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      <pubDate>Tue, 30 Apr 2019 22:16:16 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2019-06-09T23:02:15+09:00</dcterms:modified>
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      <description>　ポルトガルのオリヴェイラ監督が亡くなって早くも五回忌になる。映画のことなど書いている状況ではなかったためである。ひと山越えたようだから不要不急のことを書いておくことにしよう。&#13;&lt;br&gt;
　といっても筆者は映画ファンなどとは言えない。私が最も映画を見ていたのは京都の小学校時代のことである。その頃は時代劇の最盛期であって、場末の映画館で見ていたのは中村錦之介や東千代之助のチャンバラ映画であった。&#13;&lt;br&gt;
　小学校を卒業するとともに目の錯覚を利用した映画からも卒業することになった。映画を再び見るようになったのは大学で西洋思想史を専攻するようになって、その参考資料とするようになったからである。たとえば古代ローマの作家ペトロニウスの『サテュリコン』の世界を知ろうとしたときにフェリーニの『サテュリコン』を見るような具合である。もっともそれは私が予想していた世界と大して違っていなかったのであるが。&#13;&lt;br&gt;
　これらの映画はほとんどがヴィデオであって、映画館にはほとんど言っていない。過去１０年間に映画館に行ったのは１回程度だから映画は見ない方と言わなければならない。変則的な映画愛好家ともいえないであろう。&#13;&lt;br&gt;
　私はフェリーニのアナーキズム的なところに興味を持っていくつか見ることになったが、さっそくマストロヤンニが主演していた『甘い生活』に出会うことになった。彼はプレイボーイであるとか性格俳優であると言われたりするようであるが、それは当たっていない。Ｍは１７０ほどの映画に出演し、農夫、漁民、兵士、組合指導者、医者、教師、検事、記者、政治家などあらゆる役柄をこなす職業的俳優である。私の見るところＭは根本的には典型的なヨーロッパのジェントルマンである。&#13;&lt;br&gt;
　私はＭの生真面目なユーモアに興味を持たされて若いころからの映画を探すようになった。すでに十四・五歳でエキストラに出ていたようであるが、第二次大戦で兵役のブランクが終わると本格的に主演するようになる。私の興味を引いたのは彼の三十歳代の１９５０年代の初期の作品には田舎の風景が多く、それは私の小学校時代の情景に似たところがあったためでもある。&#13;&lt;br&gt;
　Ｍというと私はいつもバリトンのヘルマン・プライを思い出す。年のころはほとんど同じで、同じようにあまり長生きしていない。ドイツとイタリアの差はあるが、プライも典型的なドイツ人というよりはバイエルンの農夫のようにずんぐりとした風貌の持ち主であり、それはＭも同じであり、彼はローマとナポリの中間にある小村フォンタナ・リリの生まれである。私はたまたまキケロの生地アルピーノに行く途中でフォンタナ・リリを通ったことがあるが、アペニン山麓の舌が伸びたようなところにある全くの寒村である。彼の先祖は代々大工をしていたようであるが、Ｍ自身も大工のせがれのようなところがある。彼は決してハリウッド的な美男子ではなく、本質的に庶民的なところがある。Ｍは無数の役をこなしながら、英雄と聖人はやらないとしているのは、自分を知っているからであろう。&#13;&lt;br&gt;
　初老になったＭはギリシアのアンゲロプロス監督の２本の映画に出ている。Ａの映画はあまり多くなく私はほとんどすべてみることになったが、それは彼の映画は歴史的かつ政治的であり、私には避けて通れないものだったからである。『旅芸人の日記』などの三部作は同時代史と名付けられており、それはナチス支配、軍事独裁、他面での反体制運動の時代を扱うものであり、Ａの政治的な憤りが現れている。&#13;&lt;br&gt;
　しかしギリシアも一応の民主主義体制が実現すると、Ａはさしあたりの憤りの対象を失ったかのようであり、テーマは次第に個人を中心にするようになっている。それには過激派の自滅を扱った『アレキサンダー大王』あたりが分岐点になっているようであり、以後は政治的世界からの離脱の色を濃くしていく。Ｍが失踪した政治家の役で登場しているのはこのころのことである。&#13;&lt;br&gt;
　Ａの非政治的映画の代表的なものとなっているのはカンヌの受賞作『永遠と一日』であろう。このタイトルは明日＝永遠＋一日という形而上学を意味しており、もとよりあまり映画的なテーマではない。これは彼の歴史的な視点が哲学的な視点に移行したものであろう。そのテーゼは妥当なものであるかどうかは難問であるが、Ａの基本的な問題関心が時間をめぐるものであることをよく示している。&#13;&lt;br&gt;
　Ａの最後の作となった『エレニの帰郷』を私は珍しくも東京で封切を見ることになった。しかしこの作品は何を問題にしているのかほとんどわからず、ＤＶＤで何度か見てやっとだいたいのことがつかめるようになった難物である。Ａは以前から時間を前後に交錯するという手法を用いていたが、この作品ではそれが極度化して理解しがたいところが出てきている。たとえばソ連からウイーンへの帰郷とニューヨークからベルリンへの帰郷が意図的に混同されている。時間の交錯と空間の交錯は相関的なものであり、この映画では同じ部屋にいる人物を部屋の外に探しに行くといったシュールリアリズムが見られる。&#13;&lt;br&gt;
　こうした時間空間の交錯はＡの時間構成が基本的にはモダンの前進的な時間感覚によるものであり、その単調さを超えようとする苦心を示すものであろう。しかしその時間は基本的には１方向的なものであるために、時間は混線していくことになる。彼はしばしば越境を問題にしているといわれるが、同じことであるが、時間を超えることが問題であり、それは空間以上にうまくいっているとは言えないのである。&#13;&lt;br&gt;
　Ａの仕事は事故死によって中絶しているが、彼の仕事はすでに壁に突き当たっていたとも言えるであろう。しかし彼が最後の作品で、何も終わるものはない、時の埃によって忘れられたようであっても、いつか突然帰ってくると言っているのは、映画の扱う人間的時間の核心を指し示すものとして不滅の意味を持っていると言えよう。最後の作品でベルリンでエレニが死に、、ニューヨークに帰京したのは孫のエレニである。ここには時間の乗り越えがある。&#13;&lt;br&gt;
　回り道をしたようであるが、オリヴェイラはマストロヤンニの最後の作品の監督になった人物である。私はＯが死去する前に見た作品は子供の映画とこの『世界の始まりへの旅』の二つだけであった。訃報を聞いて初めて私は思うところがあってＯの作品を系統的に見ることになったのである。&#13;&lt;br&gt;
　Ｏ監督についてまず驚かされるのは、ほとんどの作品が７０歳を超えてからのものであり、１００歳を超えての何本かの作品があることである。しかもこの１００歳の老人はいたずらをするのである。そうしてそれ以上に印象を与えるのは、彼には独特のカトリック的、特に修道院的な雰囲気があることである。しかしそのカトリシズムは抹香的なものでなく、カトリシズムの亀裂を見せるものである。こういう日本列島に異質な要素は異化させるものとしての映画を注目に値させるものである。&#13;&lt;br&gt;
　Ｏの初期の作品にポール・クローデルの『繻子のスリッパ』の映画化がある。クローデルは２０世紀初葉のフランスのカトリックの神秘主義化を示すものであって、シャルル・ペギーが左翼神秘主義であるとしたら、クローデルは保守的神秘主義の亀裂を示している。それはこの作品がアメリカ大陸のキリスト教化を意図したスペイン副王を奴隷として只で売却するというとんでもないテーマを扱っていることに見ることができる。この作品は極めて複雑な構成のもので、私はクローデルの台本を手にして見なければならなかったのである。Ｏはかなり忠実に映画化しているが、この７時間近い大作を破たんなく再現しているところにかなりの力量をうかがうことができる。&#13;&lt;br&gt;
　『世界の始まりへの旅』はＯの少年時代を訪ねようとするものであるが、マストロヤンニがＯの役を演じている。この作品にはかなりトリックが使われており、まず記録映画のような感じを与える。俳優は台本なしにアドリブだけで話しているように見える。またＯの考えかＭの考えかわからないところがある。もっとも大きなトリックは時間を逆行しようとしているところにある。トラック映画は普通自動車の前方を映しているが、この映画は徹頭徹尾後方を映している。いうまでもなくこれは現在から過去に向かって進んでいることを意味しようとするものである。&#13;&lt;br&gt;
　過去に向かって進むということは、過去に戻るということではなく、過去に出発点を見るということである。その意味では未来に戻るということであり、まさしくback to the futureということに他ならない。もっともこの作品では戻った過去はスペイン国境の山の中であり、世界から忘れられたところである。世界の始まりはどこにもないということでもある。これは相当に悪質ないたずらと言わなければならない。&#13;&lt;br&gt;
　アンゲロプロスは時間を交錯することに苦心していたが、Ｏは時間を逆行させるという新機軸を打ち出している。時間を逆行するということは過去を発見するということであるが、タイム・トンネルをくぐるということがどういう実質を持つかということは結局発見された未来にかかっていることになるであろう。その点でこの映画は実験映画であって、どれだけの成果を得たのかはわからない。&#13;&lt;br&gt;
　この映画が撮影された頃Ｍは末期がんに侵されており、若いころからやや猫背であったのがますます猫背になり、足元もおぼつかなくなっている。しかし若いころのＭは甘くゆるいところがあったのに比べると、この最後の映画ではいぶし銀のようにしまっている。彼があえてこの作品に出演しているのは、この作品は単にＯの作品ではなく、Ｍの企図でもあるようなところがあるからである。それはＭがＯを演じていることが示すだけでなく、Ｍの歴史的時間についての見方が現れているようなところがあるからである。ＯとＭは融合しているだけでなく、さらにＡの歴史概念が媒体になっているようにも見える。&#13;&lt;br&gt;
　Ｍはこの撮影直後すい臓がんで亡くなっている。十代で映画界に入って以来Ｍの生涯は俳優の一生であったと言ってよいであろう。武満徹はＭはクレジットの大きくない俳優であると書いていたが、その意味は分からない。１７０もの役を演じる人間というものに自分はあるであろうかという疑問がありうるであろう。私の見るところではＭはカリスマ的な俳優ではなく、自己意識的な俳優であり、役は仮面にすぎない。彼は怪人百面相のようなものであり、その意味では稀有な存在である。言う必要のないことであるが、Ｏ讃はじつはＭ讃なのである。&#13;&lt;br&gt;
　最後の映画を撮影していたころＭは自分の映画人生を回顧するインタビュー映画に出ている。カトリーヌ・ドゥニューヴはこの映画の公開を阻止しようとしたようであるが、阻止できなかったのは幸いというべきである。&#13;&lt;br&gt;
　この記録映画でＭはローマよりはナポリの性格を持つことを語っている。Ｍはフェリーニのローマに出たころからLatin loverとされていたが、それはNapoli loverということに他ならない。彼の緩いキャラクター（ドイツ人であればジンパーティッシュと呼ぶ）は多分にナポリのものである。ベニスに死す、ならぬナポリでしぬ映画も撮っている。Ｍに興味を持った私としてはもう一度ナポリを見て死にたいものである。&#13;&lt;br&gt;
　この映画でＭはまた演劇的にはチェホフに影響されたと言っている。そうして失われた時にパラダイスを見たプルーストを修正して、本当に素晴らしいパラダイスはまだ見ない過去に出会うことであると意味深長なことを語っている。それは過ぎ去った過去ではなく、現在に帰り、未来を含んだものとしての過去である。これは彼の最後の映画のテーマでもある。&#13;&lt;br&gt;
　この映画の最後のところでＭはカフカの「隣村」の小文を引用して、カフカの祖父は隣村には一生かかっても行けないと言っていたのに対して、ある程度経験すると隣村はすぐ近くにあることがわかると言っている。この意味だけは私には不可解である。&#13;&lt;br&gt;
　明らかにＭは世界でもきってのインテリ俳優である。Ｍをとおして、そしてＡとＯを経て私は映画の一面に触れることになった。映画とは仮象の現実を提出するものであるが、それは現実の脱構築であると言ってもよい。現在よりも過去の方が現実的であり、その過去は実際にあったものではなく、未来に到来するということは時間のレベルでの脱構築である。&#13;&lt;br&gt;
　私のように長いタイムスパンの映画とたまに見ていると時の効果に接することがある。Ｏの最後の作品では、Ｍと共演したてのジャンヌ・モローは堅い青梅のようであったが、この映画では好々婆のようになっている。またＭと共演したてのクラウディア・カルディナーレはおきゃんな娘であったが、この映画では堂々たるイタリアのマンマとなり、息子のような男と夫婦になっている。Ａの最後の作品ではエレニ（イレーヌ・ジャコブ）は息子（ウイレム・デフォー）よりはるかに年下である。監督も最後の作品になるともう年齢に拘束されなくなるようである。子供が親よりも年上になると、子供が存在して初めて親も生じることになり、ここには時間の脱構築が生じている。&#13;&lt;br&gt;
　結局私にとって映画はタイムマシンのようなものであったようである。そこを通して私は異化されてまだ存在しない私に出会うことになる。しかし映画の現実は所詮は仮象である。その脱構築の有効性は限られており、世界も私もほとんど変わっていない。私は映画を見て世界観が変わったなどということはなく、かつてのオペラと同様に、すでに全盛期を過ぎて単なる娯楽となった映画にその力はないであろう。&#13;&lt;br&gt;
　オリヴェイラへのオマージュに名を借りて無益なことを書く。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
P.S.一段落したので５月下旬にはイタリアのルッカ温泉に滞在していた。この温泉はかなり前から知っていたところである。１６世紀フランスのユマニスト・モンテーニュの『湯治旅日記』で最も詳しく述べているのがここである。私が持っているのはドイツ語版であるから、ドイツ留学中に入手したものであろう。この日記は当時の風俗を知る上でも有益なところがある。モンテーニュはどこの国にいても自国のような感じでいるが、彼こそは最初のＥＵ人であったと言ってよいであろう。バーゼルでは有名な暴君放伐論者フランコ・オマンと食事をしている。食事には３時間も４時間もかかるという記事もある。&#13;&lt;br&gt;
　実は私はこの温泉には前にも行ったことがある。それは私がイタリアの山岳都市の興味を持っていたころであり、ルッカの近くにmontefegatesiという平均的な山岳都市があり、その麓にルッカ温泉があったのである。しかしその頃は温泉には関心がなく、町の入り口に出ている温泉で手を洗ってきただけである。モンテーニュはルッカ温泉には美人がいないと書いているが、ミラノに比較的近いためか人々は洗練されている。&#13;&lt;br&gt;
　今度ルッカ温泉に行って驚いたのはオールド・タウンから温泉は出なくなっているらしいことであり、入口のところの温泉も止まっている。山の反対側にテルメが設けられているが、以前よりさびれた感じである。ヨーロッパの温泉は日本のように内湯がないのが普通であり、温泉センターのようなところに行かなければならない。しかし今回私は源泉に作られたホテルに泊まったので外湯に行かないで済んでいる。&#13;&lt;br&gt;
　モンテーニュは結石の持病があり、１年余りの湯治旅行の間に何十個という石を排出しており、これは温泉が石を砕いた効果であると思っているようであるが、結石に効果があるとすればそれは石ができないということのはずであるからこれはややおかしい。湯治というのは半分は保養ということであろう。今日ルッカ温泉は呼吸器に特能があるとされているが、これは私の持病から遠いものであり、私の場合も湯治というよりは単なる保養だったのであろう。&#13;&lt;br&gt;
　この機会に私はマストロヤンニの映画に関係する何か所かを訪れている。ローマではieri oggi domaniでソフィア・ローレンは高等娼婦をしていたアパートに泊まっている。と言っても私がソフィアの顧客になったということではなく、そこがホテルになっていたのである。ソフィア・ローレンが神学生と話していたテラスがそのまま残っており、私はそこで朝食をとることになった。映画を見たときはまさか自分がそこで食事をするなどということは予想もしなかったことである。映画を巡っては時々こういう夢と現実の交錯が生じる。一泊５万円は私にとっては贅沢であるが、ソフィアへのお祝儀としては高くはない。&#13;&lt;br&gt;
　国立歌劇場ではあまり見られないプロコフィエフのfiery angelを見ることができたのはもうけものだったと言えよう。プロコフィエフがどうして魔女狩りの犠牲者を主題にしたのかには不審なところもある。同時代のプーランクがどうしてフランス革命の犠牲者を主題にした『カルメル会修道士の対話』を作ったのかも同様である。音楽は面白いところがあるが、半世紀前であればブルジョア反動主義と呼ばれてもよかったであろう。&#13;&lt;br&gt;
　ナポリではマストロヤンニがジャック・レモンと落ち合ったガレリア近くに宿をとった。すぐ近くのサン・カルロ劇場ではマダム・バタフライをやっている。バタフライ役のevgenia muravevaはよく歌っているが、幕間の取り方などはずさんである。サン・カルロ劇場はイタリアでも最古級の大劇場であるが、ミラノ、ローマ、ナポリと南下するにしたがって雑駁になっていく。この公演に日本人歌手は出ていなかったようであるが、イタリア人がぺこぺこした日本人をうまく演じているのを見るのにはやりきれないところがある。&#13;&lt;br&gt;
　しかし実はナポリ人には日本人にかなり共通する面があるのである。ナポリ人のフレンドリイさは彼らが外国人支配者と共存するための生活の作法でもあったのであろう。南イタリアを支配していたナポリ王国は最後はフランス系の支配者を持っているが、ナポリ人は反乱を企てたシチリアとは異なり、彼らと折り合いをつけて生活をしている。バタフライは鳥小屋のようなところに生活しており、ナポリの庶民もそれと大して違いはないのであるが、王宮は豪華としか言いようのないものである。それだけ搾取は激しかったということであろう。半月型のナポリ湾の岬の先端にはソレントの町がかすみ、沖合にはカプリとイスキアの島が浮かび、背後にはいうまでもなくヴェスヴィオが鎮座するこの風景は確かに比類のないものであるが、ナポリ人の陽気さは異国人支配と無関係ではないのである。&#13;&lt;br&gt;
　しかしこれは単に専制の問題としてはかたずけられないところがある。サン・カルロ劇場自体王宮の一翼にあるものである。スカルラッティ的な王宮オペラを市民オペラに転換したペルゴレージはサン・カルロ劇場の前身で仕事をしている。ペルゴレージこそはモーツァルトの先駆なのである。ここには王宮文化が市民文化をはぐくんだという弁証法がある。&#13;&lt;br&gt;
　予想していなかったことはナポリの王宮では「イディアの身体」あるいは「ヴィコとレオパルディにおける想像と言語」という展示があったことである（７月２１日まで）。giambattista vicoは私が西洋思想に取り組むようになったとき最初に扱った人物である。アルプスの北から南に来るとここには人間が生きているという感じがあるが、それは単に気質の問題ではなく、精神構造上の問題である。デカルト的な理性と情念の分割によって人間は死んでしま、両者を一体化して初めて生命の活動が生まれる。その代表的思想家がvicoだったのであり、私は最初から近代の正統ではなく異端の方に注目していたことになる。もっとも私はナポリ生まれのvicoの方に一方的に軍配を上げるほど幼稚にはなれていない。デカルト的分裂は近代人の運命であり、他方でvico的生命には分裂以前の古代的なところがあるからである。&#13;&lt;br&gt;
　leopardiはあまりぞっとしない悲観詩人などとされていたから私は無縁の存在と思っていた人物である。しかしこの機会に「大地と月の対話」などという妙な文章を読んで、この死神は私にも無縁ではないように思えてきたのである。leopardiはナポリ生まれではなくナポリで死んだだけであるが、その古拙さはまさにvico的つまりナポリ的なものである。結局私はナポリまでやってきてleopardiを発見したと言ってよいであろう。人は時として目的をはっきり意識せずに旅に出るものであり、帰ってからそれが明らかになることがある。私の今回のイタリア行はleopardiを発見するためのものであったようである。&#13;&lt;br&gt;
　このナポリがらみの古拙な分かりにくさはとりもなおさずローマの分かりにくさである。ギリシアはある程度頭で理解できるが、ローマについては何らかの生活体験がなければ理解できない。そのため私は西洋思想を専攻することになって以来何度も何度もローマに足を運び、そのたびごとに頭を振って帰ってきたものである。当初私にはローマは土建国家にしか見えなかったのであるが、そのうちのその支配を単に力ではなく、それを法に基づけようとするエートスに支えられていることがわかってきた。そうしてこのローマの偉業はのちにローマカトリック教会に受け継がれている。このようにしてローマがある程度分かりかけてきたときに、私はもうローマを研究しようなどという気はなくなっていた。偉大なものは享受し感謝しさえすればよいうのである。&#13;&lt;br&gt;
　今回のイタリア行で私は絶えずゲーテを意識していた。思えば私が初めてイタリアにやってきたのは、ゲーテが『イタリア紀行』の書簡を書いていた年代に当たっている。このいつも満足している鈍重な文豪が私には疎遠な存在であったが、今度『イタリア紀行』を読み返して思い当たることが多い。それは向日性などというような外面的なものでなく、自分が抱えていた古典的世界の再興というテーマの源泉を知りたいというやむに已まれむ願望によるものである。そうして１年半に及ぶイタリア滞在中に何を食べていたなどということは一言も触れず、あくまでも対象をとらえようとするその研究心には脱帽するばかりである。&#13;&lt;br&gt;
　私ももうイタリアに来ることはないであろう。そうしてローマを去る朝、わたしもまたカンピドリオの丘に登っている。神の子孫が支配する国などはいつ消滅しても惜しくはないが、私はこの永遠の都が文字通り永久に続くことを願ってきたのである。&#13;&lt;br&gt;
　私がイタリアに滞在中に欧州議会の選挙をやっていた。この議会は立法権でなく意見を言うだけの議会であり、ＥＵの制度的欠陥を象徴している。このために英国の離脱騒動も起こり、またこのために投票率が高まったというのは皮肉である。&#13;&lt;br&gt;
　同じ時期にトランプ大統領が訪日していたようである。イタリアのメディアには報道がなかったようであるが、たまたま見たドイツのwelt紙には「友好のリスク」という記事が出ていた。トランプが来たのならまず持ち出すべきことは日米地位協定の見直しでもあろうが、スモー見物をしていたそうである。おもてなしは外交以前である。&#13;&lt;br&gt;
　さらに日本の首相はトランプ大統領が新天皇が謁見する最初の要人になるように配慮していたようであるが、いうまでもなく天皇の政治利用であろう。新天皇と会見することがさも重要であると思っているとすれば哀れな思想の幼稚さであろう。しかし臣民向上を丸出しの馬鹿げた元号騒ぎなどを見ると、この意識の状態は単に首相だけでなく、マスメディアや国民自身の質を示すものでもあろう。&#13;&lt;br&gt;
　訪日の翌週トランプ大統領は同じような日程でイギリスを訪問している。ここでは日本ではなかったような、差別主義的なトランプを歓迎しないというデモが起こっている。民主主義の後進国と近代民主主義国の母国の差異であろう。&#13;&lt;br&gt;
&#13;&lt;br&gt;
　このたび下記の本を刊行することになった。&#13;&lt;br&gt;
深草化人『天皇制国家の古層』東京図書出版&lt;br&gt;
</description>
    </item>
    <item>
      <title>今年の屑拾い</title>
      <link>https://nambaraca.asablo.jp/blog/2018/12/24/9016957</link>
      <guid>https://nambaraca.asablo.jp/blog/2018/12/24/9016957</guid>
      <pubDate>Mon, 24 Dec 2018 20:50:43 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2018-12-25T11:42:31+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2018-12-24T23:24:33+09:00</dcterms:created>
      <description>　今年の世界はサウジアラビアの皇太子が政府に批判的なジャーナリストを殺害し、塩酸で溶かしたために遺体も出てこないというような世界である。プーチン大統領は満面の笑みでサウジ皇太子と握手していたが、殺人家の連帯であろう。トランプ大統領は武器輸出に差し障りがあるということでサウジ皇太子を批判しないでいる。&#13;&lt;br&gt;
　これらの政治指導者は大体独裁者であり、今日の世界は独裁が顕著になった世界となっている。独裁者が利用するのはポピュリズム（人気取り）であり、これが繁茂していることは知られているとおりである。中国は最初から一党独裁であるが、習主席も流行に後れず任期を延長して独裁化を強めている。野党がないからここでは腐敗追放などの人気取りを自作自演でするようになる。&#13;&lt;br&gt;
　日本国も例外ではない。アベ首相は選挙のたびに増税を延期して人気を取り、増税する場合は増税以上のばらまきをして人気を取る。財政赤字のつけは次の政権に回される。&#13;&lt;br&gt;
　もう一つは外交による人気取りであるが、これは大体失敗している。アベ政権は拉致問題の解決を最優先課題としていたが、これは完全に失敗しているから、とっくの昔に退陣していてしかるべきであろう。だがアベ首相は思想劣弱の代わりに抜け目はなく、失政を政権延命に利用している。拉致問題はアベ政権で解決すると。ロシアとの平和条約もアベ政権で実現したいようである。クリミヤを併合したプーチンがいわゆる北方領土を返還することはないであろうことはさておき、戦後７０年以上経過し平和条約の意味は薄れているのであるが。また憲法改正もアベ政権で実現したいとして政権に恋々としている。野党はしぶとさを見習うべきであろう。もっとも無教養な人物に国憲の基本は変えられないであろうが。&#13;&lt;br&gt;
　外交の人気取りは対米従属という代償を支払っている。その犠牲になっているのが沖縄である。アメリカ軍基地を置いているイタリアやドイツでは基地の監督権はイタリアやドイツにあるが、日本ではアメリカに治外法権を認めているかのようである。プーチンが日本国の米軍基地に対する管理権を疑問視するのは当然であろう。&#13;&lt;br&gt;
　この日本政府は沖縄に対していかなる手段を使っても基地を押し付けようとしている。アメリカには卑屈になり沖縄には傲慢になる日本政府の顔を醜い。しかしこのことに関しては、遠いところには想像力も連帯心も及ばない本土人の「鬼外福内」主義も醜悪である。沖縄問題はすぐれて本土人の鈍感の問題である。&#13;&lt;br&gt;
　対米従属で最低なのは、岸田外相の時代の核拡不散条約への反対である。このアメリカへのおもねりは核の傘のもとにあると思っていることからきているようである。しかしアメリカが日本を守るために核兵器を使うということは１００パーセントありえない。核の傘は幻想であり、核の傘などというものは存在しない。&#13;&lt;br&gt;
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　年の末になって日産会長の逮捕という妙な事件が生じている。有価証券報告書虚偽記載容疑ということであるが、会長が有価証券報告書を直接書くことはあり得ないことであり、社長以下の取締役会が承認しているのであるとすると、虚偽記載があるとしても、まず日産の責任であり、次に日産のガバナンスの問題であろう。&#13;&lt;br&gt;
　ところが東京地検は実体犯でもない形式犯容疑で会長（他一名）だけを逮捕し、何週間も勾留するという常軌を逸した暴走をしている。検察は日本国の勾留期間は国際標準にあるとしているが、これは正しくない。日本国には「再逮捕」という抜け道があり、再逮捕するとリセットになって期間に意味がなくなる。取り調べに弁護士が同席できないなど、日本国の刑事司法は世界水準の周回遅れにある。&#13;&lt;br&gt;
　この件が注目されるのは東京地検は他方で下村元文科相が２０万円以下の政治献金は報告しなくてよいという政治資金規正法の裏道を使ってカケ学園からの献金を報告していないという告発を不起訴にしていることである。日産の有価証券報告書の虚偽記載は判断の分かれるところであるが、政治資金規正法への実質的違反は明瞭である。東京地検の捜査の公正さは疑わしい。&#13;&lt;br&gt;
　ところでカケ学園は経済特区とされることによって土地を無償で与えられ、今治市や愛媛県から約９０億円の助成を受け、ほとんどただ同然で獣医学部を建設している。これは首相への直接要請がなければ考えられないことである。アベ首相は知人に巨額の利益誘導をし、政治を私物化したのであろう。企業を私物化すると逮捕されるが、政治を私物化しても問われない。これが日本国の現実である。カケ獣医学部はアベ政治の置き土産となろう。&#13;&lt;br&gt;
　検察の問題は続く。東京地検は前会長の勾留延長が認められなかった翌日、前会長を特別背任の容疑で三度目の逮捕をしている。特別背任は立件が困難とみられていたものであるが、急きょ別件で逮捕したようなものである。ここには何が何でも捕縛しておこうとする逮捕の恣意性があり、粗暴な野蛮さが見える。&#13;&lt;br&gt;
　この逮捕が注目されるのは、検察はモリトモ事件では財務省の背任の告発に対して操作するふりをしただけで不起訴にしていることと好対照をなしているからである。前会長の損失付け替えの特別背任は疑問の余地があるが、財務省の背任は明瞭である。検察の捜査には恣意性が疑われる。&#13;&lt;br&gt;
　日産事件はおそらく末梢的な理由で前会長を追い落とそうとした日産のプッチであろうが、日産や前会長は問題外のことであり、検察のことだけ触れておくことにする。マスメディアは逮捕されると一夜にして前会長を大悪人に仕立てたようであるが、長期間勾留されるような大犯罪をしたのかどうかは疑わしい。この事件は役人の罠に陥れられたカフカの『審判』を思い出させる。今日の日本国ではだれにでも起こりうることである。&#13;&lt;br&gt;
　検察に問題があることは１年以上前から明らかであったが、マスメディアや刑事法学者を含め国民がぼんやりしている間に、重大な結果をもたらしたと言える。検察の動向からすれば日産事件は起こるべくして起きているのである。この事件は第二の大逆事件を思わせるところがあり、日本の刑事司法の問題を表面化させている。日本の刑事司法は人権無視、官憲本位という点で明治以来変わっていないと言えよう。海外から日本の刑事司法の前近代性を批判されて驚くのはお粗末というものである。&#13;&lt;br&gt;
　日本の刑事司法の問題はマスメディアの問題でもある。一連の事件に関して日本のマスメディアは当局の発表をうのみにし、当否の判断なしにオウム返しをしているようである。この国のマスメディアは当局は正しいという固定観念があるようであり、これは大本営発表の時代と異ならない。チェックする機能がなければマスメディアは広報と同じになる。&#13;&lt;br&gt;
　同時に近年の日本では法律問題が議論できなくなっているようである。モリトモ事件でもごみがあったかどうかというようなことばかりで、それが背任にどうつながるのかというような話は皆無であった。近年のこの国のマスメディアには法律の専門家がいないようであるが、これは専門家の問題ではなく、法的センスの問題である。&#13;&lt;br&gt;
　今日の日本の国政の問題権の一つは法務省ー検察にあると言ってよいのであるが、まさしく法的思考ができなくなっているのである。検察が政治的に独立性を失って信頼できないようなものとなり、検察ファッショと呼べるような現象が現れている場合、問題をチェックするのは最終的には国会の監視である。ところが法律を作る国会が法的領域において議論ができなくなっているようである。モリトモ事件でも主張があるだけで法的な議論がないから、問題を詰めることができない。本来であれば法務大臣や検事総長を呼んで説明を求めるべきところで、野党の国会議員は関係者のヒヤリングなどという見当はずれをしている。これはＦＢＩ長官をよく議会で証言させているアメリカとは違う点である。&#13;&lt;br&gt;
　どうして日本国ではこうなるのかということには様々な背景があり、基本的には法的思考の乏しさがあるであろうが、近年では思考のデジタル化によって思考が幼稚化していることが無視しえない。１＋１程度の思考しか必要でないデジタル化によって法的思考が困難になるのは理解できないことではない。しかしこれは必ずしも世界的現象ではなく、精神疾患も予想される独裁君主トランプ一世に対してアメリカの司法的コントロールはまだ機能しているようである。法は民主制の砦であり、それがつぶれば民主制もない。&#13;&lt;br&gt;
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　このように今日の日本国はかなり独特の在り方をしているようであり、今年はそれが一段と顕著になったようである。女性の社会進出は世界１００位以下になっている。ある医学部長は女性はコミュニケーション力があるから男性に加点したそうであるが、女性の社会的進出を阻んでいるのはこういう没論理の男性のようである。また紛争地域でょりょになったジャーナリストに対して国に迷惑をかけたということで謝罪を求める声があったようであるが、事実の探求より社会の平穏を優先するムラの発想であろう。ニーチェの言う「畜群」化や「末人」現象の増大であろう。こうした傾向の背後に予想されるのやはり天皇制的メンタリティというものであろう。　&#13;&lt;br&gt;
　今年は天皇の退位が正式に決まったが、メンタリティにおいて特徴的なのは元号であろう。元号によって時代区分するというのでは国民の主権性も疑われる。現代の世界で日本列島にしか通用しない元号というものは邪魔以外の何物でもない。問題はしかし元号廃止などの声が全く出てこないという奇怪さである。これはある種の精神的麻痺であり、精神の蛸壺化が生じているということであろう。天皇を戴く国民は判断の主体ではなく、責任を持たない権力のもとで、めでたく過ごしている。&#13;&lt;br&gt;
　もっとも年末には『日本国紀』という本がベストセラーになったようであるが、このナルチズムは蛸壺の動揺でもあろう。蒙昧の歳の市。&lt;br&gt;
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