ゴーン氏と巌窟王(habeas corpus) ― 2020年05月03日 20:24
ゴーン氏が逃走したことは事件の真相が解明できなくなったという点で残念なことである。なぜならゴーン氏の迫害事件は国家犯罪の疑いがあるからである。
マスメディアが報道していたこととは正反対に、この事件は日産の誣告によってでっち上げられた事件を検察が取り上げ加担し、無実の人間を罪に陥れようとした事件とみることができる。
したがって司法が正常であれば99パーセント無罪になるはずのものである。ところがゴーン氏は日本国では起訴されれば99パーセントは有罪になるという恐れから逃走したようである。無論それは逃走の理由にはならない。しかしゴー氏が日本国の刑事司法を信用できず逃走したことは理解できないわけではない。
この事件はゴー氏に権限が集中し、またゴーン氏が日産をルノーに統合しようとしているとみられることによって日産の経営陣の対抗勢力と経済産業省が手を結んでゴーン氏の不正調査をすることによって失脚させようとしたことに始まるようである。しかし明白な不正を発見できず、有価証券報告書に役員報酬を過少記載したというような笑うべき理由で告発し、検察は飛行場で待ち受けて逮捕し、何カ月も拘留するというような異常な捜査を続けていた。有価証券法の過少記載があった場合、それはまずは日産の経理当局の問題であるが、検察は経理担当者と司法取引してゴーン氏の指示によるものとして免責している。これは明らかにこの捜査がゴーン氏を失脚させようとして「ためにした」ものであることを示すものであろう。
しかも過少記載というのは未払い分のようであるが、有価証券報告書は当期主義であって、未払い分などは記載すべきものではなく、少なくとのこれは記載範囲についての解釈の相違にすぎないものである。ゴーン氏がこうしたこじつけられた告発による逮捕の理由を理解できなかったのは当然といえよう。これは人身保護律(habeas corpus)が実質的に機能していないことを示すものである。
日産がゴーン氏の権限集中を問題視することはありうべきことであるが、それはあくまでも経営方針に関する社内問題に過ぎない。問題はゴーン氏を失脚させようとして、検察に訴え、無実の人間を罪に陥れようとしたことであり、これは犯罪的行為に近い。日産はさらに海外送金などに関して特別背任で告発しているが、業務上の送金をあたかも不正送金のように言いがかりをつけたりしているのは、憐れむべき企業というべきであろう。
この事件には経済産業省も関与しているようであるが、日産は同省から役員を受け入れているなど準国策的企業であるから監督官庁の介入があっても不思議ではない。しかしこの事件はアベ政権の経済産業政策の破たんを示すものであると見た方がよいであろう。
いわゆるアホノミックスに成長政策がなかったことは知られるところであり、規制緩和しただけで成長するものでないことは中学生にでもわかることである。成長政策の行き詰まりは、あたかもカジノに成長策を見ているような言い方にも見られる。しかし根本的な問題は経済政策についての展望を持っていなかったことであろう。それは結局は自動車のような在来型の大企業に依存するものであり、まさしくそこに日産が問題の対象になる背景があったと言ってよいであろう。
ゴーン氏がルノーとの経営統合にどの程度積極的であったのかは明らかでないが、経済産業省は統合を進めようとしていると受け取り、その狭い視野の下で一大事と受け取り、ゴーン氏を失脚させることに加担したのであろう。したがってこの事件は一面では経済産業省の劣化を示すものであり、それがとりもなおさずアベ政権の経済政策の破たんともなっているのである。
しかしいかにに日産が卑劣な企業であり、いかに産業経済省がゴーン氏を失脚させようとしたとしても、どうして検察がこの無理な告発を取り上げ、あたかもギャングが大金持ちを拉致するかのように滅茶苦茶な違法捜査をすることになったのかは理解できないことである。経済産業省には検察を自由自在に操るような力はない。検察に野心があることは確かであるが、人道に関する犯罪的行為はそれほど簡単にはできないからである。
つまりこの事件は日産や経済産業省や検察だけでは成立しないものであり、日産と検察を結び付ける媒介項が不可欠である。ゴーン氏は会見で、この事件には日産と検察と「安倍政権の行政官」が関わっているとしていたが、検察を動かしているのは政治であり、そうした媒介力を持ちうるのは「官邸」でしかありえない。
郷原信郎氏は近著で、検察の起訴理由が成り立たないことを明快に整理しているが、ゴーン氏が「大きな力が背景にある。検察は操り人形」であるとしている、かなり重大な発言を聞き逃している。背後の「大きな力」を見なければこの異常な事件は理解できない。「大きな力」とは政治にほかならず、無実の人間を罪に陥れようとしたこの国家犯罪は政治権力の腐敗の現れとみるべきものである。郷原氏の元検察官的な視野の狭さとナイーヴさがあるようであり、このためにこの事件の本質をとらえていないようである。主に日産と検察に注目する郷原氏の著書にはミッシング・リンクがある。
その意味この事件は近年の検察の動向ことにいわゆる森友事件との連関性でとらえるべきものとなろう。森友事件は森友財務省事件であり、この明白な背任事件を検察は不起訴にし、財務省には強制捜査もせず、別件で籠池氏を逮捕し、十カ月も拘留して有罪化している。この事件でも検察の恣意的な捜査が顕著にみられたが、検察のこうした異常な行動は政治との関連なしには考えられない。ゴーン氏迫害事件は森友事件のでたらめな捜査の延長線上にあると考えられる。
森友事件は首相との関連があったために理不尽な結果となっているが、現に官邸から法務省(検察)に圧力をかけている文書も存在する。つまり近年の検察は明らかに鑑定によって牛耳られており、ゴーン氏事件の異常な帰趨にも官邸の圧力なしには考え難い。森友財務省事件では不捜査への圧力であり、ゴーン氏事件では異常捜査への圧力である。森友事件で圧力をかけていた中心人物は経済産業省出身の今井とかいう首相秘書官であったようであるが、ゴーン氏事件での「安倍政権の行政官」もこの人物とみてよいであろう。
ゴーン氏事件の政治関与を裏書きするのはゴーン氏が逃走した後、東京高検の黒川検事長が困難かつ重大な事件の処理のために定年が延長されたことである。困難かつ重大な案件とはゴーン氏事件以外には考えられない。この定年延長はまたゴーン氏迫害事件の検察側の中心人物が黒川検事長であることを示唆するものであろう。検事長の定年延長は検事総長に昇進させることを視野に入れているようであるが、それはこの国家犯罪を予想させる事件に関して首相や官房長官の逮捕を防ぐためであろう。それは官邸がその犯罪性を自覚しているということであろう。
なお公務員の定年延長に関しては検察官には適用しないことになっているが、官邸は法の解釈を変更したとしているようである。しかし検察官に適用しないということは法の趣旨を説明した了解事項であり、「解釈」の問題ではない。法務省が「解釈」を変更したとされているようであるが、法務省自体がこうした違法行為を自主的にすることは考えにくいことであり、明らかに官邸主導によるものであろう。ともかく黒川検事長の定年延長は法を管理する法務省が違法行為をしているという注目すべき事例である。すでに検察の違法行為は看過できないものとなっているが、日本国の法治国家は態をなしていないのである(細かいことであるが、公務員の定年延長は一年未満に限って現職に留めるものであり、定年延長というよりは定年延期である。したがって検事総長への昇進はありえず、そういうことをした場合は二重の法律違反になる)。
こうした逸脱にはここ十年ほどの政治の変容が関わっている。それは権力の集中を求めたいわゆる政治改革の結果であって、それは絶対多数権力を作ることを可能にし、首相の権限を強化することになった。それは上級役人の人事権を握ることによって可能になっているが、その権力核となっているのが「官邸」なのである。だから政治権力の腐敗の中枢が「官邸」になるのは不思議ではないのである。この「官邸」は首相補佐官や秘書官などの選挙で選ばれたわけでもない役人によって取り巻かれ、しかも彼らが政策の実権を握っているようである。かつては聖域視されて不介入になっていた検察も人事権を現実的に握られることになって、「官邸」に従属するようになっている。首相を逮捕するというようなことは今の検察にはありえないことである。
検察が政治に従属し、逮捕や投獄が恣意的になされるようになったということは検察の腐敗と言ってよいであろう。しかし政治の世界がすでに職権乱用という形で腐敗しているのであるから、腐敗は検察に及んでいるということである。政治の腐敗は権力が集中化されたことによるものであり、日本国の場合は絶対権力は絶対的に腐敗するというアクトン卿の公理の見本のようなものである。アホとかアソといった政治屋は腐敗システムの歯車にすぎない。そうして権力が腐敗するときは犯罪に接近することになり、かくして検察の在り方が問題の焦点になってくるのである。
政治はさておき、検察自体の問題が露呈していることは明らかである。まず取り調べに弁護士が同席できないというような、前時代的な状況が存在する。これでは容疑者は丸腰で法律の専門家に対しなければならなくなる。弁護士がいると効果的な供述が得られないとかいうことであるが、取り調べ側本位がよく表れている。
しかし日本の検察の根本的な問題は、検察が政治的に行動していることであろう。本来検察は法だけに照らして粛々と動くべきものであるが、日本国では操作する、しないということは検察首脳部の胸先三寸で決められている。操作は基本的に国策としてなされ、国策捜査、国策非捜査になる。それは検察官の限られた視野と通念によってなされているのである。
これが日本国の司法がカーディ司法(ウエーバー)的なものとなる背景である。カーディ司法とは法規定よりもイスラムの宗教的な価値が優先されるものであるが、その意味では日本国もイスラム国の水準にある。無論日本国では特定の宗教があるわけではないが、日本教とも言えるような固定観念が存在する。それは通俗的通念であるが、国家功利主義と言われてもよいであろう。彼らなりに捉えた有益なものが善ということになる。それは基本的には恣意的判断である。
むろん検察は弁護士とともに司法の一翼に参加しているが、法務省の管理下にあるという点では訴追業務を行う行政の一面を持っている。しかもそれは多分に私的な政治判断によって動いており、公正中立性は保証されていない。なお「正義」ということを言うとすれば、検察は正義それ自体ではありえず、正義それ自体の担い手は裁判官である。
こうした検察であるとすると、検察改革が迫られていることは自明のことである。その根幹は検察が政治的に動いていることにあるから、監督が必要であるということである。検察が政治的に動いている以上、検察は政治の場で追及されなければならないものとなる。検察も説明責任を避けられない。国会の法務委員会では常時検事総長を呼んで捜査、不捜査についての説明を求めなければならないであろう。
しかし検察を管理しているはずの法務省にも問題が存在する。ゴーン氏の逃走は金持ちだからできたことであると言われるであろう。金を持たない場合は、入国管理の収容所で自殺者が続出していたことが示すように、自殺するよりほかないということになろう。収容者が自殺するということはどのようになるかわからないところからする絶望を原因としている。法というものは本来予測可能性を与えるものである。それがどのようになるかわからないということは、とりもなおさず法が支配していないことを意味している。だからゴーン氏迫害事件を問題にする意味があるのである。法務行政には暴力団を登録制(指定暴力団)にするというような常識では考えられないことが少なくない。
更に正義の担い手であるはずである裁判所にも疑問が存在する。最高裁判所はNHKの受信料裁判で、契約は当事者の意思の合致によるとしつつ強制契約(意思の不合致である)を認め自己矛盾を示している。これは法原則を掲げつつ行政に追随したための矛盾である。最高裁においても法の支配はあやふやである。なおこれは放送法の受信契約の規定のあいまいさからくるところがあり、NHKから国民を守る党というのがあるそうであるが、放送法64条の改正を実現すれば一定の意味があったことになるであろう。
その他検察のプロパガンダをしていたマスメディアや日本国の遅れた刑事司法を弁護していた学者などは問題にならない。
このように日本国の法の支配はかなり怪しげなものであり、それには歴史的由来がある。そもそも憲法第九条で戦力を否定しながら、自衛隊を持っている。むろんこれは某首相が言うように自衛隊を明記すれば済むことでなく、現実につじつまを与えるだけであれば、成文憲法など不要になる。憲法を文字とばかり見て現実に目を閉ざすのも非憲法的であることを否定できない。この規定は計画中の国連において安全保障が考えられていたこととセットで考えられるべきものである。つまり単なる戦力の放棄ではなく、国連による安全保障制度に参与せよということなのである。
国際面に関しては北方領土問題なるものがある。しかし日本国はサンフランシスコ平和条約でいわゆる北方領土を放棄している。それがある右翼団体が日本固有の領土だから返還せよと言い出し、いつの間にか政府の見解のようなものになることになっている。この場合不都合は条約は急に忘れるわけである。ロシアが第二次大戦の結果こうなったというもの不勉強であり、ロシアとしては千島はサンフランシスコ平和条約で放棄しているではないかといえば済むことである。もっとも択捉、国後画地島であることは確かであるが、歯舞、色丹は北海道の一部ともみられる。しかしそれは地理学的に決定できることである。
日本における法の不支配という現象は天皇制と密接な関係にある。両者がどのように連関するのかは拙著でも見てもらうほかないが、簡単に言えば天皇制というのは他の君主制的な遺制と異なって規範的な統制原理がないという特色がある。通常であれば君主は天命に従うとか、正義を実現するとか、仁政を行うとかの指導原理があるものであるが、天皇制においては神聖だから従うべきだというだけで、何らの制約原理がなく、あえて言えば神話だけである。
天皇制というものは外から権威を持ってきて、従うべきだから従うべきというもので、法的な統制の要素を持たないものである。そうしたものである以上、その国家において法の支配が弱体になるのは何ら不思議ではない。そうした天皇制の特徴は即位礼の中心にある大嘗祭がよく示している。即位礼の中心は天皇が入浴して采女とベッドインするという破廉恥なものである。こういう天皇制は日本社会の安定化に寄与したが、国民を傍観者的にするものでもある。天皇は日本国の象徴とされているが、日本の恥部でもある。
しかしこうした天皇制を成り立たせているのは倭人以来の国民の性格である。倭人とは従順な人間という意味であるが、倭人は目を上につけて上の様子をうかがって動くメダカ人間でもある。その特性は個人や主体が希薄であるということにあり、ここから日本における人権や法の支配の弱体性も生まれる。このことは例えば歌舞伎においてハラキリが延々と演じられることにも見えるのであり、欧米人にはグロテスクとした思えないであろうが、日本人は何とも思っていないようである。またEU祖国は死刑を廃止しているが、日本国ではなお死刑賛成派が多数である。
この背後には楽観的な国民感情というものがあり、そこでは人権という抽象観念はかえって嫌われる。倭人は古来一般原則ではなく、状況主義的に動いている。お人よしと言われる日本人は、お人よしにもかかわらずというよりは、お人よしであるからこそ笑顔で人権侵害をするのである。しかし法というものは第一に人権を保障するところに出現したものであるから、こうしたところで法の支配が弱体化するのは不思議ではない。
このように日本における法の不支配には長い背景があり、原則でなく、状況によって行動するという習性には消し難いものがある。とすれば単なる制度改革に限界があることは自明であろう。しかしこうした習性がゴーン氏迫害事件をもたらした今となっては、日本人も悔い改めなければならないであろう。しかし背に腹は代えられず、日本人は悔い改めないであろう。そこには再び制度改革の意味も生まれる。この種の議論はブラーメンのように循環する。
ゴーン氏迫害事件に単に法的でないイメージを与えるものとしてはデュマの巌窟王(モンテ・クリスト伯)があげられる。これはもと一等航海士であったモンテ・クリスト伯が船の会計係や恋人を奪おうとした若者の共謀でナポレオンに通じていると告発され失脚し、栄達と保身のために検事代理から投獄された事件である。陰謀の構造はゴーン氏迫害事件と全く同じである。モンテ・クリスト伯は収監者の助力によって死者を入れる袋に入れられて脱獄したが、これもゴーン氏が楽器の箱に入れられて逃走したことと類似している。モンテ・クリスト伯は大金持ちになって自分を陥れた者どもに復讐するというのがそのあらすじである。
このようにモンテ・クリスト伯とゴーン氏迫害事件は極似しているが、モンテ・クリスト伯は自己救済をしている点で違っている。モンテ・クリスト伯の自己救済は時代的に法的正義を求めることが不可能であることによっている。ゴーン氏迫害事件の場合はやや異なっている。
ゴーン氏の逃走はまず不当な支配に対する抵抗権の行使とみられる。ドイツ基本法はナチス支配の教訓として支配権力の不法に対する抵抗権を規定しているが、合法性には限界があるのである。ゴーン氏の場合は不当逮捕、不当拘束等の国家権力による犯罪といってもよいような迫害から逃れようとして逃走したのであろう。その逃亡はしたがって亡命といってよいであろう。
しかしゴーン氏は逃走することによって正義の判定を受けることができなくなっている。日本国における裁判は逃走によって不能化している。しかしまた報復という私的救済もできる時代ではない。こうしてしてゴーン氏はレバノンを出ると逮捕されるという状況で、名誉を回復することも自由を得ることもできなくなっている。このままでは地上には正義はないことになるであろう。
もともと国家権力による犯罪に対して国家権力による正義を求めることは困難なことである。こうした場合考えられることは、国家の司法権が解体しているときには、裁判権は人民に戻るということである。ベトナム戦争についてはラッセル法廷が開かれ、サルトルが裁判長になってアメリカに有罪を宣告している。
しかし今日ではその時代とは異なり、国際刑事裁判所が設けられている。もしゴーン氏が無罪を確信し、人道に関する犯罪の証拠を挙げることができれば、名誉と自由を回復するためには不当逮捕、不当拘束、不当解任、人権侵害、名誉棄損等の政治迫害を理由として国際刑事裁判所に提訴した方がよいであろう。
人道に関する犯罪の容疑の候補者としては日産の西川元社長、東京高検の黒川検事長及び首相官邸の今井秘書官がさしあたり想定されよう。首相自身がどれほど関与したかは確かでないが、アベ首相はマクロン大統領から何度もゴーン氏の処遇に関してくぎを刺されており、関与していないはずはない。いずれにせよ「官邸」の最終責任者は首相である。アベ首相の叔父の佐藤栄作は造船疑獄の際に逮捕状を出されていたが法務大臣の指揮権発動で逮捕をまぬかれている。国際刑事裁判所のハードルは高いが、もし受理されるとすると、甥は捕まる可能性もあろう。
ゴーン氏はこれまで日本の政治家の関与については漠然とした発言しかしていない。彼は別の著書を計画しているようであるが、もし国際刑事裁判所に訴えようとするならば、日本の政治家についてできるだけ詳細に報告しなければならないであろう。
ゴーン氏の逃走と前後してcovid-19が襲ったことは暗示的である。非常事態宣言にもかかわらず日本国では諸外国に比較して感染者が極めて少ない。しかしこれは日本国では検査体制が遅れていることが関わっているようである。日本国の「感染者」は実質的には「発病者」にすぎない。日本国の検査体制は世界水準になっていないために国際比較もできない。感染者の全体像が分かっていないのに場当たりの対応をしていることは、基礎データなしにマクロの戦略を持たずに太平洋戦争をしているようなものである。政府は布マスクを各家庭に配布したそうであるが、太平洋戦争中に敵の侵入に備えて竹やり訓練をしていたことを想起させる。
日本国の検査は症状があるものを対象としているようであるが、未症状者が急死した例があり、感染力が最も大きいのは発症の数日前のようであるから発病者だけを調べたのでは意味が乏しい。未発病者が問題なのであるから、医者に「相談」しなければ検査できないなどというのはナンセンスである。ロサンゼルスのように希望者全員に無量で検査すべきものである。日本国の医療行政は法務行政と同様にピンボケと言わざるを得ない。ここには役人に依存した政治の無能が現れている。資金をばらまくのではなく、必要なところに投入するのが政治というものであろう。
covid-19は環境異変の一例ともみられるものである。ウイルスは国境を越え、一国主義ではどうにもならない。だからアメリカが最大の被害を受けたのは、環境問題を軽視しでたらめな放言をしてきたトランプへの懲罰であろう。ゴーン氏の逃走とcovid-19が同時に起こったことは、でたらめなことをしていた国家に対する天罰であろう。dies iraeである。
covid-19は今秋以降も再来すると予想されており、人間はウイルスと共存していかなければならないであろう。ウイルスは人間によって気ままに酷使された地球が、自己保存のために発熱し放出したものともみられる。より強力なウイルスが出現したら、人類の滅亡にも現実味が生まれる。長期的に見れば、自然の摂理には逆らえず、人間はウイルスとの戦いに負けるであろう。個人だけでなく、人類も終末(最後の審判)を頭に置いていた方がよいであろう。
マスメディアが報道していたこととは正反対に、この事件は日産の誣告によってでっち上げられた事件を検察が取り上げ加担し、無実の人間を罪に陥れようとした事件とみることができる。
したがって司法が正常であれば99パーセント無罪になるはずのものである。ところがゴーン氏は日本国では起訴されれば99パーセントは有罪になるという恐れから逃走したようである。無論それは逃走の理由にはならない。しかしゴー氏が日本国の刑事司法を信用できず逃走したことは理解できないわけではない。
この事件はゴー氏に権限が集中し、またゴーン氏が日産をルノーに統合しようとしているとみられることによって日産の経営陣の対抗勢力と経済産業省が手を結んでゴーン氏の不正調査をすることによって失脚させようとしたことに始まるようである。しかし明白な不正を発見できず、有価証券報告書に役員報酬を過少記載したというような笑うべき理由で告発し、検察は飛行場で待ち受けて逮捕し、何カ月も拘留するというような異常な捜査を続けていた。有価証券法の過少記載があった場合、それはまずは日産の経理当局の問題であるが、検察は経理担当者と司法取引してゴーン氏の指示によるものとして免責している。これは明らかにこの捜査がゴーン氏を失脚させようとして「ためにした」ものであることを示すものであろう。
しかも過少記載というのは未払い分のようであるが、有価証券報告書は当期主義であって、未払い分などは記載すべきものではなく、少なくとのこれは記載範囲についての解釈の相違にすぎないものである。ゴーン氏がこうしたこじつけられた告発による逮捕の理由を理解できなかったのは当然といえよう。これは人身保護律(habeas corpus)が実質的に機能していないことを示すものである。
日産がゴーン氏の権限集中を問題視することはありうべきことであるが、それはあくまでも経営方針に関する社内問題に過ぎない。問題はゴーン氏を失脚させようとして、検察に訴え、無実の人間を罪に陥れようとしたことであり、これは犯罪的行為に近い。日産はさらに海外送金などに関して特別背任で告発しているが、業務上の送金をあたかも不正送金のように言いがかりをつけたりしているのは、憐れむべき企業というべきであろう。
この事件には経済産業省も関与しているようであるが、日産は同省から役員を受け入れているなど準国策的企業であるから監督官庁の介入があっても不思議ではない。しかしこの事件はアベ政権の経済産業政策の破たんを示すものであると見た方がよいであろう。
いわゆるアホノミックスに成長政策がなかったことは知られるところであり、規制緩和しただけで成長するものでないことは中学生にでもわかることである。成長政策の行き詰まりは、あたかもカジノに成長策を見ているような言い方にも見られる。しかし根本的な問題は経済政策についての展望を持っていなかったことであろう。それは結局は自動車のような在来型の大企業に依存するものであり、まさしくそこに日産が問題の対象になる背景があったと言ってよいであろう。
ゴーン氏がルノーとの経営統合にどの程度積極的であったのかは明らかでないが、経済産業省は統合を進めようとしていると受け取り、その狭い視野の下で一大事と受け取り、ゴーン氏を失脚させることに加担したのであろう。したがってこの事件は一面では経済産業省の劣化を示すものであり、それがとりもなおさずアベ政権の経済政策の破たんともなっているのである。
しかしいかにに日産が卑劣な企業であり、いかに産業経済省がゴーン氏を失脚させようとしたとしても、どうして検察がこの無理な告発を取り上げ、あたかもギャングが大金持ちを拉致するかのように滅茶苦茶な違法捜査をすることになったのかは理解できないことである。経済産業省には検察を自由自在に操るような力はない。検察に野心があることは確かであるが、人道に関する犯罪的行為はそれほど簡単にはできないからである。
つまりこの事件は日産や経済産業省や検察だけでは成立しないものであり、日産と検察を結び付ける媒介項が不可欠である。ゴーン氏は会見で、この事件には日産と検察と「安倍政権の行政官」が関わっているとしていたが、検察を動かしているのは政治であり、そうした媒介力を持ちうるのは「官邸」でしかありえない。
郷原信郎氏は近著で、検察の起訴理由が成り立たないことを明快に整理しているが、ゴーン氏が「大きな力が背景にある。検察は操り人形」であるとしている、かなり重大な発言を聞き逃している。背後の「大きな力」を見なければこの異常な事件は理解できない。「大きな力」とは政治にほかならず、無実の人間を罪に陥れようとしたこの国家犯罪は政治権力の腐敗の現れとみるべきものである。郷原氏の元検察官的な視野の狭さとナイーヴさがあるようであり、このためにこの事件の本質をとらえていないようである。主に日産と検察に注目する郷原氏の著書にはミッシング・リンクがある。
その意味この事件は近年の検察の動向ことにいわゆる森友事件との連関性でとらえるべきものとなろう。森友事件は森友財務省事件であり、この明白な背任事件を検察は不起訴にし、財務省には強制捜査もせず、別件で籠池氏を逮捕し、十カ月も拘留して有罪化している。この事件でも検察の恣意的な捜査が顕著にみられたが、検察のこうした異常な行動は政治との関連なしには考えられない。ゴーン氏迫害事件は森友事件のでたらめな捜査の延長線上にあると考えられる。
森友事件は首相との関連があったために理不尽な結果となっているが、現に官邸から法務省(検察)に圧力をかけている文書も存在する。つまり近年の検察は明らかに鑑定によって牛耳られており、ゴーン氏事件の異常な帰趨にも官邸の圧力なしには考え難い。森友財務省事件では不捜査への圧力であり、ゴーン氏事件では異常捜査への圧力である。森友事件で圧力をかけていた中心人物は経済産業省出身の今井とかいう首相秘書官であったようであるが、ゴーン氏事件での「安倍政権の行政官」もこの人物とみてよいであろう。
ゴーン氏事件の政治関与を裏書きするのはゴーン氏が逃走した後、東京高検の黒川検事長が困難かつ重大な事件の処理のために定年が延長されたことである。困難かつ重大な案件とはゴーン氏事件以外には考えられない。この定年延長はまたゴーン氏迫害事件の検察側の中心人物が黒川検事長であることを示唆するものであろう。検事長の定年延長は検事総長に昇進させることを視野に入れているようであるが、それはこの国家犯罪を予想させる事件に関して首相や官房長官の逮捕を防ぐためであろう。それは官邸がその犯罪性を自覚しているということであろう。
なお公務員の定年延長に関しては検察官には適用しないことになっているが、官邸は法の解釈を変更したとしているようである。しかし検察官に適用しないということは法の趣旨を説明した了解事項であり、「解釈」の問題ではない。法務省が「解釈」を変更したとされているようであるが、法務省自体がこうした違法行為を自主的にすることは考えにくいことであり、明らかに官邸主導によるものであろう。ともかく黒川検事長の定年延長は法を管理する法務省が違法行為をしているという注目すべき事例である。すでに検察の違法行為は看過できないものとなっているが、日本国の法治国家は態をなしていないのである(細かいことであるが、公務員の定年延長は一年未満に限って現職に留めるものであり、定年延長というよりは定年延期である。したがって検事総長への昇進はありえず、そういうことをした場合は二重の法律違反になる)。
こうした逸脱にはここ十年ほどの政治の変容が関わっている。それは権力の集中を求めたいわゆる政治改革の結果であって、それは絶対多数権力を作ることを可能にし、首相の権限を強化することになった。それは上級役人の人事権を握ることによって可能になっているが、その権力核となっているのが「官邸」なのである。だから政治権力の腐敗の中枢が「官邸」になるのは不思議ではないのである。この「官邸」は首相補佐官や秘書官などの選挙で選ばれたわけでもない役人によって取り巻かれ、しかも彼らが政策の実権を握っているようである。かつては聖域視されて不介入になっていた検察も人事権を現実的に握られることになって、「官邸」に従属するようになっている。首相を逮捕するというようなことは今の検察にはありえないことである。
検察が政治に従属し、逮捕や投獄が恣意的になされるようになったということは検察の腐敗と言ってよいであろう。しかし政治の世界がすでに職権乱用という形で腐敗しているのであるから、腐敗は検察に及んでいるということである。政治の腐敗は権力が集中化されたことによるものであり、日本国の場合は絶対権力は絶対的に腐敗するというアクトン卿の公理の見本のようなものである。アホとかアソといった政治屋は腐敗システムの歯車にすぎない。そうして権力が腐敗するときは犯罪に接近することになり、かくして検察の在り方が問題の焦点になってくるのである。
政治はさておき、検察自体の問題が露呈していることは明らかである。まず取り調べに弁護士が同席できないというような、前時代的な状況が存在する。これでは容疑者は丸腰で法律の専門家に対しなければならなくなる。弁護士がいると効果的な供述が得られないとかいうことであるが、取り調べ側本位がよく表れている。
しかし日本の検察の根本的な問題は、検察が政治的に行動していることであろう。本来検察は法だけに照らして粛々と動くべきものであるが、日本国では操作する、しないということは検察首脳部の胸先三寸で決められている。操作は基本的に国策としてなされ、国策捜査、国策非捜査になる。それは検察官の限られた視野と通念によってなされているのである。
これが日本国の司法がカーディ司法(ウエーバー)的なものとなる背景である。カーディ司法とは法規定よりもイスラムの宗教的な価値が優先されるものであるが、その意味では日本国もイスラム国の水準にある。無論日本国では特定の宗教があるわけではないが、日本教とも言えるような固定観念が存在する。それは通俗的通念であるが、国家功利主義と言われてもよいであろう。彼らなりに捉えた有益なものが善ということになる。それは基本的には恣意的判断である。
むろん検察は弁護士とともに司法の一翼に参加しているが、法務省の管理下にあるという点では訴追業務を行う行政の一面を持っている。しかもそれは多分に私的な政治判断によって動いており、公正中立性は保証されていない。なお「正義」ということを言うとすれば、検察は正義それ自体ではありえず、正義それ自体の担い手は裁判官である。
こうした検察であるとすると、検察改革が迫られていることは自明のことである。その根幹は検察が政治的に動いていることにあるから、監督が必要であるということである。検察が政治的に動いている以上、検察は政治の場で追及されなければならないものとなる。検察も説明責任を避けられない。国会の法務委員会では常時検事総長を呼んで捜査、不捜査についての説明を求めなければならないであろう。
しかし検察を管理しているはずの法務省にも問題が存在する。ゴーン氏の逃走は金持ちだからできたことであると言われるであろう。金を持たない場合は、入国管理の収容所で自殺者が続出していたことが示すように、自殺するよりほかないということになろう。収容者が自殺するということはどのようになるかわからないところからする絶望を原因としている。法というものは本来予測可能性を与えるものである。それがどのようになるかわからないということは、とりもなおさず法が支配していないことを意味している。だからゴーン氏迫害事件を問題にする意味があるのである。法務行政には暴力団を登録制(指定暴力団)にするというような常識では考えられないことが少なくない。
更に正義の担い手であるはずである裁判所にも疑問が存在する。最高裁判所はNHKの受信料裁判で、契約は当事者の意思の合致によるとしつつ強制契約(意思の不合致である)を認め自己矛盾を示している。これは法原則を掲げつつ行政に追随したための矛盾である。最高裁においても法の支配はあやふやである。なおこれは放送法の受信契約の規定のあいまいさからくるところがあり、NHKから国民を守る党というのがあるそうであるが、放送法64条の改正を実現すれば一定の意味があったことになるであろう。
その他検察のプロパガンダをしていたマスメディアや日本国の遅れた刑事司法を弁護していた学者などは問題にならない。
このように日本国の法の支配はかなり怪しげなものであり、それには歴史的由来がある。そもそも憲法第九条で戦力を否定しながら、自衛隊を持っている。むろんこれは某首相が言うように自衛隊を明記すれば済むことでなく、現実につじつまを与えるだけであれば、成文憲法など不要になる。憲法を文字とばかり見て現実に目を閉ざすのも非憲法的であることを否定できない。この規定は計画中の国連において安全保障が考えられていたこととセットで考えられるべきものである。つまり単なる戦力の放棄ではなく、国連による安全保障制度に参与せよということなのである。
国際面に関しては北方領土問題なるものがある。しかし日本国はサンフランシスコ平和条約でいわゆる北方領土を放棄している。それがある右翼団体が日本固有の領土だから返還せよと言い出し、いつの間にか政府の見解のようなものになることになっている。この場合不都合は条約は急に忘れるわけである。ロシアが第二次大戦の結果こうなったというもの不勉強であり、ロシアとしては千島はサンフランシスコ平和条約で放棄しているではないかといえば済むことである。もっとも択捉、国後画地島であることは確かであるが、歯舞、色丹は北海道の一部ともみられる。しかしそれは地理学的に決定できることである。
日本における法の不支配という現象は天皇制と密接な関係にある。両者がどのように連関するのかは拙著でも見てもらうほかないが、簡単に言えば天皇制というのは他の君主制的な遺制と異なって規範的な統制原理がないという特色がある。通常であれば君主は天命に従うとか、正義を実現するとか、仁政を行うとかの指導原理があるものであるが、天皇制においては神聖だから従うべきだというだけで、何らの制約原理がなく、あえて言えば神話だけである。
天皇制というものは外から権威を持ってきて、従うべきだから従うべきというもので、法的な統制の要素を持たないものである。そうしたものである以上、その国家において法の支配が弱体になるのは何ら不思議ではない。そうした天皇制の特徴は即位礼の中心にある大嘗祭がよく示している。即位礼の中心は天皇が入浴して采女とベッドインするという破廉恥なものである。こういう天皇制は日本社会の安定化に寄与したが、国民を傍観者的にするものでもある。天皇は日本国の象徴とされているが、日本の恥部でもある。
しかしこうした天皇制を成り立たせているのは倭人以来の国民の性格である。倭人とは従順な人間という意味であるが、倭人は目を上につけて上の様子をうかがって動くメダカ人間でもある。その特性は個人や主体が希薄であるということにあり、ここから日本における人権や法の支配の弱体性も生まれる。このことは例えば歌舞伎においてハラキリが延々と演じられることにも見えるのであり、欧米人にはグロテスクとした思えないであろうが、日本人は何とも思っていないようである。またEU祖国は死刑を廃止しているが、日本国ではなお死刑賛成派が多数である。
この背後には楽観的な国民感情というものがあり、そこでは人権という抽象観念はかえって嫌われる。倭人は古来一般原則ではなく、状況主義的に動いている。お人よしと言われる日本人は、お人よしにもかかわらずというよりは、お人よしであるからこそ笑顔で人権侵害をするのである。しかし法というものは第一に人権を保障するところに出現したものであるから、こうしたところで法の支配が弱体化するのは不思議ではない。
このように日本における法の不支配には長い背景があり、原則でなく、状況によって行動するという習性には消し難いものがある。とすれば単なる制度改革に限界があることは自明であろう。しかしこうした習性がゴーン氏迫害事件をもたらした今となっては、日本人も悔い改めなければならないであろう。しかし背に腹は代えられず、日本人は悔い改めないであろう。そこには再び制度改革の意味も生まれる。この種の議論はブラーメンのように循環する。
ゴーン氏迫害事件に単に法的でないイメージを与えるものとしてはデュマの巌窟王(モンテ・クリスト伯)があげられる。これはもと一等航海士であったモンテ・クリスト伯が船の会計係や恋人を奪おうとした若者の共謀でナポレオンに通じていると告発され失脚し、栄達と保身のために検事代理から投獄された事件である。陰謀の構造はゴーン氏迫害事件と全く同じである。モンテ・クリスト伯は収監者の助力によって死者を入れる袋に入れられて脱獄したが、これもゴーン氏が楽器の箱に入れられて逃走したことと類似している。モンテ・クリスト伯は大金持ちになって自分を陥れた者どもに復讐するというのがそのあらすじである。
このようにモンテ・クリスト伯とゴーン氏迫害事件は極似しているが、モンテ・クリスト伯は自己救済をしている点で違っている。モンテ・クリスト伯の自己救済は時代的に法的正義を求めることが不可能であることによっている。ゴーン氏迫害事件の場合はやや異なっている。
ゴーン氏の逃走はまず不当な支配に対する抵抗権の行使とみられる。ドイツ基本法はナチス支配の教訓として支配権力の不法に対する抵抗権を規定しているが、合法性には限界があるのである。ゴーン氏の場合は不当逮捕、不当拘束等の国家権力による犯罪といってもよいような迫害から逃れようとして逃走したのであろう。その逃亡はしたがって亡命といってよいであろう。
しかしゴーン氏は逃走することによって正義の判定を受けることができなくなっている。日本国における裁判は逃走によって不能化している。しかしまた報復という私的救済もできる時代ではない。こうしてしてゴーン氏はレバノンを出ると逮捕されるという状況で、名誉を回復することも自由を得ることもできなくなっている。このままでは地上には正義はないことになるであろう。
もともと国家権力による犯罪に対して国家権力による正義を求めることは困難なことである。こうした場合考えられることは、国家の司法権が解体しているときには、裁判権は人民に戻るということである。ベトナム戦争についてはラッセル法廷が開かれ、サルトルが裁判長になってアメリカに有罪を宣告している。
しかし今日ではその時代とは異なり、国際刑事裁判所が設けられている。もしゴーン氏が無罪を確信し、人道に関する犯罪の証拠を挙げることができれば、名誉と自由を回復するためには不当逮捕、不当拘束、不当解任、人権侵害、名誉棄損等の政治迫害を理由として国際刑事裁判所に提訴した方がよいであろう。
人道に関する犯罪の容疑の候補者としては日産の西川元社長、東京高検の黒川検事長及び首相官邸の今井秘書官がさしあたり想定されよう。首相自身がどれほど関与したかは確かでないが、アベ首相はマクロン大統領から何度もゴーン氏の処遇に関してくぎを刺されており、関与していないはずはない。いずれにせよ「官邸」の最終責任者は首相である。アベ首相の叔父の佐藤栄作は造船疑獄の際に逮捕状を出されていたが法務大臣の指揮権発動で逮捕をまぬかれている。国際刑事裁判所のハードルは高いが、もし受理されるとすると、甥は捕まる可能性もあろう。
ゴーン氏はこれまで日本の政治家の関与については漠然とした発言しかしていない。彼は別の著書を計画しているようであるが、もし国際刑事裁判所に訴えようとするならば、日本の政治家についてできるだけ詳細に報告しなければならないであろう。
ゴーン氏の逃走と前後してcovid-19が襲ったことは暗示的である。非常事態宣言にもかかわらず日本国では諸外国に比較して感染者が極めて少ない。しかしこれは日本国では検査体制が遅れていることが関わっているようである。日本国の「感染者」は実質的には「発病者」にすぎない。日本国の検査体制は世界水準になっていないために国際比較もできない。感染者の全体像が分かっていないのに場当たりの対応をしていることは、基礎データなしにマクロの戦略を持たずに太平洋戦争をしているようなものである。政府は布マスクを各家庭に配布したそうであるが、太平洋戦争中に敵の侵入に備えて竹やり訓練をしていたことを想起させる。
日本国の検査は症状があるものを対象としているようであるが、未症状者が急死した例があり、感染力が最も大きいのは発症の数日前のようであるから発病者だけを調べたのでは意味が乏しい。未発病者が問題なのであるから、医者に「相談」しなければ検査できないなどというのはナンセンスである。ロサンゼルスのように希望者全員に無量で検査すべきものである。日本国の医療行政は法務行政と同様にピンボケと言わざるを得ない。ここには役人に依存した政治の無能が現れている。資金をばらまくのではなく、必要なところに投入するのが政治というものであろう。
covid-19は環境異変の一例ともみられるものである。ウイルスは国境を越え、一国主義ではどうにもならない。だからアメリカが最大の被害を受けたのは、環境問題を軽視しでたらめな放言をしてきたトランプへの懲罰であろう。ゴーン氏の逃走とcovid-19が同時に起こったことは、でたらめなことをしていた国家に対する天罰であろう。dies iraeである。
covid-19は今秋以降も再来すると予想されており、人間はウイルスと共存していかなければならないであろう。ウイルスは人間によって気ままに酷使された地球が、自己保存のために発熱し放出したものともみられる。より強力なウイルスが出現したら、人類の滅亡にも現実味が生まれる。長期的に見れば、自然の摂理には逆らえず、人間はウイルスとの戦いに負けるであろう。個人だけでなく、人類も終末(最後の審判)を頭に置いていた方がよいであろう。
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