ふるさと納税あるいはraccoon dog ― 2024年06月20日 20:14

 私は10歳の時から東京に住んでいるが、東京が故郷と思ったことは全くない。それは出生地でないということだけでなく、東京には単なる地域以上の特性がないためである。弁証法的理性批判の用語を使うと、東京は集列体(セリエ)であって集団ではない。
 東京は都道府県という地方公共団体であるとともに首都であるという二面性を持っている。それはまた首都部分と多摩あるいは武蔵地区に分けられる。この首都部分は地区の集合体であって、東京市といった独自の自治体をなしていない。ここには市民というものはないわけである。
 大阪は都になりたがっていたようであるが、無駄なことであろう。都になると府と市の二重性は解消されるであろうが、市民不在となり、自治性は損なわれる。むしろ東京が大阪や京都のように府制にした方がよいくらいである。
 首都としての東京が集列的なものになるのはその成立に由来
している。今でも東京の住民の多くは里帰りと言われる移動をしている。彼らの根は地方と言われる田舎にあり、東京では浮草の居留民である。こういう滞在者が市民として自治の担い手となるのは困難であろう。トミンの多くが田舎者だから、東京は狸が出る巨大な村なのである。
 確かにリスクの多い都会よりはのどかな田舎の方がよさそうであるが、田舎には共同体規制があり、自由が制限されている。最近の政治学者(?)の中には田舎の寄り合いを民主主義の原型のように早合点するものも無きにしも非ずのようであるが、寄り合いは同調を強いられる場でもあり、不同意は村八分につながる。だから「都市の空気は自由にする」のであり、リベラルでなければ都会ではない。
 他方で昔からの江戸っ子がいるが、その多くは江戸の町人に由来する。江戸町人というのは支配はお上としての役人に任せ私的利益を追求する。町人は市民とは異なって支配の主体とはなろうとしないものであり、政治的自由の圏外にある。こうして東京では内外両面から能動的市民とは無縁だったのである。
 近代になって封建制度は一応は解体されたが、それはほとんど忘れられていた皇帝を持ってくることによって統一を図ろうとするものであり、前近代のプリミティブな受動的な随順という精神傾向を温存し利用するものであった。一方でテンノーを崇め、他方で他人指向で主体の自由を抑止する独特の政治文化が生まれる。西洋的な制度を導入しても、仏作って魂入れずであるから、民主主義や憲法も妙なものになる。
 イニシャティヴを持った能動的な市民が生まれるようになったのは1960年の安保闘争のころからである。しかしそれも社会の保守化が進んだ21世紀になるとともに交代することになる。そうしてそれを体現しているのが首都だったのである。
 この文脈で近年の東京で特徴的なことは東京都教育委員会は君が代を詠わない教員を処分していることであろう。東京都の教員は思想史温情の自由という基本的な人権を奪われている。これは極右的作家の石原知事が始めたことであるが、コイケ知事は教育的見識など持ち得ない下水道局長とかの単なる行政職員を教育長に任命して踏襲している。
 コイケ知事に特徴的なことは慣例となっていた関東大震災に犠牲となった朝鮮人犠牲者にメッセージを送ることを拒否していることであろう。ここにはコイケの歴史認識の程度が現れている。
 さらにコイケは横田基地の地下水汚染の問題について調査を使用ともしていない。これがコイケの都民ラースト主義ということであろう。
 あるいはコロナの問題の際には国が基準を示してもらいたいという受動的な姿勢が顕著であったが、国家優先主義的な発想の結果であろう。地方政府としての自覚という点でと知事は沖縄県知事よりはるかに遅れている。こういう知事の人気があったということはとりもなおさず都民が田舎者であるということにほかならない。
 コイケの反リベラル的な傾向は他の自治体に先駆けてカスハラ条例なるものを導入しようとしていることであろう。カスタマーということが消費者であるならば、それはまず消費者庁が取り上げるべきとであろうが、あえて自治体がそのハラスメントを取り上げるということは、要するに都庁に対する批判を禁止しようということであろう。だが従僕が主人に叱られるのは当然のことであり、公務員は住民の声を聴かなければ適正な判断ができないものである。より問題なのは逆にオフィサー・ハラスメントの方である。すでに「権利の乱用はいけない」という迎合的な声が聞こえるが、都民の由来から見てより当てはまるのは「権利の上に眠るものは権利を失う」という法諺の方である。
 コイケの反リベラルの反動的な国権優先主義はマイナーカードに見るような国民に対する統制管理の強化、中央政府の地方自治体への指示権の拡大、地方自治の破壊という自民党政府の路線と合致している。
 その背景にあるのはやはり東京における市民の受動性であろう。政府よりは財政に余裕があるパイをわけることであればだれにでもできることである。トミンは能動的市民として何かをやらせるのではなく、施政者に何かをやってもらう受動的市民、顧客(クライアント)にすぎないものとなっているようである。それはえさを求めて口を開いている小池の小鯉であろう。
 この反転した世界がどのようにして生じたかということの蛇足としては旧ソ連の権威主義的な建物を想起させる都庁舎があろう。神宮の木を切るよりは都庁舎を解体する方が都民のためである。
 コイケの特徴を集約しているのは学歴詐称のエピソードであろう。コイケはカイロ大学2年の時に進級試験に不合格になって帰国しているから留学しただけのことであろうが、卒業証書なるものがあるという珍現象は興味深い。柿の葉を小判にするのはraccoon dogの得意技であった。

 私は20年ほど前から東京の府中市に住んでいるが、私の叔母は前からここに住んでいる。府中市というところは古い保守的な町である。叔母は合併前の多磨村の小学校のPTA会長をしていた時に、村の当局の頑迷さに業を煮やして村会議員になり、合併して府中市になった時には一基だけ市会議員をやっている。この叔母というのは後に婦人有権者同盟の会長をしていた松浦三知子である。彼女は審議会で一緒になった委員について「最近の東大教授は小心者だね」などという反面で、また「最近の若い会員のものの見方は甘いね」などと言っていたが、これはその後の婦人の位置や労働運動の現状、ひいては日本没落の背景となるものであろう。
 府中市の保守性は政府の問題がある政策に先駆けているところにも見られる。最近ではマイナンバーカードの利用などがそうであるが、一般的に問題なのはそれと健康保険証との一体化の問題であろう。
 マイナンバーカードは任意のものとして導入されたが、それと健康保険証を一体化することになるとすれば、必然的に保険を持たない人間が大量に生まれることになる。おそらく国民の四人に一人は無保険者になるであろう。今の劣化した政治家はこの中学生にもわかる単純な理屈が理解できないものとなっているのである。保険証がなくなることで国民皆保険も崩壊する。
 国民皆保険というのは世界の福祉国家の出発点にあったものである。これが崩壊するということは福祉国家の起点が崩壊するということである。福祉政策を担当している厚生労働省は、例えば当初コロナの検査に二万数千円を設定していたことがしめすように、その認識の遅れには度し難いものがあるが、保険証の廃止によって日本の福祉史上最大のスキャンダルを生むことになろう。
 明らかにマイナンバーと保険証の一体かということは単に技術的な問題があるということではなく、国民皆保険の原理に関することである。無論そこから漏れる人の多くがアナログ的高齢者ということはあるであろう。その意味では保険証の廃止は高齢者の切り捨てになる。社会が困窮化するとまず犠牲になるのは高齢者であり、これは現代のオバステのように見える。
 だが必ずしもそうではない。痴呆のようにいつも薄笑いを浮かべている往生際の悪い現首相は税務担当に数万円の減税を明記するように小細工をしているが、その反面で今の日本国の財政は国家予算の10倍の借金を抱え、プライマリー・バランスがどうのという域を越えて破産の瀬戸際にあることを理解していない。今年だけでも借金の利息10兆円を無駄にどぶに捨てている。10兆円あれば大抵の政策は楽にできるものである。だがこの利息は金利の上昇によって何倍にもなるものであり、その時には予算の何分の一かは利払いに捨てられるという悲惨なことになるであろう。その意味で日本国民の苦難は前途にあるというべきであろう。巨大な債務の重圧のもとにあり、医療保険も出鱈目になろうとしている日本では死ぬことは早い者勝ちなのである。少子化になるはずである。少子化の最大の原因は国のリーダーが劣化して将来が見通せないことにあるのである。
 政府の間違った政策に追随している府中市はいかにも保守市政らしいところであるが、私が移転してきたころは府中市南口の再開発が行われていた。その中核になっていた伊勢丹は十数年後に撤退し、後は雑居ビルのようになっているが、これは市の企画力の問題でもあろう。
 しかし私は時に図書館を利用するくらいしか市には関わりしか持たない。ところがしばらく前に図書館から返却した本に汚れがあるから同じものを本屋で買って弁償してもらいたいという電話がかかってきた。心当たりがなかったので見に行くと表紙の裏に二つほど斑点のようなものが付いていた。こういうものに現物弁償を求めるというのはオフィサー・ハラッスメントの例であろう。もっとも府中市の図書館は運営会社に委託しているようであるから、これは民営化の問題でもあろう。民営化では図書館も貸衣装屋のようになり、本来の市民サービス性が没却されることにもなるのであろう。私はもう図書館は利用しないことにした。
 図書館の民営化は人件費の削減を理由としているようであるが、他方で利用者がるのかわからないようなサッカー場をラグビー場に改修すると言ったことをしているが、これは市長の個人的な関心からくるもののようである。
 最近の府中市で特徴的なことは土建事業で官製談合があったということである。市長は監督責任を取って辞任するのがふさわしいところであるが、今年の市長選挙には再出馬している。この市長は市政の見識などなさそうな幼稚園長であるが、祖父が多磨村の村長をしていたようであるから地元の古い層に属するのであろう。選挙の際にはどこでもやっているコロナの実績の他土建事業にやり残しているものがあるというような理由を挙げていたようである。そこに癒着の土壌もあったわけである。隣の国立市では最近景観上の理由で完成直前のマンションの解体が命じられている。両方の違いは住民意識の低さと高さの差異であろう。
 この選挙で感心しないのは、市長が共産党と生活クラブ以外の自民党や立憲民主党などすべての議員から支持を取り付けていたことであろ。これらの議員は市の予算の説明などして市政と一体化しているが、これでは官製談合の監視などできないだろう。保険証の廃止については少なくない自治体の議会が反対の決議をしているが、府中市では考えられもしないことであろう。
 今年の市長選挙に幻滅して私は自治会を脱退した。市政に感心できないと市政に末端サービスしているような自治会も衰退する。
 
 府中市の官製談合が発覚していら私は東京への税金の支払いを少なくしたいと考え、ふるさと納税を始めた。私が生まれたのは五歳まで住んでいた四国の高松市であるが、ここもそれほど関心するところではない。
 10年ほど前であったか、市が汚水処理場を廃止するにあたって調べたところ、施設の中に私名義の土地があるが、現況は市の施設であるから寄付してほしいという文書が送られてきた。この汚水処理場は市の中心から遠い所にできたものであり、結局市の中心にある施設に一括することになったもののようである。このために国立公園の中にあった浜辺はつぶされてコンクリートの壁ができることになった。住民の声を聴かないおろかな建設であったが、私の生家はこのあたりの地主の家であったから、所々に売れ残った土地があり、それが買収漏れになっていたのであろう。この田舎でしか通用しない厚顔無恥の申し入れを私は断ったのであるが、その後市が時効取得したという通知が届くことになった。それがどうなったかは知らない。
 それより少し前には、私名義の私道を市道にしたいから寄付してほしいという申し出があった。私の先祖は地元を搾取したかもしれないので、私はうっかりと100坪ほどの土地を寄付したことがある。しかし市からは礼状一枚来ていない。こういう所にふるさと納税するのは難しいであろう。
 結局草の根ののどかな田舎が必ずしも都市よりましなわけではなく、両者は両面現象である。70年ほど前に『二十四の瞳』という映画があり、その主題はのどかな田舎にも戦争の影が押し寄せてくるというものである。それは国は悪いが地方はよいというものではなく、地方のあり方が国のあり方の土壌になっているということである。この映画の初めに高峰秀子が、天皇陛下はどこにいるかと聞いているが、テンノーをありがたがる素朴な臣民の従順性が戦争とファシズムの土壌になり、上の権力に盲従する校長がその中間管理者になっているということなのである。
 付け加えると私の生家は今は古民家再生の対象となり「旧南原亭」というカフェになったようである。この家は私の曽祖父の千太郎が小学校長をしていた大正時代に建てたものであり、第二次大戦後の農地改革によって没落して家屋敷も手放されていたものである。すでに故人になった自分の記念のようなものとして再生されたわけである。行政と違って民間は味なこともやるものである。
 私の故郷というとこの父方とともに、高松の南の西植田には母方の家がある。江戸時代に作られたこの家はより古民家にふさわしいものである。私が生まれるのと前後して祖父の鎌野藤太が死去しているが、彼は岡山の犬養毅に師事して民政党の香川県常任幹事をするとともに県会議員もしていた。この時期は民政党から政友会に転向する議員が多く、藤太は孤軍奮闘しており、時の若槻礼次郎首相も激励に来ていたようである。しかし藤太は県議を一期だけでやめ、実業に復帰し高松琴平電鉄の社長などを務めていた。その中核駅の瓦町駅は天満屋デパートが撤退した後は集合ビルのようになっているが、これは地方中都市の一般的光景なのであろう。この藤太の次女が松浦三知子である。これが私の生い立ちの環境であった。
 私の第二の故郷と言えるのは小学校時代を過ごした京都市であり、ここには三条大橋の改修向けにふるさと納税をしている。
 今年はさしずめ地震にあった能登半島が考えられるであろう。しかし影像を見ると家屋や道路の耐震性が不足しており、これは人災の一面がある。能登半島は地震の巣のような所として知られていたのであるから、石川県などの地震対策の遅れが被害と犠牲を大きくしたことを否めない。その点では政府から地方自治の不当な破壊を受けた沖縄の方がより支援にふさわしいであろう。
 しかしふるさと納税は返礼品があるから純粋な寄付とはいいがたい。最近私が寄付したのは「国境なき医師団」である。