終わりの始まり ― 2024年12月30日 20:27

1 歳末雑景
 イシバ首相は自民党には珍しい理屈を言うタイプだが、実践には不慣れのようである。
 彼は新しい政権はできるだけ早く国民の信を問うべきだと思っているようである。しかし国民から選ばれた国会から指名されているのだから、正当性を欠いているわけではない。政権ができるたびに選挙ということになれば始終解散をやらなければならなくなるだろう。
 明示的に解散がありうるのは内閣不信任案が可決した場合の他は憲法第7条の解散があるだけである。後者は国王が諸身分の意見を聞くために議会を開いていた時の国王大権としてあったものである。だから半分王政のイギリスでは解散があるがアメリカの議会には解散は存在しない。ドイツでは解散の乱用が独裁をもたらせた経験から、解散は首相が不信任された場合に限っている。日本でも解散は首相の専権事項であるわけではなく、第7条の解散は休眠事項にした方がよい。どうしても解散したければ与党が内閣不信任案を可決させればよいのである(建設的不信任)。ちなみに国会の召集などはテンノ―が署名すればよいことであり、国会で詔書を読むというのは滑稽な時代錯誤であろう。
 今度の新政権は自民党の裏金事件で前政権が中絶したことによっているが、解散するのであればこの事件の徹底した処理が不可欠であったであろう。しかし首相は中途半端なことしかしなかったのであるから、自民党が大敗したのは当然のことであろう。その結果イシバ政権は最初から自殺的レームダックになったが、熟議せざるを得なくなったのは予期しないハプニングであろう。
 今度の裏金事件は30年前の愚劣ないわゆる政治改革の帰結であるが、一番の問題は政治腐敗は自民党の問題であったにかかわらず
政治一般の改革という間延びした問題にすり替えたことである。腐敗政党は政権から放逐すればよいのである。
 むろん政治に改革の余地は残っている。今問題になっているのは企業献金の問題のようである。企業にも表現の自由があるという奇妙な話があるが、今問題になっているのは表現ではなく、あくまでも献金の問題である。自動車工業会や医師会が多額の献金をしているのは言うまでもなく政策的に配慮してもらうためである。政策は業界を対象にすることはあっても個人を対象にすることはない。だから献金は個人に限定すべきなのである。政治資金規正法がざる法になっていることについて言えば、その第一の要因は何万円以下であれば立件しないという検察の態度である。日本国の検察は権力には甘い反面で、庶民には多くの冤罪を生んでいる。
 問題になっていないようであるが、選挙制度の改正も必要なことである。前のいわゆる政治改革で小選挙区制と比例代表の並立制がとられたが、少ない議席のところを比例代表にしても、集合論的には比例代表の意味を持たない。ドイツのように比例代表で全体の議席を決め、各議席には小選挙区制をとる併用制には一定の意味があるが、並立制は端的に没理論的である。
 今度の総選挙では国民民主党が議席を伸ばしたが、これは自民党を忌避した票が流れたことと課税最低限を引き上げるというアピールが功を奏したということであろう。手取り所得を増やすということは耳あたりはよいが、税の減収はじせうぃ支出の削減をもたらし、それを避けたいとすれば借金を増大させることになる。これまでの放漫財政と「金利がある時代」になって驚いたりする間が抜けた財政運用の結果、世界最悪水準の日本の財政は予算の四分の一は国債の返済と利払いに向けられており。財政破たんは目に見ている。国民個人にとって得のように見えることも財政的には国民に不利になって跳ね返ってくる。課税最低限の引き上げということは大衆迎合、典型的なポピュリズムである。その際SNSが有用であったことはこれからの選挙の問題点を示唆している。
 しかし自民党が大敗しても政権交代は起こっていない。ここには野党の問題が潜在している。そもそも公明党は政策的には野党に近いにもかかわらず与党と野合しており(半自民党)、政権交代を困難にしている。維新も保守改革の党であり(第二自民党)、国民党も元来が保守的な党である(第三自民党)。野党の多くが保守的であるから、立民党はよほど野党協調をうまくやらなければならない。しかしこういう機会を逃したのでは、立民党が政権を取るのは困難であろう。
 日本の政党が自民党化する背景の一つに自民党が国民政党であると僭称していることがある。フランス革命のときに「国民」とは第三身分であると宣言されていたが、その意味で自民党は国民ではない。自民党は既得権益の有産者政党だからである。だからそれは当然に保守政党になる。その他は概して無産者政党であるが、男女間に中間地帯があるように、有産者と無産者の違いは截然としたものではなく、境界は流動的である。
 こうした保守的な政党構造のもとでは、自民党が国民政党と仮構することも可能になる。しかしその背景には国民自体の保守性があるであろう。自民党と国民との関係は、夫が不倫しても離縁できない妻のようなところがあり、夫を取り替えること、つまり政権を取り替えることをせず、せいぜいお灸をすえたり、多少すねたりするだけである。これは韓国とは大変な違いである。
 韓国では多くの大統領が退任後逮捕されたり投獄されたり、政権の交代は日常茶飯事である。韓国には瞬間湯沸かし器のように不安定なところがあるが、民主的という点では韓国の方がそうである。日本は外見的には安定しているが、その実態は停滞である。注目されることは、こうした韓国は一人当たりの国民所得では日本より上になったことである。朝鮮半島からやってきた権威(?)をありがたり、個人の自由を抑止する日本国は、個人の自由を活性化する国に負けるのである。大勢順応のこの従順システムはすでに行き詰まっている。
 今年のノーベル経済学賞を受賞したアメリカの経済学者は、国の衰退は経済だけでなく法治主義が徹底しているかどうかということが関k令しているとしている。このことは大統領の犯罪をふい門にしようとするアメリカというよりも日本国に当てはまるであろう。その最たる例は日産のゴーン氏事件である。
 ゴーン氏自身やや思い違いをしているようであるが、この事件では人質司法というようなことは付帯的なことであり、核心ゴーン氏がはルノーと経営統合しようとしたという不確かな情報をもとに、偏狭な経済ナショナリズムで、日産、経済産業省、検察が連携して、役員報酬の過少表記という笑うべき理由を挙げて、ゴーン氏を政策的不当逮捕、拘束し、失脚させた国家犯罪だという所にある。これはあたかも買収交渉をしていたUSスティールの会長を逮捕するようなものである。こういうことをしている国家が衰亡していくのは当然のことである。日本国がなおかつ法治国家であるというのであれば、特別検察官を任命して事件を徹底的に調査すべきなのである。ゴーン氏も政治的迫害を受けたとして国際司法裁判所などに救済を求めるべきであろう。
 
2 国民番号
 被統治者の側では日本人には国民番号(マイナンバー)が与えられて管理されている。今年はこれを健康保健証に一体化して健康保険証をなくすとされた年である。ここには基本的な間違いがある。マイナンバーは任意的なものとされているのに対して、国民皆保険を前提にする限り、健康保険証は必須のものだからである。任意的なものと必須なものは一体化できない。無理にそうしようとするならば、健康保険証が任意的なものとなることになる。マイナンバー保険証を持たない国民の四分の一は無保険者になる。保険証と同じような資格証明書を発行するということであるが、保険証を継続していれば済むことであり、無駄なことである。そして資格証明書も有効期間は5年とされているから、5年後には無保険者になることは同じである。日本国はオバマケアが廃止晴れて再び無保険者が増えようとしているアメリカと同じようになろうとしているのである。
 国民の健康を守るということは政府の基本的な任務であるが、国民皆保険の崩壊をもたらしうるこの変化が、デジタル化という名目でなされようとしていることは注目されることである。デジタル化は手段であって目的ではないが、デジタル後進国では往々にしてデジタル化自体が目的化して暴走することになる。そもそも保険証の廃止がどのようにして決定されたのかも不明である。コーノとかいう世襲三代目のボンボン大臣が行ったことであるとも言われるが、アリストテレスは政治家の要件として思慮分別(フロネーシス)ということを挙げていたが、思慮分別は世襲できるものではない。この言われていることが正しければ、保険証の存廃は厚生労働省ではなくデジタル庁が決めるということになりかねないであろう。健康保険という基本的な政策決定過程が明らかでないということは、軍事費の大幅な拡大の目的が不明で金額だけが閣議で一方的に決められたことと同じである。基本的政策決定が民主主義の原則から離れている。
 健康保険のこうしたあり方は75歳以上の人間を「後期高齢者」とする用語にも現れている。この用語は75歳以上のものはできるだけ早く死んでほしいという含意を持つであろう。人間の尊厳にはふさわしくないが、人間を管理対象物とする役所の本音を示すものであろう。こうした後期高齢者の扱い方は、他方での少子高齢化のしわ寄せでもある。高齢者の保険料や自己負担は増大する一方であるから、後期高齢者健康保険は脱退した方がよいということにもなろう。日本では労働人口を増やしたい一方で、非生産的な後期高齢者の福祉は削減されることになる。だがこのシステムでは労働者もやがてポイ捨てになる。かつて福祉国家はゆりかごから墓場までと言われたものxであるが、日本国ではベビーカーから無縁仏へであろう。この変容には貧すれば鈍するという面があるが、いずれにせよ日本国は再び姨捨国家になろうとしているのである。

3 公共性の崩壊
 今年のと知事選挙では、はっきりした政策もなしにただ人を動かそうとするだけの扇動家がSNSを使用して大量得票をしたり、売名目的の魑魅魍魎のような泡まつ候補が乱立するという異常が見られたが、それが極端化して由々しい警告を出しているのは兵庫県の知事選挙である。
 この知事には在任中から役得を要求するとか威圧的態度をとるとかの大したことのない欠点があったようであるが、それが報道各社への告発によって表面化することになる。
 後に告発者はこれを公益通報とすることになったが、知事は公益通報に当たらないとしたようである。まず第一に告発された知事がその判断に当たることは利益相反であり、不適切である。さらに知事は公益通報の判断がなされ前に職員のパソコンを調べたり犯人探しをして懲戒処分をしているが、これは告発した職員に対する単なる報復行為であり、また公益通報者保護の趣旨を理解しないものであろう。その結果として告発した職員が自殺したことに道義的責任はないかと問われた知事は「道義的責任の意味が分からない」と答えていることは、この知事には良識面で欠けるところがあることを示唆するものであろう。のみならずこの事例はハラスメントによる重大な人権侵害の疑い、刑事事件の可能性があり、遺族には補償請求が考えられるであろう。
 この知事も東大法学部の出身の役人であったようであるが、中央省庁のトップになるだけの能力がないものは国会議員になったり、地方の自治体の首長になったりして小権力をふるいたがる者がいる。東大法学部には目的合理性だけしか頭になく価値合理性には盲目な田舎秀才がいたものである。この知事にはまた単細胞的に不適切なことでもまじめかつ熱心に追求しようとする維新的な要素もあったようである。
 しかし県会議員全員から不信任された人物が再当選したということには、この選挙には異常な力が働いたことを予想させる。県庁でいかがわしいことをする人物は選挙でもいかがわしい行動をする。それは知事が広告会社に選挙運動を依頼したことによっている。選挙に広告会社を利用することになると、候補者や政策は売られるべき商品となり、選挙自体がコマーシャル化されることになる。
 この広告会社は大量のインフルエンサー等を導入してSNSを発信し、その印象操作によって酷薄・狭量が予想され人格的に問題がありそうな知事が「善人」であり、告発の犠牲者であるという真逆のイメージが出来上がったようである。こうしてこの知事を当選させた兵庫県民が、職員の人権よりも自分たちの利益を優先させたことも無視できない。
 この選挙では対立候補の支援団体のSNSアカウントが虚偽の発信をしたという偽りの申し立てによって停止されるという重大な選挙妨害が生じている。広告会社は「広報全般」を請け負っているから、妨害活動も請け負ったのであろう。この広告会社は公職選挙法違反の容疑で告発されているから、徹底的な解明がなされることが望ましい。
 SNSの利用は一見すると直接民主主義の意味があるように見える。その背後には在来のマス・メディアの後退があるようである。受信料を徴収するという特権的な位置にあるNHKは受信契約の意味も理解せずにすぐに裁判に訴えるという権力的は態度を取り、朝日新聞などの大新聞は体制化してお座なりな決まり文句を流しているから相手にされなくなったのは不思議ではない。
 しかしSNSの情報は在来のマス・メディアのような真偽のチェックきのうはないから偽情報が自由に流通し拡散することになる。さらにSNSは私的言説の発信であり、それを統合する機能は存在しないから、社会的意思形成に寄与するというよりは、同じ意見の組織化に向かい、合意というよりは分断に作用する。SNSというミ二・メディアの特徴は商品広告と同様に好悪反応・反射的であるから、草の根では政治に求められている熟議とは反対の動きがあることになる。こうして見るとSNSは民主政治に寄与するよりの衆愚政治に直結すると言った方が当てはまっている。
 この現象は一般化すればSNSによる公共性の崩壊ということである。半世紀前にユルゲン・ハーバーマスは18世紀ころに生まれた市民の意見交換から生まれた公共圏の機能を公共性と呼んでいるが、これは市民の討議による意思形成という意味で民主主義の基底にある機能である。彼によるとこの公共圏は権力(政府広報)と資本(広告産業)の登場によってゆがめられるようになり、それを公共性の構造転換と呼んでいる。この転換はSNSの登場によって崩壊に瀕するようになったと言ってよい。
 選挙の場では従来の対話型の運動はアナログ的なものであって、有権者は候補者を丸ごと把握できるところがあった。デジタルなSNSは身体性を持たないものであって、私的言説が直ちに政治の場を覆うことになる。あるいは公共空間が私的空間になり、政治機能は失われる。ここには討議的な機能がないだけでなく、容易に商業化と結びつくことになる。こうしたメカニズムがファシズムにもつながることは予想されるところである。
 アドルノ等はこうした広告機能を「大衆欺瞞としての啓蒙」と呼び、文化産業はそれが当てはめようとする型通りの人間を再生産すると言っている。この消費者たちの強制された模倣の中では、個人性はほとんど[白く輝く歯]以外のものを意味しない(『啓蒙の弁証法』)。
 知事選挙で兵庫県民はこの「広告の勝利」に屈したのであろう。止k氏兵庫県民が特に愚かということはありえないであろうから、これは付和雷同を得意とする日本人一般について言えることであろう。
 このようにSNSは厄介な問題を抱えており、何らかの規制も考えざるを得ないことになる。オーストラリアでは16歳以下のSNSの利用を禁止したが、マッカーサーは日本人は13歳であるとしていたから、その伝では日本人には全面禁止も考えられよう。今年のルーマニアの大統領選挙ではSNSが投票を誘導したとして憲法裁判所が無効であるとしていた。ルーマニアの基準では兵庫県知事選挙は完全に無効であろう。もっとも選挙時のSNSの使用制限自体困難な問題である。だが少なくとも選挙運動に広告会社を利用することは禁止されるべきものである。政治に関心がない若者が詰まらない公告に誘導されていることに関しては、無関心なものに無理に投票させることはなく、したがって選挙権は自動的に与えられるのではなく、政治に関心があるものだけが登録するというアメリカの登録制が一案であろう。

4 homo sapiensの終焉?
 デジタル技術の精華であるSNSは人間生活を便利(?)にするとともに、脅かすようにもなっている。通信技術の進化は犯罪技術の進化ともなり、詐欺の増大はその一面でもあろう。しかし根本的にはデジタル的知性は従来の人間の知性のあり方そのものに変容を与えつつあると言えよう。二進法に立脚するデジタル技術が人間を単細胞化していくことは容易に見通されるところであり、その電算的知識は人工知能(AI)も生み出すが、それはまずは在来の人間の智慧(フロネーシス)を放逐するという性格を持っている。かつてルソーは際限なく進展する人間の文明のあり方に不満を持ち、それを人間の「完成能力」というあまりぴったりしない呼び方でしている。確かに人間以外の動物は単純再生産をするだけであるが、人間だけは拡大再生産し、そのあり方を変容させている。ルソーはそれを患いであるとして「自然」に帰れと叫んだわけである。しかし歴史は不可逆的であり、人間の「自然」も実は明らかでない。
 ルソーは文明を人間の「自然」に反するとしたが、それは人間の本性から離れることであったと言ってよい。後にマルクスはこの人間の本性から離れることを「疎外」であると表現することになった。彼によると近代において人間を疎外させるのへ「資本」であるとし、人間の資本の論理からの解放を唱えることになった。デジタル技術の時代に在っては、この資本は「情報」であると言ってよく、あるいは情報が新しい資本になったと言えよう。そうしてデジタル時代になって人間は多分に情報に従属し、それはまたデジタル知性に従属することであると言ってもよい。かつて人間を特徴づけていた「知」が外部知性に従属するということは、人間が人間でなくなること、人間の自己疎外の完成であろう。
 それを端的に示すのは人工知能であり、人間は幾分人工知能に従属するようになっている。人工知能は今のところ従来の知識の集合体であって、創造能力はないとみなされているようである。しかしそれは反面で人工知能が確実なもので、創造力は誤差にすぎないという見方につながるものである。つまり人工知能はかつてつかみどころのない弁証法に対して実証主義が主張していたことと通じるものである。そうなると人工知能が科学的なものであり、それ以外の考え方は単なる主観の幻想にすぎないということになるであろう。もしこうした時代が来るとすれば従来の人間の定義は成り立たなくなり、ユートピア=デストピアの素晴らしい新世界も生まれるであろう。それにどう対処するかということはここのテーマではない。