老人と本2022年12月30日 20:54

 内閣はウクライナ戦争に便乗して軍事費をNATOなみにGNPの2パーセントにすることにしたそうである。NATOとは憲法的前提が違っていることを忘れている。何に使うのか不明で金額だけだから馬鹿のような話である。御用有識者会議に諮問させて国会をバイパスしているのは国葬の場合と同じである。こういう決定は内閣がつぶれたら反故になるまでのことである。単細胞内閣はつぶれることが望ましい。
 それに関連して内閣は敵基地攻撃をすることにしたそうである。「敵」というのはすでに戦争を前提にした用語であり、戦争を放棄した国にさぞふさわしいことであろう。かつて真珠湾を攻撃した軍人は攻撃した後どうなるかを考えることができていないが、今の政治家は攻撃後どうなるかを考えることもないのであろう。敵基地を攻撃するということはパンドラの箱を開けるようなものであり、大戦争の開始であり、確実に核弾頭が落ちるであろう。認知症的国家は消滅がふさわしい。
今年のワールド・カップのあったカタールは人権抑圧が問題になっており、ドイツ・チームは抗議の意思表示をしていたが、日本のサポーターはそんなことには無関心で競技場の掃除をしていた。身の回りのミクロのことには細かな気を使うけれども、人権や法などのマクロのことには盲目、鈍感で出鱈目な日本人の根本的は国民性が極めて鮮やかに照射されている。今の首相は先天的浅薄性(判断力と人事力に欠陥がある)のようであるが、浅薄なハト派は浅薄なタカ派になるものである。国民はさておき、政治家がここまで劣化すると年中相手にしてもつまらないから、閑話休題

 人類は最初から本を読む生物ではなかったようである。言語は早くから阿使用していたであろうが、紙の本の歴史はせいぜい2000年のことである。これによって人間の歴史は急激に変化したが、近年はその歴史にも転換が生まれている。WEB化の進展は紙の本を放逐しかかっており、将来は紙の本は美術書などに限定されることにもなろう。
 この外形の変化は単にツールの変化だけの問題ではない。本というものには行間を読む機能があったが、WEBの情報は記号だけである。このことはすでに本の方にも影響を与えており、本自体が情報化している。となると利便性の点で紙の本は太刀打ちできないことになるであろう。
 このメディアの変化は人間の変質をもたらさざるを得ない。今でも月に3冊の本を読んだほうが良いというようなことが言われるが、それはすでに情報化されているような本であろう。私は学生時代にヘーゲルの『精神現象学』を一日に3ページしか読めず、全体を読むのに一年以上かかっているという経験をしている。私が哲学者を自称する著者のものがいかさまかどうかを判断することができるようになったのは、ひとえにヘーゲルに取り組んでいたからであるが、今の若い人にはそういう機会がないのであろう。
 大学に勤務していたころは職業的に本を読んでおり、蔵書の一万冊は超えていたであろうが、退職すると同時にほとんど処分し、今では千冊も残っていない。まだあるのはプラトン全集、アリストテレス全集、ヘーゲル全集、サルトル全集などでである。これらはもう読むこともないのであるが、自分の一部のようなもので処分できていない。新刊書というものはほとんどない。これは書評などで絶賛されているような本はつまらないものであったという経験からのことである。新しく買ったものはほとんどが古書である。
 退職後習慣的に読んでいたものはまずアドルノの文庫本のようなものである。それも社会哲学のようなものではなく主に音楽評論のようなものである。マーラーの本では楽譜の議論が多いので楽譜を読むようになっている。それが終わり『碧巌録』を読もうとしたが、これは朝比奈宗源の旧文庫版で字が小さすぎて読めないから、新しくワイド版というものを取り寄せることになった。
 しかしアームチェアばかりで読んでいると背中が痛くなり、一日に三十分は机に座るようになった。机では文庫本は具合が悪いから大きい本を求めるようになる。私はしばらく前からユトリロに関心を持っており、新しいカタログの最初の巻だけが出ていたのでそれを取り寄せた。これは4万円くらいのものであり、今私が持っている一番高い本である。しかしこれは三十分くらいで一通り見ることができてしまう。
 そこでバルザック全集20数巻をとりだすことになった。マルクスは資本論が終わったらバルザックの注解をしたと言っていたようであるが、
こういう小説はすぐに読めてしまうものである。次にこれまであまり読んでいなかった芥川龍之介を読むことにした。最近は厚本の個人全集は不人気のようであり12巻が2000円であった。しかし芥川は同工異曲のコントであり、『河童』や『或る阿呆の一生』などは気の毒なほどに哲学的能力が欠けている。
 次いで私は何を思ったのか大般若経600巻を取り寄せることにした。600巻といっても昔の軸巻にしてのことであり、印刷本では六冊に収まっている。しかしこの経典も語句を変えただけの同じ文句の繰り返しが多いものであり、朗読向きのものであり、読むことには向いていない。そこで私は中国の仏家が華厳経に亊亊無碍法界という解釈をしているのに興味を持っていたので華厳経を読むことにし、これは終わりまで行っている。
それと並んで中国仏家と同時代人の『蘇東坡全詩集』を読みだした。六巻2700首あるが、他に読むものがないので3回読むことになった。 
その間数年前にナポリでレオパルディを再発見することになった。レオパルディの『カンティ』は悲劇的なものが多いが、道徳的対話篇『モラーリ』には滑稽なものもあり、両者がどのようにつながるのか不審があったが、ノート(Zibaldone)にそのカギがあることが分かったのである。私はイタリア語に不自由のため英訳版を入手したが、この膨大なノートは2000ページを超えるけれども、聖書のような薄い紙に印刷されているので一冊に収まっている。彼は独学であったが、23歳のころにはいっぱしの哲学者のような議論をしている。人間は幸福を求め、失われると悲観的になるというレオパルディの哲学はスピノザ主義のようであり、1800年ころにはゲーテなどスピノザの愛好者が多かったようである。レオパルディの場合は幸福というのは自然的なものであり、理性は無力と考えている。理性も自然に属するという点でこの説には弱点がある。日本ではスピノザ主義の本性はあまり理解されていないようであるが、スピノティズムの本質は主体なき実体であり、その哲学的欠陥は明らかであるが、20世紀末の反主体主義のポストモダン主義のよりどころとなったものである。レオパルディの欠陥もすぐに気が付くことであるが、彼の面白いところはそういう結論ではなく、ギリシャ語とラテン語とイタリア語の差異などについてのこまごまとした詮索にある。内容を読むのではなく、議論の仕方を読むというのは私も進歩したものである。
 レオパルディを300ページほど読んだところで90歳になるドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスが「もう一つの哲学史」(Auch eine Geschichte der Philosophie)という1700ページの大著を出版した。私がフランクフルトのハーバーマスのゼミナールに出入りしていたのはもう40年も前のことである。彼は私にとっては師匠というよりは大先輩のようなものであるが、こういうものが出てくると読まざるを得ない。といってもハーバーマスの四角四面の議論はあまり面白いものではなく、あまり期待してもいなかったものである。彼はかなりのbookmakerであり30冊以上の著作があり、そのほとんどは持っていたのであるが、手元には数冊しか残っていない。
 この第一巻は「信と知の西洋的布置」と副題されているが、これはハーバーマスにとってはアイロニカルなことである。というのも彼の仕事は独断性を排した哲学ということで、形而上学以後的なものを目指して五tからである。その場合信というような形而上学的なものはコミュニケーションによってのみ妥当性を持つものとされる。しかしコミュニケーションというものは認識原理であって実在原理ではない。ハーバーマスが時として両者を混同することには実践的な意味があったが、それが信の特性をとらえたものであるかどうかは疑問のところがあり、したがって改めて信と知の関係を哲学史的に問題にしなければならなくなっているのは彼にとって不本意なことでもある。
 ハーバーマスはその哲学史的考察をヤスパース以来の中国、インド、イスラエル及びギリシアのいわゆる枢軸の時代あたりから始めている。儒教や仏教を勉強しているのは彼らしいところであるが、その時代の傾向を神話の宗教への知的合理化としてとらえているのはそれ以上に特色的なことである。ハーバーマスは結局西洋の信というものは知と矛盾しない限度において成立するものであり、これは単なる理性の限界内の宗教というカントの視点に近づくものであろう。
 こうした信と知についての調停的な見方は、同様に最晩年には「信と知」という論文を書いていたデリダが両者が紙の両面のように相反的に併存するというようなクリティカルな関係にあるとする議論とはやはり異質なものである。ハーバーマスは旧師アドルノの『否定弁証法』を自己の中に完全にカプセル化された否定というように批判的な言い方をしていることが示すように、彼の弁証法がやはり調停的なものであることを明らかにしている。
 第二巻は「理性的自由」と副題されているが、自由は反理性的なものではないという含意がある。フランクフルトであるからマルクス主義が問題になるであろうが、この本ではマルクスに関しては「生産活動的、政治的、行動的な主体の歴史的に位置づけられた自由」というテーマにおいて論じられている。この扱い方もマルクス主義の合理化的把握という性格があり、博物館的把握ともいえよう。しかし日本国に目を転じるならば、自称哲学者が構造と自由を媒介できないために不毛で夢想的な社会主義のようなものを唱えていた例もあるあるから、ハーバーマスの所説は教科書的な意味は持ちうるであろう。
 ハーバーマスのこの本は実質的には政治思想史のようなものであり、これは私が大学時代に扱っていたものであるから、特に新しいものはない。もっとも私は思想を詮索するだけの思想史というものをあまり好んでいなかったのであり、ことに流行思想としての現代思想のようなものを嫌悪していたのであるが、それはハーバーマスのような哲学史的バックを背景に持っていたからである。
 ハーバーマスの本をざっと読んだ頃にサルトルの『家の馬鹿息子』の最終巻が刊行された。私が学生時代に鍛えられたのは丸山眞男の演習とサルトルの本であったから人文書院から出ていたサルトル全集はほとんど全巻を読んでいたが、『家の馬鹿息子』は読んでいなかったものである。というのも私はフローベルには関心を持っておらず、この本はいかにも冗漫でサルトルの老化を感じさせるようなものであったからである。最終巻を読むことにしたのは、この間では十九世紀中葉のフランス社会のイデオロギー的考察がされており、そこには多少興味を引くものがあったからである。この巻は2万円以上もしたが読者の数が少なくなっているようであり、おびただしい誤植があったのはおのずから出版界の衰退を物語るものなのであろう。
 サルトルは十九世紀フランスのロマン主義以後の作家の文学的状況に関してイデオロギー的考察をしている。この場合イデオロギーは主に支配階級の意識形態を意味している。サルトルによれば支配階級は自分たちが維持しようとしている秩序が人間と事物の自然にふさわしいものと思えるように自分についての虚偽意識が与えられる。しかしこのイデオロギーは単に階級的利害の反映ではなく、あるいはそれに対立するものでもある。だからイデオロギーは相互の対立あるいは「示差」によってのみ規定しあう言葉の関係の集合である。この示差作用は示差の全体性によって構成される土台の上に形式として現れる一対の相互的規定であり、双代から浮かび上がる対になった形式との差異によって構成されるものとして確定されることによってのみ、他の対と示差化されうる。つまりイデオロギーとは、母体と作業図式の非実体的な偽の全体性である。
 こういう文章は今日ではほとんど理解されないものとなっているであろうが、こういう虚偽意識としてのイデオロギーはすべての階級的個人に共通のものであり、彼らが自分の階級をありのままに意識することの不可能性から生まれるものであるという指摘は、おそらく基本的な妥当性を持つものであろう。
 サルトルはブルジョアとしてのフローベールはブルジョアでありつつそれを否定することによって、自己を正当化するためには神経症にならざるを得ないとしているが、その妥当性については留保することにしよう。一般的には十九世紀中葉のブルジョアは、その支配が絶対的なものでないために軽侮する貴族階級や皇帝に接近することになるのであり、これが第二帝政時代のいわゆるボナパルティズムである。サルトルはボナパルティズムにかなり説得的な分析をしているのであるが、いかんせん私はフローベールには何の関心もなく、次の世代に当たるプルーストがブルジョアでありながら没落貴族に接近するスノッブ根性を示すイデオロギー的分析を残していないのは残念に思うだけである。おそらくプルーストはブルジョアを否定せず、したがって貴族階級に接近してもそれは癒着であり、分裂症に陥る必要はなかったのであろう。
 サルトルを読み終わって再びレオパルディに戻ることになった。ほかに読むものが見当たらないから死ぬまでに終わりまで行ってしまう恐れがあり、一日2ページだけ毎日ではなく読むことにしている。読むものがないと自分で読むものを書くということにもなり、私は「深草断章」という本を出版することになった。しかしほとんど人の読まないようなものを読む人間の本を読む人はまずないであろう。考えてみるならば、自分の本などは読みたくないものである。こうして私は誰も読まない本という本の自己否定に行くつくことになったわけである。

 今年の初めにはイタリアの女優モニカ・ヴィッティが死去している。ヴィっティは映画史上でも屈指の美女であったが、レイプされる役が多く、60くらいになってアダルト映画に出たりしている。長くアルツハイマー病と認知症を患っていたようであるが、トラウマからの脱出を図ったのであろう。モニカはアントニオーニと映画の犠牲者といえよう。共演したことのあるマストロヤンニの葬儀は国葬並みのものであったが、彼女はひっそりと葬られたようである。冥福を祈る。
 年末には例によって庄司紗矢香を聞いている。そのすぐ前にモーツァルトのソナタのディスクを出していた。前作のベートーベンの協奏曲は音が出ていなかったが、今度のはアルノンクール張りに突然大きな音を出している。ハスキルとグリュミオーを聞いていたものにとってはロロコ調からの脱皮といえよう。それは良いのだが、ヴァイオリンのオブリガート付きのピアノソナタとも言われるモーツァルトのソナタはヴァイオリンの真価を発揮するには難しいものであろう。庄司にはライトクラシックだけでなく、去年スペインの春の音楽祭でやっていたシューマンの協奏曲や、音源は知らないがちょっと耳にしたリゲティのコンチェルトなどをリリースしてもらいたいものである。このように言うのは私は交通機関を使って音楽を聴きに行くのが億劫になっており、この稀有の演奏家がどこに行きつくのかを見届けられないのは残念であるが、もう出かけることはないだろうからである。私が死ぬことでもあれば、べリオのセクエンツァ第8番を衛星からあの世に送ってもらいたいものだ。

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