中間小括2022年06月30日 20:37

子供の戦争
 よく言われていることであるが、ウクライナでの戦争は今の世界の大部分の国家の安全が保障されていないことを示している。
 あまり言われていないことは、これは十七世紀のウエストファリア体制以来のことだということである。これは登場しつつあった主権国家の併存体制であって、そこにはそれを越えるいかなる権力も存在しない。国家間で紛争が生じると、それは必然的に戦争状態をもたらす。 
 ウクライナでの戦争の原因の一つはウクライナのNATO加盟の動きはロシアにとって死活問題だとされたことにあるようである。NATOは防衛機構であるからロシアの一方的な被害妄想というほかない。ロシアには臆病さと凶暴さが共存しているわけである。
 しかしNATOはソ連を中心としたワルシャワ条約機構に対抗してできたものであり、ソ連の崩壊とともにワルシャワ条約機構は消滅している。とするとなぜNATOは何のために存続しているのか、その説明は必要であろう。地域の安全を保障しようとするものであろうが、ロシアを仮想敵国化していることは否めない。ロシアが神経過敏になるのは想像できないわけではない。
 しかしウクライナがNATOに接近したとしても、なぜそのために戦争をしなければならないのかは説明されない。このためにロシアは特別軍事行動というような名称を与えているようであるが、それは政治目的のための軍事行動である。これは戦争は政治の延長であり、その道具であるというクラウゼヴィッツの戦争概念に合致するものである。
 とするとロシアはどういう政治目的で戦争をしようとしたのであるか、それがいかにも不明確である。NATO加入問題の他にウクライナのネイナチ(?)を撲滅するためであるとか、ウクライナはそもそもロシア領であるなどということが雑駁に言われたりしているようであるが、要するに戦争目的がはっきりしていない。クラウゼヴィッツ流の戦争概念の延長上にあるのはビスマルクの現実政治であるが、ロシアにはクラウゼウィッツ流のリアリズムが欠けている。妄想による蛮行に終わるのは目に見えている。戦争が結局は陳腐な領土獲得問題に収束したのは当然のことであろう。
 ロシアがこのようになるのは指導者の質が深くかかわっている。プーチンは秘密警察の職員レベルの人間であり、国内の批判者には次々に暗殺行為をしていたということは、対外的にどういうことするか当然に予想できたところである。小皇帝然とした指導者を持つロシアは典型的な専制国家と言ってよい。
 民主主義国家は戦争をしにくいが、専制国家は戦争をしやすいという説がある。古代ギリシアの代表的な民主主義国家のアテネは常時戦争をしていたから、この説は幾分修正しなければならない。しかしその場合でもアテネが戦争をした主な目的は民主制を守るためだったことは見失われるべきではない。
 専制国家は指導者だけでできるものではなく、国民がそれを可能にしている。ロシアの国民は今でも議論ではなく命令を好むところがあるようである。子犬のチンのような指導者を批判する有力な政治勢力もないようであるから反戦論も大したものにならないのは不思議ではない。
 しかし専制国家の軍隊はもろいものである。ウクライナ戦争も数日で決着すると見られていたが、もう4月以上もうろうろしている。これにはモラールが決定的に低いことの他に戦術戦略が一貫していないことが関わっているであろう。ロシアは百年前には新興の日本帝国に敗北している。
 ウクライナは古代にはスキタイが住んでいたところである。当時の態帝国ペルシャのダリウス大王はスキタイを征服しようとして大軍を派遣したが、相手を発見できず退却している。遊牧民のスキタイはペルシャの前に姿を見せなかったのである。ヘロドトスは『歴史』の巻末に「キュロスの訓戒」の一文を置いているが、そこで彼は豊かな土地に出て弱体化するよりは、貧しい土地にいて強大であった方がよいと言っているが、この訓戒はロシアにの通用するであろうか。
 ウクライナにも何も問題がないわけではない。NATOの加盟問題が一つの原因であったようであるが、早い段階でNATOの加盟は断然したと表明している。簡単に断念できるようなものであれば、戦争になる前に話し合いで解決しておくべきであったことである。ゼレンスキー大統領は亡命の助言を斥けてあくまでも踏みとどまっているのは立派であり、ベラルーシの買っていたとされる大統領候補がルカシェンコが居直ろうとするとすぐに亡命したのと対照的で、これではだめである。香港についても言えることであるが、民主主義を守るためにはどんなことがあっても母国にとどまらなければならない。しかしゼレンスキー氏には戦争を食い留めることができなかったという点では、政治的には未熟なところがあることは否めない。ちなみにウクライナ戦争はウクライナがNATOに加入する正当性を与えたということができよう。
 結局ウクライナ戦争は勝手に他人の領土に入って殺人と国土の破壊をほしいままににしているが、こんなことは馬や鹿でもしないことである。いまだに戦争の出口も見いだせていないが、それは戦争目的がはっきりしないから当然のことであろう。佐藤春夫は小学校時代の子供戦争について書いているが、ロシアのウクライナ戦争は子供の戦争以下と言えよう。
 ウクライナ戦争がいまだに終わっていないのは留め男のようなものが不在であることも一因である。アメリカは幻想的はヴェトナム戦争の失敗後、根拠のないアフガン戦争でも撤退するというように及び腰になっているが、今度の戦争ではNATOを直接出すことはできないとはいえ武器供与をしたり戦争を長引かす要因になっている。
 しかし根本的な原因は国連の無能にあると言える。事務総長が泣きながらロシアに戦争をしないでほしいと訴えていたのは今の国連の現実をよく示している。安保理事会はロシアが当事者としているから、何ら有効な決定をしえていない。総会は決議だけはしているが、決議だけではただの言葉にすぎない。戦争のような事態には何らかの強制力が不可欠である。
 要するに今の国連は諸国の安全を保障できていない。それはつまるところ今の国連は主権国家の連合であり、主権国家に対して有効な強制力を加えることはできないのである。細かく言えば、部分的には強制力を持っているが、それは常任理事国の主権には手を触れることができない。EUは国連よりはやや主権の削減があるが、それでも主権国家の方に近い。
 こうしてウクライナ戦争が示しているのは主権国家体制の限界ということであり、その枠がある限り諸国の安全は戦争以外には保障できないということである。無論今日でも戦争は法的には違法化されている。国家間の紛争は国連が乗り出すまでは自衛のために強制力を行使できるだけである。しかし国連軍はできたことがなく、国連の実効力がない以上戦争の禁止は無力化されている。
 多面においてウクライナ戦争に関して多様な支援がなされていることは何らかの国際社会が生まれていることは無視しえない。だから問題は国際社会の言う実質と主権国家という政治的体制のギャップにあると言ってよいであろう。国際社会はあっても警察もない状態である。つまり国際社会に見合った政治秩序が求められているということなのである。
 この問題で基本的な視点を出しているのはカントの永久平和の理念である。つまり永久の平和を実現するためには世界が一つの国、と言うより一つの共和国のようなものにならなければならないということである。世界共和国においては紛争があっても、それは国内的な問題であり、戦争の問題ではない。戦争の問題が最終的に解決されるためには世界は一つの国にならなければならないということである。
 しかしカントの世界共和国の弱点は、それが永久平和つまり理想形としてのみ提出されていることである。カントは商業の発達などに「自然」の狡知を期待したのであるが、それはあまり強力なものではない。つまりカントの世界共和国論は理想形とは別に現実形を必要としているのであり、それはつまり権力の構築ということである。いつの時代にもぐ社入るものであり、この世の悪に対して平和を維持するためには権力をなくすることはできないのである。したがってカントの世界共和国を補完する現実形はその共和国の権力をどのように構築するかという問題になる。
 この点で参考になるのは近代の主権国家を構築した理論である。代表的にはホッブズに見られるものであるが、彼は個人の生存を確保するためには、各人の自己防衛という自然権を共通の権力に譲渡するという契約を結ぶことであるとしている。この共通の権力が主権ということであり、それが近代の主権国家の理論となったものである。
 今日の世界が必要としているのはこの主権国家の解体の理論ということになる。かつての社会契約論から見るならば、それは諸国家がその生存を確保するために、自己防衛力を世界の共通の権威の譲渡し、その権力に従うということを意味するであろう。それが世界国家という名のものであれ、世界共和国というものであれ、現実形として世界の平和を維持するものになるものであろう。ここで重要なことは人間の世界になくせないように見える警察のような暴力装置をどのように世界に構築するかということであり、それがとりもなおさず世界国家への現実的な通路であろう。
 しかしこの現実形にも直ちに困難が予想される。どこの国が自分の警察や軍隊を世界の権力の譲渡するであろうかということである。だがそれは近代社会が国家形成をする際に自己防衛を放棄するという形で実現したものである。もっともアメリカはまだ抵抗権を維持するために国民の武器の所有を認めているのであるが。この点で代表的な民主主義国家となったアメリカはまさしくそのために世界共和国を実現するためにも大きな障害を含んでいる。
 とすると世界の安全を保障するためには世界を統一するよりは、地域的な安全保障網を作る方がよいということにもなるであろう。それが例えばNATOということであり、太平洋にも類似のものができ、それがリンクするならばかなりの程度のグローバルな安全保障網ができるでもあろう。しかしそうした安全保障網というものは結局軍事同盟ということであり、武装平和は実現したとしても戦争の廃棄という目標には程遠いものである。
 こうした中で日本国では火事場泥棒のように防衛力を増強しようとする声が出ているが、戦中派からするならば戦争を知らない餓鬼のたわごとである。また憲法に自衛隊を明記するというような議論があるが、憲法は原則を示すものであって個別の組織を規定するようなものではない。言に自衛隊は最初は警察予備隊と呼ばれ、次いで保安隊になり、最後に自衛隊になっている。
 こうした議論には原則に無関心な日本人の特徴が現れているが、ここで見逃せないのは憲法第9条がうめれたのは、そのころ国連が計画されており、戦力を持たないのは国連が安全を保障するという期待があったからである。このことは裏から見れば国連が安全を保障できなければ第9条も無効になりかねないということであろう。しかし憲法の趣旨からすれば日本国は国連が安全を保障できるようにしなければならないということであろう。今の国連に限界がある以上、それは国連を変えていくようなものでなければならないであろう。
 ここでは結論的にしか述べられないが、平和主義だけでは不十分なことは明らかであり、国連には国連警察のようなものがなければならないであろう。それは戦争をするのではなく、あくまでも平和を維持するためのものである。日本国に何しては、それは具体的には自衛隊を国連に移管することを意味するであろう。これは国際秩序を作るとともに自国の安全を保障するという二重の意味を持つものである。しかしこういったものを今の安保理事会に与えたのでは動きの取れないものになるであろうから、直接に総会に帰属しなければならないであろう。
 こうした課題はよほどの労力を要するものであり、日本人の実力を越えている可能性もあろう。現に現首相は大平や宮沢の流れにあるとは信じられないような憲法改正を叫んでいるのであるが、日米地位協定の改正は喫緊の課題であるが、憲法改正などは不要不急であるだけでなく有害無益でもある。少なくとも今言われているような改憲論は盥とともに戦争放棄という「赤子」を流すものであろう。

子供の議会
 日本国の首相は「新しい資本主義」とかいうもののセールスマンになっているようである。世界のリーダーの中で「資本主義」を宣伝しているのは日本の首相くらいのものであろう。
 キシダ君もアベと同じく学がないから資本主義の問題など分かっていないのであろう。資本家が潤えば「好循環」によって労働者も潤うというのは、資本が利潤を求めるものである以上、よほどの社会主義的な強制力が働かなければ無理なことである。
 旧政権以来の新自由主義的な政策で日本国の社会には貧富の格差が増大し、富裕者の社会と貧困者の社会の分断が進んでいる。これは「新しい階級社会」の登場と言ってよく、ここに求められているのはむしろ「新しい社会主義」であろう。
 資本の論理はインフレ、デフレで人々を翻弄させるが、物価高はその一局面である。今の物価高は円安による輸入価格の高騰によるところが大きいが、インフレ目標を持つ日銀は円安をむしろ誘導すべく超低金利を継続させている。日銀は少しでも金利を引き上げるならば景気を後退させかねないと日本経済をきわめて脆弱なものとみているようである。
 インフレの犠牲になるのはまず労働者層であり、景気後退でまず被害を受けるのは資本家層である。日銀が資本の利益を労働者の利益に優先させていることは明らかである。
 その当否はいずれ明らかになるであろう。しかし日銀は通貨の番人でもある。現総裁になって以来円の価値は30パーセント以上低下している。日銀総裁は辞任に値する。
 インフレに対する政治の対応はほとんどないようである。国会では財務大臣に「買い物に行ったことがあるか」というような子ども議会の問答が聞かれ、議長はセクハラにいそしんでいるようである。国会議員がこのように劣化したのはいわゆる政治改革に深くかかわっているようである。国会議員は通常一年で五カ月しか働かず二千万近い歳費を受けるだけでなく、何に使われているのかわからない文通費を毎月百万円もらっているようである。こんな国会は税金の無駄であろう。
 そうした中で立憲民主党の発信力の欠如は危機的であろう。「提案型」などは与党に吸い上げられるだけだということは、国民民主党が証明している。
 こうして日本の国会は限りなく大政翼賛会的なものとなったと言えよう。連合の会長が自民党にすり寄ったりしていることは、百年以上前に福沢諭吉が「権力の偏重」と言っていたことが続いていることを示しているが、「権力の偏重」とは権力が一元化しているということである。これは日本政治のロシア化である。
 実質的野党がほとんど存在しないことの直接的な問題は権力の監視ができていないことである。森友財務省事件は文書改ざんの問題に矮小化され、事件の真相は明らかにされていない。
 ウクライナ戦争に隠れていたが、元日産のケリー氏への判決が出ている。ゴーン氏の腹心とされていたケリー氏は有価証券報告書へのゴーン氏の役員報酬の過少記載に関与したとして起訴されていた。役員報酬には未払い金があるはずだということである。判決は一部について有罪とするものであった。
 この判決でまず不可解なのは、役員報酬の過少記載があるのであれば、真の役員報酬はいくらであるかが明らかでなければならないはずであるが、未払い金の支払いを証明するものが全くないことである。退職時に支払うことも検討されたようであるが、それは決定されておらず、無論貸借対照表の「未払い金」にも記載されていない。真の役員報酬額が明らかにできないであれば、有価証券報告書の記載が「過少」とすることもできないということは中学生にもわかることであろう。
 このようにこの判決は有価証券報告書の虚偽記載を証明することができていないだけでなく、その虚偽記載は審理対象とされていないゴーン氏が主導したものであるとして、ケリー氏に形だけの有罪判決にしている。こういうでたらめな判決は、この事件には犯罪の実体がなく、フレイムアップにすぎないことを示すものである。こういう判決が出ることはゴーン氏が日本の刑事司法は信用できないとして逃亡したことを正当化するようなものであろう。
 ゴーン氏事件は結局、政府にとって都合の悪い人物を企業、役所、検察さらに司法が連携して追放しようとした国策訴追であったと言える。私はこの事件の報道に接した時に第二の大逆事件のようなものであるとすぐわかったが、それは資本や権力が法を曲げる犯罪的行為という意味である。森友事件に続いてゴーン氏事件のようなものが法的にでたらめなアベスガ政権に生じたのは不思議ではない。自伝的小説で佐藤春夫は大逆事件に関して,「事もあろうに暗殺などとあるまじき不敬事を種に国民を煙にまいて、天皇を支配階級の具に供し」た事件であるとしていたが、支配階級のすることは変わっていない。なお子供戦争の相手方として崎山栄と出ているのは大逆事件で死一等を免じられた崎久保誓一氏をモデルとしている。
 アメリカにおいてもトランプの1.6クーデタ未遂事件が生じていた。しかしこの事件についてアメリカ議会は数百人の証人喚問、千人以上のインタビューなどによってトランプの責任(私には一年半前からわかっていたことであるが)をかなり明らかにすることになり、議会の一定の名誉回復を実現している。しかし日本国においては国会による国政の調査が全くできていないのである。
 むろん国会がこのようになるのは国民の態勢が関わっている。日本人が「太平の逸民」になる傾向があるのは直接には象徴天皇制が関係している。天皇は英訳すればEMPERORつまり皇帝である。泡沫的なものを別にすると、第二次大戦後も皇帝を持っていたエチオピアやイランも1970年代には相次いで皇帝を廃止し、今では皇帝を持っているのは日本国だけである。日本のガラパゴス制は端的には皇帝を持っている唯一の国ということである。皇帝は「王の中の王」と言われるように、ただの王ではない権威主義的な性格を持っている。こういう国は専制主義にはなっても民主主義を貫徹することは困難である。
 支配階級が法や権力をほしいままにすることは前の参議院選挙においても見られる。広島選挙区の河井議員が大規模な買収事件を起こしたが、それは自民党が1億5000万円を与えたことを引き金にしている。税金が買収に使用された公算が大きいから本来は会計検査院が調査すべきものである。当時の幹事長は支出を知らなかったということは、アベ元総裁が通常の手順を経ずに支出させたということであろう。前回の買収事件の資金の流れをうやむやにしたままで、また参院選に出かける有権者はご苦労様である。

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