ユトリロetc ― 2023年06月30日 20:21

a 今年はユトリロ生誕140年である。ユトリロは風景画家であると言われるが、絵葉書をもとに少なからぬ絵を描いているように、風景を描こうとしようとしたのではないであろう。その風景も大体は街路であって、街路の作家と一応は言える。なぜ彼は街路を描こうとしたのであろうか。
 西洋の絵画は中世の宗教画に始まっており、ルネッサンス期になって人間が主役として登場する。印象主義派になって風景も画題になったと言ってよいであろう。しかしそれを受けたパリ派といわれるものにおいては再び人間が中心的になり、モジリアーニやシャガールなどは人間的、あまりに人間的になる。人間中心主義には有限なものを絶対化する過誤がある。現代アートの元祖であるピカソの絵などは化粧品の広告のイラストのようなものである。ユトリロは美しいものを美しく描くという普通の意味での画家ではない。
 ユトリロの初期の作品には日本人の肖像や自画像などがあるように人物が描けなかったのではないが、彼はそうした流れにそっぽっを向け、もっぱら街路を描いている。
 ユトリロの街路には人間が小さく描かれている。それは矮小であるだけでなく、案山子のように非個性的である。しかも人物の大部分は後ろ向きである。その意味を解き明かした人はほとんどいないが、それはまさしく人間の楽園追放である。ユトリロは意図的に人間を矮小化しているのであり、それは反人間主義的であると言ってよい。
 しかしユトリロは人間をことさらに醜悪には描いていない。それは馬鹿な人間を憐れんでいる。ユトリロの視点は人間に対する神の慈悲の視点なのである。
 ユトリロは人間を中心としない一方で教会の絵をおびただしく描いている。20世紀の画家でユトリロほど教会を描いた人物はいないであろう。人間主義を否定し、教会を顕彰するということは、彼の絵がキリスト教に動かされていることを示している。ユトリロの絵は宗教画なのである。
 ユトリロは下手な詩も書いているが、その一つで彼は、初めに「悪」があり、次いで「善」が生じたとし、したがって神は月並みでない「精神」であると書いている。ユトリロは悪があるにもかかわらず、この世界はよいという弁神論を持っているのである。
 ユトリロが街路を絵いたのもこのためである。彼は人間を愚劣なものとしつつ、全体としての人類はよいとみて、人間の作り出した街路を肯定的に描いたのである。ユトリロの絵は世界観の表明である。その絵の全体に表題をつけるとすれば神聖喜劇divina commediaとするほかない。
 ユトリロは自分の真意を口外することはなかったから、人々はわびしさがよく出ているなどと、巧妙に騙されている。

b  ユトリロの絵の相場は2000万円といわれるように、貧乏書生が持てるものではない。しかし私はどういうわけかユトリロの油彩を2枚持っている。両方とも「雪のモンマルトル」と題されており、一枚はアベス広場、もう一枚はノルヴァン街のようである。それを確かめるという口実で久しぶりにパリを訪れている。
 かなり前からテルトル広場などはユトリロが追放しようとした俗悪な人間どもの商売の場となっており、街路を確かめるという気はなくなり、次いでにルーブルに寄っている。
 ルーブル美術館も今な一日1万人くらいの入場者がある一大事業体となっているから官僚主義化も大変なものである。私は混雑を避けようとしてネットのチケットを持ちその入り口に入ったが、番人は入場券売り場に行けということで、そこに行くと元の入り口に戻されることになった。私は末端の番人が権力を乱用して自己満足したいという欲求を尊重して、ほかの人ともめている間に勝手に入場したものである。
 しかしリシュリュー館で見ようとしたものが閉鎖中であったため、結局ルーブルの女主人に別れの挨拶をしてきただけのようなものである。モナリザは以前は階段の踊り場のようなところになったような気がするが、今では大広間に鎮座している。その時私はモナリザの含み笑いはマリア・テレジアと同様の政治家的な微笑であると気がついたものである。

c  パリからベルリンに移る。ベンヤミンのパッサージュ論は知られているが、パッサージュは今では狭苦しい路地であり、この本はパッサージュだけを取り上げたものでなく、19世紀のパリについての雑多な本の抜き書きにすぎず書物の堕落のようなものである。しかし彼のベルリンの幼年時代の文章はこの著者の特異な性格を容く表現している。パリに比べると不愛想で武骨なこの街も私にとってはかなり親しいものである。もっともベンヤミンが生まれたマグデブルグ広場4番地は今では何の変哲もないアパートに変わっているが。
 私が初めてベルリンに来たのはまだ東西が分裂していたころであり、地下鉄のフリードリッヒ・シュトラーセ駅の検問所から東に入ったものである。しばらく滞在していたベルリン郊外のダーレムにはルーブルやウフィチィに引けを取らないようなボティチェリやルーベンスやフェルメールのコレクションがあることに驚かされたものである。これは再統一後はポツダム広場の近くの文化f-ラムというところに移されている。名称も奇妙であるが、ドレスデンのツヴィンガー宮殿とは比較にならないようなバラックの建物だから、訪れる人は少ない。フランス人は美術品を商売道具にしているが、ドイツ人は美術品を隠そうとしているかのようである。
ベルリンに寄ったのはオペラを見ておくためである。ベルリンでは国立オペラよりもコミシェ・オーパーの方に問題作が多い。私は近年バロック・オペラに少し関心があるが、それはバッハとは異なりヘドニズムもいとわない点があるためである。それはまずヘンデルに見られるものであり、ラモーニなるとバロック的グロテスクさが目につくようになる。
 まずヘンデルのセメレを見たが、これは元来はオラトリオである。このプロダクションではかなりオペラ化されており、セメレが灰になることも視覚化されている。セメレを見に行ったのは知人が出ているためであるが、なぜ人間セメレの灰からディオニュソスが生じるのかという寓意は不明のままである。
 もう一つはコシ・ファン・ツッテである。これはロシアで上演禁止になったものである。このプロダクションは最初はチューリッヒの市立歌劇場で出されたが、この時演出者のセレブレニコフは自宅軟禁されていたそうである。わいせつなところがあるためだそうであるが、逆にロシアの水準が分かるようなものである。演出者は、この主題はややalt-modischであるが、モーツァルトは人間の幼さを肯定しており、その意味で人間に希望を与えると書いている。  
 オペラ座ではないが、以前に来たことがあるある施設の入場券売り場で私は一つの体験をした。入場券売り場は閉鎖され、小さなQRマークが一つ張られているだけである。そこから入場料を払えというつもりなのであろうが、多くの人はkeine ahnungとぶつぶつ言って帰っている。これがデジタル時代の入場券売り場の近未来なのであろう。デジタル化は便利さと同程度の不便さが伴っている。人間がすることは所詮ゼロサムなのである。

d  察しの通り今回は私のヨーロッパへのfarewell tripである。私にはもう十時間以上も飛行機に乗ることは精神的にも肉体的にも耐えがたくなっている。もう欧米諸国に行くことはないであろう。
 しかし今のユーロに対する円の価値下落からすると、日本人はヨーロッパには行きたくてもいけなくなっていると言った方がよいであろう。首相は円安を利用するなどと間抜けなことを言っているようであるが、今の為替レートは旅行禁止的水準である。
 私が欧米諸国に行って第一に得たものは人間を越えるものを知ったことである。それは必ずしも宗教だけのことではなく、絶対的なものに近づこうとする動きであり、またそこからする愚行である。それに比べると東洋の世界は良くも悪くも自然の水位にとどまっている。もし私が最初から日本政治思想史などを専攻していたら、一段とおろかになっていたであろう。
 ウクライナ戦争のおかげで北極に回り道をすることになったが、この戦争はなかなか終わりそうもない。ウクライナは領土をすべて取り戻さなければ和平にしたくないようであり、ロシアはすべて手放した形で和平するのはメンツが許さないであろう。クリミアの処置が焦点になるであろう両方とも疲れて泣くまで待たなければならないのか。欧米諸国はウクライナ側に加担しているから仲介できる立場になく、インドや中国は国際的に大きな動きをしたがらないようであり、トルコや日本は力能不足である。
 今回のように双方に言い分がある紛争の和平というよりは、一方的当事者の一方的侵略を阻止することが困難であるのは今の国際秩序に欠陥があるからである。それを端的に示しているのは国連であって、国連には国連軍もありえたが、安保理事会の常任理事国が該当する場合はお手上げになる。もともと国連は主権国家の連合体であり、主権を制約するのは困難なのである。
 別の言い方をすればウクライナ戦争は主権を解体した国連とは別の世界秩序が必然であることを示すものであろう。それは安全保障装置の点では、従来の個別国家の軍事力を世界秩序に譲渡し、それによって安全を保障するということである。この世界秩序は世界政府といわれてもよいであろう。EUはそれへの一歩を示しているが、まだまだ主権の枠に制約されている。
 無論世界政府のようなものは夢のような話であり、少なくとも一挙になしうるものではなく、有志連合を拡大する以外にはないであろう。それも今世紀中には困難が予想される。人間は神に似せて作られたそうであるが、神よりは猿の方に近い。だからサル山の猿のように陣取りをしたり騒ぐわけである。人類はこれまで地球上に出現した生物のうちでは最も有能であるとともに、最も有害な生物である。だからあまり申請でない悲喜劇が繰り返される。
 ところで日本国憲法はこうした世界政府の安全保障原理を指し示しているところがある。無論それは諸国民に信頼するとか、戦力を持たないとか漠然としたものでしかないが、個別軍事力を放棄して世界秩序に譲渡するという世界政府の基本的原理を先取りしているところがある。もっとも日本人にそうしたイニシャチィヴを発揮する力量が備わっているかどうかは別のことであるが。
 今度の国会の会期では憲法審査会を毎週開くのはサルのようだと言ったということで物議があったようである。憲法で受権された国会に憲法審査会があるということ自体が、憲法が疎遠であることを示すものである。サル山のサルがサルと言われて騒いだのであろうが、こういう議論をしているところでは、憲法も所詮はサルに小判である。

e  G7はベルリンのホテルで見かけたが、西洋から見ると、どうしてあんな貧弱なテーブルで首脳が会議をするのだろうと違和感を感じたものである。日本国は今では一人当たりの国民所得はG7中で最下位である。これは経済だけの問題ではない。ドイツは福島の教訓から脱原発を完了したが、日本はなし崩し的に原発に回帰している。日本人の無原則性がよく表れているが、ドイツが環境投資を成長の柱にしていたことからわかるように、それは経済にも関係している。
 その他の近年の例では日本国は性的少数者差別禁止という点でも、難民保護という点でも再開に定着している。日本の難民保護の遅れは以前から有名であり、最近は法改正を下から改善されたかといえば、逆に難民の相関をしやすくしたというのであるから論外である。日本人は難民を受け入れるのは国際社会の義務であるということが分からないようである。
 日本国は法や人権という価値観において西洋諸国と一致していると言われることがあるが、こういう事例から明らかのように、日本国は基本的価値観において西洋補国と差異を示している。日本国はG7から離脱した方がよいであろう。
 今度のG'7は首相がわざわざ広島で開いて核廃絶につなげたいとしていたようであるが、逆に核抑止力を容認することによって大失敗をしている。もともとG'7は核問題を扱うところではなく、アメリカなのの保有国は核廃絶などに関心がなかったのであるから、この結果は予想されたことである。いまではG7の実際的意味は低下しており、今度の年一度のエクスカーションと記念撮影に終わったようである。キシダ首相は国連の核不拡散条約の検証会議で折り鶴を弄びながら演説をしていたが、少女趣味で核は動かせない。軍事費を拡大しながら核軍縮など言うのも矛盾している。

f キシダ君の看板政策は新しい資本主義ということのようであるが、自民党本部が経団連本部になったかのような看板は、この人物の程度を示しているようである。
 当初キシダは国葬や改憲という言葉をポンポンと叫び、これは保守派への媚だろうと思われたのであるが、実はキシダという人物は中身のない空っぽだったということであろう。彼は宏池会の出身であり、派閥というものはくだらないものではあるが、宏池会はリベラル派とされているようである。しかしキシダは快調であるにかかわらず宏池会がどういう派閥であるかも理解していないようである。要するにキシダは何一つまともに勉強することもなくエスカレーターを登ってきただけのボーヤであり、いかなる信念とも無縁な羅針盤を欠いた人間のようである。宏池会から軍拡首相が出るとは誰も予想しなかったことであろう。
 この空洞性は根拠を欠いた軍事力の急拡大や敵基地攻撃の容認でいかんなく発揮されている。敵基地とはまず北朝鮮のミサイルなどのことであろうが、このミサイルはアメリカを狙ったものであり、日本は問題にもなっていない。アメリカ自身北朝鮮基地の攻撃というような愚かなことを考えていない中で日本国が騒ぐのはご苦労なことである。もっとも在日米軍基地が狙われることはありうるであろう。それだけに在日米軍基地は危ない存在であるが、横田基地には土地汚染の問題もあるようである。しかし都知事は調査さえしようとしていない。軍拡以前に日米地位協定の改正が必要なのである。
 他面でキシダは少子化対策として何かの手当を何円増やすというような低次元の政策を出しているが、少子化の第一の原因がわかっていないようである。その政策というものも打ち上げただけで財源を欠いている。過去の放漫財政の結果日本国な世界最大の借金国であり、何をするにも財源の壁に突き当たる。そもそも軍事拡大をしつつ少子化対策をしようというのが矛盾であり、軍拡は撤回するは凍結すべきなのである。
 首相本人が空洞である場合官邸に人材がなければならないであろうが、その人事がまた欠けている。それをよく示したのは首相秘書官に銅鑼息子を任命したことであろう。首相秘書官は公職であり、身内を避けることは人事の鉄則である。キシダは任命責任は自分にあると認めているが、責任は取っていない。責任を取らなければ無責任と同じである。総裁になったら派閥会長を辞するのは慣例であるが、その常識も見についていない。非常識もたまには愛嬌であるが、常時非常識となれば人間の質に疑問符が付く。日本国はかつて植木等が演じていたような無責任首相のもとに羅針盤がない状態なのである。

g  他方で野党の方であるが、野党第一党であるはずの立憲民主党の発信力の欠如は救いがたい。発信力の欠如は発信すべきものがないということなのであろう。与党は軍事力の大幅拡大を御用有識者会議に諮っただけで国会をパスしていたから、次の総選挙では第一の争点とすべきであろうが、その心構えもないのであろう。
 今の代表は次の選挙で150議席とれなかったら辞任するそうである。目標に達しないのは明らかであるから、負けて辞任するのではなく、事前に交代して被害を少なくすべきであろう。野党第一党の代表は首相候補でなければならない。今の立民党で首相をやりうるのは小沢一郎くらいであるが、高齢すぎるのが問題ということか。
 ところが立民党は維新によって野党第一党を奪われかかっている。維新はヨーロッパで言えば極右政党である。ヨーロッパの極右政党はサロン化することによって勢力を伸ばしているが、日本では保守とリベラルがトロトロしている間にシンプルな極右政党が伸長しているのである。
 まともな政党を持たない日本国民はお気の毒である。しかしこれは政治的民度の現れであろう。
 今度の国会で決まったことの一つに後期高齢者の健康保険料を値上げすることがある。75歳以上の老人が後期高齢者というような侮辱的な言い方をされて抗議もしていないのがまずだらしがないというべきで人間というよりは奴隷である。
 保険というものは大数の原理に基づくものであって、個人のリスクのばらつきを多数に平均化することによってリスクを軽減しようとするものである。したがって母集団は大きい方がよく、健康保険も全国民を一つの母集団にするのが理想である。それでは年齢階層の差異が無視できないためにやむをえず階層別の保険料も導入される。しかし過度に階層化するならば保険の意味がなくなる。
 今の健康保険料の改正の問題は、老人保険料の増額分を証しか資金に流用しようとしていることである。健康保険の問題と少子化の問題は本来は全く別のことであり、日本国の財政難の問題が福祉の削減という形でいびつなものになっているのである。
 こうした中でただ選挙をすればよいというものではない。若者の投票率が低いのは問題であるというのは新聞や素朴な政治学者の言うことであろう。投票率というものは民主政治にとって決定的な問題ではない。一般に投票率は民主国家よりも独裁国家の方が高いものである。首相の演説会場に爆弾を投げて逮捕された青年は参議院の被選挙権が30歳になっているのを不満として裁判をしているそうである。被選挙権を制限して若者の投票率が低いことを嘆くのは理屈に合わない。投票を進めるのは不合理な選挙制度を正当化することでもある。見逃せないことは爆弾でも投げなかったら人々はそういう問題に気が付きもしなかったということであろう。爆弾を投げるのは愚かなことであるが、政治への参加は単に投票だけのことではなく、デモのような威力の行使でもありうるのである。

h  今度パリに行った時は例によってサンミシェルに宿を取っている。不相応の高級ホテルに投宿していたのは健康に懸念があったためである。ところが夜中に警官からたたき起こされ、爆弾が仕掛けられている情報があるから避難するようにということである。当時フランスでは年金支給年齢を62歳から64歳に上げるということが問題になっていた。この引き上げはやむを得ないとも見えるものであるが、マクロン大統領が採決をせずに可決するという異常手段を取ったために反対運動が急進化することになった。憲法院がこれを正当化したために抗議は過激化してマクロンが行きつけのビストロに放火されることも生じている。
 今度の爆弾事件もその一部なのであろう。私の目論見は裏目に出たわけであるが、政府がこういうやり方をしている場合、過激派が偽の爆弾情報を流して社会を動揺させるのを私は容認する。そうした反対運動はむしろ社会の健全性を示すものである。
 他方でフランスの警察にも暴力性があり、それに対する抗議運動がまた生じることになる。しかしフランスは人権大国でもあり、また違った面を見ることができる。
 部下を引き連れていた私服姿の警視風の男は、寝間着姿で外に出ていた私の肩に手をやって、上着を着てきた方がいいと言って、にやりとしたものである。私は昔ある労働組合を支援していたサルトルが過激派からボナパルト街のアパルトマンを襲撃されたことを思い出して苦笑しただけである。しかしこのパリ警察の幹部がわたしの部屋が何号室であるかを知っていたのは気味の悪いことである。
 ユトリロを愛好し、フランスの過激派から狙われたかもしれず、しかも過激派を容認し、さらにパリ警視庁の幹部と親しいかもしれないこの私はいったい何者なのか?