今年の屑拾い(最終回) ― 2019年11月28日 20:30
1 ガラパゴス列島
今年は元号が変わったようである(私は全く使用しない)。この元号というものは民俗学的に興味ある現象である。世界にはほぼ200のいわゆる国家というものがあるが、そのうちで自国だけの年号を使っているのは日本国だけである。国民は気が付いていないようであるが、日本国はこの点でも世界で珍しい国家である。
日本国は独自の元号を使用しているが、特徴的なのは西暦も使用していることである。つまり日本国は二重の年号を持っているわけであるが、その自明ともいえる二重年号の不効率性を意識していないことはいかにも日本国的である。
生活の基本的な指標を二重にしてなんとも思わないということは、まさしく多神教的だということであろう。神道や仏教等もごちゃまぜにしてケロとしており、和魂洋才であり、洋魂和才でもある。
したがって二重年号というダブルスタンダードは端的には無原則性という意識の現れとみられる。元号は日本人の無原理性、融通自在性、機会主義を示すものであろう。この無原理性は国家原理を定めた憲法論議に現れることになる。ここでは何を変えるかというのではなく、改憲が自己目的になるという世界に例のないような滑稽な改憲論が生まれる。
元号は天皇にともなうものとされているから、元号があるということは歴史は天皇が形作るものであるという考えの現れであろう。ここには国民が主権者であるという意識はほとんど存在せず、はからずも臣民根性が表面化することになっている。
だから元号が変わったから「時代」が変わったなどという迷論も生まれることになる。国民主権であるならば、元号は単なる期間を示す記号であろうが、天皇が時代を作ると見るのであれば、元号は「時代」を示すものになる。しかし今の天皇はもはや時代の実質的な構成要素ではないのである。
2 引きこもり症候群
元号は「時代」の指標ではなく、単なる期間の記号に過ぎないが、ヘイセイというものが終わったことに伴って、その期間の概括というものがあるようであるから、一応若干の特徴点を羅列することにしよう。
この期間はベルリンの壁が崩壊して東西の冷戦構造が解体していき、他方では中国が天安門事件を制圧して経済大国化し、米中両超大国構造が生まれてくる時代である。その中にあって日本国は長く冷戦意識から脱却できず、環境の変化に挑戦するというよりは、自国に閉じこもることによってアイデンティティを確保しようとしたと言ってよいであろう。したがって内向きということが基本特徴であり、保守化と右傾化がその帰結である。バブル経済が崩壊し、経済は低迷していたが、経済不振の不安的期にファシズムが生まれるのは世界史の定石である。
政治的的はこの期間はいわゆる政治改革の時代であった。自民党の長期政権のもとで様々な腐敗が表面化し、その元凶は自民党の派閥にあるとされ、政策本位の選挙にするために小選挙区制が導入されることになった。これは政界の問題というよりは自民党の事情であったであろうが、さらに政権交代をしやすくするということも主張されていた。しかしこの小選挙区制の導入は、人口四十万人程度の選挙区で支持をえればよいうのであるから、外交問題などを議論できる国会議員はいなくなっている。そうして小選挙区制は絶対多数を作りやすい方独裁的な生還を生み出すことになった。政治改革がなされることによって政治は死んだのである。そうしてこういう政治改革の旗振りをした皮相な政治学者も同伴者となった。
選挙制度の変更によって政権交代を可能にするということは邪道であるが、結果的にこの改革によって国民の平均水準以下の政治家も生まれるようになっている。日本国の状況からは選挙の存在理由の問題が浮かび上がっているともいえる。選挙というものは資金の点からでも必ずしも平等なものではない。だから古代民主制の母国のギリシアのポリスでは評議員の選出は選挙ではなく、抽選によっていた。日本でも抽選によって国会議員を選ぶことはそれほど非現実的なことではない。
政治改革には政治主導をもたらすという意味も挙げられていた。政治が行政を主導するということは当然でもあるが、それは価値合理性と目的合理性の分業の問題であり、政治が行政を包摂するということではない。大臣が役人の人事権を持っていなかったのは問題外であるが、首相官邸が上級役人の人事権を握るようになると、役人は全体に奉仕する公僕ではなく、首相に奉仕する私僕になる。日本国の官僚制は猟官制ではなく、メリット・システムのはずなのである。こうした首相への権力集中によって日本的独裁は「官邸」独裁になる。しかもその名称が示すように「官邸」はブラック・ボックスであり、責任の所在も不明確なのである。
この危難の最後の五分の一ほどはアベ政権によって特質づけられる。この政権は自民党の最右翼の政権であり、この期間の右傾化を集約するものである。現にこの政権は教育基本法に愛国を入れ、国家機密法を制定し、共謀罪を導入し、集団的自衛権の行使を容認するといった国家主義的政策を実現している。
一見異常なことはこの前の七政権は直ちに支持率が下落し短命に終わったが、第二次アベ政権は比較的高支持率を維持した長期政権になったことである。基本状況がそれほど変わったわけでもないこの政権の長期化には不可解なところがあり、そこには右翼ポピュリズムの波及、政治的に極度に憶病な日本人の特性の再現などがあげられるであろうが、直接的には通信情報システムの変化があるであろう。すでにソーシアルメディアしか見ない人の内閣支持率が高いという調査があるが、発信者の側の原因もある。大企業に都合の良い労働条件の緩和を「働き方改革」とネーミングすることには広告代理店の助言があろう。他方で野党は「まっとうな政治」などと言っているのであるから選挙に負けるはずである。ネットを制する者が権力を制する時代になってきている。
経済的にはこの期間は衰退の期間と把握できる。この期間の初めには日本国の一人当たりの国民所得は世界数位にあったが、貴下の終わりには二十数位になっている。それは基本的には相変わらず自動車や家電のような大量生産型の産業を軸としており、マイクロソフトやグーグルのような企業が生まれなかったことが直接的に示すものである。
いわゆるアホノミックスは愚者にもできる金融緩和策に過ぎなかったと言ってよいであろう。かえって財政赤字は世界最悪となり、1000兆を超える謝金を抱えているのであるから、金利が高騰したら財政破たんは必至である。経済の主体は民間にあるが、役所では「すごい」などと言っているのであるから新しい成長政策はあり得ない。
この経済の衰退の背後にあるのは教育の問題であろう。従来のこの国の教育は効率的な生産の担い手を作ることにあったようであり、その欠陥を集約しているのが東京大学である。ノーベル賞がすべてではないが、ノーベル賞受賞者のほとんどは京都大学の出身者であり、東京大学の出身者はほとんどいない。これはこの国の教育が画一的な労働者あるいはせいぜい有能な役人を生むことを目指し、創造力ではなくマニュアルのマスターを主軸としていたことの帰結であろう。
したがって衰退の基底にあるのは学問や文化の在り方であろう。この期間の代表的な著作として『世界史の構造』があげられることがあるようであるが、これは「歴史」と「構造」の論理矛盾に無頓着な知的ディレッタンティズムともみなされよう。
総じてこの期間には書籍の売り上げは三分の二にまで衰退し、1兆円を切っている。これはパチンコ業界の二十分の一であり、日本国は出版小国化しているようである。世界的に出版が後退していることは否めないが、日本国の極端ともいえる。その反面で漫画は世界の先端にあるようであるが、このことは日本人は活字よりも画像に親縁性があることを示すものでもあろう。
総括すればこの期間は内向きの「引きこもり」によって特徴づけられると見られよう。この期間の後半には「引きこもり」が注目されるようになっている。この「引きこもり」はある点では画一的な日本社会への抵抗であろう。しかしこの現象は積極的な反抗や挑戦を意味するものではなく、あくまでも消極的な自己保存にとどまっている。無論それは頭隠して尻隠さずである。若者の一部がこうしたあり方をしていることは、日本国の将来にとって暗示的である。
3 即位礼とゴーン氏
今年に戻ると、代替わりに伴って即位礼が行われている。これは天皇制国家の劇場構造をよく示すものである。
即位礼では鳥かごに入れられたような天皇のカーテンが開けられ、あたかも新天皇の御開帳のようである(皇后の籠は小さかったようであるが)。その下では臣民代表としての首相が万歳をし、あたかも天皇を主権者として神格化し、施政者がそれを利用して好きなことをしているかのようである。即位礼は愚かな善男善女を幻惑し、倭人以来の受動的服従性向を確認するものであったと言えよう。
即位礼の中心は大嘗祭である。宮内庁は大嘗祭は五穀豊穣を願うものであるという愚民向けのきれいごとを言っていたようであるが、それでは新嘗祭と同じであり、大仕掛けに深夜行い、しかも秘儀とする必要もないはずのものであろう。秘儀とするのはそこにはいかがわしいものがあるからであろう。大嘗宮の前には鳥居がたてられ、式殿の屋根には千木が設けられており、大嘗祭は正真正銘の宗教行事である。、
大嘗祭が収穫祭の基本性格を持つことは確かである。しかし大嘗祭の特質を示すものは、式殿の真ん中に寝台が置かれていることである。この寝台については折口信夫は新天皇が布団の中で物忌みをし、それが終わって神になるとし、天皇霊を身に着けることが核心であるとしていた。これは天孫降臨の神話に左右されすぎたものであろう。あるいは前天皇の遺体を安置し、前天皇と共寝するという説もあるようであるが、天皇が添い寝をするわけではないであろう。しかし折口が大嘗祭では天皇に入浴過程があることに注目し、天皇の腰のひもを娘が妃になる習わしであるとして、聖婚を示唆しているのは意味深い。
寝台に関しては後土御門天皇の御告文に「采女はほとををきてまいるへし」と書かれていることがヒントになる。「ほと」とは女陰であり、「をき」とは招きということであり、采女は下着をつけずに奉仕せよということであろう。采女はコメを献上した国から献上された娘である。寝台は天皇とその采女が交合するところである。各地の田植祭では男女の交合が行われていたが、天皇家の収穫祭では天皇と采女の交合がなされたのであろう。それは田植祭と同様に多くは見せかけに過ぎないであろうが。
とすると大嘗祭には服従儀礼の要素があったことになるであろう。食料と女性を提供するのは服従儀礼の通例である。新天皇は地方からコメを献上させるとともに女性と交合し、そこでは収奪と性支配が一体化している。ともあれ大嘗祭は世界でも珍しいポルノグラフィックな要素を保存する即位礼なのである。
天皇と皇后は皇祖神をまつる伊勢神宮を参拝して即位の報告をしている。しかしアマテラスは最初からある神ではなく、太陽母神オオヒルメの伝承と先住の海人族のアマテル神を融合してできた比較的新しい神である。だからアマテラスは最初は男神とされていた。もともと伊勢地方を支配していたのは海人族であり、天孫族によって制圧されることによって海人族のk実は外宮に置かれることになっている。そうして皇祖神とされるようになったアマテラスのために内宮が設けられたのであるが、その皇祖神とは万世一系のために作文されたものであり、伊勢神宮自体が虚構のシステムであることは否定しがたい。
この二人はまた神武天皇陵にも則位の報告に行ったそうである。神武天皇が存在しないことは歴史学の常識であり、天皇家は知的に遅れているようである。イワレにおいて即位した可能性がある人物としては崇神があげられるが、即位した橿原が東扶余が都をおいた迦葉原に由来していることは明らかであり、崇神が朝鮮半島から渡来していることを示唆している。
天皇制は即位礼が端的に示しているように、信ぴょう性のない神話や伝説に依拠する、無知な善男善女向きの支配装置であり、そこにはグロテスクでポルノ的な要素も保持するものである。こうした天皇制を基底の一部に持つ国家がどのようなものになるかは容易に予想できることである。天皇制は上下貴賤の原理に立つから人権やそれを保証する法の支配とは無縁のものであり、そこから多くの帰結がもたらされる。今年の一例としてゴーン氏の基礎を取り上げておく。
1年前にゴーン氏が有価証券虚偽記載容疑で突然逮捕されるという事件が生じている。このような形式犯容疑でいきなり逮捕するということは不当逮捕といわれてもよく、さらに数か月にわたって勾留するというのは職権乱用の疑いがあろう。保釈の差異には証拠隠滅の疑いがあるということで妻との接触を禁じるというような反人間的なことをしているが、これは夫婦の同居義務を定めた民法にも反している。安易に証拠隠滅ということが言われるが、ゴーン氏は当初より無実を語っており、隠滅すべき証拠のようなものはあり得ないともいえる。同様の容疑のある西川前社長に対しては逮捕もされなければ基礎もされていないことは検察の公平性に疑問を抱かせるものであろう。
さらにゴーン氏は会社法上の特別背任の容疑で逮捕・起訴されている。海外への不正送金などによって日産に損害を与えたというようなことが挙げれている。ここでまず疑問になるのは、ゴーン氏には絶対的と言われるような権限が与えられていたとされているからである。とするとゴーン氏の活動は基本的に権限内のことであり、「不適切」なことはあり得ても「不正」なことはあり得ないともいえるからである。不適切と不正が混同されている。
この点で注意されるのは、検察は例の森友事件の際に公務員には広範な裁量権が与えられており、財務省の役人を背任罪で起訴しなかったことである。ゴーン氏の場合は広範ではなく絶対的な裁量権が与えられていたのである。背任とは「自己若しくは第三者」の利益を図るか、又は「本人」に損害を加えることを目的にしているが、「又は」ということは二者択一を意味する。第三者の利益を図ろうとしたことは自明であるが、検察は財務省の役人が「本人」つまり国に損害を加えるとまでは言えないとして、法をまげてまで不起訴にしていた。ゴーン氏に本人つまり日産に損害を与えようとすることはあり得ないであろうから、その伝ではゴーン氏も起訴できなかったことになるであろう。要するに検察の起訴は恣意的と言わなければならない。
ゴーン氏事件はルノーとの経営統合を図ろうとしたゴーン氏を失脚させようとして西川日産が同氏を犯罪者として告発した事件とみられる。これは本来は企業内の路線論争としてなされるべきものであるが、それを検察に告発し、また検察が本来受理するべきでないようなものを受理したものとみられる。西川日産には刑事処分を受けさせることを目的にした誣告(虚偽告訴罪)の疑いが濃厚である。
さらにゴーン氏起訴に関しては経済産業省の意向があった疑いがあろう。森友事件に際して「官邸」からの圧力を示す文書があることからして、「官邸」からゴーサインが出されていた可能性もあろう。一部には日産を外国資本に渡すべきでないという議論があったようであるが、あたかも民族系企業を維持するためには法をまげてもよく、国策捜査を許容かのようである。しかし国内第三位の自動車メーカーが民族系か外資系かということなどは、法の支配の破棄という問題に比べると、どちらでもよいようなものである。
ゴーン氏事件が注目されるのは、それが日本国の刑事司法の問題性を鋭く浮かび上がらせるものだからである。直接的には検察の問題であるが、それは独占的権力の登場によって権力の腐敗が生じているということであろう。法治国家体制が危うくなっているのである。人を逮捕したり投獄する法執行権が恣意的になるということは専制国家の特質なのである。
検察を一部に含む司法が法合理性ではなく、特定も宗教的価値などによって動くということはイスラムの「カーディ裁判」の特質である(マックス・ウェーバー『法社会学』参照)。その意味では日本の刑事司法は「カーディ裁判」的になっているということである。
韓国では検察が保守集団の番犬のようなものになっているということで検察改革が唱えられているが、日本の検察は狂犬の面も示しており、大逆事件の時代と似ている。そうした意味で日本国の法務省・検察改革は喫緊の問題になってきていると言えるであろう。しかし日本ではほとんど誰一人として検察改革の問題に気が付いていないことが問題である。上のような事件に関して刑事法学者からの疑問は寡聞にして耳にすることがなく、日本国の刑事法学も腐っているということであろうか。
即位礼とゴーン氏事件にどんな関係があるかということは、例えば朝日新聞を見るとよくわかる。朝日新聞は今年の初めから昭和天皇賛美のキャンペーンをしていたが、天皇讃美は民主主義を交代させるものでもある。一見急進的な意見を載せても、天皇批判だけは登場せず、明らかに天皇はタブーになっている。日本の新聞はタブーと自己規制のシステムとなっており、国際的な評価が低いのは不思議ではない(自由度は世界五十以内に行っていない)。この新聞のランクはほぼ民主主義のランクに対応している。
そうしてこの朝日新聞は森友事件で検察が捜査するふりをしていただけであることに全く気付いておらず、またゴーン氏事件での検察の捜査の問題性には同様に盲目であった。天皇讃美は権力の把握を鈍化させる。その意味で即位礼とゴーン氏事件は通底しているのである。
4 非対称性
国際面では今年は日韓関係が戦後最悪になった年であると言われる。それは直接的には韓国の裁判所が徴用工への補償を認めたことに始まっているようである。これに対してアベ首相は戦後補償を放棄した日韓条約に反するもので「約束違反」であるとしているが、これはピントが外れている。出発点にあるのは裁判所の判決であり、それについて行政府に国際法違反と言っても始まらない。どうやらアベ首相は裁判所は日本のように行政府に従属するものであると思っているかのようであり、言い換えれば三権分立を理解していないようである。
この件は法的にはかなり難しい問題がある。徴用工の問題は国家賠償の問題なのか、あるいは民間企業の賃金未払いの問題なのか、ということから始まり、国際法優位か国内法優位かという最終的には解決されていない法理上の問題がある。そうして司法と行政が異なった見解を持つ場合には、国の意思はどのようなものであるべきかという難問がある。それを単純に国際法違反と言っても何の解決にもならない。
アベ首相は徴用工の判決に対抗して韓国に貿易上の優遇措置を解除するという対応をしているが、判決と貿易上の対応は全く対照性を欠いており、江戸の仇を長崎で打つようなものである。これは感情的な対応であり、その反面におけるアベ首相の法的無知が関わっているであろう。そうしてこの強硬策によって韓国からの観光客は半減し、両国間の貿易は減少し、民間交流にも支障をきたすというように、両国民が愚かな首相の被害を受けている。愚かな首相が先頭になって犬も食わぬ兄弟喧嘩をしているわけであるが、それを支持する国民も「お」が付くめでたい国民であろう。
二権が違った見解にあるときには第三件の意味が注目される。この点で韓国議会議長が和解立法を提案しているのは無視できない。判決後の和解ということは変則的なことであるが、もともと二権が齟齬するということが変則的なことであるから、その解決が変則的になるのは避けられないことである。韓国と日本は約束違反などという単細胞的なことを言うのではなく、無い知恵を絞るべきなのである。
アベ首相のこうした傾向はすでに拉致事件でも示されたものである。その時は一時帰国した拉致被害者が北朝鮮に子供を残していたにもかかわらず強制帰国させている。これは外交的「約束」違反であることは言うまでもなく、人間のやることではないであろう。こうして拉致問題は一歩も前進せず、いまだに首脳会談すらできていない。アベ首相は北朝鮮との関係をダメにして登場し、韓国との関係を泥沼化して退場である。私のアベ首相についての判断は登場の時点で確定しているが、当時のマスメディアはアベ首相は強硬策によって国民の人気を得たと言っていたものである。
アベ首相は太平洋戦争に一歩を進めた田中義一と同様にもともと外交能力などなかったと言ってよいであろう。そうしてアベのような日本の右翼的政治家には朝鮮への偏見があるが、これは大体において無知からきているものである。韓人の中心はアショカ王に制圧された南インドからの難民であるが、その一部は北九州や葛城に入植している。韓国と日本のかなりの部分は同族である。継体から始まる今の天皇家は百済王統の継続なのである。
アベの韓国に対する強硬策は実は日本の国力が低下していることのコンプレックスの現れであろう。その反面でトランプにはごますり外交で、就任前からご機嫌伺いに行ったりしている。これはアベとトランプは基本的に同類であることを示すものであろう。そのトランプは権力乱用の容疑で弾劾裁判を受けることはほぼ確実になっている。日米の違いは基本的には議会の力の違いであろう。今度の臨時国会でも日本の議員は何をやっていたのか。
5 不自由展その他
表現の不自由展のトラブルがあったようである。一枚の脅迫状が来て中止するのはふがいないことであるが、再開されたこと自体は評価しえよう。しかしこの問題はこの国における表現の自由が確保されていないことを明るみに出すものである。名古屋市長や一度交付を決定していながらあとから不交付にした文化庁などは、表現の自由とは自分の好まない表現の自由であることを理解していないようである。
この展示のテーマが「情」とされていたことは示唆的である。情を活動化させるというのであろうが、情が情に対立する場合はそれを決定するのは力になり、テロを誘発するものにもなる。そこの芸術監督は根本的な考え違いをしているようである。表現の自由を担保するのは情そのものではなく、情の条件ともなっている「理」なのである。情を強調することは情緒的であって法理に弱い日本人の弱点を示すものでもあろう。
半世紀ほど前ミシェル・フーコーはコレージュ・フランスの就任講義xで、今後の言語表現はコミュニケーションの糸を切って断片を提出することであると予言的なことを言っていた。これはロゴスよりはパトスを強調するものであり、それは犯行の論理ともなればテロの論理ともなる。その意味ではこのポストモダン的な言説は民主主義を脅かすものを内包している。ともあれそこでは対話というよりは、力の意味を表面化させるものであり、それは反復と強度によって規定されるものである。そこでは視座は羅列的なものとなり、構成的な視座は成り立たなくなる。そうしてロゴスよりはパトスが優位というポストモダンの特性は、日本においてはプレモダン以来生得的なものだったのである。
そのほかでは京アニメへのテロ事件があったようである。私のような京映画の卒業生にとってはアニメに感動するということは想像できないことであるが、ここにも漫画的な伝統があるのであろう。しかし京アニメに感動するということには若干の危惧もないわけではない。京アニメと容疑者の間にはトラブルがあったはずである。そこでアニメを美化していただけではアニメの闇を見ないことになるであろう。
アニメに感動するということは、理知よりも感情に動かされやすい心情と、当然ながら精神が幼くなっていることに関係するであろう。占領軍最高司令官のマッカーサー元帥は日本人は12歳だと言ったが、70年たっても12歳である。ここには長所と短所がある。
近年の日本の若い男子の一部は引きこもっているようであるが、女子について耳につくのはカワイイという言葉である。カワイイというのは共感の表現であり、コミュニケーションの基底にあるべきものであろう。しかしこの感覚的表現は感覚を超えた世界への盲目となっている点がありそうである。たとえば世界には環境保全のために学校ストライキをやってその運動を進めようとする動きがある。しかし日本のカワイイ若者はポカンとしている。人類の滅亡は核戦争よりも地球温暖化による可能性が大きくなっているとき、このカワイイは幼稚であるだけでなく、鈍感で醜い。
日本の若者が多くは大腸菌でいっぱいのぬるま湯の中で満足し、少数の男子は引きこもり、かなりの女子はカワイイでポカンとし、総じて時代に対してチャレンジしない気概のなさを示しているのに対して、今年の香港の若者は際立った動きを見せていた。その中心問題は容疑者を中国に送致するという法案であり、これは実質的に一国二制度を破壊する可能性を持つものであった。これに対して香港の若者は何か月かのデモによって法案を撤回させることに成功している。中国人も民主化運動をすることができるということを示したものとして大きな功績である。
以上の理由で本ノーベル賞選考委員会は、今年のノーベル平和賞を香港の若者に贈ることを決定した。区議会選挙で圧倒的に支持されたのであるから今後は議会の年長者に主導権を渡す方が良いであろう。
一方今年のノーベル平和賞マイナスは香港の林行政長官、日本のアベ首相およびアメリカのトランプ大統領に授与する。
0 シュティール島への船出
このブログもだんだんと断腸亭日乗に似てくることになったようであり、そろそろ閉じるべき時が近づいているようである。
日本の社会は放っておくと引きこもって江戸時代のようになる特性を持っている。だからへーせーの期間に江戸時代が人気を得たのは不思議ではない。江戸趣味と言えば永井荷風がすぐ思いつくが、しかし荷風の江戸の愛好は今日の江戸人気とは異質のものである。荷風には江戸文化は「専制時代の萎靡した人心の反映」であるという明確な認識があり、彼の態度は「東洋固有の専制的精神」のもとで正義をうんぬんすることの愚なることを悟った結果としての韜晦である。
そうした社会の将来の指標は若者であろう。しかしカワイイ日本の若者は引きこもったりしながら概して現実に満足し、世界の課題にチャレンジしようとする気はないようである。しかしまたそうした不甲斐なさは若い世代自身も知らないわけではないようである。それはこの時期に人口減少化が明瞭になり、若い世代自身未来がないことを意識するようになっているかのようである。
鶏は卵ではないが、こうした傾向が実は年長者がもたらしている。この社会では未来を指し示すようなリーダーが存在していない。多少元気があるのは薄汚れた反動主義者だけであろう。オピニオンにおいても保守だらけであり、変革力はほとんど見当たらない。さらに年長者になると、一定以上の人間は行政的に「後期高齢者」と呼ばれて医療費の自己負担が多くなっているが、これは国家的「姥捨て」と呼ばれてもよいであろう。こういう国ではあまり長生きしたくないものである。
こうした持続的停滞意識はつまるところ迷信的でプリミティヴな天皇制的精神構造に根差すもののようである。ここではたとえばローマ教皇のような普遍的な精神を見ることはできない。逆に言えば天皇制国家の限界が示されている。
このめでたい国の善男善女はどこに行こうとしているのであろうか。おそらくそれはシュティール島であろう。ギリシアのキティラ(シュティール)島は幸福であった人の行くところであるとされている。だからクールベの有名な絵に触発されてドビュッシーは「幸福の島」を作曲している。しかしギリシアのアンゲロプロス監督は国外退去を命じられて筏に乗せて沖合に流された老夫婦を描いた作品を『スティール島への船出』と名付けている。シュティール島は幸福だった人のゆくところであるが、死者の島でもあるのである。
ガラパゴス列島の人々が安楽死の道をたどっているのかどうかは知らない。筆者としてはよい旅を祈るだけである。
というわけでこのブログは一応今回で打ち切ることにしたい。筆者が馬齢を重ねてまた私語を漏らすことがあった場合、その時は多分archipelago galapagosという名に代わっているであろう。乱筆多謝
今年は元号が変わったようである(私は全く使用しない)。この元号というものは民俗学的に興味ある現象である。世界にはほぼ200のいわゆる国家というものがあるが、そのうちで自国だけの年号を使っているのは日本国だけである。国民は気が付いていないようであるが、日本国はこの点でも世界で珍しい国家である。
日本国は独自の元号を使用しているが、特徴的なのは西暦も使用していることである。つまり日本国は二重の年号を持っているわけであるが、その自明ともいえる二重年号の不効率性を意識していないことはいかにも日本国的である。
生活の基本的な指標を二重にしてなんとも思わないということは、まさしく多神教的だということであろう。神道や仏教等もごちゃまぜにしてケロとしており、和魂洋才であり、洋魂和才でもある。
したがって二重年号というダブルスタンダードは端的には無原則性という意識の現れとみられる。元号は日本人の無原理性、融通自在性、機会主義を示すものであろう。この無原理性は国家原理を定めた憲法論議に現れることになる。ここでは何を変えるかというのではなく、改憲が自己目的になるという世界に例のないような滑稽な改憲論が生まれる。
元号は天皇にともなうものとされているから、元号があるということは歴史は天皇が形作るものであるという考えの現れであろう。ここには国民が主権者であるという意識はほとんど存在せず、はからずも臣民根性が表面化することになっている。
だから元号が変わったから「時代」が変わったなどという迷論も生まれることになる。国民主権であるならば、元号は単なる期間を示す記号であろうが、天皇が時代を作ると見るのであれば、元号は「時代」を示すものになる。しかし今の天皇はもはや時代の実質的な構成要素ではないのである。
2 引きこもり症候群
元号は「時代」の指標ではなく、単なる期間の記号に過ぎないが、ヘイセイというものが終わったことに伴って、その期間の概括というものがあるようであるから、一応若干の特徴点を羅列することにしよう。
この期間はベルリンの壁が崩壊して東西の冷戦構造が解体していき、他方では中国が天安門事件を制圧して経済大国化し、米中両超大国構造が生まれてくる時代である。その中にあって日本国は長く冷戦意識から脱却できず、環境の変化に挑戦するというよりは、自国に閉じこもることによってアイデンティティを確保しようとしたと言ってよいであろう。したがって内向きということが基本特徴であり、保守化と右傾化がその帰結である。バブル経済が崩壊し、経済は低迷していたが、経済不振の不安的期にファシズムが生まれるのは世界史の定石である。
政治的的はこの期間はいわゆる政治改革の時代であった。自民党の長期政権のもとで様々な腐敗が表面化し、その元凶は自民党の派閥にあるとされ、政策本位の選挙にするために小選挙区制が導入されることになった。これは政界の問題というよりは自民党の事情であったであろうが、さらに政権交代をしやすくするということも主張されていた。しかしこの小選挙区制の導入は、人口四十万人程度の選挙区で支持をえればよいうのであるから、外交問題などを議論できる国会議員はいなくなっている。そうして小選挙区制は絶対多数を作りやすい方独裁的な生還を生み出すことになった。政治改革がなされることによって政治は死んだのである。そうしてこういう政治改革の旗振りをした皮相な政治学者も同伴者となった。
選挙制度の変更によって政権交代を可能にするということは邪道であるが、結果的にこの改革によって国民の平均水準以下の政治家も生まれるようになっている。日本国の状況からは選挙の存在理由の問題が浮かび上がっているともいえる。選挙というものは資金の点からでも必ずしも平等なものではない。だから古代民主制の母国のギリシアのポリスでは評議員の選出は選挙ではなく、抽選によっていた。日本でも抽選によって国会議員を選ぶことはそれほど非現実的なことではない。
政治改革には政治主導をもたらすという意味も挙げられていた。政治が行政を主導するということは当然でもあるが、それは価値合理性と目的合理性の分業の問題であり、政治が行政を包摂するということではない。大臣が役人の人事権を持っていなかったのは問題外であるが、首相官邸が上級役人の人事権を握るようになると、役人は全体に奉仕する公僕ではなく、首相に奉仕する私僕になる。日本国の官僚制は猟官制ではなく、メリット・システムのはずなのである。こうした首相への権力集中によって日本的独裁は「官邸」独裁になる。しかもその名称が示すように「官邸」はブラック・ボックスであり、責任の所在も不明確なのである。
この危難の最後の五分の一ほどはアベ政権によって特質づけられる。この政権は自民党の最右翼の政権であり、この期間の右傾化を集約するものである。現にこの政権は教育基本法に愛国を入れ、国家機密法を制定し、共謀罪を導入し、集団的自衛権の行使を容認するといった国家主義的政策を実現している。
一見異常なことはこの前の七政権は直ちに支持率が下落し短命に終わったが、第二次アベ政権は比較的高支持率を維持した長期政権になったことである。基本状況がそれほど変わったわけでもないこの政権の長期化には不可解なところがあり、そこには右翼ポピュリズムの波及、政治的に極度に憶病な日本人の特性の再現などがあげられるであろうが、直接的には通信情報システムの変化があるであろう。すでにソーシアルメディアしか見ない人の内閣支持率が高いという調査があるが、発信者の側の原因もある。大企業に都合の良い労働条件の緩和を「働き方改革」とネーミングすることには広告代理店の助言があろう。他方で野党は「まっとうな政治」などと言っているのであるから選挙に負けるはずである。ネットを制する者が権力を制する時代になってきている。
経済的にはこの期間は衰退の期間と把握できる。この期間の初めには日本国の一人当たりの国民所得は世界数位にあったが、貴下の終わりには二十数位になっている。それは基本的には相変わらず自動車や家電のような大量生産型の産業を軸としており、マイクロソフトやグーグルのような企業が生まれなかったことが直接的に示すものである。
いわゆるアホノミックスは愚者にもできる金融緩和策に過ぎなかったと言ってよいであろう。かえって財政赤字は世界最悪となり、1000兆を超える謝金を抱えているのであるから、金利が高騰したら財政破たんは必至である。経済の主体は民間にあるが、役所では「すごい」などと言っているのであるから新しい成長政策はあり得ない。
この経済の衰退の背後にあるのは教育の問題であろう。従来のこの国の教育は効率的な生産の担い手を作ることにあったようであり、その欠陥を集約しているのが東京大学である。ノーベル賞がすべてではないが、ノーベル賞受賞者のほとんどは京都大学の出身者であり、東京大学の出身者はほとんどいない。これはこの国の教育が画一的な労働者あるいはせいぜい有能な役人を生むことを目指し、創造力ではなくマニュアルのマスターを主軸としていたことの帰結であろう。
したがって衰退の基底にあるのは学問や文化の在り方であろう。この期間の代表的な著作として『世界史の構造』があげられることがあるようであるが、これは「歴史」と「構造」の論理矛盾に無頓着な知的ディレッタンティズムともみなされよう。
総じてこの期間には書籍の売り上げは三分の二にまで衰退し、1兆円を切っている。これはパチンコ業界の二十分の一であり、日本国は出版小国化しているようである。世界的に出版が後退していることは否めないが、日本国の極端ともいえる。その反面で漫画は世界の先端にあるようであるが、このことは日本人は活字よりも画像に親縁性があることを示すものでもあろう。
総括すればこの期間は内向きの「引きこもり」によって特徴づけられると見られよう。この期間の後半には「引きこもり」が注目されるようになっている。この「引きこもり」はある点では画一的な日本社会への抵抗であろう。しかしこの現象は積極的な反抗や挑戦を意味するものではなく、あくまでも消極的な自己保存にとどまっている。無論それは頭隠して尻隠さずである。若者の一部がこうしたあり方をしていることは、日本国の将来にとって暗示的である。
3 即位礼とゴーン氏
今年に戻ると、代替わりに伴って即位礼が行われている。これは天皇制国家の劇場構造をよく示すものである。
即位礼では鳥かごに入れられたような天皇のカーテンが開けられ、あたかも新天皇の御開帳のようである(皇后の籠は小さかったようであるが)。その下では臣民代表としての首相が万歳をし、あたかも天皇を主権者として神格化し、施政者がそれを利用して好きなことをしているかのようである。即位礼は愚かな善男善女を幻惑し、倭人以来の受動的服従性向を確認するものであったと言えよう。
即位礼の中心は大嘗祭である。宮内庁は大嘗祭は五穀豊穣を願うものであるという愚民向けのきれいごとを言っていたようであるが、それでは新嘗祭と同じであり、大仕掛けに深夜行い、しかも秘儀とする必要もないはずのものであろう。秘儀とするのはそこにはいかがわしいものがあるからであろう。大嘗宮の前には鳥居がたてられ、式殿の屋根には千木が設けられており、大嘗祭は正真正銘の宗教行事である。、
大嘗祭が収穫祭の基本性格を持つことは確かである。しかし大嘗祭の特質を示すものは、式殿の真ん中に寝台が置かれていることである。この寝台については折口信夫は新天皇が布団の中で物忌みをし、それが終わって神になるとし、天皇霊を身に着けることが核心であるとしていた。これは天孫降臨の神話に左右されすぎたものであろう。あるいは前天皇の遺体を安置し、前天皇と共寝するという説もあるようであるが、天皇が添い寝をするわけではないであろう。しかし折口が大嘗祭では天皇に入浴過程があることに注目し、天皇の腰のひもを娘が妃になる習わしであるとして、聖婚を示唆しているのは意味深い。
寝台に関しては後土御門天皇の御告文に「采女はほとををきてまいるへし」と書かれていることがヒントになる。「ほと」とは女陰であり、「をき」とは招きということであり、采女は下着をつけずに奉仕せよということであろう。采女はコメを献上した国から献上された娘である。寝台は天皇とその采女が交合するところである。各地の田植祭では男女の交合が行われていたが、天皇家の収穫祭では天皇と采女の交合がなされたのであろう。それは田植祭と同様に多くは見せかけに過ぎないであろうが。
とすると大嘗祭には服従儀礼の要素があったことになるであろう。食料と女性を提供するのは服従儀礼の通例である。新天皇は地方からコメを献上させるとともに女性と交合し、そこでは収奪と性支配が一体化している。ともあれ大嘗祭は世界でも珍しいポルノグラフィックな要素を保存する即位礼なのである。
天皇と皇后は皇祖神をまつる伊勢神宮を参拝して即位の報告をしている。しかしアマテラスは最初からある神ではなく、太陽母神オオヒルメの伝承と先住の海人族のアマテル神を融合してできた比較的新しい神である。だからアマテラスは最初は男神とされていた。もともと伊勢地方を支配していたのは海人族であり、天孫族によって制圧されることによって海人族のk実は外宮に置かれることになっている。そうして皇祖神とされるようになったアマテラスのために内宮が設けられたのであるが、その皇祖神とは万世一系のために作文されたものであり、伊勢神宮自体が虚構のシステムであることは否定しがたい。
この二人はまた神武天皇陵にも則位の報告に行ったそうである。神武天皇が存在しないことは歴史学の常識であり、天皇家は知的に遅れているようである。イワレにおいて即位した可能性がある人物としては崇神があげられるが、即位した橿原が東扶余が都をおいた迦葉原に由来していることは明らかであり、崇神が朝鮮半島から渡来していることを示唆している。
天皇制は即位礼が端的に示しているように、信ぴょう性のない神話や伝説に依拠する、無知な善男善女向きの支配装置であり、そこにはグロテスクでポルノ的な要素も保持するものである。こうした天皇制を基底の一部に持つ国家がどのようなものになるかは容易に予想できることである。天皇制は上下貴賤の原理に立つから人権やそれを保証する法の支配とは無縁のものであり、そこから多くの帰結がもたらされる。今年の一例としてゴーン氏の基礎を取り上げておく。
1年前にゴーン氏が有価証券虚偽記載容疑で突然逮捕されるという事件が生じている。このような形式犯容疑でいきなり逮捕するということは不当逮捕といわれてもよく、さらに数か月にわたって勾留するというのは職権乱用の疑いがあろう。保釈の差異には証拠隠滅の疑いがあるということで妻との接触を禁じるというような反人間的なことをしているが、これは夫婦の同居義務を定めた民法にも反している。安易に証拠隠滅ということが言われるが、ゴーン氏は当初より無実を語っており、隠滅すべき証拠のようなものはあり得ないともいえる。同様の容疑のある西川前社長に対しては逮捕もされなければ基礎もされていないことは検察の公平性に疑問を抱かせるものであろう。
さらにゴーン氏は会社法上の特別背任の容疑で逮捕・起訴されている。海外への不正送金などによって日産に損害を与えたというようなことが挙げれている。ここでまず疑問になるのは、ゴーン氏には絶対的と言われるような権限が与えられていたとされているからである。とするとゴーン氏の活動は基本的に権限内のことであり、「不適切」なことはあり得ても「不正」なことはあり得ないともいえるからである。不適切と不正が混同されている。
この点で注意されるのは、検察は例の森友事件の際に公務員には広範な裁量権が与えられており、財務省の役人を背任罪で起訴しなかったことである。ゴーン氏の場合は広範ではなく絶対的な裁量権が与えられていたのである。背任とは「自己若しくは第三者」の利益を図るか、又は「本人」に損害を加えることを目的にしているが、「又は」ということは二者択一を意味する。第三者の利益を図ろうとしたことは自明であるが、検察は財務省の役人が「本人」つまり国に損害を加えるとまでは言えないとして、法をまげてまで不起訴にしていた。ゴーン氏に本人つまり日産に損害を与えようとすることはあり得ないであろうから、その伝ではゴーン氏も起訴できなかったことになるであろう。要するに検察の起訴は恣意的と言わなければならない。
ゴーン氏事件はルノーとの経営統合を図ろうとしたゴーン氏を失脚させようとして西川日産が同氏を犯罪者として告発した事件とみられる。これは本来は企業内の路線論争としてなされるべきものであるが、それを検察に告発し、また検察が本来受理するべきでないようなものを受理したものとみられる。西川日産には刑事処分を受けさせることを目的にした誣告(虚偽告訴罪)の疑いが濃厚である。
さらにゴーン氏起訴に関しては経済産業省の意向があった疑いがあろう。森友事件に際して「官邸」からの圧力を示す文書があることからして、「官邸」からゴーサインが出されていた可能性もあろう。一部には日産を外国資本に渡すべきでないという議論があったようであるが、あたかも民族系企業を維持するためには法をまげてもよく、国策捜査を許容かのようである。しかし国内第三位の自動車メーカーが民族系か外資系かということなどは、法の支配の破棄という問題に比べると、どちらでもよいようなものである。
ゴーン氏事件が注目されるのは、それが日本国の刑事司法の問題性を鋭く浮かび上がらせるものだからである。直接的には検察の問題であるが、それは独占的権力の登場によって権力の腐敗が生じているということであろう。法治国家体制が危うくなっているのである。人を逮捕したり投獄する法執行権が恣意的になるということは専制国家の特質なのである。
検察を一部に含む司法が法合理性ではなく、特定も宗教的価値などによって動くということはイスラムの「カーディ裁判」の特質である(マックス・ウェーバー『法社会学』参照)。その意味では日本の刑事司法は「カーディ裁判」的になっているということである。
韓国では検察が保守集団の番犬のようなものになっているということで検察改革が唱えられているが、日本の検察は狂犬の面も示しており、大逆事件の時代と似ている。そうした意味で日本国の法務省・検察改革は喫緊の問題になってきていると言えるであろう。しかし日本ではほとんど誰一人として検察改革の問題に気が付いていないことが問題である。上のような事件に関して刑事法学者からの疑問は寡聞にして耳にすることがなく、日本国の刑事法学も腐っているということであろうか。
即位礼とゴーン氏事件にどんな関係があるかということは、例えば朝日新聞を見るとよくわかる。朝日新聞は今年の初めから昭和天皇賛美のキャンペーンをしていたが、天皇讃美は民主主義を交代させるものでもある。一見急進的な意見を載せても、天皇批判だけは登場せず、明らかに天皇はタブーになっている。日本の新聞はタブーと自己規制のシステムとなっており、国際的な評価が低いのは不思議ではない(自由度は世界五十以内に行っていない)。この新聞のランクはほぼ民主主義のランクに対応している。
そうしてこの朝日新聞は森友事件で検察が捜査するふりをしていただけであることに全く気付いておらず、またゴーン氏事件での検察の捜査の問題性には同様に盲目であった。天皇讃美は権力の把握を鈍化させる。その意味で即位礼とゴーン氏事件は通底しているのである。
4 非対称性
国際面では今年は日韓関係が戦後最悪になった年であると言われる。それは直接的には韓国の裁判所が徴用工への補償を認めたことに始まっているようである。これに対してアベ首相は戦後補償を放棄した日韓条約に反するもので「約束違反」であるとしているが、これはピントが外れている。出発点にあるのは裁判所の判決であり、それについて行政府に国際法違反と言っても始まらない。どうやらアベ首相は裁判所は日本のように行政府に従属するものであると思っているかのようであり、言い換えれば三権分立を理解していないようである。
この件は法的にはかなり難しい問題がある。徴用工の問題は国家賠償の問題なのか、あるいは民間企業の賃金未払いの問題なのか、ということから始まり、国際法優位か国内法優位かという最終的には解決されていない法理上の問題がある。そうして司法と行政が異なった見解を持つ場合には、国の意思はどのようなものであるべきかという難問がある。それを単純に国際法違反と言っても何の解決にもならない。
アベ首相は徴用工の判決に対抗して韓国に貿易上の優遇措置を解除するという対応をしているが、判決と貿易上の対応は全く対照性を欠いており、江戸の仇を長崎で打つようなものである。これは感情的な対応であり、その反面におけるアベ首相の法的無知が関わっているであろう。そうしてこの強硬策によって韓国からの観光客は半減し、両国間の貿易は減少し、民間交流にも支障をきたすというように、両国民が愚かな首相の被害を受けている。愚かな首相が先頭になって犬も食わぬ兄弟喧嘩をしているわけであるが、それを支持する国民も「お」が付くめでたい国民であろう。
二権が違った見解にあるときには第三件の意味が注目される。この点で韓国議会議長が和解立法を提案しているのは無視できない。判決後の和解ということは変則的なことであるが、もともと二権が齟齬するということが変則的なことであるから、その解決が変則的になるのは避けられないことである。韓国と日本は約束違反などという単細胞的なことを言うのではなく、無い知恵を絞るべきなのである。
アベ首相のこうした傾向はすでに拉致事件でも示されたものである。その時は一時帰国した拉致被害者が北朝鮮に子供を残していたにもかかわらず強制帰国させている。これは外交的「約束」違反であることは言うまでもなく、人間のやることではないであろう。こうして拉致問題は一歩も前進せず、いまだに首脳会談すらできていない。アベ首相は北朝鮮との関係をダメにして登場し、韓国との関係を泥沼化して退場である。私のアベ首相についての判断は登場の時点で確定しているが、当時のマスメディアはアベ首相は強硬策によって国民の人気を得たと言っていたものである。
アベ首相は太平洋戦争に一歩を進めた田中義一と同様にもともと外交能力などなかったと言ってよいであろう。そうしてアベのような日本の右翼的政治家には朝鮮への偏見があるが、これは大体において無知からきているものである。韓人の中心はアショカ王に制圧された南インドからの難民であるが、その一部は北九州や葛城に入植している。韓国と日本のかなりの部分は同族である。継体から始まる今の天皇家は百済王統の継続なのである。
アベの韓国に対する強硬策は実は日本の国力が低下していることのコンプレックスの現れであろう。その反面でトランプにはごますり外交で、就任前からご機嫌伺いに行ったりしている。これはアベとトランプは基本的に同類であることを示すものであろう。そのトランプは権力乱用の容疑で弾劾裁判を受けることはほぼ確実になっている。日米の違いは基本的には議会の力の違いであろう。今度の臨時国会でも日本の議員は何をやっていたのか。
5 不自由展その他
表現の不自由展のトラブルがあったようである。一枚の脅迫状が来て中止するのはふがいないことであるが、再開されたこと自体は評価しえよう。しかしこの問題はこの国における表現の自由が確保されていないことを明るみに出すものである。名古屋市長や一度交付を決定していながらあとから不交付にした文化庁などは、表現の自由とは自分の好まない表現の自由であることを理解していないようである。
この展示のテーマが「情」とされていたことは示唆的である。情を活動化させるというのであろうが、情が情に対立する場合はそれを決定するのは力になり、テロを誘発するものにもなる。そこの芸術監督は根本的な考え違いをしているようである。表現の自由を担保するのは情そのものではなく、情の条件ともなっている「理」なのである。情を強調することは情緒的であって法理に弱い日本人の弱点を示すものでもあろう。
半世紀ほど前ミシェル・フーコーはコレージュ・フランスの就任講義xで、今後の言語表現はコミュニケーションの糸を切って断片を提出することであると予言的なことを言っていた。これはロゴスよりはパトスを強調するものであり、それは犯行の論理ともなればテロの論理ともなる。その意味ではこのポストモダン的な言説は民主主義を脅かすものを内包している。ともあれそこでは対話というよりは、力の意味を表面化させるものであり、それは反復と強度によって規定されるものである。そこでは視座は羅列的なものとなり、構成的な視座は成り立たなくなる。そうしてロゴスよりはパトスが優位というポストモダンの特性は、日本においてはプレモダン以来生得的なものだったのである。
そのほかでは京アニメへのテロ事件があったようである。私のような京映画の卒業生にとってはアニメに感動するということは想像できないことであるが、ここにも漫画的な伝統があるのであろう。しかし京アニメに感動するということには若干の危惧もないわけではない。京アニメと容疑者の間にはトラブルがあったはずである。そこでアニメを美化していただけではアニメの闇を見ないことになるであろう。
アニメに感動するということは、理知よりも感情に動かされやすい心情と、当然ながら精神が幼くなっていることに関係するであろう。占領軍最高司令官のマッカーサー元帥は日本人は12歳だと言ったが、70年たっても12歳である。ここには長所と短所がある。
近年の日本の若い男子の一部は引きこもっているようであるが、女子について耳につくのはカワイイという言葉である。カワイイというのは共感の表現であり、コミュニケーションの基底にあるべきものであろう。しかしこの感覚的表現は感覚を超えた世界への盲目となっている点がありそうである。たとえば世界には環境保全のために学校ストライキをやってその運動を進めようとする動きがある。しかし日本のカワイイ若者はポカンとしている。人類の滅亡は核戦争よりも地球温暖化による可能性が大きくなっているとき、このカワイイは幼稚であるだけでなく、鈍感で醜い。
日本の若者が多くは大腸菌でいっぱいのぬるま湯の中で満足し、少数の男子は引きこもり、かなりの女子はカワイイでポカンとし、総じて時代に対してチャレンジしない気概のなさを示しているのに対して、今年の香港の若者は際立った動きを見せていた。その中心問題は容疑者を中国に送致するという法案であり、これは実質的に一国二制度を破壊する可能性を持つものであった。これに対して香港の若者は何か月かのデモによって法案を撤回させることに成功している。中国人も民主化運動をすることができるということを示したものとして大きな功績である。
以上の理由で本ノーベル賞選考委員会は、今年のノーベル平和賞を香港の若者に贈ることを決定した。区議会選挙で圧倒的に支持されたのであるから今後は議会の年長者に主導権を渡す方が良いであろう。
一方今年のノーベル平和賞マイナスは香港の林行政長官、日本のアベ首相およびアメリカのトランプ大統領に授与する。
0 シュティール島への船出
このブログもだんだんと断腸亭日乗に似てくることになったようであり、そろそろ閉じるべき時が近づいているようである。
日本の社会は放っておくと引きこもって江戸時代のようになる特性を持っている。だからへーせーの期間に江戸時代が人気を得たのは不思議ではない。江戸趣味と言えば永井荷風がすぐ思いつくが、しかし荷風の江戸の愛好は今日の江戸人気とは異質のものである。荷風には江戸文化は「専制時代の萎靡した人心の反映」であるという明確な認識があり、彼の態度は「東洋固有の専制的精神」のもとで正義をうんぬんすることの愚なることを悟った結果としての韜晦である。
そうした社会の将来の指標は若者であろう。しかしカワイイ日本の若者は引きこもったりしながら概して現実に満足し、世界の課題にチャレンジしようとする気はないようである。しかしまたそうした不甲斐なさは若い世代自身も知らないわけではないようである。それはこの時期に人口減少化が明瞭になり、若い世代自身未来がないことを意識するようになっているかのようである。
鶏は卵ではないが、こうした傾向が実は年長者がもたらしている。この社会では未来を指し示すようなリーダーが存在していない。多少元気があるのは薄汚れた反動主義者だけであろう。オピニオンにおいても保守だらけであり、変革力はほとんど見当たらない。さらに年長者になると、一定以上の人間は行政的に「後期高齢者」と呼ばれて医療費の自己負担が多くなっているが、これは国家的「姥捨て」と呼ばれてもよいであろう。こういう国ではあまり長生きしたくないものである。
こうした持続的停滞意識はつまるところ迷信的でプリミティヴな天皇制的精神構造に根差すもののようである。ここではたとえばローマ教皇のような普遍的な精神を見ることはできない。逆に言えば天皇制国家の限界が示されている。
このめでたい国の善男善女はどこに行こうとしているのであろうか。おそらくそれはシュティール島であろう。ギリシアのキティラ(シュティール)島は幸福であった人の行くところであるとされている。だからクールベの有名な絵に触発されてドビュッシーは「幸福の島」を作曲している。しかしギリシアのアンゲロプロス監督は国外退去を命じられて筏に乗せて沖合に流された老夫婦を描いた作品を『スティール島への船出』と名付けている。シュティール島は幸福だった人のゆくところであるが、死者の島でもあるのである。
ガラパゴス列島の人々が安楽死の道をたどっているのかどうかは知らない。筆者としてはよい旅を祈るだけである。
というわけでこのブログは一応今回で打ち切ることにしたい。筆者が馬齢を重ねてまた私語を漏らすことがあった場合、その時は多分archipelago galapagosという名に代わっているであろう。乱筆多謝
コメント
_ Mengatasi Ambeien Alami ― 2020年02月15日 21:39
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_ bluechew ― 2020年03月19日 01:33
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_ Kia ― 2020年03月20日 05:08
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