今年のゴミ箱2021年12月08日 21:32

 昔から資本主義の害悪や資本主義の危機が叫ばれながらも、資本主義は一向になくなりそうもない。しかしその資本主義はかつてのものとは違ったものになっている。
 自由資本主義の牙城であったアメリカ自体連邦政府が100兆円を超えるインフラ投資をするようになっている。
 他方で資本主義にとって代わるかに見えた社会主義はマックス・ウェーバーも予期していたように経済学的には成り立たずさしあたりは退場したかのように見える。確かに中国は一応は社会主義を自称しているが、その実質は国家資本主義と変わりない。
 こうした事態は純粋の資本主義も社会主義もそれ自体ではありえなくなっていることを示すもので、経済体制はいずれにせよ複合的なものになるほかないことを表している。
 だから資本主義それ自体の正当性はもはやなくなっているのであるから、成長か分配化などというのは古い資本主義の枠の中の問題であり、まして持続可能性の要件を備えない資本主義は資本主義ですらないと言ってよいであろう。
 社会主義が問題にし中心的なテーマの一つは労働力の商品化にあったが、フーリエのファランジェのような構想は結局はユートピアにとどまらざるをえないということになったと言ってよいであろう。経済というものは人間の物的欲望を肯定するものであり、それはリビドーのように破棄することはできず、制御するほかないということであろう。それは具体的には社会的な市場経済の姿をとるものとなるであろう。
 こうして経済に関しては体制選択の問題は消失しつつあると言ってよいであろう。物質経済は狭い地球上で直接に接続しており、経済体制は均衡化せざるをえないのである。
 これに対して政治の世界では民主主義が争点化するようになっている。一方でアメリカに代表される欧米民主主義があり、他方で中国に代表される非民主主義国家群があり、それがイデオロギー的に対立するようになっているのである。アメリカは欧米の民主主義に対立する中国やロシアを「専制国家」と規定している。体制選択の問題は民主主義をめぐるものになっていると言ってよいであろう。
 
 しかし欧米民主主義の旗頭を自任するアメリカでもまさしく民主主義の危機が表面化している。それを端的に示すのは昨年の大統領選挙でトランプが選挙結果を否認したことであるのは言うまでもない。この民主主義への挑戦は今年の1月6日のモッブによる議会襲撃においてピークに達している。
 アメリカの大統領選挙は一般選挙で終わるものではなく、選挙人の選出などの何段階かのプロセスがあり、その最後には議会における投票の確定作業があり、それが1月6日に行われることになっていた。実質的には一般選挙で決まっているのだから、議会での作業はセレモニー的なものであるが、これによって最終的に当選者が決定される。
 トランプは様々な州で選挙の不正を提訴していたが、すべて裁判所から却下され、議会での作業が最後に残された機会であった。当日トランプは暴徒を前にして「命がけで議会に行け」と指示しており、モッブは議会に乱入したわけである。これはベルリンやミュンヒェンにおけるナチス党員の議会襲撃事件とほぼ同じものである。バイデン大統領が実益のない民主主義の宣教師になっているのは立派なことであるが、自国内での右派集団によるクーデタという民主主義の破壊工作に目を閉ざしているのは片手落ちである。
 FBIは数百人の乱入者を逮捕して処罰しているが、この事件の主犯はトランプであるから、末端をいくら逮捕しても意味はないであろう。退任した大統領には特権はないはずであるから、FBIはトランプを逮捕・収監すべきであったのである。明らかなことはトランプがいなければこの事件はありえなかったということである。アメリカにも捜査局の問題があることを窺わせる。ヴィデオを見ると議会警察は本腰で暴徒を阻止しようとはしておらず、議会警察にもトランプへの内通者がいたことを予想させる。
 この前代未聞の議会襲撃事件は政権最終日における大統領による国家の最高機関へのクーデタ事件であったが、そ道具となったのがSNSであったことは無視できない。インターネットは民主主義に寄与するという見方もあったが、ネットというものは異なった意見の交換になることはほとんどなく、同好者のプロパガンダに向いていることが明瞭になってきている。民主主義には新たな脅威が生まれつつあるわけである。
 200年ほど前にトクビルはアメリカには哲学者はいないけれども、司法や新聞があるので民主主義が機能していると言っていたが、司法がやや疑わしくなるとともに、新聞という伝統的なコミュニケーション手段がデジタル的な情報通信によって後退するようになっているから、民主主義の基盤は浸食されてきている。
 それとともにアメリカには哲学者がいないことの弱点も表面化している。アメリカのオピニオン・リーダーは新聞のコラムニストやテレビのコメンター程度であり、長期的、マクロ的な診断がほとんど存在しない。その上に通信情報がデジタル化されていることが、人々の思考を二進法的に単細胞化してきているから、人々は容易に単純な社会陰謀論のようなものに支配されるようになる。民主主義を取り巻く状況は厄介なものになってきていると言わなければならない。
 しかしこういう現象はアメリカだけのことではない。哲学は存続危惧品種となっているようであり、日本国でも自称する哲学者は少なくないようであるが、その多くは哲学とは逆の臆断家のようである。
 現代世界で唯一残ったドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスの講演には三千人の聴衆が押し寄せたことが示すように、今の世界にも真の知(ハーバーマスのそれというのではない)を求めようとする意欲は残されているのであろう。しかしその重厚長大さは明らかに今の世界の趨勢には反している。

 アメリカによって「専制国家」と規定された中国は今年共産党設立100周年を迎えている。共産党は人民の開放を目指すものであり、その意味で民主主義の貫徹が趣旨であったはずである。共産主義の教祖によれば資本主義の金権主義のもとでは民主主義はゆがめられており、民主主義のためにも経済的には社会主義・共産主義が求められたのである。共産主義は民主主義の完成のはずであった。
 国家間に関するとマルクス主義の国家に対する見方の根本にあるのは、共産党指導部は忘れているようであるが、「国家の死滅」ということである。国家は搾取のシステムなのである。もっともレーニンは共産主義の初歩段階には国家権力は強大でなければならないという見解であった。しかし中国共産党は100年も経って未だに初歩段階であると言うことはできないであろう。中国共産党はレーニンの言説を誤解して国家権力主義的なものをもたらしたと言ってよい。アメリカなどから専制国家とされるのには理由があると言える。
 中国は中国流の民主主義をしているという反論を出しているが、そこには民主主義の概念規定がないから説得力がない。民主主義というのは古来人民が権力を握ることであり、直接的には選挙によって代表を選出することにあるとされている。中国にはいまだに一般選挙がなく、その意味ではいかなる意味でも民主制とはいいがたい。
 中国の政治システムは基本的には共産党が人民の利益を代表するという代行論に立脚している。それは支配者が被支配者を配慮するという儒教以来の仁政論を継続するものであり、その意味では人民に権力を与えるという民主主義を否定するものである。これは人民を主体にしようとした毛沢東の歴史的な志を裏切るものである。
 この民主主義の欠如を補填しているのは単純なナショナリズムや大国主義のイデオロギーである。偉大な中国民族の伝統といった言い方は国家指導者だけでなく一般人民にも浸透している意識であり、こういう幼稚な意識が瀰漫しているのは、とりもなおさず中国の政治思想の後進性を示すものであろう。
 専制国家の規定として民主主義の欠如のほかに人権の侵害や法の支配の欠如があげられる。中国における人権の侵害は、そもそもアジアには人権感覚がなかったという背景を持っている。これはよく知られていることであるから法の支配についてだけ付言する。
 中国には法治よりも人治という伝統があったが、近年の現象としては南シナ海は中国の「核心的利益」であるから国際法に関わらず中国が支配するという主張が着目される。ここに露骨に表れているのは「利益」が「法」に優位するという発想であり、法の支配の考えは根本的に存在しない。中国には利益を越えた法規範という発想がなく、国際法を無視するのは当然なのである。
 今年の中国の専制主義を代表するのは香港の民主制の破壊であろう。香港の民主制は議員は「愛国者」つまり親中国派に限定することによって完全に破壊されることになった。これは民主主義への無理解であるだけでなく、一国二制度という香港の英国から中国への返還の協定にも違反するものである。英国がそれに強く抗議することができないのは英国はもはや大国ではなくなったということが背景にあるであろう。
 むろん香港の運命には今の中国の思想水準の低さも関係している。中国では共産党の指導の下で洗脳教育はあっても自由な思想の展開は封じられている。その結果は「愛国者」というような幼稚かつ無教養な用語の使用となる。無論ここには思想家などは一人もいない。共産党指導部は「愛国心はならず者の最後の言葉である」という西洋の格言すら知らないのであろう。
 香港の民主制が破棄されたことは、香港の一応の民主制は英国の植民地として与えられたものにすぎなかったことと関わっているであろう。このカッコつきの民主制は後見人がいなくなるとともに、もろくも壊滅したわけである。新聞や組合が早々と自発的に解散したこともこのことを物語っている。しかしこのように民主主義が自ら獲得したものでないことによって簡単に破棄されたことは、同様に民主主義を占領によって与えられた日本国にとっても無関係ではないのである。
 ロシアには歴史的に西洋的要素とアジア的要素があるが、プーチンのロシアは明らかにアジア的専制の流れにある。

 日本国は民主主義と人権及び法の支配によって特徴づけれらる西洋と価値観を共有しているとされるが、これは疑わしい。
 まず第一に反民主主義原理としてのテンノーが存在する。象徴天皇制は君主制の遺制(識者の中には日本国は立憲君主制の国であるとして、主権の所在によって規定される政治体制への無知もあるようであるが)というよりも、権威に対する受動的服従という価値観の具象化なのである。
 天皇制は上下貴賤という差別意識のもとに成り立っているが、またテンノーに基本的人権がないことに示されるように、人権無視は日本国の国是のようなものである。この人権無視は他国との接点である出入国管理において端的に表面化する。
 日本国は以前から欧米諸国よりも難民受け入れ率が二けたも少ない。出入国管理施設で自殺者が相次いでいたが、今年も人権無視で病死者が出ている。さらに今年は難民申請に関して裁判を受けさせることなく送還して裁判所から憲法違反とされている。
 法務省の機関が憲法違反をしているのであるから、日本国の法の支配が怪しいものであることは容易に想像できることである。法の支配は国家権力を限定し人権を守ることを基本モチーフにしているが、人権医師に乏しいところでは本の支配も薄弱なものになる。ここでは条約について触れておくことにする。
 たびたび北方領土の返還ということが唱えられているが、このいわゆる「北方領土」と言われるものは地理上「千島」と呼ばれるもので、それはサンフランシスコ平和条約で日本国が放棄しているものである。これについては当時の首相や外相が認めていることであり、条約批准の際に条約局長が明言しているところである。「北方領土」という表現は1960年ころ右翼団体大日本愛国党の赤尾敏などが言いがしたもので、いつの間にかそれが国論のようなものになってしまったものである。
 サンフランシスコ平和条約のような第二次大戦後の最も基本的な条約の主要部分がこのように出鱈目になるということは、自ずから日本人の法認識を窺わせるものである。「北方領土」という発想に見えることは法規定よりも卑俗な国益を優先させることであり、それは実は中国の「核心的利益」圏の発想と似たものである。ここでは同様に国際法原則よりは利益が優先される。両国ともに西洋流の人権や法の支配があるとはいいがたい。日本政府が香港の民主制弾圧やウイグル族の人権弾圧やミャンマーのクーデタに対する批判が中途半端なものになるのは不思議ではない。
 民主主義、人権、法の支配というどの面からみても日本国は欧米よりも中国に代表されるアジア的な価値観と近い関係にある。
 国際法について言いうることは憲法についても生じることになる。その代表は第九条の規定と現実の齟齬に見られるが、そうした例からも見られることは、日本国に法の支配がありうるかということであろう。内外ともに法よりも便益が支配し、法の不支配が否定できないことである。これは国家功利主義と言ってよいであろうが、そうしたありかたがもたらされたのは、南島からの渡来人を北方からの渡来人が支配し、法よりは権威を優先させるテンノーを生み出した国家形成の由来にまでさかのぼるものである。
 利益に優位する法の観念や法原則によって権力を創出し制御するという発想がなかったから、日本国は元来は非憲法的国家であり、日本人は非憲法的人民であると言っても過言ではない。こういう非憲法的な国家国民がたまたま憲法というものをもたらされる場合には奇妙なことが生じる。それは一方において憲法が単なる建前にすぎないものになり、他方では憲法を仏神化したり単なる文字とするという文字フェティシズムが生まれる。それは別の局面では憲法改正が倒錯的に自己目的になったり、中身よりは文字表現の問題になることに現れる。しかしそうした思想も理念も欠いた憲法改正が単なる建前になることは目に見えている。
 日本国では憲法が猫に小判となる疑いは国会における憲法審査会なるものにも見ることができる。憲法によって授権された国会が憲法を審査するさするというのは奇妙なことであるが、その国会というものは議員の四分の一以上の要求があれば内閣は臨時会を招集しなければならないとされている(第五十三条)にもかかわらず、無造作に無視されている存在である。内閣が憲法違反をしているということは国会が憲法違反をしているのと同じであり、そうした国会に憲法を審査する資格があるかどうかは疑わしい。
 このように元来が規範原則的でなく、便宜主義的なところに短所だけでなく長所を持っていた日本人には憲法を持つ能力があるのかという由々しい懸念が浮かび上がってくることになる。似たような事情にあるのは抽象的思考を好まず、成文憲法を持たないイギリスである。だから誰も理解しない言い方をすれば、日本国は成文憲法などは廃止して不文憲法つまり慣習法にした方がよいくらいのものである。そうすれば建前と本音のギャップの生まれないことになろう。しかし成文憲法を持たないことはややプライドを傷つけられることではあろう。

 今年はガス首相が辞任したが、これは単なる能力不足の結果である。この首相はコロナが急増する中で「中等症は自宅療養」と言って反発を買い、撤回したくないので「中等症以上は入院」と言いかえたが、これは低能が言うことであろう。この首相の能力不足は記者会見を見ても一目瞭然で、記者に提出させた質問に役人が書いた回答を棒読みしている。もっともこうした専制国家的なやらせの記者会見にぺこぺこと「お伺い」をしている記者も記者であり、内閣記者会は御用記者会と言ってよいであろう。日本国の報道の自由度が国際的に低いのは当然のことである。そうして報道の自由度は民主主義度のバロメーターでもある。
 こういう首相がどうして首相になろうという気を起こしたのは謎であるが、この首相がデジタル化を進めたがっていたことはデジタル化の一面を物語るものであろう。つまり見識がないものにおいては政治は管理統制であり、デジタル化を思い至ったのであろう。しかし国民の個人情報を一手に集約する半面で、学術会議事件で見られるように、政府は集めた情報について一切説明をしないということは、デジタル化は単なる支配の道具になるということであろう。情報の非対称性は専制国家の特質であろう。もともとCDが自然の音を一部を集めたものにすぎず、利便性はあるけれども自然の音でないことはデジタル化についても言いうることである。
 その間に日本国家はいざとなれば国民を見殺しにする(命の選別)ものえることが明らかになったことは記憶に値することである。とかくして無能な施政者は災いである。
 続いてキシダが首相になったが、彼れは考えの浅い軽量級のようである。新しい経済ならばともかく、新しい資本主義などと妙な大ぶろしきを広げていたが、その実はアベの成長の好循環によって分配も潤うという枠の中にある物のようである。しかし「好循環」というのは単なる期待であり、政策ではない。政策というものは例えば富裕者増税というように具体化されなければならないものである。そこで残るのは大企業の優遇ということだけであるからペテンに近い。
 キシダは広島の出身だから核兵器の廃絶に思い入れがあるということを言っているようであるが、彼を特質づけるのは、外相時代に国連における確信し条約の反対投票していることである。それがアベ政権の方針であり、キシダが核廃絶の志を持っているのであれば、外相を辞任すべきであったであろう。しかしキシダな核廃絶論はそれほど徹底したものではないのである。核禁止条約に反対するということは、アメリカのような核保有国が核拡散防止を優先し、また核の傘のもとにあるという意識からするものであろう(非核三原則はもう忘れたのであろう)。しかし核の傘などというものは単なる幻想であり、またそれは核禁止と矛盾するものではない。なぜなら愚かにも核の傘を信じているとしても、核を禁止すれば核の傘という妄想も不要になるからである。
 キシダはまた敵基地攻撃を選択肢にしているようである。野党は敵基地攻撃を現実性がないなどと言っているようであるが、与野党も劣化している。今年は太平洋戦争80年の年である。敵基地攻撃ということは戦争行為であり、それが憲法と合致するかどうかは言うまでもないであろう。敵基地攻撃は第二の真珠湾攻撃である。キシダは何もあまり信じることはないスマート(デジタル)人間なのである。浅薄な姿勢者も困りものである。
 その間に衆議院の総選挙が行われている。この選挙は立憲民主党の一人負けであった。敗北の原因は争点形成に失敗したことであろう。すでに長期政権による権力腐敗が目に余るものとなっており、権力腐敗に対する王道は権力を変えることにある。だが立民党はそこに焦点を当てることなく、かえって成長か分配かという自民党が作った土俵に上がってしまい、ピンボケの選挙をしていたようである。立民党は相手の力に負けたというよりも、自分で勝手に滑って敗北したわけである。批判ばかりという批判があるようであるが、権力を監視しなければならない野党が批判するのは当然のことであり、むしろ批判が不徹底と言った方が近い。権力をとらない野党第一党はネズミを捕らない猫と同じで役に立たない。立民党は政治とはまず優先順位を決めることであることを知らないようである。このアマチア集団の失敗はベテラン政治家の助言を求めなかったことにも一因があろう。逆に、後になって意外な結果であると驚いているような現実感覚を欠いた学者が関与すると、選挙には必ず敗北する。
 今年はいわゆる政治改革の25周年でもあったが、その結果はすでに出たと言ってよいであろう。。この事態は長年の自民党支配がリクルート事件などの腐敗によって政権から転落し、その原因は派閥の横行を許す選挙制度に原因があるとされ小選挙区制を導入することに帰着するものであった。小選挙区制を導入すれば選挙は政策中心的なものになり、派閥は弱体化するであろうし、やがて二大政党が生まれる可能性があり、政権交代も容易になるであろうとされた。しかしこの幾分皮相な改革論は自民党の事情から生まれたものであるが、御用学者たちはこれを政治改革と呼んだのである。そもそも政治は国民性に深く根差したものであるから、一つの法律で改革できるようなものではないのである。現に面白みのない選挙制度のもとで有権者の半数近くは棄権するようになっている。
 この政治改革によって予期されたように自民党は政権に復帰し、また腐敗も復活することになった。政権が腐敗する時には、腐敗するにふさわしい担い手を生み出すものであり、2010年代の腐敗の主な担い手はアベ商店であった。
 それを象徴するのは近年の参議院選挙での河井候補者の買収事件であろう。河井候補者の夫はアベの側近であるが、妻の候補者には自民党から1億5000万円の選挙資金が渡されている。これは普通の候補者が受け取る金額の十倍にあたるものであり、それが買収の引き金になったのであろうことは容易にそうされる。党の経理責任者の幹事長は知らなかったそうであるが、ということは総裁が直接指示したことしか考えられない。権力の私物化はアベの専売特許なのである。この場合党からの資金は買収に使われていないとされているが、金に色目はついていないのであるから、買収は別会計にしているという非現実的な想定でもしなければならないであろう。自民党の収支構造からすれば党資金の大半は政党交付金であるから、政党交付金つまりる国民からの税金が買収に使われたということであろう。
 しかし政治改革以前の腐敗がロッキード事件やリクルート事件のようにいわば単純な贈収賄構造を持っていたのに対して、政治改革後の腐敗は河井事件とは異なって権力そのものの腐敗という違った種類のものになっている。腐敗に質が変わり、いわば腐敗の進化が見られる。
 その代表的なものは森友事件である。これは文書改ざん事件に矮小化されているようであるが、本来は財務省の背任事件であり、文書改ざんは、そこからの不都合を隠ぺいするための付帯事件である。財務省は国有地を大幅に値下げして売却したのはゴミがあったということを口実にしているが、ゴミなどなかったというのが真相であろう。この肝心な点について検察は捜査すらしていない。
 つまり近年の腐敗は政治家だけの腐敗ではなく、権力そのものの腐敗という特性を持つようになっている。かつての諸事件の時には検察がまだ機能していたのであるが、近年においては検察つまり権力そのものが腐敗するようになっているのである。
 どうしてこのように権力が腐敗するようになったのか、その原因ははっきりとしている。近年の腐敗は権力は腐敗する、絶対的権力は絶対的に腐敗するというアクトン卿の命題そのものである。政治家改革は小選挙区制を導入するとともに権力の集中化もたらすものであり、腐敗しないはずがないのである。
 近年の検察がらみの腐敗の最も不可解な事件はゴーン氏事件である。有価証券報告書の役員報酬の過少記載があげられているが、そういうことは任意の事情聴取でもすればよいものであり、空港で待ち受けて逮捕し、人権侵害を伴う長期間の収監には極めて異常なものがある。フランスではこの事件は当初からゴーン氏を追い出すための仕組まれた陰謀であるとされていたが、それは基本的に正しいと言えよう。そうしてこの陰謀は日産だけでなく、産業経済省、検察おそらく首相官邸を含んだ国家的犯罪を窺わせるものである。権力の恣意的行使はまさしく「専制国家」の特質である。国民がボヤボヤしている間に国家権力の腐敗は奇怪なところにまで達している。
 こうした由々しい国家権力の腐敗が予想されるにもかかわらず、ゴーン氏が逃走することによって事件の真相は裁判で明らかにすることはでないようになり、日本国の国家権力には闇が漂っている。この事件はアメリカにおいてはトランプのクーデタ事件に似たところがある。アメリカでの司法当局は解明に消極的であるが、議会は特別委員会を設置して、トランプ政権の幹部を含む100人以上の事情聴取し、応じない場合は処罰を課している。しかし今の日本国の国会にはこうした国家権力を解明する力はありそうもない。
 二大政党化や政権の交代に関するならば、この25年間で政権交代が生じたのは一度だけである。政治改革以前の野党(維新は含まない)の議席は与党(公明を含む)のほぼ2分の1であったが、改革後は3分の1にまで縮小し、政権交代の可能性はむしろ少なくなっている。選挙制度の変更の一つの顕著な結果は公明党が与党化したことである。小選挙区では勝ち目がない公明党は自民党に接近し、下駄の雪のように従うことになった。本来中道政党であった公明党が保守政党に加担するようになっために、日本国の政治構造では政策と政権とのずれが生じ、政治構造が保守に傾き、ひいては政権の交代を困難にしているのである。
 あまり芳しい結果と言えないだけでなく、政治の不気味な再腐敗をもたらしたいわゆる政治改革には学者も関与したことは注目される。政治学は実践の学であるということを学者も実践的であるべきと理解したのであろう。しかし机上の教科書的な議論が政治の現場にそのまま通用することは予期しがたいことであり、現に予想外の結果を生むことになっている。このようにして学問が政治に接触することになると、必然的に学問は政治に従属するようになり、学問は自律性を失い、学者は宦官化することになる。だから古来学者は政治から一歩距離を置くように戒められていたのである。第一級の政治学者で勲章をぶら下げているものはない。この学問の荒廃が学術会議事件の背景にあるであろう。
 学術会議会員の任命拒否事件は学術会議側の理不尽への完敗に終わったようである。任命を拒否した私首相側が論外であるのは当然であるが、学術会議側にも拙劣さを否定できない。もし任命拒否が違法なものであるならば、そのこと自体を裁判所に提訴するという正面作戦をとるべきであって、本人の情報公開を求めるというような側面作戦は感心しない。
 学術会議側の態度が毅然としていないのは、学術会議にも問題があるからにほかならない。そもそも会員の選出が不透明であり、もし選挙制をとっているならば首相の介入の余地はなかったはずである。さらに学術会議の人事への介入は今回に始まったものではなく、アベ政権の時代からのものである。学術会議が提出したリストに首相側が難色を示すと会議側はリストを差し替えている。学術会議側は強い態度に出られないはずなのである。 
 今回の任命拒否事件は戦前の瀧川事件に似たところがあるが、違ったところもある。瀧川教授がトルストイの刑罰観という講演を行ったために文部大臣が辞任を要求したというレベルの低さは任命拒否事件にも通じている。しかしこの文部大臣の要求に京都帝大は総長はじめ断固反対の態度を示し、16名の法科大学教授が辞表を提出し、最終的には7人が免官になっている。当時の法科大学教授は今日の法学部教授とは比較にならない社会的地位を持つ高等官であり、彼らの矜持の高さが窺える。その際京都大は他大学の賛同を求めようとして学生を派遣しているが、東大法学部は学問の自由を守ろうとはせず、傍観的態度に終始している。ここには権力の近くあろうとする東大法学部の特性と問題性を見ることができよう。これは90年前のことである。
 半世紀前の日本国では学者は専門のほかは何も知らない専門バカと呼ばれたものであるが、今の日本では恥ずかしげもなく哲学者や思想家や学者と自称する向きがあり、学者へのマイナス・イメージはなくなったかのようである。しかし政府の態度からするならば学術会議の会員は政府の眼鏡にかなった御用向きの学者ということになるであろうが、会長をはじめ辞任したものは一人もないようである。とすると学者というものもかつてのようなプライドはもはやなく、ささやかな地位や利得に固執しようとする集団になっているかのようである。無論これは多くの若手研究者が貧しい環境にあることの現れであり、その反面で一部の特権者が既得権益に安住しているということであろう。とすると学術の現状はどうなのかということが問題になってこよう。
 日本国の学術が上昇過程にあるとは誰も言えないことであろう。それは出版物を見ても一目瞭然である。むろん学術の比較ということは容易ではなく、データとしては論文の引用度程度のものしかなく、多くは実感にとどまらざるを得ない。実感としてであれば日本国の学問が数十年前よりもレベルダウンしていることは否定しがたい。ノーベル賞も多くは数十年前の業績に対するものであって現況を示すものではない。今日の身近な例では、コロナワイルスのワクチンは欧米諸国のほか中国、ロシアやインドでも自国で生産されているが、日本国ではまだ自力で生産できていない。これは単に政府の補助金の有無だけのことではないであろう。

 今年はまた五輪の年であった。コロナが拡大する中で五輪を開くということ自体が常識に反していることは疑いない。外国人の入国を原則的に禁止している中で何万という五輪関係者は気前よく入国させているのは
誰のためだったのであろうか。
 おそらく五輪ないし政府関係者には五輪を開かないという選択肢がなかったのであろう。なぜなかったのかと言えば、それは既定のことだからである。一度決めたことは、その非が明らかになっても、改めて見直そうとしないという行動様式はすでもにヘノコに関して観察されることである。さらに遡れば太平洋戦争の開始がそうであった。あらゆる側面から見てアメリカと戦争することの無謀さは明らかになっていたが、やることになっている以上はやらざるを得ない。どうしてやることになったのかと言えば、さまざまなステップの積み重ねでそうなっているのであり、「自分が主催者ではない」。要するにこれが日本的意思決定というものであり、そこには決定主体というものがなく、したがって責任というものもなく、すべてはもたれあいの相互依存の中でなされているのである。本来は考えられない五輪開催という事態は結局日本国にはリーダーというものがなく、リーダーシップもないためと考えるほかはない。リーダーシップは見識と実行力によって成り立つものである。そうした主体がないところではリーダーシップもありえない。
 他方で五輪にパンとサーカスという意味があったことは確かである。餌と娯楽を与えれば政治から国民の目をそらすことができる。これはローマ以来専制国家の施政者が愛用してきたものである。現に日本国は選挙の年であり、1億5000万円の問題から国民の目をそらすことができている。
 この五輪の特徴は開会式に見ることができる。これは一見して一貫したコンセプト、というよりもコンセプト自体が欠けているものであった。それは開会式の直前に演出者のお笑い芸人が解任されたことによるところもあろう。お笑い芸人がナチのユダヤ人虐殺も笑いの対象にしていたことが発覚したためであるようである。組織委員会の見識レベルのお粗末さが現れるとともに、この五輪の意識水準も現れている。
 最初の方で「君が代」が出ているのにも耳を疑われることであろう。そもそも五輪がアナクロニズム的なものになっているのは、国民国家の限界が現れている時代に国旗や国歌を大げさに扱っていることにある。しかも今回の五輪自体が「多様性と調和」をモットーにしていたのであるから、個別的なものを強調するのはそのモットーにも反している。コンセプトの欠落はここで最も著しい。東京都教育委員会は君が代を歌わない教員を処分しており、コイケ知事は恒例の朝鮮人の震災犠牲者へのメッセージを送ることを拒否している。こうした東京に五輪をやる資格があったかどうかどうかは疑わしい。
 多様性ということは個々の違いを尊重するということであるから、特殊性を強調するのではなく、むしろインターナショナリズムを前提にするものである。ところがどうやらこの五輪ではナショナリズムが垣間見られる。無論ホスト国の文化を提供することは自然なことであるが、国際的な場では特殊なものはあくまでも普遍的なものに寄与するものでなければならない。ところがこの開会式ではどうやら和風を強調したものになっているようである。
 今年は丸山眞男の没後25年にもなっているが、今でも丸山を「西洋的」とする幼い非難があるようであるが、加藤周一の卓抜な言い方を借りれば、これは単に思想が「発生」した地域と、それが「妥当」する範囲を混同しているだけのことである。ここで肝心なことは伝統からの障害をおさえ、そのための有効な地盤として働きうる要素を継承することなのである。
 開会式がモットーに反して和風を強調していることは入場行進に見られる。これは今や普遍化しているアルファベットでなくあえていろは順にしている。とするとアメリカは最初の方に出てくるはずであるが、Uとして扱い最後の方に出させている。和風原則は無原則でもあるのである。
 アトラクションでは漫画アニメのようなごたごたしたものがやられていたが、これはない方がよいようなものである。お笑い芸人にしろ、漫画アニメにしろ、今の日本文化はこういうB級文化であるとしている点では正直なところもあろう。しかし全体的にはこれは子供文化であり、大人の文化に通用するものでもなければ、そこに寄与するようなものではない。
 開会宣言の時に五輪会長は深々とお辞儀をしていたが、テンノーは会釈していただけである。実質的な戦犯を父としていたアキヒト氏は終始謙虚であったが、無知なナルヒトはズが高い。
 もっともバッハ会長は消息不明の中国の女子テニス選手の拘束状態を確認することなくテレビ会見に応じて中国に乗せられている。北京五輪ではメリカが中国のウイグル人弾圧を理由に外交ボイコットを呼びかけ、日本政府はアメリカに同調するのが「国益」か、中国を怒らせないのが「国益」かと考えている。「人権」を「国益」とてんびんにかけて弄んでいることに日本国の特性が現れている。しかし結局は人権などに何の関心もないアベなど自民党の右派議員の圧力によって外交ボイコットをして五輪の政治化に終わっている。

 五輪開会式は成人式を思い起こさせる。日本人は気が付いていないようであるが、世界の約200国のうち成人式のようなものをしているのは日本国だけである。成人式はかつての元服のように閉鎖集団の入会式(イニシェーション)に相当するものである。この種のものは諸国でも行われていたが、社会がムラ共同体(ゲマインシャフト)から個人単位の社会(ゲマインシャフト)に変化するにしたがって消滅していったものである。日本国で成人式がなお行われているのは、日本国がなおムラ共同体的なものを持続させていることを示すものである。村共同体は情緒的な中世によって成り立つものであるが、市民社会は契約への参加によって成り立つものである。
 元号とともに成人式が持続しているということは、したがって日本国が世界でも珍しいガラパゴス島の状況を持続させているということである。成人式の機能は社会の一人前の構成員としての権利を与えるとともに、その社会のルールに従うことを習慣づけようとするものであろう。しかし日本国の成人式は大人になったことを記念し、社会の習慣に従うとともにあまり独立的な主張をしない文化、自発的従順を表明するようなものである。それは古代以来の日本国の成立に根差すものであるが、若者も成人式を喜んでいるらしいことは、自発的従順性の文化がDNA的に遺伝しているということであろう。その意味では成人式は20歳になっても未成年であることを確認するようなものであり、七五三の延長のようなものである。無論成人式で和気あいあいとするのは微笑ましいことであるが、日本の和というものは輪であり、真綿で絞めるようなものである。画一的に振袖を嬉しがっているのでは持たないものは疎外されるであろう。各人が多様な服装をして初めて成人と言える。成人式的なありかたはチームへの参加というよりはムラに「入る」かのような入社式にも残存している。
 このように社会構成員が子供的であるということは、元号と同様、天皇制国家と深くかかわるものである。構成員が未成年であるということが天皇制国家の前提であり、したがって旧憲法下では天皇は親であり国民は赤子であると仮構されたわけである。そうしたテンノーを神化して狂信的な戦争もしている。新憲法下では親子関係というのはあまりなことであり、テンノーは保護者のように「寄り添う}ものになっている。しかし国民が独立的でなく依存的なものとされているのは同じである。こうした臣民があって、こうしたテンノーがあり、両者は相互前提的なものである。
 今年の珍事はマコの結婚であろう。この結婚には国民の半分以上が反対であったということであるが、婚姻は両性の合意のみによって成立するという憲法のもとで、他人が容喙すべきものではない。日本人の多くは皇族の結婚は制限されて当然であり、国民に発言権があると思っているようである。ここには差別するものが逆に差別されるようになる差別の弁証法がある。この件で表面化したのは国民の意識の方がマコのそれよりも遅れているということであろう。その意味で基本的人権がないことに満足しているテンノーよりは皇族の虚構から脱して、リスクを自分で負うことにしたマコの方が偉い。
 憲法学者の中には平気で皇族には結婚の自由がないとする意見があるようであるが、現行憲法下では皇室典範は憲法の下にあるから、皇室典範に憲法違反があるのである。しかしもともと象徴天皇制には問題があると言った方がよい。象徴というものは多くは物がなるものであり、人間が象徴になるのは変則的である。人間が象徴になると物化してロボットになるほかはない。こうした物に基本的人権がないのは当然のことになる。象徴天皇制と人権は二律背反で両立しない。したがって現行憲法に改正の必要があるとしたら、それはまさしく第一条にあると言ってよいであろう。他に挙げられているものは憲法を改正するための口実にすぎない。
 しかし象徴天皇制の廃止ということはほとんど見通せない。それは「変化」「とか「多様性」ということが声高に言われながらも、その基底にある象徴天皇制についてはほとんど盲目状態であることからも、だれも本気で何かを「変化」させようなどと思っていないことが自明だからである。これが日本国のガラパゴス状況であって、必要に迫られて「多様性」ということにも譲歩しているが、その原則は画一同調性である。日本国の転換が困難であるのはガラパゴス的価値観は生得的なものとなり、そこからの転換はアイデンティティの危機を招くからである。これはジャーナリズムに関しても言えることであり、批判的で知られる新聞もテンノーに関するならば急にかしこまっている。学者という人種も多くは去勢されているようである。
 にもかかわらず民主主義等の基本的価値観からも、また国際的な接触の増大によってガラパゴス体制は維持することが困難になる。日本国は歴史的アイデンティティと国際的生存の間でジレンマにあり、絶滅危惧品種になっていると言ってもよいであろう。しかしここからの打開策としては、歴史的に多くの日本人がとるのは「回心」ではなく「移行」である。それは問題点をずらすということであり、あるいはせいぜいが維新ということであろう。それは明治維新が市民政府への革命ではなく、支配の上部の取り換えであったことが示すように、改革保守主義である。
 しかし愚かで航路難ということは日本国だけのことではない。今までもそうであった以上に最近は神に似せられて作られたと言われる人間があまり賢くないということが顕著になってきている。それは状況と問題が大きくなったためである。おまけにデジタル化によって思考力は急低下し、人間は状況をコントロールできなくなりつつある。ハーバーマスは「知らないということを今ほど知っている時代はない」という言い方をしているが、コロナは終わるのか終わらないのか、だれも知っていない。これは神の声を聴かなかったソドムとゴモラが破壊されたのと同じようなものなのか、だれも知らない。
 しかし心静かにメシアンの奇妙な四重奏曲を聴くがよい。この世が終わりになることはあの世が始まるということである。またこの世がこの程度で済んでいるということは、状況に抵抗する人々がいたからであろう。ペレイラ博士のように。
 とはいえ「移行」好きの国ではさしあたり問題を回避しようとするであろう。幕末維新の不安定な時代には、だれが企図したのかは不明であるが、エエジャナイカという運動が起こっている。無知でエエジャナイカ、ガラパゴスでエエジャナイカ、沈没でエエジャナイカ、子供でエエジャナイカ、愚かでエエジャナイカ等々。かくして日のもとに新しきものはなく、すべて世に変わりない。めでたさも中くらいなりおらが島?a happy new year?

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