ガラパゴス国家の終焉2023年12月29日 20:08

 失われた30年ということが言われる。確かに30年前はこの国のGNPは中国を上回っていたが、今では三分の一以下である。一人当たりの国民所得は、この時期が始まったころはこの国はG7で首位であったが、今では最下位である。もっともその前の高度成長期には日本人はエコノミック・アニマルと呼ばれていたのであるから、こういう経済的数値自体は大した問題ではなかろう。しかし近代史においてこれほど急速に転落した国家は珍しいことであり、興味ある現象である。そしてそれは単に経済だけの問題ではないはずである。

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政治的にはこの時期はいわゆる政治改革の時期である。失われた30年は政治改革の30年に符合する。
 この政治改革というものはよく言われるように、いわゆるリクルート事件にみられるような自民党の腐敗に端を発したものである。長期政権の下での権力腐敗である。
 しかし政治改革では自民党の腐敗が政治の腐敗一般にすり替えられ、政治の金権腐敗は派閥政治があるためであるとされ、それは複数の自民党議員が立候補しうる中選挙区制にあるとされて小選挙区制の導入ということになった。だがこれは自民党の都合によるものであり、自民党本位の改革(?)であって、政治制度全体が巻き添えにされ、いわゆる政治改革には欺瞞があったのである。
 この改革(?)によって選挙は政策中心のものとなり、二大政党的なものが生まれ、政権交代も容易になるだろうと喧伝されたものである。しかし政治改革が始まる前年には細川非自民党政権が生まれており、事実上の政権交代がなされていた。その後の30年の間にいわゆる政権交代があったのは鳩山政権が生まれた時だけであり、それも政策選択というよりはムード的なものであった。こうして自民党政権は復活することになり、政治改革は結果的には自民党の救済策であったといってよい。
 それだけでなく小選挙区制の導入は少数政党を淘汰することになった。単独では当選の可能性がない公明党は自民党にすり寄ることになり、自民党の補完勢力になった。かつては平和政党といわれたこの政党は、敵基地攻撃を承認するまでに自民党という金魚の糞になったのである。他方でかなり原則的な論点を提出していた共産党は連携がうまくいかずミニ政党になることになった。こうしてこの国の政党の構図は右に傾斜し、政権交代はかえって困難になることになった。
 いわゆる政治改革が失敗した一つの原因は政治というものを単に制度的にとらえようとしたからであろう。政治というものは結局政治家を含めてその国の民度以上にはならないものである。問題があると制度の問題にしようとするが、政治というものはゲームでもあり、机上の制度通りにはならない。腐敗があればその政党を権力から追放すればよいのであり、ゲームの途中でゲームのルールを変えるのは角を矯めて牛を殺すことになる。腐敗政党が失脚することは政治の自律反転ということである。だから制度いじりではなく、ゲームを進行させ、権力を交代するが最も良い政治の改革なのである。
 このいわゆる政治会改革の最大の収益を得たのはアベ政権であった。政治改革はアベ政権を準備し可能にしたといってよいであろう。いわゆる政治改革は小選挙区制の導入とともに権力を集中させて、効率化を図り、首相官邸の主導性を確保するものであった。こうしてアベ政権は秘密保護法などの反動立法を成立させ右傾化を鮮やかに示すものとなった。
 しかしこの独裁的権力は当然に再び腐敗することになり、森友、加計事件のような権力の私物化を招くだけでなく、さまざまの不法行為をもたらすものであった。その最悪のものは無実の人間を犯罪者にしようとした日産のゴーン氏事件であった。
 この政治の劣化の背景にあるのはいわゆる小選挙区制導入によるによる政治家の劣化であろう。これも自民党だけのことであるが、国会議員は人口40万人程度をテリトリーとする利権ブローカーのようなものになり、こうした議員に国際政治はもとより内政についての見識を求めることはできないことになる。議員の三代目の世之助化である。
 マルクスは歴史は二度終わるといっている。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として。アベは右派宗教団体との近さから流れ弾に当たったが、そのあとに出てきたキシダ世之介は、党内党の派閥はつまらないものであるが、リベラルなところがあった宏池会の本性を知らず、それと対極的なアベ派的なことをするほどに滑稽で無知蒙昧なところがある。
 思いつくことを挙げればまずマイナンバーカードのことがある。これはキシダが考え付いたものではないが、健康保険証と一体化することにしたそうである。マイナカードはもともと任意のものとされていたが、健康保険証と一体化するものであれば、事実上義務化するということであろう。任意のものとして導入されたものがいつの間にか義務的なものにされるということは、政府が国民をだましたということであろう。こういうことをする政府は全く信用できないことになる。
 さらに重大なことは、健康保険証を廃止するということは、何千万人という国民を無保険者にするということである。これは福祉国家の出発点である「国民皆保険」の原理を破壊するものである。こういう粗雑かつ乱暴なことが生まれるのは医療行政の専門家でなく、単なるデジタル技術者が切り回しているからであろう。健康保険証をデジタルしたいのであれば健康保険証をカード化すればよいことであり、わざわざ面倒な紐づけなどということを素人にさせるべきものではない。ともかくこういうことはモンキー大臣世之介が独断でやるべきことではなく、立法措置を必要とするものである。
 マイナカードは元は国民総背番号制の失敗を引き継ぐものであるが、これは最終的には国民の金融資産の名寄せを目的とするものであった。政府が鳴り物入りでマイナカードの普及に狂奔するのは最終的にはそういうことが目指されているからであろう。信用できない政府にデータがすべて把握されるということは、この国民の境涯をよく示すものであろう。老人保険料を少子化対策に流用するなどということは糞食らえの類であろう。
 他方でキシダは軍事費を倍増するそうであるが、それは主に敵基地攻撃つまり憲法が禁止している戦争行為のためのようである。そもそも金欠病の国が少子化対策も軍事費増大もというのが間違いである。むろん軍事費の中身を問わずに税金だけを問題にする国民も国民であるが。
 軍事といえばヘノコのお粗末さがある。ヘノコの有義性はすでに完全に失われているが、政府はなおも固執し、最近は不同意の沖縄県に代執行して強引に進めようとしているようである。地方自治も何もあったものではないが、これは世之介政治がもはや耐え難い次元のものになっていることを示すものであろう。
 付け加えると、核融合反応を利用している点では原発と核兵器は似たところがある。この点で顕著なことは日本ではいつの間にか原発に回帰しているが、ドイツでは再生可能エネルギーに転換することによって原発ゼロを実現したことである。また日本では核の傘にあるという理由で核禁止条約に参加していないが、同じようにアメリカと同盟関係にあるドイツはオブザーバーとして参加している。「核の傘」という言い方は思考の怠惰を示すものであり、実際にあるのは安全保障条約を結んでいるアメリカが核を保有しているということに過ぎない。日本人の国民所得は30年前にはドイツを上回っていたが、今ではドイツ人の三分の二である。思考停止の世之介政治が転落をもたらしているのである。
 大阪万博が怪しくなっている。東京五輪は中止する決断ができずに汚点を残したが、大阪万博は言及するのもはばかるような低レベルのテーマを抱えているのであるから、うまくいかないのは当然であろう。しかしこれは何の指導理念もヴィジョンもなくただ土建工事をしているような今の日本国の縮図であり、とりもなおさず政治改革以来劣化した日本の世之助政治の狎れの果てであろう。
 この時期の終わりにはアベ派議員の政治資金違反事件が表面化することになった。これは不思議なことではなく、権力が腐敗する場合は権力に近いところから腐敗するものであるからである。そうしてこの事件は小選挙区制によって議員を劣化させ、企業献金も禁止しないざる法の政治資金規正をもたらせたいわゆる政治改革の失敗を確認するものであり、日本政治は元の木阿弥に戻ったわけである。私はこういう皮相な政治改革は最初から虚妄であると思っていたが、その通りになったのは遺憾なことである。一般化すればそれは、権力は必然的に腐敗するというアクトン卿の公理りを忘却したことを意味するであろう。
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 政治改革に関してはいわゆる政治臨調が看過できない。この政治臨調はかつての臨時行政改革をモデルにしたものであるが、産業人と現実主義的は学者(?)が連携した産学連携の政策提言集団のようである。いわゆる政治改革の推進に当たっては政治臨調が一定の役割をしたようである。
 産学連携が意味を持つ分野はありうるであろうが、政治に関しては疑問である。産業人は資本の論理に従わざるを得ないが、現実的でその限りで保守的な学者(?)はこの場合東大法学部系の政治学者(?)のようであるが、ここは本質的に官僚養成機関のようなところがり、民間政治臨調といわれるものの、財界と官界をバックとしてはどういう政治観となるかは予想に困難ではない。
 政治臨調は公的機関ではないが、政党の代表を呼びつけたり、あたかも公的機関であるかのような振る舞いがある。しかしある集会では極右政党的な維新の会は読んでも、伝統的な左翼政党である共産党を読んでいないことは、臨調の反共的性格を物語るものであろう。そうしてこの臨調は小選挙区制の導入に当たっては単に提言するだけでなく、政治家に接近し、横からの介入という非民主的なやり方でそれを実現させようとしている。そうしてその結果については責任を取ることはない。政治的活動をするのであれば、資金収支を公表すべきであろう。
 いわゆる政治改革が失敗したことは臨調的な政治観にも関係があろう。この集団は近代経済学的な人間観つまり合理的エゴイスト像を持っているようである。選挙の際にはマニフェストを読み比べて合理的選択をするかのようである。しかし現実の政治は合理的計算ではなく、そこにはレトリックや取引や暴力もかかわっている。したがってこういう現実主義的な単純な政治観は現実の政治によって裏切られることになる。
 臨調的提言が失敗するのは経済人的、官僚的な政治観の結果でもある。彼らにおいては目的は与えられて、その目的を達成するにはどのような手段が適合的であるかが問題である。マックス・ウェーヴァーの用語を使うならば、それは「目的合理性」の原理に立つものであり、目的そのものが合理的であるかを問う「価値合理性」の世界ではない。しかしそれは政治を行政に縮減するものであり、むしろ政治の世界を排除するものであろう。だが今の政治の中心的な問題は、マイナにしろ、ヘノコにしろ、あるいは原発にせよ、ジェンダーにせよ主な問題は価値合理性の問題なのである。
 臨調は最近は令和臨調として新しい問題に対応しているようであるが、その名称自体が旧守的であることを否定できない。のみならずこの団体には政治学者(?)が財界人の雇われマダムのようなところがり、学問の自律性にも危惧すべき喪に尾がある。臨調に必要なことは提言というよりも自己批判であろう。

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経済の側面ではこの時期はバブル経済が崩壊してデフレに苦慮していた時期である。これに対して政府は財政支出を増大させて対応しようとしていたが、その後半にはいわゆるアホノミクスが登場する。これはいわゆるレーガノミクスをモデルとしたものであるが、大企業が潤えば中小企業にも「好循環」するであろうというトリクルクランと呼ばれる気楽な議論に立脚するものであった。
 しかしアメリカにおけると同じくうまくいかなかったのは、利潤を追求する資本主義に「好循環」というものは内在していないから当然のことである。資本主義は慈善事業をしているわけではないから、いわば社会主義的な介入が不可欠だったのである。
 アホノミクスは金融緩和することにより、それに伴う円安とともに自動車産業などの輸出型の大企業には膨大な利益をもたらすことになった。しかし日本の大企業は新しい事業を展開するというよりは内部留保に努めたから産業は停滞することになった。その半面で中小企業には一向に潤いは回らず、むしろ実質賃金は減少することになったのである。
 その背景には連合の会長が自民党首相の私的懇談会に参加することにみられるように(連合がどうしてこんな会長を選んでいるのかは知らないが)、日本の労働運動が右傾化して労働者の立場を主張することに消極的になったことがあるであろう。日本の労働組合は大体が企業内組合であり、堂々とゲームをするというよりは同調同に傾斜することになる。この日本的協同主義(コーポラティズム)を背景として今では日本国では居住、食事から旅行に至るまで大企業従業員と中小企業従業員の間には歴然としたギャップが生まれることになり、その断絶は同じ国とは言えないようなものになっている。
 アホノミクスの他の面は低金利政策とともに膨大な財政出動によって景気を刺激させようとして巨大な財政赤字をもたらしたことである。それは日銀が無制限に国債を引き受けることによってなされている。このためにも金利は当然に低くしなければならないことになる。しかしそれはまた円安を加速させ、輸入品価格を高騰させ一般国民を苦しめることになる。
 ここにもたらされた円安は日本の経済力の低下を示すものとなっているが、それはまた放漫財政の結果である。日本国の借金は国民総生産の倍以上になっており、革命が起こって以前の政府の負債を帳消しにすれば別であるが、ハイパーインフレでも起きなければほとんど返済不能のものである。今の日本国はかつての幕末と同じように実質的に財政破綻しているといえよう。
 放漫財政による財政の危機は低金利によってかろうじて避けられているが、これはいつまでも続くものではない。仮に長期金利がアメリカ並みになるとしたら政府の年間の返済額は五十兆円以上になり、明らかに返済不能であり、債務不履行(デフォルト)は現実のものになるであろう。その際には日本国はかつてのギリシアのようにIMFの管理下に置かれ、厳しい財政支出の削減を求められることになるであろう。
 産業の実態は停滞していたが産業経済省は「日本はすごい」などと自画自賛していたものである。しかしその実は日本国はロケットも打ち上げられず、ジェット機も作れない国になっていたのである。日本が世界の先端を行っているのはコンビニくらいのものであろう。日本人は雄大な事業には向いていないようであるが、細かいことに忠実なところがあるから便利屋には向いているのであろう。さらには観光業があげられようが、観光業は本質的に乞食産業的なものであり、奨励するようなものではないであろう。
 看過できないのは経済が退嬰することに政治的腐敗が連関するようになっていることである。その代表的な例は日産のゴーン氏事件である。これはゴーン氏がルノーとの統合を図っているという不確かな情報をもとに、日産と産経省と検察、およびおそらくは首相官邸が連携してゴーン氏に不正があったことにして失脚させようとした事件である。ここには偏狭な経済ナショナリズムと権力の腐敗に結合があり、みじめな産業政策がうかがわれる。その訴追はゴーン氏が有価証券報告書に役員報酬を過少に記載したという口実でなされたが、ゴーン氏は報酬の一部を退職時に受け取ることを秘書室に検討させていたものの正式には決定に至っていないのもである。その検討した金額が記載されていないから過少記載であるというような笑うべき低次元の起訴理由はこの事件が捏造されたものであることを物語っている。このようにして日本の産業は有能な経営者の一人を闇に葬っている。ともあれこの事件は日本の産業が無実の人間を罪に陥れるようなものになっていることを示すものとなっている。私はこの事件の方を聞いた時にこうしたことで逮捕したり長期拘留するということには何らかの背景があり第二の大逆事件のようなものであるとすぐわかったが、この事件の全体像はいまだに明らかにされていないようである。太百事件の冤罪性についてはすでに明確になっているが、この事件では研究者の追求力の後退が目に付く。
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 いわゆるアホノミクスに関しては多少ともマルクス経済学の心得があればすぐ問題に気が付かれるはずであったが、多くの人が追随していたことは、マルクス経済学が後退したことにも関係があるであろう。むろんマルクス経済学がそのままで通用するものではなくなっているが、資本主義の基本性格に関しての洞察は必ずしもすべて過去のものとなったのではないであろう。この点でこの時期にカラタニという哲学者(?)がたえずマルクスを論じているのは興味深いことである。
 カラタニは経済というものを交換からとらえるという新しい機軸を打ち出しているようである。だが経済というものは元来オイコスを問題にする家政学から出るものである。つまり経済というものは衣食住という端的に物質代謝的なものに係るものである。その意味で交換に機軸を置くというのはすでに出発点において懸念されるものがある。彼はポトラッチのようなものに一種の理想を見ているようであるが、ポトラッチはいわば経済外的な行為である。
 カラタニの主題も資本主義にあるようであるが、その扱いはマルクスとはかなり異なっている。かれは交換のような経済構造と「力」との関係によって経済をとらえようとしているようであるが、この力というものが判然としない。力は交換から生み出されるようでもあり、その外側にあるようでもある。
 おそらくカラタニの力というものは経済の上部構造であり、イデオロギーや権力のことなのであろう。マルクスにあっては上部構造と下部構造は相互に制約関係にあるが、弁証法的な論理を持たないカラタニの場合は、この両者が外在的なものになっている。
 これはカラタニが学部時代には宇野経済学を学んだが、大学院では文学を専攻していることに関係があるようである。宇野経済学というのはマルクス経済学の科学化であり、それはマルクス経済学にあったイデオロギー的な要素を払しょくして科学的なものにしようとするのもである。しかしマルクス経済学というものは政治経済学であり、単に記述的なものではなく実践的なものである。しか宇野のようにマルクス経済学をそのように脱色するならば、それは科学としての近代経済学と同じような構造のものとなる。つまり経済学は現実の客観的な記述として、実はパレート均衡に由来する近代経済学とさして変わらないものになる。これはマルクス経済学の根本的は変容をもたらすものっである。
 おそらくカラタニが文学に移行したのは、宇野経済学が単なる科学になった空洞を埋めるためであったのであろう。しかし宇野経済学も非弁証的なものであるから、科学としての経済学とイデオロギーとしての文学は外在的な関係とならざるを得ない。宇野経済学と文芸評論の折衷である。
 こうしてカラタニにあってはマルクス主義的な議論は、一方で史的唯物論的なものになるとともに、片方のイデオロギーや権力はそれとは必然的な関係にないことなり、両者は外的に配置されることになる。その弱点が端的に表れるのはまさしく資本主義の場合であって、カラタニは資本主義に対抗する力を見つけることができずに、マルクスは力に負けたなどとしている。
 こうした帰結になるのは経済システムは一定のイデオロギーを生み出すとともに、またそのイデオロギーによって制約されているという相互関係に立つものであり、そうであってこそ上部構造が下部構造に働きかけることも可能になるが、カラタニにあってはこの両者が外的関係にしかないためである。経済システムとイデオロギーや権力との内在連関がなければ、思想や実践がシステムに介入することもできない。これはまさしく哲学の貧困であって、哲学ならぬ臆断による様々な意匠の羅列は不毛なものに終わっている。
 こうして国家破産の現実を前にして、それに対応すべきマルクス経済学も、まさしくそれに見合った無力さを示しているといえよう。これも一種のマルクス葬送であろう。これは独創的なペテンといってもよいであろうが、こうしたカリオストロ的な議論に感心する向きもあるというのがこの時期のこの国の的風景の一端なのであろう。

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 この国の衰退には社会的、文化的、学術的な要因が関与しており、それは筆者も直接的に見聞していることである。
 筆者が大学を卒業するころはいわゆる大学紛争の時代であり、大学は学問をするような環境にはなかったものである。このために筆者は緊急避難的に保険会社に就職することになった。就職の理由は終業時刻が4時であるという理由だけであった。ところが入社してみると終業時刻が過ぎても上司が帰らない限りは何をすることもなく机にしがみついている。低生産性は明らかであり、こうした日本的会社風景は今でもある程度は続いているようである。こんなところに長くいるつもりがなかった筆者は終業と同時に帰っていたものであるが。
 数年後の大学というものに帰ったが、実は大学もこうした日本的会社と大して変わらないものであった。ここでも業績というよりは集団への忠誠のほうが重視され、有能なものはかえって排除されるようなところがある。これが産業や学術にプラスになるはずがない。
 筆者が研究生活に入ったころ一つの特徴的な出来事が生じている。東大法学部の機関誌である国家学会雑誌に佐々木宥司という助教授が「バルトルスの政治思想」という論文が出、東大法学部にしては面白い論文だと思ったものである。ところがこの論文には資料の使い方に問題があるというようなクレームがついたそうである。そこで調査委員会がもたれたが,盗用のような問題はなく、掲載は削除されてもいない。しかしこの助教授は他大学に転出したそうである。
 これが東大法学部的な人事政策なのであろう。多少独自的な論文が出ると小役人風情から足を引っ張られている。こうして創造性はないけれども役人的なそつのない論文が大量生産されることになる。学会というものは凡庸のシンジケートのようなものになる。そうしたルートに乗ると独創性は見当たらなくても文化勲章などが与えられ、日本のガラパゴス体制を構成するものになる。
 東大の学問が概してこのようなものになるとすると、ノーベル賞受賞者が京都大学よりも格段に少ないことは不思議ではないことになる。しかし京大も安泰ではなく、創造力の乏しさは日本の学術の特色となってきているようである。政治学や経済学はさておき、筆者は数年前に日本の古代を調べようとしたが、参考になるアカデミーの業績は乏しく、皇国史観に先祖返りした感を受けたものである。これは日本古代史にはグローバルな視点が不可欠であり、日本列島限定の日本古代史ではどうにもならないためであろう。
 おそらくここに一端を見るような学術の在り方によって、日本の学問の創造性は後退し、科学論文の引用においても大学のランクにおいても日本国はtop25に入らなくなっている。こうした指数は民主主義度や報道の自由度や女性の社会的進出度といった他の指標とも対応するものであり、合わせて日本国の衰退を表示するものである。このように日本の衰退は政治、産業、学術の劣化の三位一体よるものであることが明らかになってくる。
 日本の学術が置かれた状況を象徴的に示しているのは、この時期の終わりの方に起こった学術会議会員の任命拒否事件であろう。政府が理由を明らかにすることもなく任命を拒否するということの理不尽さは言うまでもないことである。しかし学術会議の対応も当惑したりして毅然性を欠いていたことも否定できない。こうした弱腰のために学術会議は民間団体になるという憂き身を見かかっているようである。
 この関連で一つ注意されるのは、原発事故の「処理水」である。政府は「科学的」根拠によるものとしているが、それはEIAEが国際基準に合致しているとしていること以上のものではない。処理しきれていない放射性物質が残存しているのであるから欺瞞的に「処理水」などというのではなく、「核汚染水」とした方が適切であろう。しかし科学政策に提言するはずの学術会議は沈黙したままである。おそらく政府の政策を批判すると首が危なくなることを危うんでいるのであろう。
 この事件で特徴的なことは、政府が無茶苦茶な任命拒否をしても、こんなものはやっていられないといって蹴っ飛ばして辞任する人間が一人もいなかったことである。戦前の滝川事件でも同じようなことがあったが、その時は京都帝大法科大学の七人の教授が辞任している。戦前の学者のほうが学者としての矜持を保っていたといわざるを得ない。

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 失われた30年ということを言うとすれば、それ以前との関係はどうかということになるか。戦後の日本国は復興、高度成長及びバブルの崩壊を経験し、この時期はその終末期になろう。
 近代で言えば明治維新によって幕藩体制から脱皮した大(?)日本国は革命ではなく天皇という古代的な要素を援用して精神的にはほとんど変わることなく政治経済の近代化に進んでいった。福沢諭吉が信後も独立自尊の精神に乏しいと慨嘆したゆえんである。かくしてこの体制は78年後の1945年に軍事的に崩壊することになった。
 第二次大戦後の日本国は天皇を象徴に帰ることによって民主化の道に進んだのであったが、この体制も78年後に経済的衰退によって自滅したといってよいであろう。第一の配線が外からの実力によるものであるとすれば、第二の敗戦は経済的自滅であった。
 二つの近代に共通していることは、社会的、文化的には大きな変化がなかったということであるが、実はこれは古代以来のことなのである。
 古代邪馬台国の報告をしている魏志倭人伝では、和人は従順な性格で目上の者に道で出会うと道端にうずくまると伝えている。この和人の自発的隷従性は邪馬台国を抹殺した由来不明のテンノーの支配によって強化され、古事記日本書紀によって教化されることにもなった。
 この古代天皇制は支配の正当性根拠を伝統におく権威主義的体制であるが、実はこの体制は多少の変容を伴いつつも実は今日までも継続しているものである。これをガラパゴス体制といってもよいであろうが、日本国は世界でも最も保守的な国の一つなのである。日本人そのものが化石的であるが、テンノーは現代に残る化石である。
 このガラパガス体制の一つの特質は個人よりも集団を優先することである。個人主体はそれほど尊重されるものではなく、滅私報国は称賛され、善悪という普遍的な規範は重視されず、国家にプラスになるのが善であり、マイナスになるのが悪であるという国家功利主義が特質的なものになる。日本人に人権感覚だ希薄であるのは当然のことであり、一般原則というものが重視されないから憲法を代表にする法的威信は必ずしも高くない。主体の意味合いが乏しいところでは変革も起きにくい。なぜなら革新ということは状況に対する主体の関与が前提になるからである。
 こうしたガラパゴス体制は一定の成果を上げ、あるいは上げすぎて第二次大戦に至るまでは外国の支配を受けることなく継続してきたわけである。しかし近年における衰弱現象は個人主体の消極性、法的支配や人権保障の弱体性、変革力の希薄性などガラパゴス体制の弱点と限界が表面化したことであるとみてよいであろう。この期間では断続的に閉塞ということが言われつつ何がその要因であるか見抜かれていないようであったが、それは人間の自由を抑止するガラパゴス体制にあったわけである。
 このガラパゴス体制を象徴するのがテンノーである。天皇は一般的な用語では皇帝であり、日本国は今でも皇帝を有する世界で唯一の国である。日本国はまた皇帝が変わるたびに代わる元号という化石を持つ世界で唯一の国である。しかしあまり信奉されてもいない化石化した皇帝を信奉しているかのように仮構して国民主体の自由を抑止している国が民主主義を貫ぬけるはずがない。人口減少は国民もこの体制の将来が明るくないということをぼんやりと感じているからであろう。

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 こうしてこの国はガラパゴス体制の限界に直面しているといえそうであるが、その先は自明ではない。弥縫策を取ることはかえって死に至る病を長引かせるだけであろう。必要なことはむしろ日本システムをぶち壊すことであり、ガラスの天井を取り払うことには積極的な意味があろう。この体制を象徴するのはテンノーであったから象徴天皇制を廃止することは正道であろう。むろんテンノーを廃止してもガラパゴスを脱却する保証はないが、その象徴にはなるであろう。
 象徴天皇制を廃止することは、何よりもテンノーを解放することである。今の天皇は参政権はもとより結婚や職業選択のような基本的人権を奪われており、それは人権後進国の日本を代表するようなものである。象徴天皇制を廃止することは必ずしも暴力革命を必要としない。テンノーは京都に戻り無形文化財として保護されるのがよいであろう。秋篠氏には面白いところがあるから民間人として通用するであろう。
 しかし革命というようなことはこの国の国民がいまだ一度もしたことがないことであり、まず無理であろう。そもそもガラパゴス体制は国民の習俗やエートスをなすものであり、そこからの脱却は自己同一性を危うくするものであり、容易なことではありえない。今までなるべく自己主張をせずに目立たないことが美徳にされていた国民がどうして急に活発な主体になるであろうか。今までかわいくしておくことが求められていた女性が、急に男女共同参画などできようか。今まで美徳としていたものが悪徳になるのであるから、よほどの精神革命を要するであろう。
 大きな変化を予想しにくいのは、何よりも国民が老衰減少に満足しているように見えるからである。確かに一部のスポーツ選手や音楽家のようにトップクラスの人間は日本を脱出し海外に拠点を置こうとしている。船が沈没するときはネズミも脱出するそうである。しかし一般の国民は泥船に自己満足する「お」が付くめでたいところがある国民であり、MJGAと叫ぶような狂人もいない。とするとありうるのは安楽死かギリシア化であろう。古代ギリシアは世界先端の国であったが、今ではヨーロッパの最貧国になっている。
 当面の課題として人口が減少しすぎると社会が成り立たないということが言われる。しかし人口が減少するならば移民を開放すればよいことである。もっとも日本のことであるから、それは順調にはいかないであろう。日本国はもともとは穴安眠の集合体であったが、いったん国家形成があると、おらが国として外国人をは維持したがる。損の上位は建国の初めから存在する。対外関係はその国の特質が表れるものであり、欧米諸国が難民の受け入れを原則としているのに対して、日本国は難民の拒否を原則としているかのようである。入管当局は重病者を放置して死に至らしめている。このような国では労働者能切れも変則的なものにならざるを得ない。すでに技能実習生という美名のもとに日本国は三十万人以上の実質的奴隷を抱えているのである。
 しかしそのように労働者の手当てをしたとしても日本国の生活環境は急速に悪化している。環境問題を軽視して環境保護団体からは化石賞を受賞する常連となっている日本では、東京の夏は数か月にわたって猛暑日と熱帯夜が続き、次第に人間が住めないところになり、やがて熱中死が続出することにもなろう。
 こうして日本列島は実質的には人間が住まないところになり、インバウンドが絶滅危品種を見学し、ガラパゴスの廃墟を観光して化石を拾うことになるであろう。

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 世界に目を向けるとロシアのウクライナ侵略問題を解決できていないところへ、イスラエル戦争が起きている。ハマスはパレスティナ問題に注意を向けさせようとしたのであろうが、エスらエルは一人殺されれば十人を殺す「目」には「目」の国であり、どの程度の成算があったのかは不明である。イスラエルはナチスによるホロコーストを被ったにもかかわらず、それによって教訓を得ることもなく、領土を持つようになると今度は自分がジェノサイドをやっているようである。
 パレスティナ問題の解決の方向はすでに明らかになっている。だ愛二次大戦後イギリスが撤退し、そこにはユダヤ人、アラブ人およびその葉の国が作られることになっていたが、イスラエルが一方的に建国され、パレスティナ人が二級国民にの状態に置かれたために紛争が繰り返されている。したがってこの問題の解決は二つの国を分離独立させるほかはないのである。
 したがって日本国はアメリカの顔色を見ることなく、パレスティナ自治政府の承認へ進むべきなのである。むろんパレスティナ自治政府にはガザ地区を制御できていないという点でも自治能力に問題を持っている。アッバース議長はバオデン大統領がイスラエルを訪問した際に犠牲者の喪に服しているという理由で面会もしなかったそうであるが、これでは犠牲者も救われない。パレスティナ自治政府の当事者能力を高めることは先決問題であろう。
ひるがえってアメリカでは反乱を先導した刑事被告人が有力な次期大統領候補になっており、ロシアでは殺人常習犯が次期大統領に確実視されている。こうした現状においては日本国のありさまはまだ生ぬるいとも言えよう。しかしこれは暴力の使用法の問題ともみられるものである。地球の西側では物理的な殺人が好まれるのに対して、日本国では真綿で窒息させるようなハラッスメントガ一般である。
 神はhomo sapiensを神に似せて作ったそうであるが、ここには手違いがあり、紙に梁成だけで済むものの不完全な人間には理性だけでなく力も与えられ、力菜必ず腐敗する。だから人の世界は善悪二元論的なものになることになる。だからまた闘争は必要であり、正しい。
 しかし闘争は結局つまらないものである。それだから人間の世界には文化芸術も必要になる。もっとも仮象としての文化芸術は現実の不完全性の反面であるか手放しで称賛することはできない。しかし力のある芸術は現実を解体することができる。
 秋の一日私は観世能楽堂に関寺小町を見に行った。秘曲中の秘曲であり、今まで見たことがないものである。武田宗和一世一代の舞台である。前座におかれた今年文化功労者になったという観世宗家の高砂八段之舞などは足高く俗臭ふんぷんとしたものであるが、武田のは違っていた。この能楽堂は銀座の地下という場違いなところにあるが、舞台と現世との落差を感じさせるところである。私は銀座の通りに出たとき一瞬舞台のほうが現実であり、銀座の通りは幻ではないかと錯覚したものである。インバウンドでにぎわう銀座はいずれ消え去るであろうが、関寺小町がなくなることはないであろう。  
 今年は大江健三郎が死去している。大江の文章はあまりにも切り貼り細工をしすぎていて面白くないが、文化勲章を拒否したことは一目置くべき存在であった。テンノーから勲章などもらいたくないということであろう。大江はガラパゴス体制に対する最も徹底した対抗者の一人であった。ノーベル賞を拒否したサルトルのほうが一枚上ではあるが。

ga 今年の裁判1
 旧統一教会の解散命令が申請されたそうである。この教会の本部は韓国にあるから、日本国で解散させることはできないであろう。せいぜい日本支部を廃止することくらいであろうが、それも韓国の本部がすることである。日本支部が公益に著しく反することがあるならば、日本での宗教法人の認定を取り消すことが必要かつ十分なことである。解散命令などというのはイワシの頭も信心という宗教の本性を見ないものであって、資産だけを問題にし、あいまいな公益を持ち出して禁教的な措置をすることは宗教の自由を理解しないものであろう。
 これは宗教法人法の問題でもあるが、あえて触れるのは暴力団に対しては公認性(指定暴力団)を取っているという奇妙なことがあるからである。犯罪団体には結社の自由を認めて、宗教団体には認めていないのは、いかにも無宗教的な日本国の宗教鈍感性であろう。
gb 今年の裁判2
 京アニメ事件の裁判が行われている。作品が盗まれたという被告の主張は単なる妄想であるとされているようである。そうであるとするならば、京アニメのどの作品のどの部分が被告のどの小説のどの部分の登用である可能性があるか検証されなければならないであろうが、そういうことはしていないかのようである。また妄想としても、高度の妄想は心神耗弱をもたらしうるであろう。
 京アニメ社長は盗用などする会社ではないとしているようであるが、それは当たり前の一般論であり、この事件を説明するものではない。京アニメの対応が事件の引き金になったとしたら、抒情酌量の余地も生まれるであろう。だがそういった精査もされているようではないようである。おおまかさも予想される裁判で死刑になるとすると、それはいまだに国民の半数以上が死刑に賛成している人権小国にはふさわしいものになるであろう。