今年の護美拾い2020年12月31日 20:17

1 トランプはアメリカ史上最低の大統領であった。それは彼が選挙結果を否定し、そのことによって法の支配を否定し、結果として民主主義も否定することになっているからである。政権移行が円滑になされないということはいまだかつてないことである。ホワイトハウスではトランプが敗北した州に戒厳令を施行し、軍隊の管理下で再選挙をさせることが検討されたようであるが、これは事実上のクーデタである。
 トはアメリカを再び偉大な国にするとしていたが、実際はアメリカをルカチェンコのベラルーシにしたと言ってよいであろう。ルカチェンコは不正とされる選挙によって大統領の座にとどまっており、形は逆であるが。
 トの在任の最後の年はコロナに見舞われたが、トは何もせずゴルフをしていたト。これはidiotというほかない。その結果三十数万人の死者が出たが、これは人災であり、カタストロフィである。無論トにとっては経済のコストにすぎないのであろうが。
 しかしこうしたト現象は一人のタレント豊かなfoolが生まれたということではない。アメリカ人の半分近くがそうしたfoolを支持しているのはそれなりの背景があるからである。アメリカ経済にはさび付いた部分があり、それは中国の台頭と比例している。トはまじめにアメリカを保護し競争相手をたたこうとしたのであろう。
 この現象自体には奇異なものはない。一世紀前にも経済の後退を前にしてナショナリズムを鼓吹したファシズムが起きている。ファシズムのやりかたは友と敵を分断して敵をたたくことである。友は右翼的ナショナリストであり、敵は多く左翼的(とされる)リベラル派ということになる。その意味ではアメリカにも一世紀遅れてファシズムが到達したということであろう。
 しかし幸か不幸かトはヒトラーのような徹底さは持っておらず、容易に陰謀論によって動かあれるようなムッソリーニ的出来損ないにとどまっている。またアメリカでは先行諸国と違ってまだ司法とマスメディアがある程度健在であり、ファシズムが全面的に開花することは困難であろう。トランプ現象は一世紀続いたアメリカの世紀の弔鐘と言えよう。

2 ロシアでは野党指導者ナヴァリヌイ氏の暗殺未遂事件が生じている。ベルリンのシャリテ大学病院によると、旧ソ連軍が開発した毒物が検出されたそうである。秘密警察出身のプーチン大統領がそれに関わらなかったはずはない。プーチンは年末の記者会見で、この騒ぎは国家元首に対するものであるかのようであると言っているが、国家元首でなければ暗殺してもよいということであろう。プにはこれで何人の暗殺行為をしたのか聞きたいものである。おそらく青ひげ公よりは多いであろう。

3 中国では香港の民主化運動への弾圧が続いている。香港国家安全維持法の制定は香港の返還に際し一国二制度を維持し、香港の高度な自治を保障する約束を反故にしたものにほかならない。香港の安全はまさしく香港自身の事柄だからである。
 昨年のこの欄では香港の若者にノーベル平和賞を授与したが、これは取り消さなければならない。彼らはあまりにも簡単に断念してしまったからである。民主化運動は粘り強さと冷徹さ利口さと戦略が要求されるものである。そうでないとアラブの春の二の舞になるであろう。
 しかし香港の民主化運動の挫折の主因は無論中国の側にある。中国は香港の若者におびえたのであろうが、巨像が足元にじゃらつく子犬を恐れているようなものである。習主席は元来は小心者であるが、中国は一党独裁であるから小心者も権力を持つと独裁者になる。
 香港の民主化運動への弾圧を見ると中国には、ひいてはアジアにはやはり民主主義は無理なのかという問いが浮かんでくる。ここでは上のものが支配し、下のものは従うという伝統が牢固として支配しており、問題は上の在り方だけのことになる。こうした伝統に対して人民を政治の主体にしようとしたのが毛沢東であったが、共産党政権も王朝体制に絡み取られたようである。
 今の中国は国父の志を裏切っている。しかし民主主義の不全という点では素性不詳の天皇をありがたがっている、極端にアジア的な日本国も無論無縁ではない。

4 日本国では官邸の用務員が総理になったようである。この首相の目玉商品はデジタル化ということのようである。しかしデジタル化というのは目的ではなく手段の次元のものである。のみならずデジタル化というのは行政の効率化に関するものであり、政治の場では問題的なものである。なぜなら政治とは根本的にアナログ的なものであり、政治の場にデジタル化を持ち込むことは政治を行政に縮小することであり、それは民主主義にとっては由々しいことである。
 デジタル化施策からわかることは、この首相にとって政治とは効率の良い支配ということであり、政治は役所の行政に還元される。デジタル化ということは定型化ということであるが、しかし定型化以前のことが政治なのである。したがってデジタル化によって効率化を目指すことは政治の切りつめになり、説明抜きの自動機械化が目標ということになろう。説明と説得と同意という面倒な手続きを要する民主主義というものは非効率性を特性とするものであり、効率だけを目指すことは致命的である。
 それは折からのコロナ問題で表面化している。コロナを禍とばかり捉えるのは間違いであり、人間の限界も教えている。人間は地霊が次の展開をしただけで活動を停止しなければならないような脆弱な存在だったのである。

5 コロナの直接的な担当部署は厚生労働省である。厚労省は相変わらず南一缶過熱がある場合はPCR検査をするかどうかを医師と相談せよというバカげた方針を持っているようである。これでは無症状感染を把握できず、源泉を抑えていないから、感染が収束することはないであろう。感染の心配があればサッサと検査させればよいのである。
 さらに厚労省はPCR検査に二万数千円を求めるというバカバカしいことをしている。この検査は自分のためという鳥は公衆衛生のためなのであるから本来は公費で行うべきものである。ニューヨークやロサンゼルスで誰でも何回でも無料で検査できるのが本来の在り方であろう。
 さらにあきれるのは第三者機関の調査によれば厚労省はできるだけ検査をさせないように画策している。感染の拡大の第一の原因は検査をサボタージュしていたことにあると言ってよい。厚労省は国民ではなく役所の方を見て仕事をしているようである。
 厚労省は病床が満杯になることを心配していたかのようであるが、病床数を所与のものと見ることはまさしく役人の発想である。そうしてキャパシティを拡充することが政治の役割であるが、その政治が機能していない。中国では一週間でプレハブの病院を作っている。日本国では政治の問題を行政の問題に削減することの問題性が現れている。
 厚労省関係では75歳以上の高齢者の医療費の自己負担を二割にすることが予定されているようである。たとえばAさんは年収四百万円以下の富裕ともいえない人物であるが、年間保険料二十数万円を支払い、しかも自己負担率は三割になっている。これでは年間医療費三十万円以下の人は健康保険から脱退した方が得になる。二割の自己負担は避けられないであろうが、三割となると保険概念を破壊するようなものになる。役人意識を端的に示しているのは75歳以上の高齢者を「後期高齢者」としていることである。これは「公僕」が主人に対して使うべき用語ではあるまい。
 
6 現首相は政権の安定にとって重要なのは警察と検察であるというような卑俗な考えの持ち主であるようである。効率的な行政を目指すことに脱落しているのは国民の理解と承認ということである。警察とは情報警察ということであり、検察が重視されるのは都合の良いことは捜査させ、都合の悪いことは捜査させないということであろう。この首相が政権の番頭をしていた時期に森友財務省事件やゴーン氏の事件が生じたのは不思議ではない。検察に関係する不祥事は多く金に関係している。
 いわゆる政治改革によって金権派閥政治がなくなったと言われるが、この首相は派閥の総すくみによって生まれたようなものである。派閥力学がなくなっていないことは広島の河井議員の選挙法違反事件を見ればよく分かる。この事件では幹事長に対立する派閥の候補者に一億五千万円の選挙費用が出されている。この金額は通常の選挙活動では使いきれないものであるから、自民党本部が買収するように指示したようなものであろう。
 前首相の金権政治については触れないことにして、興味あることは違法行為の疑いの多いこの首相が××の一つ覚えのように改憲を言っていたことであろう。法を軽視する人物が憲法を論じるという笑うべき現象に、いわゆる改憲論の実質が現れていると言ってよい。
 ちなみに前首相が信用できないことは経験者であればすぐわかることであるが、多くの若者が支持していたことは無視できない。デジタル的環境の中で生身の政治家への判断力が退化しているということであろう。これもデジタル化の効用であろう。

7 現首相は学術会議の会員の任命を拒否した問題で早くも地金を表している。もし任命権がすべて実質的なものであるとするならば、天皇は首相の任命を拒否してよいということになるであろう。この首相は六人の会員の任命を拒否したのは「総合的、俯瞰的」観点からのものであるとオームのように繰り返している。これは学術会議の任務に関して言われている言葉であって、任用の基準についてのものではない。この首相はまともな思考力を欠いているようである。任命拒否が問題化して政府はあわてて学術会議の改革を言うようになったが、これが問題のすり替えであることは言うまでもない。
 注目されるのは任命拒否を取り仕切っていたのは警察庁出身の内閣官房副長官であったということである。彼がこれらの人物は「任命できない」としたようである。ここに戦前の情報警察であった特別高等警察が復活していることを見ることができる。内閣は学者の言動を監視するようになっている。しかし戦前の特高警察がマルクス主義者を弾圧していたのに対して、今の特高は穏健無害のリベラル派を排除しようとしているのであるから情報警察も落ちたものである。
 むろん学術会議に問題があることは否めない。任命を拒否された政治学者は、選ばれたことは名誉であり感謝するというコメントをしていたが、日本の学界にはボス支配があり大した名誉にもならない。
 不可解であるのは学術会議側が、説明なく拒否されて困惑しているとするだけのへっぴり腰であることである。学者がだらしないから愚かな政治家に軽侮されるのである。学術会議は任命を拒否された六人の地位保全をめぐって行政訴訟をするなり、各術会議の会員諸君は理不尽な拒否に抗議して全員辞任でもすべきなのである。
 日本国の国立アカデミーとされるものは学術会議のほかに日本学士院がある。学術会議が政策提言というやや特異な任務を持っているのに対して、学士院は「功績顕著」な学者を優遇するための年金支給機関である。この学士院は皇室の「下賜金」による恩賜賞を授与している。このことはこの国では学問が皇室の下にあることを示すものであろう。日本国の学問の自由が容易に失われるようになるのは不思議ではない。

8 しかし芸術は長く人生は短い。政治や社会(政治の下にある学問を含めて)ばかりを問題にしたのでは実も蓋もない。政治の世界は近年はますます動物農場(オーウェル)の様相を濃くしており、ホモサピエンスとされた人間もあまり上等なものでないことをあらわにしている。政治から逃れることはできないが、それは選挙のような最小限に切り詰めた方が賢明のようでもある。しかしそれは日本人がよくやるようにお灸をすえたり妙なバランスをとったりするような中途半端なものではだめであろう。近頃の政治家はほとんどが伝い捨ての雑巾のようなものであるから、ダメなものはバッサリとやらなければならない。
 普遍的な意味があるのは学術(学術会議ではない)と芸術だけのようであるから若干の付け足しをしておくことにしよう。
 私は今年ノーベル物理学賞を受賞したペンローズの愛読者である。彼はビッグバンの論者として知られているが、そこには素人からする疑問もないわけではない。ビッグバンはしばしば宇宙の始まりとされるが、しかしそれは物質宇宙の始まりにすぎないであろう。宇宙空間はそれとは別に存在するものである。とすると宇宙空間はどのようにしてできたのかということが問題になる。しかし宇宙空間には最初も最後もなく、始まりを問題にすると神を想定しなければならないということにもなるであろう。この問題にヒントを与えているのは物質とエネルギーの等価というアインシュタインの公理である。物質宇宙の前があるとすると、それはエネルギー空間であろう。ペンローズもそのことを理解しており、今の宇宙には前があり、また消滅があり、宇宙空間はおそらく無限にエネルギーと物質が交換する無限空間であることを示唆している。私がそうした物理学に関心を持つのは、それが宇宙内存在である人間の存在条件に関わっているからである。
 人文社会科学の領域では今年というよりもこの10年来感心するようなものにお目にかかっていない。

9 今年は三島由紀夫の没後50年であった。三島は芥川龍之介とともに日本の作家の中ではまれにみる頭がよい作家であった。しかし彼の思想の世界はそれと極めてアンバランスな幼稚なものであったと言わなければならない。三島は天皇を崇拝していたようであるが、それは単に歴史的無知にすぎない。三島の自殺は私が大学を出て会社で働き始めたころの頃であったが、その報道を見てくだらないと思っただけである。精神的幼児の言動は大人の世界には何の意味もなかったのである。
 これは芸術の領域ではないが、今年は正義を問題にしたアニメが流行したようである。現実の不正義の中で、仮想のアニメに留飲を下げるのは一種の代償行為であろう。アニメのイデオロギー性についてはアニメの元祖であるディズニーを主題にしたフィリップ・グラスの「パーフェクト・アメリカン}を見るのがよい。
 その一方で京アニメの容疑者が起訴されたようである。容疑者の言い分を問題にせず会社側の言い分だけを聞いたその起訴理由は説得性がない。ゴーン氏事件のように加害者とされていたのが実が被害者かもしれないのである。その間にマスメディアはアニメーターを急に美化している。日本のメディアのセンティメンタリズムは冤罪の元である。

10 今年はまたベートーベンの生誕250年であった。ロマン的人間であるにかかわらず理知的な作品を書いたバッハ、風の神エーオルスのような音楽を書いたモーツァルトに対するとベートーベンの音楽は人間の意志の音楽であった。しかし彼については何も言わまい方がよいであろう。というのも私の音楽との関わりはプラトンが『ティマイオス』において、音楽とは心的な調和の模像であり、それは愚か者に尾は快楽を与え、知力あるものには歓喜を与えると言っていたことに関係しているからである。
 今年はコロナの中をまたウイーン・フィルが来日している。今年が36回目ということであるが、私が初めてウイーン・フィルを聞いたのは3回目にショルティと一緒に来た時である。その時のプログラムは運命と田園だったのでややげんなりした記憶がある。毎年来日したわけでもなく、多く聞いたわけでもないが、私は半世紀にわたってこの楽団を聞いているわけである。昨年のティーレマンによるブルックナーの第8はウイーン・フィルには珍しい力演であったと言える。私の席は前の方にあったので指揮者が楽団員にvielen dankと言っているのがよく聞こえた。今年のゲルギエフのプログラムはドビュッシーとストラヴィンスキーというやや陳腐なもので、演奏の方が楽曲を上回っているようなものであった。月並みなプログラムでは日本の聴衆も進歩しないであろう。しかし半世紀にわたって進歩も退歩もせずに同じ音を出すのも大したものである。

11 年末には庄司紗矢香を聞いている。5年前のメナヘム・プレスラーとのデュオ・リサイタル以来のことである。その時はややニュアンスに流れるのではないかという危惧があったが、それは杞憂であった。彼女が日本にめったに来ないのは日本の浮薄な聴衆がそれほど気に入っていないからかもしれない。今回も隣の席のに若い女性たちが営業の成績がどうのこうのと大きな声で話をしていたが、それが庄司の音楽にどういうつながりがあるのかと思ったものである。それだけに今回8回のリサイタルを開いたのはエポックメイキングなことであった。
 庄司がややびっこを引くようにして出てきて椅子に座ったので私は思わず拍手の手を止めてしまった。しかし始めてみると前半だけで1時間ぶっつずけという相変わらずのスタミナぶりである。中心になっていたのはバルトークの第一番のソナタであったが、これは驚異的なものであった。ソナタというよりは組曲のようであり、パストラーレ的なものとするならばどうしてこんなに激しく難しく書くのだろうというような不可解な曲である。バルトークの一番には未知のところがあるということを示しただけでもためになるものであった。庄司の音はハンガリーのジェルジ・パウクよりもオイストラフに近いようであるのもキューリアスであるが、しかしオイストラフにない独自のものを持っている。それはどこから来るのかわからない、まさしく天性とした言えないような音である。それは中国宋代の詩人蘇東坡が「知らず 微妙の声/究境 何く従りか出づる」と言い、至上の調和は弦を爪弾くこともなく、至上の平静は弦をおさえることもないと表現したようなものである。これがエーオルスの琴というものであろう。
 庄司というと私は学生時代に活動していた巌本真理を思い出す。彼女も天才少女と言われていたが、早くカルテットに転じている。比類ない録音を残しているが、庄司も脇道(失言)にそれないかというのが新しい懸念である。地球の軋みを見ると人間動物園から退場したくなるが、娘の(ような)紗矢香君に免じて今しばらくとどまることになろうか。
 終わりに大きな犠牲を払って歴史的名演を実現させたオラフソン君をほめたい。