シノーポリ没後25年 ― 2026年04月20日 20:19
A
イタリアの指揮者ジュゼッペ・シノーポリが2001年4月20日にベルリン・ドイツオペラでアイーダの指揮中に急死して以来四半世紀が経過した。ヨーロッパではこれを記念してイタリア外務省などの後援のもとに関わりのあったロンドン、ベルリン、ローマ、ヴェネチアなどでSinopolianaの催しが企画されているが、日本国ではそうした試みがないようなので、不適任であるけれども駄文と蛇足を記すことにする。彼は今日の世界の精神的、文化的な困難の証言なのである。
ヴェネチア生まれのシノーポリはパドヴァ大学で精神医学を専攻して医学の学位を取得しているが、当時から音楽への関心を抱きダルムシュタットの現代音楽講習会に参加して音楽家への道を進んでいる。しかし彼は音楽に幻想は持っていなかったようである。ある種の指揮者のように音楽で世界が変えられるとは信じていなかっただけでなく、彼自身自分の要素は音楽や指揮だけではないとしている。
シノーポリの学生時代はいわゆる大学反乱の時代であり、彼も明確にその刻印を受けている。唯一無二の伝記を作ったキーンツル女史は、シノーポリは左翼であり続けたと述べている。もっともシノーポリには宗教的傾向があり、共産党に加わっていた同じヴェネチア生まれのルイジ・ノーにたしなまれたことがあったようにマルクス主義者ではなかった。著名オーケストラの常任を務め三つの住宅を持ち年俸10億リラのエリートであったが、彼自身は共産主義者ではないとしても社会主義者であると自任している。ヘーゲルなどをたしなみ、チュービンゲンにエルンスト・ブロッホを聴講したり、私とは全く同世代であり、知的カタログも共通している。
私には流行嫌いの所があり、生前のシノーポリは一度も聞いていない。シノーポリに注目したのは実は彼が考古学もやっているということを知って以来のことである。シノーポリはベルリンで急死した2日後にローマで考古学の博士論文の口述試験を受けることになっていた。メソポタミアの宮殿建築をテーマとする論文は指導教授のもとで出版され、博士学位は死後授与されている。
彼はまた古代の陶器の収集家でもあるが、実は私も中国陶器、ギリシア陶器、縄文土器、弥生土器などを集めていたのである。もっともシノーポリの収蔵品は専門家によってAristaiosという立派な本になっているのに対して、私のものはガラクタであるが。シノーポリはチョコレート・ソースのスパゲティを作ったことがあるようであるが、私は料理の趣味は共有していない。
音楽家としての道を進めたシノーポリは新音楽つまり現代音楽には限界を感じたようであり、オペラ『ルー・サロメ』を最後として作曲からは身を引き指揮者として転進することになる。彼はまず現代音楽の困難の証人なのである。
現代音楽の代表格としてリゲティとピエール・ブーレーズを挙げるのは異論のないところであろう。リゲティの音楽は名人芸的なもので誰にもまねのできないものであるが、ブーレーズのものは数学的構築を思わせるところがあり、人間の感性からは遠いところがある。
しかしプラトンは音は宇宙のハーモニーの模倣であるとしており、宇宙の構造とメカニズムが数学的に表現されることは看過できないことである。またピタゴラスは宇宙を構成する四元数というものを考え、音階というものも四元数に由来するものであるとしてiいる。ところで晩年のリゲティがフラクタル(自己相似的)幾何学を援用した作曲をしているのは興味深いことである。ピタゴラスの四元数は自己相似的三角形をしているが、宇宙もフラクタル構造をしていることが知られている。とすると宇宙の音楽を聴くことも全く空想的なことだとは言えなくなるであろう。
国際的に演奏される日本の唯一の作曲家の武満徹(今年は武満の没後30年である)は音楽はもともと自然にあり、作曲は自然に学ばなければならないとしている。武満の音楽が人間の感性に近いのはこのためであるとも言えようが、独学の彼に表現力の制約があることは否めず、またやや受動的な性格のものであることは日本人の自然観に関わっているろう。だが自然は風や波だけでなく、宇宙や素粒子の世界も自然なのである。
しかし音楽が自然に由来するということは、芸術にとっては自己矛盾的なことである。なぜなら芸術というものは自然に対置されてきたものであり、芸術が自然に近づくと芸術と娯楽との区別も難しくなる。ここに音楽芸術が当面している基本的な困難の背景があろう。とりわけ21世紀に入ってこれといった作品も生まれず行づまっているかのようであり、芸術音楽は過去の作品をもっぱら手を変え品を変え演奏するようなものとしてクラッシックつまり過去の音楽になったのである。
すでにヘーゲルは芸術の終焉ということに言及していたが、それはまずもって音楽について言える可能性がある。ヘーゲルが芸術の終焉として考えていたのは、哲学が真理を把握できるようになったから、真理を完成的に飲み表現しうるだけのものである芸術は不要であり、さしあたりは宗教がその代用になるとしていた。
しかしヘーゲルが考えていた絶対知というものは今日ではすでに崩壊しており、哲学自体真なるもののよりどころとしては美的なものや宗教的なものに帰着していく傾向を示しているから、終焉したのは哲学自体であるともいえる。その間に芸術も真なるものに関わりのない嗜好にすぎなくなったともいえるであろう。それは音楽だけではなく美術などにも言えることであり、美術はアートと呼ばれペンキの看板と同じようなものになっているようである。ここには趣味判断の劣化が観察されるが、そこには芸術が商品化され、消費されるようになった時代背景があろう。
指揮者に転じたシノーポリはレパートリーはかなり狭く、バロックは全くなく、古典派もわずかであり、ロマン派の演奏が中心であった。そのキャリアは一世代前のピブーレーズの後を追うようなところがあり、作曲家として出発しつつ指揮者に転じ、自分の演奏団体を作るとともに、晩年には二人ともバイロイトの常連になっている。どちらが優れているかというようなことは意味のないことであろうが、シノーポリが大指揮者であったかどうかは、議論のあるところであろう。だがシノーポリは指揮の仕事を生涯の仕事とは考えていなかったのである。
シノーポリがフィルハーモニア管弦楽団の首席指揮者になる際に前任のリッカルド・ムーティはこの楽団の特別なサウンドが破壊されるとして反対票を投じたが、この両者は対照的であったと言える。この団体との録音ではマーラーの第3番や第6番はよくできていると思うが、演奏効果を考えないリストやエルガーの地味なものは音楽の構造を浮かび上がらせて興味深い。
私はムーティもシカゴ・シンフォニーを一度聞いただけであるが、ナポリ生まれの彼の演奏はのびやかで明るいものであるのに対して、ヴェネチア生まれのシノーポリは鋭角的で一筋縄ではいかない。ムーティの演奏にはこれと言って悪いことはないのであるが、それだけのことであり、その職人的な演奏は本質的に娯楽音楽になっていると言えよう。だが問題は資本の介在と無関係でなく、芸術音楽と娯楽音楽の区別が解消しつつあることであろう。
シノーポリのようなインテレクチュアルな演奏家は他の分野においてグレン・グールドがあるくらいなものである。ショー的大家のホロヴィッツに対比されるグールドはバッハの演奏で大きな反響を呼んだが、彼の場合も学理的な裏付けを持つものであった。そうした背景のもとで彼は比類ないピアニズムでもってチェンバロからピアノへの演奏法の転換をもたらし、チューレックという先行者を持ちながら、その演奏はもはや異端ではなく新しいスタンダードになったと言ってよいであろう。
ところが知られているようにこのグールドは演奏会を放棄して録音に専ら宣念することになった人物である。これはテクノロジーに期待と信頼を持ち、そこには聞き手の参加の意味もあるというようなことを言っているが、しかし録音というものは本質的に編集であり、ベンヤミンの言う複製芸術における「アウラ」の喪失という落とし穴があることは否定できない。時間の現象である音楽にとって、録音はその生命を抜くような面を持っているからである。我々はいやおうなく疑似音楽に順応させられている。これはグラモフォンと専属契約をして短い期間にもかかわらず多くの録音を残したシノーポリの最後の問題であろう。
アウラを喪失したテクノロジーの進展はデジタル化された音楽にとどまらず、情報世界のあり方を変容させ、生活世界自体を規定するようになっている。ニュー・メディアと言われるXやMETAなどのプラットフォームと言われるものは一見中立的な装いを持っているが、そうしたプラットフォームを運営しているのは資本主義企業であり、これらの企業は押しなべて権力追随的であって、その情報処理手法(アルゴリズム)はその企業的関心によって制御されており、中立とは程遠いものである。これらのメディアの利用者は自由に利用しているつもりであろうが、実はコンピューターのアルゴリズムによってその頭には支配的通念が構造化され、精神は物象化されている。
アルゴリズムの特性は直観と創造に対置されるものであり、それらはコンピューターのアルゴリズムからあらかじめ排除されている。アルゴリズムに制御された人工知能(IT)と言われるものは既成の通念によって構成されるものであるから、それは当然に保守的なものである。ITによって政策が決まるのであれば政治は不要になるであろうから、Itに基底を置く政党というものも奇妙なものとなろう。
テクノロジーの発達とともに、それを制御すべき人知も重要になるが、人知はテクノロジーの進展についていけていないようである。近いところではデジタルによるマイナーカードのコントロール不全によっる混乱がある。大きいところでは、人間のテクノロジーが核融合反応を生み出し、そこから生まれた核兵器によって人間が支配され、原発を十分に制御できない現実である。ホモサピエンスの先も見えてきたと言えよう。
このようにコンピューター・アルゴリズムによって世界が支配され、アウラの喪失に無関係でない地球の混乱が出現しているとすれば、そうしたアルゴリズムの外にある芸術というような営みが困難になるだけでなく、そもそもそうした現実において芸術などという悠長なことを言うこと自体迂遠なことになるであろう。シノーポリが表現するに過ぎない指揮は現実に無力であると覚めた言い方をするわけである。
しかしそれは逆でもあり、芸術はそうした現実に随順することもあるけれども、またそうした現実から距離を取って、それを否定することもある。芸術は現実に対して仮想であるにすぎず、両者は別世界(parallel world)である。しかし宇宙空間において平行線は交差するのであり、この仮想と現実にも交差点はあるのである。ここで両面に触れる理由である。
B
ウクライナ戦争の出口も見つけられないうちに、今度はアメリカがイラン戦争を始めている。戦争開始後ホワイトハウスを訪問したドイツのメルツ首相が「出口」はどこかと尋ねた時トランプ大統領は何も答えられていない。戦争の目的も明らかでないのであるから、出口など考えることもできないのであろう。核の開発をめぐるイランとの交渉が難航していたから最高指導者を殺害したのであろうが、これはマフィアのやり方である。トランプは野球帽をかぶって殺害の中継を観戦していたが、テレビゲームでもしていると思っていたのであろう。いすらえるにそそのかされるか、あるいは気まぐれに戦争を始めるから、終わり方に四苦八苦することになる。その間に無益に人名は失われ、国土は破壊される。
アメリカは20世紀には民主主義のパイオニアとして一目置かれていたが、トランプの時代になって世界から唾棄される存在になってきている。その兆候は2001年にニューヨークの同時多発事件にあったと言ってよいであろう。この時アメリカはなぜ攻撃されるのかを問うこともなく、やみくもにアルカイダへの報復活動に走り、直接的な証拠はなかったもののオサマ・ビン・ラディンを殺害している。それに関連してイラクのサダム・フセインが大量破壊兵器を隠しているとしてサダムも殺害したが、大量破壊兵器なるものはなかったのである。大男総身に知恵が回りかねである。
トランプの時代になってアメリカの暴走が顕著になったことの背景にはファシズム化があるであろう。ファシズムはある定度発達した資本主義国が経済的に不調になっと時に出現した強権政治体制であり、20世紀の前半にイタリア・ドイツ・日本などに広がったものであるから、アメリカは一回り遅れてファシズムに至ったということであろう。しかしアメリカのファシズムはトランプという半狂人の存在と無関係ではない。彼は少なくともヒトラーと同定度に精神異常の所があり、ファンタスゴマリーは明らかであるが、精神科医の診断は不可欠であろう。トランプはホワイトハウスよりは精神病棟の方が似つかわしい。
2世紀前にトクヴィルはアメリカには哲学者はいないけれども、司法やジャーナリズムが健在だから民主主義が保たれているとしていたが、大統領が司法やジャーナリズムを攻撃するようになると、哲学者がいない国の弱点が表面化する。もっとも今ではどこにも哲学者などいないかもしれないが、おそらくその最後であった、私にも無関係ではないユルゲン・ハーバーマスが先月死去した。
世界に戦争が勃発する時代にハーバーマス理論は試練も受けている。彼の基本的な観点は利害対立を対話によって解決しようとするものであって、それはナチの法学者カール・シュミットに対置されるものである。シュミットは政治というものは敵対関係を本質とするもので、それは究極的には力と戦争によって決まるものであと見る。政治という概念は都市国家(ポリス)的な支配つまり自由人の支配ということに由来しているからシュミットの見方は誤りである。しかし対話というものは一つの理想形であって、ハーバーマスは理想形を現実態と見なす傾きがある。政治とは理性と暴力を両端とする実践体であり、そこでは暴力をふるうためにも理性は使わなければならないのである。だから対話的政治というのは民主政治の基盤であるとともに、政治を成り立たせる条件でもある。この洞察があったからこそ第二次大戦後のドイツがヨーロッパの一員として迎えられることも可能になったのである。ハーバーマスの死に当たってドイツの大統領と首相は弔文を発表してハーバーマスに感謝の意を表明している。これは全く異例のことであり、およそアメリカにおいては考えられないことである。ひるがえって今の日本国においてはこうした思想家は死に絶えているであろうが、逆に言えば、そうした弔文を出せる政治家がいるだろうかということである。
メルツ首相がホワイトハウスを訪問した次の週に日本の馬鹿一がホワイトハウスでトランプだけが「平和」をもたらせるとへつらっていた。馬鹿一もトランプと同様に「力による平和」主義のようであるが、力による平和は刑務所の平和であり、持続可能でもない。馬鹿一もイランは核を持てないと言っていたようであるが、なぜイスラエルは核を持ってよく、イランは持てないのか説得力のある説明は聞かれない。そもそも核禁止条約に参加もしていない国が他国に核を禁止する資格があるかどうかは疑わしい。内閣官房には核保有論者がいるそうであるが、日本国は核を持てるのか、持てないのか。
日本の首相(?)はアメリカのイラン戦争の合法性については情報が十分でないから変弾を避けるとしていたが、政府は裁判所ではないから、手持ちの情報で判断しなければならい。ファシズム党のイタリアの首相でさえイラン戦争には異議を表明している。今の告愛豊では戦争は原則的に違法であり、例外的に自衛の名目の武力行使が許容されているだけである。アラン戦争がアメリカの自衛のものでないことは明白だから、イラン戦争の違法性は明確なのである。
他方で日本の首相(?)はイラン戦争への自衛隊の派遣には国内法上の制約があると説明している。法というものをこのように便宜的に援用するということは特徴的であって、要するに政治的判断が欠如しているということである。だがこの首相(?)はトランプへの手土産として自衛隊の派遣を考え、補佐官に反対されたそうである。この首相(?)は参戦を手土産にしようとしたようである。
イラン戦争は安保関連法で集団的自衛権を容認した際に、集団的自衛権を行使する可能性がある典型的な例として言及されていたケースである。自衛権というものは正当防衛のようなものであるから、他人の正統防衛を代わってやるということはありえない以上、集団的自衛権なるものは憲法違反の疑いがあるだけでなく概念的に成り立たないものである。それはともかくとして、こういう場合に自衛隊を出さないとすれば、集団的自衛権の容認など意味はないということであろう。
日本の首相(?)は就任早々台湾有事に集団的自衛権の発動の可能性に言及してその見識レベルを明らかにしているが、半年間の成果は日中関係を悪化させ、俗な言い方をすれば国益を損ねている。その背景には国際政治への無知があるであろうが、旧統一教会の別組織の勝共連合的な時代遅れの反共意識だけは持っているのである。アメリカ議会での演説がキャンセルされたのは当然であろう。しかし首相の能力に欠ける人物が支持されているということは国民の政治的民度を示すものでもある。
この首相(?)の幼稚な発言は自己中心的な極右には他者が見えず、国際政治を理解できないことを示すものである。よく似た例は先行者のアベが拉致事件に関して見せた反応に見える。この事件は拉致被害者の5人が一時帰国した際にほぼ解決される方向にあったが、当時自民党の副幹事長か何かをしていたアベが横やりを入れて強制的に永住帰国させ、以後拉致問題は全く進展していない。それは当然のことであり、一時帰国が妥当であるかどうかはともかく、外交的約束を一方的に破って外交などできるはずはない。私は初めからこのことを指摘していたが、誰一人として気づくものはなかったようである。もう手遅れであろうが、馬鹿一が拉致問題を解決したいのであれば、日本の首相はまず北朝鮮に対してアベが外交的約束を破ったことを謝罪することから始めなければならないであろう。
この首相(?)は1月に突然衆議院を解散して総選挙にしたが、これは違憲クーデタと見られるものである。憲法第7条には天皇の国事行為として衆議院の解散が規定されているが、これは明治憲法にあった天皇の解散権に内閣の助言を加えたものに過ぎず、天皇が主権者でなくなった以上内閣に任意に解散権を与えるものではない。無論首相が恣意的に解散できるものではない。したがってこの私利私益的な解散は憲法違反の可能性がある。体液世代は訴訟などやりたくないが、現役世代は提訴すべきであったであろう。判決内容は予想しうるところであるが、少なくとも最高裁は解散の基準を示さなければならないであろう。
この総選挙では自民党が三分の二の議席を占めることになった。15カ月前の参議院選挙では裏金問題がたたって自民党は過半数割れして首相は退陣し、解党的出直しをしなければならないと言われていたものである。ところが出直しどころか、首相を変えただけで自民党と金の問題など何もしないままに、自民党が大勝したのは国民の政治的民度を示すものであろう。この選挙は公約などよりも馬鹿一の方が「威勢」がよいというような印象論的な人気投票のようなものになったが、これは初期的ファシズムの兆候でもある。。与党に絶対多数を与えたらどうなるかというようなことは全く頭になかったことはこの国民の残念な政治的判断力の低さということになるだろう。。その結果元にそうであるように与党はほぼ何でもやれるようになる。有権者はそんなつもりではなかったのであろうが、これは有権者の愚かさの結果であるから自業自得である。野党の方では「中道」というものができたようであり、これは右と左の中間ということのようであるが、左もろくにないところに「中道」はないであろう。私はこんな選挙はボイコットしている。
この選挙でも公約というものはあり、かつての政治改革の時にはマニフェストを読み比べなければならないと、学校の授業のようなことが言われていた。だが選挙というものも権力獲得の闘争であるから、あまり素直に見ることはできない。ことに与党の公約は甘い公約で多数を取り、選挙後は言われていなかった苦いことをやりかねないのである。こうなるとマニフェストは有権者を欺くおとりのようなものになり、選
挙の「信託」性は失われる。そうして日本人はごまかされの名人である。
この選挙で自民党は食料品の消費税ゼロを公約に掲げていた。だがそれは多頭も消費減税を唱えていたためにそう争点をずらすために掲げたものであり、やる意思はなかったはずである。医師があれば軍事費増強の時のようにさっさと閣議決定をすればよく、その他はすべて単なる技術的な事柄である。案の定馬鹿一は国民会議を設けてそこで検討すると引き延ばし、難点を出させてつぶそうとし、成立しなければ会議に責任転嫁しようとしている。このことは消費減税に反対の少数党を会議に招き、減税賛成の少数党を招いていないことからも明白なことである。
この会議の問題は本来国会で議論すべきところを第二国会のようなものを作り、しかもその構成員を与党の方で任意に決めるという似非会議を作っていることであろう。これは議会を弄び、代議制民主主義を掘り崩すものにほかならない。この首相(?)には民主主義のことなど頭にないであろうが、そういうあり方が可能なのは、それを支持する国民がいるからにほかならない。
この選挙でさらに観察されるのは馬鹿一がSNSを多用する一方で、公開の討論というものを避けようとしていることである。握手して手を痛めたという口実の下に討論会を欠席しているが、「手話」でもするのであろう。アウラのないSNSではごまかしがきくけれども、討論ではごまかせないからであろう。つまりこの首相(?)には本質的に欺瞞が伴っていることが想像される。
その背景にあるのはこの首相(?)の反主知主義であろう。すでに総裁に選出されたときに働き、働きというような非知性的な言い方をしている。実は裏腹に職務への覚悟欠けているのであるが。和風ロックは体制への随順の通過儀礼であるが、その非知性主義は質問を「いじわる」と言って拒否するところにも表れる。要するに討議に基づく民主主義を回避しているのである。
こうした首相(?)の姿勢には女流統治様式の特性も見ることができる。公開の討議が苦手であるから謀略が使われる。策謀の一つのあり方は、討議ではなく、笑顔でチャームし寝技に移ることである(トランプとの抱合)。おそらくこの首相(?)は女性に特有の策謀家なのであろう(詐欺師とは言わないことにして)。だから女性社長はだめだということにもなる。
こうしてこの首相(?)は少数与党を多数与党に転換するクーデタで絶対多数を獲得して国論を二分する政策を進めるそうであるが、アメリカのように国内を分断したいのであろう。その最初が国家情報会議であったようである。国家情報局はかつての特高の復活であろう。野党は国民を監視することはないであろうかと、生ぬるい質問をしているが、首相(?)はそれは「想定」していないというあいまいな答弁をしている。だが過激なデモには「関心」を持ちうるとも言っていることは看過できない。すでに警察は違法にデモ参加者の写真を撮っているが、これも合法化されるであろう。国家情報会議の法案は衆議院をすんなりと通過しているが、さらに殺傷兵器の輸出を認めることによって間接的に戦争に関与する死の商人国家への道を開いている。
さらには国民が選んだわけでなく政府が選んだ有識者(?)会議で安保法制を見直しを進めようとしている。ここには「新しい戦い方」を検討するという「平和国家」にはありえないような驚くべき鈍感な言葉が見られる。ここには日本国家が「戦争放棄」どころか戦争をする国家になっていることが明確に原れている。こうした戦争国家への転換は「環境が変わった」というような単細胞的な頭でなされているようである。だが近年の戦争の勃発を少し見ただけで、その「環境」が愚かな政治的指導者の台頭と、それを支持する愚かな国民のナショナリズムにあることはすぐわかることであろう。安保法制を見直すのであれば、国家存立危機とか集団的自衛権というような拙劣な用語はまず撤回すべきところである。
注意されることは、経済的に失われた30年の日本国もファシズムに移行する条件を備えているということである。すでに日本人第一主義、テンノー宣揚、軍事増強、国民監視の強化が着々と進み、第二期ファシズムの段階に入っていると見られる。現代のファシズムは笑顔とともにやってくる。歴史から学びたくないものはまた泣けばよい。古人は歴史は一度目には悲劇に終わるが、二度目は喜劇に終わると言っている。すでに喜劇の幕は上がっている。
国論を二分する最終地は憲法の改正であろう。馬鹿一は改憲草案を「大好き」と言っていたようであるが、馬鹿一にとって憲法は猫に小判であることを正直に物語っている。違憲の疑義があることを重ねてきた自民党に憲法を問題にする資格があるかどうかは疑わしいところであるが、もともとこの国には法的原則が重みをもたないという伝統が存在している。原理原則よりも実際的な柔軟性の方が尊重されるのであり、基本的に非憲法的は国民であり国家なのである。
こういう非憲法的な国において憲法が取り上げられる場合には奇妙な特徴的な現象が生じる。それは改憲論に見られるように、憲法を文字としてのみ見るという文字フェティシズムである。基本原則についての考えなど何もなく、ただどういうことを書くかということだけが問題になる。それは安全保障について何のヴィジョンもなく、憲法に「自衛隊」を明記するという議論に観察される。憲法を原則を定めるものであって、個別的な制度を規定するようなものではない。今の自衛隊は最初は警察予備隊と言われたものであり、それが保安隊に変わり、さらに自衛隊になったものである。何のヴィジョンもなく文字をいじるような矮小な議論をしているのは、まことに非憲法的な国家国民にふさわしい。自民党は党大会に自衛官を読んで国家を歌わせるというような自衛隊の政治利用をしていたが、自衛隊明記も一種の政治利用であろう。
こういう非原則的な国は成文憲法はあっていないとも言える。なぜなら憲法を文字と見る場合、現実は変化するから憲法とのずれが生じ、憲法は建前に過ぎず、実体が本音になることは目に見えているからである。こういう非原則的な国では同じく実際的なイギリスのように成文憲法などなくして慣習で貫くところもあるのである。その場合は文字と実体の齟齬は生じない。
しかしすでに憲法がある国においてはそうも言っておられない。当面に問題になっているのは第9条であろうが、現実に合わせてどういう文字を入れるかというような子供じみたことでなく、そこでまず考慮すべきことはどういう安全保障の原則を考えるかということである。「力による平和」というのは憲法の基本的な精神ではなく、また今日以降の世界の安全を保障するあり方ではないであろう。世界において戦争が違法化されつつなおなくならないのは、今の世界は基本的に主権国家の併存というあり方をしているためである。主権国家にはそれを越える権力は存在しないから、利害の対立は最終的には武力対立としての戦争にならざるを得ない。確かに国際連合には安全保障機能が与えられているが、21世紀に入っても戦争が噴出して国連が無力を示しているのは、国連が基本的には主権国家の連合だからである。主権国家は国連にも主権的な対立をすることができ、安保理事会の常任理事国は当然そうである。安全保障理事会が機能不全になっているのは直接的には常任理事国が拒否権を持っているためであるが、これらの国が拒否権を放棄することは当面考えられず、国連には限界が示されていると言えよう。
国連が機能しえない現在、持続可能な世界の安全を保障する体制はカントの世界共和国のあり方しか考えられない。世界を一国とすることであり、そうすれば内紛はあっても戦争はありえないことになる。平和の補償のためには神でない人間の国においては何らかの強制力が必要であろうが、それは軍隊ではなく、基本的には警察の性格を持つものである。それは実際的にはこれまでの諸国の軍隊を共通の世界の主権的な政府に譲渡することであり、個別国家の主権は世界政府に集約される。
こういう世界共和国などはユートピアであるという安易な見方はあるであろうが、カントも言っていたように一挙に世界共和国に至るのには無理がある。このために次善の策としては融資の国がそうした主権共同体を作ることであり、それを拡大していくことである。アメリカや中国やロシアなどは最後まで主権を手放さないであろうが、その先は予測できない。
こうした主権共同体は実は日本国憲法第9条に内在するものである。個別国家の軍隊を放棄して主権共同体に移譲することである。EUは不十分ながら主権を制限しており、世界共和国構想の初期的段階にあると言ってよいであろう。こうした連合国には日本やEUさらに韓国やインドなどの非同盟諸国がまず参加しうるであろう。このように考えるならば日本の憲法第9条は将来の世界の安全保障の原理を示すものであると見ることができ、またそのようにすべきなのである。
しかしここに厄介なことがある。それは古来日本人はそうしたヴィジョンを持ったためしがなく、その行動様式は他人の顔色を窺って動くものであり、日本国はそうした大規模なイニシャチブを取ったことがないことである。日本国民は自分の実力以上の憲法を持たされて四苦八苦しているのである。
積極的な意味での憲法改正がありうるとすれば、それは象徴天皇制を廃止することだけであろう。急に話が変わった感があるであろうから一言付言することにする。日本の丸山眞男は西洋のハーバーマスの位置にある人物であるが、自分に追随するような弟子は持ちたくなかった丸山は追随しない私には西洋よりも日本のことをやらせたかったようである。次世代の研究者が江戸時代でも「雅」というような美的な用語でノンポリ的な日本政治思想史をやっていたようであるから、私も日本のことを専攻すべきであったかもしれない。しかし私は東洋にはインドや中国には巨大な思想的遺産がある一方、日本にはちゃちな思想しかないから(空海はやや例外的だが密教の制限を受けている)西洋の方に行ったのである。最初から日本列島に限定していたら一段と馬鹿になるかテンノーに絡み取られていたであろう。日本政治思想は東洋政治思想の一コマにするくらいが妥当なところである。しかしヨーロッパに留学して私は日本のこともわかってきたのである。東アフリカに発生しはホモサピエンスは世界に拡散したが、極東の日本列島はそのもっとも遠隔地であり、かなり特殊な政治文化を育てることになった。それは論理的というよりも情緒的な年限を作ることになり、人々は自己を主張するよりは他人の顔色を窺って同調するという他人指向(リースマン)の行動様式を生んでいる。こうしたあり方は共同体を保全し、外からは静穏な国として好ましいところもあったが、それは国民の主体性の欠如と人権の不在の反面でもある。こうした行動様式の結晶であり、象徴するのがテンノーであったという基本問題が浮上してきたのである。だが今から考えると東も西もなく、分割は便宜的なものにすぎず、専攻などは問題ではないのである。丸山とハーバーマスという東西の学匠のゼミナールで学恩を受けながら何も現実に関わることができなかったことは自ら恥じるだけである・もっとも私も日本のことに何もしなかったわけではないというアリバイにペンネームで細々と夜店は出していたのである。このコラムもその一つであるが、そろそろ終わりに近くなっている。
遠回りになったが、以上のような観点から、世界政治と日本政治、憲法第9条と第1条の連関が明らかになってくる。憲法で示唆されている世界共和国を実現するためには、その行動様式上の障害になっている象徴天皇制の廃止が課題になってくる。第1条と第9条は両立しない。日本国の課題に対応するためにはこうした日本を超克しなければならず、それを通俗的なスローガンに表現すれば「日本をぶっこわせ」ということになろうか。だが国民の意識がそこまで行っていないことは確かなのである。
・・・・・こういう現実的にはやや空しいつまらないことばかりに関わっていられないので、私は野川に釣りに行き、本業により近いイタリアに行ったのである。
3
現実があまりに馬鹿馬鹿しくなると仮想的な世界により意味が出てくる。退役世代にとって現実よりはあの世の方が重要になり、つまるところ生死だけが興味深いものになる。わが友ジュゼッペはこのことに若い頃から関わっていた。
シノーポリをテーマとする場合、2つの素材を看過できない。
第1はオペラ『ルー・サロメ』である。このオペラはミュンヒェン国立歌劇場の監督をしていたゲッツ・フリードリッヒの依頼によるもので、上演日も決められていたから糟糠の間に作られたものである。
台本はカール・ディートリッヒ・レーヴェであるが、シノーポリもその作成に関与していたようである。登場人物はサロメの他アンドレアス、パウル・レー、リルケおよびニーチェといった当代の文人たちであり、シノーポリも熟知している者たちである。フロイトの教えを受けドイツで最初の先進分析医となったルー・サロメの『ニーチェ』を読んで私は自分を含め日本の思想史なるものはなっていないと感じさせられたものである。
この台本は上記の文人たちのテキストからの抜粋を集めたもので、セリフなどほとんど問題にならないオペラが多い中で、哲学的な文章が歌われるという異色のものである。発狂したニーチェがピエロになって妙なことを言っているところもあるが、概してドラマのようなものはほとんどなく、理解するには困難なところがる。
主人公のサロメはロシアの農奴解放の年に生まれた自由な人間であるが、4人の求愛者に取り巻かれ、拘束されるところに自由があると信じているが、終わりの方では自分の愛は常に死と結ばれており、生を肯定することは死を肯定することであり、そこでは自分の目は他者を見ないと言われて終わっている。これは神の視点を求めるようなものであり、やや反動的でシノーポリのパルジファルのようなところがある。
音楽的にはシェーンベルクの短編モノ・オペラ『幸福の手』を思わせるところがあるが、基本的には後期ロマン派的と言えよう。私はフェニーチェ劇場の録音を聴いただけであるが、やや騒がしいものである。しかしシノーポリ自身、これは様式化されない「爆弾」のようなものであり、新音楽つまり現代音楽に一石を投じようとしたものではないとしている。
音楽的、上演的にオペラの時代は終わっていると見なければならず、初演されただけでお蔵入りになるものがほとんどの中で、このオペラは何か所で上演され、少なからぬ上演の申し入れにもかかわらず、後半の改定が必要があるとして以後は許されなかったようである。改定は実現せず、ルチーア・ポップとホセ・カレーラスを歌い手とする組曲のCDが出ただけである。
このオペラが成功作であったか失敗作であったかを言うことは難しい。しかし最後の『希望の合唱』がニーチェのワグナー批判を呼びかねないところがあり、それは直接的には台本作家の問題であろうけれども、シノーポリとしてもおそらく全くは納得しがたいところはあったであろう。
第2の素材は『ヴェネチアのパルジファル』というシノーポリの著作である。これはフェニーチェ劇場でのワーグナーのパルジファルのリハーサル後、夜のヴェネチアに彷徨したというエセ―であり、シノーポリにおける音楽と考古学との連関性を物語るものである。
ニーチェの抗議を知りつつもシノーポリはこの楽劇を好んでいたようであり、その焦点となっているのは死と再生の連関性である。そうしてこの死と再生ということはヴェネチアの年の構造に象徴的に組み込まれていると見られる。この死と再生ということがパルジファルとヴェネチアの結節点なのである。
こうしてシノーポリはヴェネチアの迷路に出るのであるが、彼はそこでよくあるような陳腐なことを言っているのではない。彼はヴェネチアの迷宮はクレタの宮殿の迷路と同様に死から生への脱出の意味があり、そこには死から生へのより高い段階への入会(通過)儀礼の意味が織り込まれているとする。それは多くある橋についての言えることである。
こうしてシノーポリはヴェネチアという都市の構造を問題にするのであるが、ヴェネチアは宇宙の中心の模造としての都市の原型のようなものとされる。カナル・グランデはしばしばS字型と見られるが、シノーポリによれば二重螺旋であり、二つの半円弧が組まれたものであり、それがさらに分割されて4つの円弧ができる。彼はこの4象限に即してヴェネチアを彷徨するのであるが、そこで重要性を持たされているのは円弧の軸の交差点であり、それはサン・トロヴァ―ソ教会の井戸であるとされている。それは天と地上と地下を貫く都市の中心であり、それがある広場の階段数はピタゴラスの四元数を示しており、まさしく宇宙の模造なのである。ちなみに私はヴェネチアには水がないから雨水をためて生活しているという日本人の本を見たことがあるが、ヴェネチアには少なからぬ井戸がある。もっとも内陸から水道が引かれている現在、その多くは鉄の蓋があって使われていないが自然湧水しているところもある。。
途轍もない議論をシノーポリは、ヴェネチアの歴史的考察なのではなく、あくまでもイデーの痕跡をたどる寓話的な解釈であるとしている。それは歴史的というよりも考古学的な、また生死の問題についての哲学的な考察ではなく、あくまでも象徴論的な考察である。シノーポリは死というものを一応は生物学的に考えており、それだけでは収まらないためにさまざまは宗教などが考案されたのであるが、彼はその宗教的儀礼のようなものを問題にしているのである。哲学的に生死を考えるのであればより複雑な思考が必要であり、おそらくは生死を越えようとする禅などはそのもっとも洗練されたものになるであろう。しかしそうした哲学や宗教が自明なものでなくなっている今日、こうしたこうした考古学的、象徴論的な議論も全く無意味とは言えないであろう。シノーポリは精神医学に関してはフーコーに言及しているようであるが、考古学的な面では構造主義に共通の要素もあり、またその問題点もあるようである。
しかし都市の問題を生死の問題に連関させてみようとするシノーポリの議論にはカバラ的な神秘主義の要素があり、相当に分かりにくいものである。他方で日本で出版されている本は分かりやすいだけでつまらないものばかりだけであると思っていたから、私は暇つぶしのそれとは次元が違うこの本を日本語に置き換えていた。そうするうちに私はどうしてももう一度ヴェネチアに行かなければならなくなったのである。 とはいえ私は10時間以上も飛行機に乗っていることに耐えられなくなっていたからもう数年前からヨーロッパには行かないことにしていた。
そのうち私は往復とも寝台で行けるビジネスクラスのティケットを手に入れたので、禁を破ってヴェネチアに行くことになった。だが井戸の石段を見るだけの何というビジネスであるか。円安で多くの日本人はヨーロッパに行けなくなっており、この十年でユーロに対して円の価値は半減している。しかし円を見限ってユーロ建てにしていた私には影響はないのである。サルトルに「最後の旅人」という副題の『アルベルマール王妃』という断片があるが、これは単にヴェネチアへの最初の旅行のメモにすぎない。だが彼は目が見えなくなってからもヴェネチアに入っていたそうであるが、それはラグーンの波の音を聞くためだけであったであろう。私もその点だけではサルトルの水域に入っている。
政府が戦争国家へ進んでいても嘲笑するほか何の手もない退役世代は、戦死は現役世代に任せて、不良化し、無駄なことしかやらなくなる。
今のヴェネチアはテーマパークに過ぎなくなっているが、私はまずシノーポリの足跡をたどることにした。そうして彼の記述はかなり正確なものであることが分かった。例えば死の島サン・ミケーレに向かい合ったカッレ・ロンガ・サンタ・カタリナという細長い路地の5000番地にはシノーポリが書いているような高い壁から木の枝がのぞいている。そうして最後にはサン・トロヴァ―ソ教会の井戸の階段に行っている。だがその階段は一段、三段、三段、四段であり、四元数ではなかったのである。私の感想はやれやれということである。
フェニーチェ劇場ではヴォツェックがやられている。このオーケストラはドイツ音楽を完璧に演奏する。だが軍医や上官がいかにも悪人的に演じているのはいただけない。普通人がファシストになるということが肝心なのである。
ポルトガルのオヴィレイラ監督の最晩年のマジック・ミラーという映画の終わりの方でサン・マルコ教会の内部の映像があったが、私はヴェネチアに何度来たか知らないけれども見覚えがなかったので寄って見ることにした。だがさして広くないマルコ教会をぐるっと回っても見当たらない。二階のテラスへ出てカサノヴァが脱獄したというドージェ宮殿の鉛の屋根を見た時、誰かがうわさをしたのであろうが私は急にくしゃみをした。するとたまたま記念撮影をしていたどこかの国からの観光客がびっくりしてi like youと叫ぶ・・・・・これはすべてMay Fool?
シノーポリの著書はほとんどの人にはチンプンカンプンのもので今の日本国の出版状況からすれば公刊しないことに意味があるであろう。訳稿は下記に保存している。ただし注は反映されていない。
https://word.cloud.microsoft/open/onedrive/?docld=9131E89293F11E89293F11E03%21s7881b3fc7e1d43a38816c741d8487c
イタリアの指揮者ジュゼッペ・シノーポリが2001年4月20日にベルリン・ドイツオペラでアイーダの指揮中に急死して以来四半世紀が経過した。ヨーロッパではこれを記念してイタリア外務省などの後援のもとに関わりのあったロンドン、ベルリン、ローマ、ヴェネチアなどでSinopolianaの催しが企画されているが、日本国ではそうした試みがないようなので、不適任であるけれども駄文と蛇足を記すことにする。彼は今日の世界の精神的、文化的な困難の証言なのである。
ヴェネチア生まれのシノーポリはパドヴァ大学で精神医学を専攻して医学の学位を取得しているが、当時から音楽への関心を抱きダルムシュタットの現代音楽講習会に参加して音楽家への道を進んでいる。しかし彼は音楽に幻想は持っていなかったようである。ある種の指揮者のように音楽で世界が変えられるとは信じていなかっただけでなく、彼自身自分の要素は音楽や指揮だけではないとしている。
シノーポリの学生時代はいわゆる大学反乱の時代であり、彼も明確にその刻印を受けている。唯一無二の伝記を作ったキーンツル女史は、シノーポリは左翼であり続けたと述べている。もっともシノーポリには宗教的傾向があり、共産党に加わっていた同じヴェネチア生まれのルイジ・ノーにたしなまれたことがあったようにマルクス主義者ではなかった。著名オーケストラの常任を務め三つの住宅を持ち年俸10億リラのエリートであったが、彼自身は共産主義者ではないとしても社会主義者であると自任している。ヘーゲルなどをたしなみ、チュービンゲンにエルンスト・ブロッホを聴講したり、私とは全く同世代であり、知的カタログも共通している。
私には流行嫌いの所があり、生前のシノーポリは一度も聞いていない。シノーポリに注目したのは実は彼が考古学もやっているということを知って以来のことである。シノーポリはベルリンで急死した2日後にローマで考古学の博士論文の口述試験を受けることになっていた。メソポタミアの宮殿建築をテーマとする論文は指導教授のもとで出版され、博士学位は死後授与されている。
彼はまた古代の陶器の収集家でもあるが、実は私も中国陶器、ギリシア陶器、縄文土器、弥生土器などを集めていたのである。もっともシノーポリの収蔵品は専門家によってAristaiosという立派な本になっているのに対して、私のものはガラクタであるが。シノーポリはチョコレート・ソースのスパゲティを作ったことがあるようであるが、私は料理の趣味は共有していない。
音楽家としての道を進めたシノーポリは新音楽つまり現代音楽には限界を感じたようであり、オペラ『ルー・サロメ』を最後として作曲からは身を引き指揮者として転進することになる。彼はまず現代音楽の困難の証人なのである。
現代音楽の代表格としてリゲティとピエール・ブーレーズを挙げるのは異論のないところであろう。リゲティの音楽は名人芸的なもので誰にもまねのできないものであるが、ブーレーズのものは数学的構築を思わせるところがあり、人間の感性からは遠いところがある。
しかしプラトンは音は宇宙のハーモニーの模倣であるとしており、宇宙の構造とメカニズムが数学的に表現されることは看過できないことである。またピタゴラスは宇宙を構成する四元数というものを考え、音階というものも四元数に由来するものであるとしてiいる。ところで晩年のリゲティがフラクタル(自己相似的)幾何学を援用した作曲をしているのは興味深いことである。ピタゴラスの四元数は自己相似的三角形をしているが、宇宙もフラクタル構造をしていることが知られている。とすると宇宙の音楽を聴くことも全く空想的なことだとは言えなくなるであろう。
国際的に演奏される日本の唯一の作曲家の武満徹(今年は武満の没後30年である)は音楽はもともと自然にあり、作曲は自然に学ばなければならないとしている。武満の音楽が人間の感性に近いのはこのためであるとも言えようが、独学の彼に表現力の制約があることは否めず、またやや受動的な性格のものであることは日本人の自然観に関わっているろう。だが自然は風や波だけでなく、宇宙や素粒子の世界も自然なのである。
しかし音楽が自然に由来するということは、芸術にとっては自己矛盾的なことである。なぜなら芸術というものは自然に対置されてきたものであり、芸術が自然に近づくと芸術と娯楽との区別も難しくなる。ここに音楽芸術が当面している基本的な困難の背景があろう。とりわけ21世紀に入ってこれといった作品も生まれず行づまっているかのようであり、芸術音楽は過去の作品をもっぱら手を変え品を変え演奏するようなものとしてクラッシックつまり過去の音楽になったのである。
すでにヘーゲルは芸術の終焉ということに言及していたが、それはまずもって音楽について言える可能性がある。ヘーゲルが芸術の終焉として考えていたのは、哲学が真理を把握できるようになったから、真理を完成的に飲み表現しうるだけのものである芸術は不要であり、さしあたりは宗教がその代用になるとしていた。
しかしヘーゲルが考えていた絶対知というものは今日ではすでに崩壊しており、哲学自体真なるもののよりどころとしては美的なものや宗教的なものに帰着していく傾向を示しているから、終焉したのは哲学自体であるともいえる。その間に芸術も真なるものに関わりのない嗜好にすぎなくなったともいえるであろう。それは音楽だけではなく美術などにも言えることであり、美術はアートと呼ばれペンキの看板と同じようなものになっているようである。ここには趣味判断の劣化が観察されるが、そこには芸術が商品化され、消費されるようになった時代背景があろう。
指揮者に転じたシノーポリはレパートリーはかなり狭く、バロックは全くなく、古典派もわずかであり、ロマン派の演奏が中心であった。そのキャリアは一世代前のピブーレーズの後を追うようなところがあり、作曲家として出発しつつ指揮者に転じ、自分の演奏団体を作るとともに、晩年には二人ともバイロイトの常連になっている。どちらが優れているかというようなことは意味のないことであろうが、シノーポリが大指揮者であったかどうかは、議論のあるところであろう。だがシノーポリは指揮の仕事を生涯の仕事とは考えていなかったのである。
シノーポリがフィルハーモニア管弦楽団の首席指揮者になる際に前任のリッカルド・ムーティはこの楽団の特別なサウンドが破壊されるとして反対票を投じたが、この両者は対照的であったと言える。この団体との録音ではマーラーの第3番や第6番はよくできていると思うが、演奏効果を考えないリストやエルガーの地味なものは音楽の構造を浮かび上がらせて興味深い。
私はムーティもシカゴ・シンフォニーを一度聞いただけであるが、ナポリ生まれの彼の演奏はのびやかで明るいものであるのに対して、ヴェネチア生まれのシノーポリは鋭角的で一筋縄ではいかない。ムーティの演奏にはこれと言って悪いことはないのであるが、それだけのことであり、その職人的な演奏は本質的に娯楽音楽になっていると言えよう。だが問題は資本の介在と無関係でなく、芸術音楽と娯楽音楽の区別が解消しつつあることであろう。
シノーポリのようなインテレクチュアルな演奏家は他の分野においてグレン・グールドがあるくらいなものである。ショー的大家のホロヴィッツに対比されるグールドはバッハの演奏で大きな反響を呼んだが、彼の場合も学理的な裏付けを持つものであった。そうした背景のもとで彼は比類ないピアニズムでもってチェンバロからピアノへの演奏法の転換をもたらし、チューレックという先行者を持ちながら、その演奏はもはや異端ではなく新しいスタンダードになったと言ってよいであろう。
ところが知られているようにこのグールドは演奏会を放棄して録音に専ら宣念することになった人物である。これはテクノロジーに期待と信頼を持ち、そこには聞き手の参加の意味もあるというようなことを言っているが、しかし録音というものは本質的に編集であり、ベンヤミンの言う複製芸術における「アウラ」の喪失という落とし穴があることは否定できない。時間の現象である音楽にとって、録音はその生命を抜くような面を持っているからである。我々はいやおうなく疑似音楽に順応させられている。これはグラモフォンと専属契約をして短い期間にもかかわらず多くの録音を残したシノーポリの最後の問題であろう。
アウラを喪失したテクノロジーの進展はデジタル化された音楽にとどまらず、情報世界のあり方を変容させ、生活世界自体を規定するようになっている。ニュー・メディアと言われるXやMETAなどのプラットフォームと言われるものは一見中立的な装いを持っているが、そうしたプラットフォームを運営しているのは資本主義企業であり、これらの企業は押しなべて権力追随的であって、その情報処理手法(アルゴリズム)はその企業的関心によって制御されており、中立とは程遠いものである。これらのメディアの利用者は自由に利用しているつもりであろうが、実はコンピューターのアルゴリズムによってその頭には支配的通念が構造化され、精神は物象化されている。
アルゴリズムの特性は直観と創造に対置されるものであり、それらはコンピューターのアルゴリズムからあらかじめ排除されている。アルゴリズムに制御された人工知能(IT)と言われるものは既成の通念によって構成されるものであるから、それは当然に保守的なものである。ITによって政策が決まるのであれば政治は不要になるであろうから、Itに基底を置く政党というものも奇妙なものとなろう。
テクノロジーの発達とともに、それを制御すべき人知も重要になるが、人知はテクノロジーの進展についていけていないようである。近いところではデジタルによるマイナーカードのコントロール不全によっる混乱がある。大きいところでは、人間のテクノロジーが核融合反応を生み出し、そこから生まれた核兵器によって人間が支配され、原発を十分に制御できない現実である。ホモサピエンスの先も見えてきたと言えよう。
このようにコンピューター・アルゴリズムによって世界が支配され、アウラの喪失に無関係でない地球の混乱が出現しているとすれば、そうしたアルゴリズムの外にある芸術というような営みが困難になるだけでなく、そもそもそうした現実において芸術などという悠長なことを言うこと自体迂遠なことになるであろう。シノーポリが表現するに過ぎない指揮は現実に無力であると覚めた言い方をするわけである。
しかしそれは逆でもあり、芸術はそうした現実に随順することもあるけれども、またそうした現実から距離を取って、それを否定することもある。芸術は現実に対して仮想であるにすぎず、両者は別世界(parallel world)である。しかし宇宙空間において平行線は交差するのであり、この仮想と現実にも交差点はあるのである。ここで両面に触れる理由である。
B
ウクライナ戦争の出口も見つけられないうちに、今度はアメリカがイラン戦争を始めている。戦争開始後ホワイトハウスを訪問したドイツのメルツ首相が「出口」はどこかと尋ねた時トランプ大統領は何も答えられていない。戦争の目的も明らかでないのであるから、出口など考えることもできないのであろう。核の開発をめぐるイランとの交渉が難航していたから最高指導者を殺害したのであろうが、これはマフィアのやり方である。トランプは野球帽をかぶって殺害の中継を観戦していたが、テレビゲームでもしていると思っていたのであろう。いすらえるにそそのかされるか、あるいは気まぐれに戦争を始めるから、終わり方に四苦八苦することになる。その間に無益に人名は失われ、国土は破壊される。
アメリカは20世紀には民主主義のパイオニアとして一目置かれていたが、トランプの時代になって世界から唾棄される存在になってきている。その兆候は2001年にニューヨークの同時多発事件にあったと言ってよいであろう。この時アメリカはなぜ攻撃されるのかを問うこともなく、やみくもにアルカイダへの報復活動に走り、直接的な証拠はなかったもののオサマ・ビン・ラディンを殺害している。それに関連してイラクのサダム・フセインが大量破壊兵器を隠しているとしてサダムも殺害したが、大量破壊兵器なるものはなかったのである。大男総身に知恵が回りかねである。
トランプの時代になってアメリカの暴走が顕著になったことの背景にはファシズム化があるであろう。ファシズムはある定度発達した資本主義国が経済的に不調になっと時に出現した強権政治体制であり、20世紀の前半にイタリア・ドイツ・日本などに広がったものであるから、アメリカは一回り遅れてファシズムに至ったということであろう。しかしアメリカのファシズムはトランプという半狂人の存在と無関係ではない。彼は少なくともヒトラーと同定度に精神異常の所があり、ファンタスゴマリーは明らかであるが、精神科医の診断は不可欠であろう。トランプはホワイトハウスよりは精神病棟の方が似つかわしい。
2世紀前にトクヴィルはアメリカには哲学者はいないけれども、司法やジャーナリズムが健在だから民主主義が保たれているとしていたが、大統領が司法やジャーナリズムを攻撃するようになると、哲学者がいない国の弱点が表面化する。もっとも今ではどこにも哲学者などいないかもしれないが、おそらくその最後であった、私にも無関係ではないユルゲン・ハーバーマスが先月死去した。
世界に戦争が勃発する時代にハーバーマス理論は試練も受けている。彼の基本的な観点は利害対立を対話によって解決しようとするものであって、それはナチの法学者カール・シュミットに対置されるものである。シュミットは政治というものは敵対関係を本質とするもので、それは究極的には力と戦争によって決まるものであと見る。政治という概念は都市国家(ポリス)的な支配つまり自由人の支配ということに由来しているからシュミットの見方は誤りである。しかし対話というものは一つの理想形であって、ハーバーマスは理想形を現実態と見なす傾きがある。政治とは理性と暴力を両端とする実践体であり、そこでは暴力をふるうためにも理性は使わなければならないのである。だから対話的政治というのは民主政治の基盤であるとともに、政治を成り立たせる条件でもある。この洞察があったからこそ第二次大戦後のドイツがヨーロッパの一員として迎えられることも可能になったのである。ハーバーマスの死に当たってドイツの大統領と首相は弔文を発表してハーバーマスに感謝の意を表明している。これは全く異例のことであり、およそアメリカにおいては考えられないことである。ひるがえって今の日本国においてはこうした思想家は死に絶えているであろうが、逆に言えば、そうした弔文を出せる政治家がいるだろうかということである。
メルツ首相がホワイトハウスを訪問した次の週に日本の馬鹿一がホワイトハウスでトランプだけが「平和」をもたらせるとへつらっていた。馬鹿一もトランプと同様に「力による平和」主義のようであるが、力による平和は刑務所の平和であり、持続可能でもない。馬鹿一もイランは核を持てないと言っていたようであるが、なぜイスラエルは核を持ってよく、イランは持てないのか説得力のある説明は聞かれない。そもそも核禁止条約に参加もしていない国が他国に核を禁止する資格があるかどうかは疑わしい。内閣官房には核保有論者がいるそうであるが、日本国は核を持てるのか、持てないのか。
日本の首相(?)はアメリカのイラン戦争の合法性については情報が十分でないから変弾を避けるとしていたが、政府は裁判所ではないから、手持ちの情報で判断しなければならい。ファシズム党のイタリアの首相でさえイラン戦争には異議を表明している。今の告愛豊では戦争は原則的に違法であり、例外的に自衛の名目の武力行使が許容されているだけである。アラン戦争がアメリカの自衛のものでないことは明白だから、イラン戦争の違法性は明確なのである。
他方で日本の首相(?)はイラン戦争への自衛隊の派遣には国内法上の制約があると説明している。法というものをこのように便宜的に援用するということは特徴的であって、要するに政治的判断が欠如しているということである。だがこの首相(?)はトランプへの手土産として自衛隊の派遣を考え、補佐官に反対されたそうである。この首相(?)は参戦を手土産にしようとしたようである。
イラン戦争は安保関連法で集団的自衛権を容認した際に、集団的自衛権を行使する可能性がある典型的な例として言及されていたケースである。自衛権というものは正当防衛のようなものであるから、他人の正統防衛を代わってやるということはありえない以上、集団的自衛権なるものは憲法違反の疑いがあるだけでなく概念的に成り立たないものである。それはともかくとして、こういう場合に自衛隊を出さないとすれば、集団的自衛権の容認など意味はないということであろう。
日本の首相(?)は就任早々台湾有事に集団的自衛権の発動の可能性に言及してその見識レベルを明らかにしているが、半年間の成果は日中関係を悪化させ、俗な言い方をすれば国益を損ねている。その背景には国際政治への無知があるであろうが、旧統一教会の別組織の勝共連合的な時代遅れの反共意識だけは持っているのである。アメリカ議会での演説がキャンセルされたのは当然であろう。しかし首相の能力に欠ける人物が支持されているということは国民の政治的民度を示すものでもある。
この首相(?)の幼稚な発言は自己中心的な極右には他者が見えず、国際政治を理解できないことを示すものである。よく似た例は先行者のアベが拉致事件に関して見せた反応に見える。この事件は拉致被害者の5人が一時帰国した際にほぼ解決される方向にあったが、当時自民党の副幹事長か何かをしていたアベが横やりを入れて強制的に永住帰国させ、以後拉致問題は全く進展していない。それは当然のことであり、一時帰国が妥当であるかどうかはともかく、外交的約束を一方的に破って外交などできるはずはない。私は初めからこのことを指摘していたが、誰一人として気づくものはなかったようである。もう手遅れであろうが、馬鹿一が拉致問題を解決したいのであれば、日本の首相はまず北朝鮮に対してアベが外交的約束を破ったことを謝罪することから始めなければならないであろう。
この首相(?)は1月に突然衆議院を解散して総選挙にしたが、これは違憲クーデタと見られるものである。憲法第7条には天皇の国事行為として衆議院の解散が規定されているが、これは明治憲法にあった天皇の解散権に内閣の助言を加えたものに過ぎず、天皇が主権者でなくなった以上内閣に任意に解散権を与えるものではない。無論首相が恣意的に解散できるものではない。したがってこの私利私益的な解散は憲法違反の可能性がある。体液世代は訴訟などやりたくないが、現役世代は提訴すべきであったであろう。判決内容は予想しうるところであるが、少なくとも最高裁は解散の基準を示さなければならないであろう。
この総選挙では自民党が三分の二の議席を占めることになった。15カ月前の参議院選挙では裏金問題がたたって自民党は過半数割れして首相は退陣し、解党的出直しをしなければならないと言われていたものである。ところが出直しどころか、首相を変えただけで自民党と金の問題など何もしないままに、自民党が大勝したのは国民の政治的民度を示すものであろう。この選挙は公約などよりも馬鹿一の方が「威勢」がよいというような印象論的な人気投票のようなものになったが、これは初期的ファシズムの兆候でもある。。与党に絶対多数を与えたらどうなるかというようなことは全く頭になかったことはこの国民の残念な政治的判断力の低さということになるだろう。。その結果元にそうであるように与党はほぼ何でもやれるようになる。有権者はそんなつもりではなかったのであろうが、これは有権者の愚かさの結果であるから自業自得である。野党の方では「中道」というものができたようであり、これは右と左の中間ということのようであるが、左もろくにないところに「中道」はないであろう。私はこんな選挙はボイコットしている。
この選挙でも公約というものはあり、かつての政治改革の時にはマニフェストを読み比べなければならないと、学校の授業のようなことが言われていた。だが選挙というものも権力獲得の闘争であるから、あまり素直に見ることはできない。ことに与党の公約は甘い公約で多数を取り、選挙後は言われていなかった苦いことをやりかねないのである。こうなるとマニフェストは有権者を欺くおとりのようなものになり、選
挙の「信託」性は失われる。そうして日本人はごまかされの名人である。
この選挙で自民党は食料品の消費税ゼロを公約に掲げていた。だがそれは多頭も消費減税を唱えていたためにそう争点をずらすために掲げたものであり、やる意思はなかったはずである。医師があれば軍事費増強の時のようにさっさと閣議決定をすればよく、その他はすべて単なる技術的な事柄である。案の定馬鹿一は国民会議を設けてそこで検討すると引き延ばし、難点を出させてつぶそうとし、成立しなければ会議に責任転嫁しようとしている。このことは消費減税に反対の少数党を会議に招き、減税賛成の少数党を招いていないことからも明白なことである。
この会議の問題は本来国会で議論すべきところを第二国会のようなものを作り、しかもその構成員を与党の方で任意に決めるという似非会議を作っていることであろう。これは議会を弄び、代議制民主主義を掘り崩すものにほかならない。この首相(?)には民主主義のことなど頭にないであろうが、そういうあり方が可能なのは、それを支持する国民がいるからにほかならない。
この選挙でさらに観察されるのは馬鹿一がSNSを多用する一方で、公開の討論というものを避けようとしていることである。握手して手を痛めたという口実の下に討論会を欠席しているが、「手話」でもするのであろう。アウラのないSNSではごまかしがきくけれども、討論ではごまかせないからであろう。つまりこの首相(?)には本質的に欺瞞が伴っていることが想像される。
その背景にあるのはこの首相(?)の反主知主義であろう。すでに総裁に選出されたときに働き、働きというような非知性的な言い方をしている。実は裏腹に職務への覚悟欠けているのであるが。和風ロックは体制への随順の通過儀礼であるが、その非知性主義は質問を「いじわる」と言って拒否するところにも表れる。要するに討議に基づく民主主義を回避しているのである。
こうした首相(?)の姿勢には女流統治様式の特性も見ることができる。公開の討議が苦手であるから謀略が使われる。策謀の一つのあり方は、討議ではなく、笑顔でチャームし寝技に移ることである(トランプとの抱合)。おそらくこの首相(?)は女性に特有の策謀家なのであろう(詐欺師とは言わないことにして)。だから女性社長はだめだということにもなる。
こうしてこの首相(?)は少数与党を多数与党に転換するクーデタで絶対多数を獲得して国論を二分する政策を進めるそうであるが、アメリカのように国内を分断したいのであろう。その最初が国家情報会議であったようである。国家情報局はかつての特高の復活であろう。野党は国民を監視することはないであろうかと、生ぬるい質問をしているが、首相(?)はそれは「想定」していないというあいまいな答弁をしている。だが過激なデモには「関心」を持ちうるとも言っていることは看過できない。すでに警察は違法にデモ参加者の写真を撮っているが、これも合法化されるであろう。国家情報会議の法案は衆議院をすんなりと通過しているが、さらに殺傷兵器の輸出を認めることによって間接的に戦争に関与する死の商人国家への道を開いている。
さらには国民が選んだわけでなく政府が選んだ有識者(?)会議で安保法制を見直しを進めようとしている。ここには「新しい戦い方」を検討するという「平和国家」にはありえないような驚くべき鈍感な言葉が見られる。ここには日本国家が「戦争放棄」どころか戦争をする国家になっていることが明確に原れている。こうした戦争国家への転換は「環境が変わった」というような単細胞的な頭でなされているようである。だが近年の戦争の勃発を少し見ただけで、その「環境」が愚かな政治的指導者の台頭と、それを支持する愚かな国民のナショナリズムにあることはすぐわかることであろう。安保法制を見直すのであれば、国家存立危機とか集団的自衛権というような拙劣な用語はまず撤回すべきところである。
注意されることは、経済的に失われた30年の日本国もファシズムに移行する条件を備えているということである。すでに日本人第一主義、テンノー宣揚、軍事増強、国民監視の強化が着々と進み、第二期ファシズムの段階に入っていると見られる。現代のファシズムは笑顔とともにやってくる。歴史から学びたくないものはまた泣けばよい。古人は歴史は一度目には悲劇に終わるが、二度目は喜劇に終わると言っている。すでに喜劇の幕は上がっている。
国論を二分する最終地は憲法の改正であろう。馬鹿一は改憲草案を「大好き」と言っていたようであるが、馬鹿一にとって憲法は猫に小判であることを正直に物語っている。違憲の疑義があることを重ねてきた自民党に憲法を問題にする資格があるかどうかは疑わしいところであるが、もともとこの国には法的原則が重みをもたないという伝統が存在している。原理原則よりも実際的な柔軟性の方が尊重されるのであり、基本的に非憲法的は国民であり国家なのである。
こういう非憲法的な国において憲法が取り上げられる場合には奇妙な特徴的な現象が生じる。それは改憲論に見られるように、憲法を文字としてのみ見るという文字フェティシズムである。基本原則についての考えなど何もなく、ただどういうことを書くかということだけが問題になる。それは安全保障について何のヴィジョンもなく、憲法に「自衛隊」を明記するという議論に観察される。憲法を原則を定めるものであって、個別的な制度を規定するようなものではない。今の自衛隊は最初は警察予備隊と言われたものであり、それが保安隊に変わり、さらに自衛隊になったものである。何のヴィジョンもなく文字をいじるような矮小な議論をしているのは、まことに非憲法的な国家国民にふさわしい。自民党は党大会に自衛官を読んで国家を歌わせるというような自衛隊の政治利用をしていたが、自衛隊明記も一種の政治利用であろう。
こういう非原則的な国は成文憲法はあっていないとも言える。なぜなら憲法を文字と見る場合、現実は変化するから憲法とのずれが生じ、憲法は建前に過ぎず、実体が本音になることは目に見えているからである。こういう非原則的な国では同じく実際的なイギリスのように成文憲法などなくして慣習で貫くところもあるのである。その場合は文字と実体の齟齬は生じない。
しかしすでに憲法がある国においてはそうも言っておられない。当面に問題になっているのは第9条であろうが、現実に合わせてどういう文字を入れるかというような子供じみたことでなく、そこでまず考慮すべきことはどういう安全保障の原則を考えるかということである。「力による平和」というのは憲法の基本的な精神ではなく、また今日以降の世界の安全を保障するあり方ではないであろう。世界において戦争が違法化されつつなおなくならないのは、今の世界は基本的に主権国家の併存というあり方をしているためである。主権国家にはそれを越える権力は存在しないから、利害の対立は最終的には武力対立としての戦争にならざるを得ない。確かに国際連合には安全保障機能が与えられているが、21世紀に入っても戦争が噴出して国連が無力を示しているのは、国連が基本的には主権国家の連合だからである。主権国家は国連にも主権的な対立をすることができ、安保理事会の常任理事国は当然そうである。安全保障理事会が機能不全になっているのは直接的には常任理事国が拒否権を持っているためであるが、これらの国が拒否権を放棄することは当面考えられず、国連には限界が示されていると言えよう。
国連が機能しえない現在、持続可能な世界の安全を保障する体制はカントの世界共和国のあり方しか考えられない。世界を一国とすることであり、そうすれば内紛はあっても戦争はありえないことになる。平和の補償のためには神でない人間の国においては何らかの強制力が必要であろうが、それは軍隊ではなく、基本的には警察の性格を持つものである。それは実際的にはこれまでの諸国の軍隊を共通の世界の主権的な政府に譲渡することであり、個別国家の主権は世界政府に集約される。
こういう世界共和国などはユートピアであるという安易な見方はあるであろうが、カントも言っていたように一挙に世界共和国に至るのには無理がある。このために次善の策としては融資の国がそうした主権共同体を作ることであり、それを拡大していくことである。アメリカや中国やロシアなどは最後まで主権を手放さないであろうが、その先は予測できない。
こうした主権共同体は実は日本国憲法第9条に内在するものである。個別国家の軍隊を放棄して主権共同体に移譲することである。EUは不十分ながら主権を制限しており、世界共和国構想の初期的段階にあると言ってよいであろう。こうした連合国には日本やEUさらに韓国やインドなどの非同盟諸国がまず参加しうるであろう。このように考えるならば日本の憲法第9条は将来の世界の安全保障の原理を示すものであると見ることができ、またそのようにすべきなのである。
しかしここに厄介なことがある。それは古来日本人はそうしたヴィジョンを持ったためしがなく、その行動様式は他人の顔色を窺って動くものであり、日本国はそうした大規模なイニシャチブを取ったことがないことである。日本国民は自分の実力以上の憲法を持たされて四苦八苦しているのである。
積極的な意味での憲法改正がありうるとすれば、それは象徴天皇制を廃止することだけであろう。急に話が変わった感があるであろうから一言付言することにする。日本の丸山眞男は西洋のハーバーマスの位置にある人物であるが、自分に追随するような弟子は持ちたくなかった丸山は追随しない私には西洋よりも日本のことをやらせたかったようである。次世代の研究者が江戸時代でも「雅」というような美的な用語でノンポリ的な日本政治思想史をやっていたようであるから、私も日本のことを専攻すべきであったかもしれない。しかし私は東洋にはインドや中国には巨大な思想的遺産がある一方、日本にはちゃちな思想しかないから(空海はやや例外的だが密教の制限を受けている)西洋の方に行ったのである。最初から日本列島に限定していたら一段と馬鹿になるかテンノーに絡み取られていたであろう。日本政治思想は東洋政治思想の一コマにするくらいが妥当なところである。しかしヨーロッパに留学して私は日本のこともわかってきたのである。東アフリカに発生しはホモサピエンスは世界に拡散したが、極東の日本列島はそのもっとも遠隔地であり、かなり特殊な政治文化を育てることになった。それは論理的というよりも情緒的な年限を作ることになり、人々は自己を主張するよりは他人の顔色を窺って同調するという他人指向(リースマン)の行動様式を生んでいる。こうしたあり方は共同体を保全し、外からは静穏な国として好ましいところもあったが、それは国民の主体性の欠如と人権の不在の反面でもある。こうした行動様式の結晶であり、象徴するのがテンノーであったという基本問題が浮上してきたのである。だが今から考えると東も西もなく、分割は便宜的なものにすぎず、専攻などは問題ではないのである。丸山とハーバーマスという東西の学匠のゼミナールで学恩を受けながら何も現実に関わることができなかったことは自ら恥じるだけである・もっとも私も日本のことに何もしなかったわけではないというアリバイにペンネームで細々と夜店は出していたのである。このコラムもその一つであるが、そろそろ終わりに近くなっている。
遠回りになったが、以上のような観点から、世界政治と日本政治、憲法第9条と第1条の連関が明らかになってくる。憲法で示唆されている世界共和国を実現するためには、その行動様式上の障害になっている象徴天皇制の廃止が課題になってくる。第1条と第9条は両立しない。日本国の課題に対応するためにはこうした日本を超克しなければならず、それを通俗的なスローガンに表現すれば「日本をぶっこわせ」ということになろうか。だが国民の意識がそこまで行っていないことは確かなのである。
・・・・・こういう現実的にはやや空しいつまらないことばかりに関わっていられないので、私は野川に釣りに行き、本業により近いイタリアに行ったのである。
3
現実があまりに馬鹿馬鹿しくなると仮想的な世界により意味が出てくる。退役世代にとって現実よりはあの世の方が重要になり、つまるところ生死だけが興味深いものになる。わが友ジュゼッペはこのことに若い頃から関わっていた。
シノーポリをテーマとする場合、2つの素材を看過できない。
第1はオペラ『ルー・サロメ』である。このオペラはミュンヒェン国立歌劇場の監督をしていたゲッツ・フリードリッヒの依頼によるもので、上演日も決められていたから糟糠の間に作られたものである。
台本はカール・ディートリッヒ・レーヴェであるが、シノーポリもその作成に関与していたようである。登場人物はサロメの他アンドレアス、パウル・レー、リルケおよびニーチェといった当代の文人たちであり、シノーポリも熟知している者たちである。フロイトの教えを受けドイツで最初の先進分析医となったルー・サロメの『ニーチェ』を読んで私は自分を含め日本の思想史なるものはなっていないと感じさせられたものである。
この台本は上記の文人たちのテキストからの抜粋を集めたもので、セリフなどほとんど問題にならないオペラが多い中で、哲学的な文章が歌われるという異色のものである。発狂したニーチェがピエロになって妙なことを言っているところもあるが、概してドラマのようなものはほとんどなく、理解するには困難なところがる。
主人公のサロメはロシアの農奴解放の年に生まれた自由な人間であるが、4人の求愛者に取り巻かれ、拘束されるところに自由があると信じているが、終わりの方では自分の愛は常に死と結ばれており、生を肯定することは死を肯定することであり、そこでは自分の目は他者を見ないと言われて終わっている。これは神の視点を求めるようなものであり、やや反動的でシノーポリのパルジファルのようなところがある。
音楽的にはシェーンベルクの短編モノ・オペラ『幸福の手』を思わせるところがあるが、基本的には後期ロマン派的と言えよう。私はフェニーチェ劇場の録音を聴いただけであるが、やや騒がしいものである。しかしシノーポリ自身、これは様式化されない「爆弾」のようなものであり、新音楽つまり現代音楽に一石を投じようとしたものではないとしている。
音楽的、上演的にオペラの時代は終わっていると見なければならず、初演されただけでお蔵入りになるものがほとんどの中で、このオペラは何か所で上演され、少なからぬ上演の申し入れにもかかわらず、後半の改定が必要があるとして以後は許されなかったようである。改定は実現せず、ルチーア・ポップとホセ・カレーラスを歌い手とする組曲のCDが出ただけである。
このオペラが成功作であったか失敗作であったかを言うことは難しい。しかし最後の『希望の合唱』がニーチェのワグナー批判を呼びかねないところがあり、それは直接的には台本作家の問題であろうけれども、シノーポリとしてもおそらく全くは納得しがたいところはあったであろう。
第2の素材は『ヴェネチアのパルジファル』というシノーポリの著作である。これはフェニーチェ劇場でのワーグナーのパルジファルのリハーサル後、夜のヴェネチアに彷徨したというエセ―であり、シノーポリにおける音楽と考古学との連関性を物語るものである。
ニーチェの抗議を知りつつもシノーポリはこの楽劇を好んでいたようであり、その焦点となっているのは死と再生の連関性である。そうしてこの死と再生ということはヴェネチアの年の構造に象徴的に組み込まれていると見られる。この死と再生ということがパルジファルとヴェネチアの結節点なのである。
こうしてシノーポリはヴェネチアの迷路に出るのであるが、彼はそこでよくあるような陳腐なことを言っているのではない。彼はヴェネチアの迷宮はクレタの宮殿の迷路と同様に死から生への脱出の意味があり、そこには死から生へのより高い段階への入会(通過)儀礼の意味が織り込まれているとする。それは多くある橋についての言えることである。
こうしてシノーポリはヴェネチアという都市の構造を問題にするのであるが、ヴェネチアは宇宙の中心の模造としての都市の原型のようなものとされる。カナル・グランデはしばしばS字型と見られるが、シノーポリによれば二重螺旋であり、二つの半円弧が組まれたものであり、それがさらに分割されて4つの円弧ができる。彼はこの4象限に即してヴェネチアを彷徨するのであるが、そこで重要性を持たされているのは円弧の軸の交差点であり、それはサン・トロヴァ―ソ教会の井戸であるとされている。それは天と地上と地下を貫く都市の中心であり、それがある広場の階段数はピタゴラスの四元数を示しており、まさしく宇宙の模造なのである。ちなみに私はヴェネチアには水がないから雨水をためて生活しているという日本人の本を見たことがあるが、ヴェネチアには少なからぬ井戸がある。もっとも内陸から水道が引かれている現在、その多くは鉄の蓋があって使われていないが自然湧水しているところもある。。
途轍もない議論をシノーポリは、ヴェネチアの歴史的考察なのではなく、あくまでもイデーの痕跡をたどる寓話的な解釈であるとしている。それは歴史的というよりも考古学的な、また生死の問題についての哲学的な考察ではなく、あくまでも象徴論的な考察である。シノーポリは死というものを一応は生物学的に考えており、それだけでは収まらないためにさまざまは宗教などが考案されたのであるが、彼はその宗教的儀礼のようなものを問題にしているのである。哲学的に生死を考えるのであればより複雑な思考が必要であり、おそらくは生死を越えようとする禅などはそのもっとも洗練されたものになるであろう。しかしそうした哲学や宗教が自明なものでなくなっている今日、こうしたこうした考古学的、象徴論的な議論も全く無意味とは言えないであろう。シノーポリは精神医学に関してはフーコーに言及しているようであるが、考古学的な面では構造主義に共通の要素もあり、またその問題点もあるようである。
しかし都市の問題を生死の問題に連関させてみようとするシノーポリの議論にはカバラ的な神秘主義の要素があり、相当に分かりにくいものである。他方で日本で出版されている本は分かりやすいだけでつまらないものばかりだけであると思っていたから、私は暇つぶしのそれとは次元が違うこの本を日本語に置き換えていた。そうするうちに私はどうしてももう一度ヴェネチアに行かなければならなくなったのである。 とはいえ私は10時間以上も飛行機に乗っていることに耐えられなくなっていたからもう数年前からヨーロッパには行かないことにしていた。
そのうち私は往復とも寝台で行けるビジネスクラスのティケットを手に入れたので、禁を破ってヴェネチアに行くことになった。だが井戸の石段を見るだけの何というビジネスであるか。円安で多くの日本人はヨーロッパに行けなくなっており、この十年でユーロに対して円の価値は半減している。しかし円を見限ってユーロ建てにしていた私には影響はないのである。サルトルに「最後の旅人」という副題の『アルベルマール王妃』という断片があるが、これは単にヴェネチアへの最初の旅行のメモにすぎない。だが彼は目が見えなくなってからもヴェネチアに入っていたそうであるが、それはラグーンの波の音を聞くためだけであったであろう。私もその点だけではサルトルの水域に入っている。
政府が戦争国家へ進んでいても嘲笑するほか何の手もない退役世代は、戦死は現役世代に任せて、不良化し、無駄なことしかやらなくなる。
今のヴェネチアはテーマパークに過ぎなくなっているが、私はまずシノーポリの足跡をたどることにした。そうして彼の記述はかなり正確なものであることが分かった。例えば死の島サン・ミケーレに向かい合ったカッレ・ロンガ・サンタ・カタリナという細長い路地の5000番地にはシノーポリが書いているような高い壁から木の枝がのぞいている。そうして最後にはサン・トロヴァ―ソ教会の井戸の階段に行っている。だがその階段は一段、三段、三段、四段であり、四元数ではなかったのである。私の感想はやれやれということである。
フェニーチェ劇場ではヴォツェックがやられている。このオーケストラはドイツ音楽を完璧に演奏する。だが軍医や上官がいかにも悪人的に演じているのはいただけない。普通人がファシストになるということが肝心なのである。
ポルトガルのオヴィレイラ監督の最晩年のマジック・ミラーという映画の終わりの方でサン・マルコ教会の内部の映像があったが、私はヴェネチアに何度来たか知らないけれども見覚えがなかったので寄って見ることにした。だがさして広くないマルコ教会をぐるっと回っても見当たらない。二階のテラスへ出てカサノヴァが脱獄したというドージェ宮殿の鉛の屋根を見た時、誰かがうわさをしたのであろうが私は急にくしゃみをした。するとたまたま記念撮影をしていたどこかの国からの観光客がびっくりしてi like youと叫ぶ・・・・・これはすべてMay Fool?
シノーポリの著書はほとんどの人にはチンプンカンプンのもので今の日本国の出版状況からすれば公刊しないことに意味があるであろう。訳稿は下記に保存している。ただし注は反映されていない。
https://word.cloud.microsoft/open/onedrive/?docld=9131E89293F11E89293F11E03%21s7881b3fc7e1d43a38816c741d8487c
最近のコメント